ネパール紀行 −エベレスト街道を行く−

 この正月は海外で過ごそうというところはすぐ意見が一致したが、都会派の家内をヒマラヤ・ツアーでOKさせるのはちょっと時間がかかった。結局、東京で勤めている娘が同行したいというのが決め手となって、三人で行くことになった。娘も全く登山は初めてであるが、ホノルルマラソンを完走したことがあるので、体力的には問題ないだろう。
 コースは山岳ツアー会社が催行するヒマラヤトレッキング10日間である。これは更にエベレスト、アンナプルナ、カンチェンジュンガなど5コースに分かれるのであるが、初めてではあるのでエベレストが見えるのがよかろうと、「エベレスト展望トレッキング」というのを選択した。ネパールへ入る飛行機も凝っていてラサからヒマラヤ越えでカトマンズへ入るのである。

12/26
 関西空港、午前の中華航空にて、北京経由で成都へ。関空チェックイン時に、トラブルがあり大変時間がかかり、朝食の時間もなく、走ってやっと飛行機に乗り込む。北京からは国内線で約3時間で成都着。
 成都では明朝、朝が早いとのことで大きな荷物は旅行社に預けたままで、手荷物のみでホテルに入る。ここで東京からの娘と会えた。

12/27
 早朝、ホテルを出発。旅行社が用意したサンドイッチをバスのなかで食べる。成都チェックインは私と家内は無事済んだのだが、娘の直前でコンピュータが故障。我々は機内で延々と待たされるが、娘はいっこうに乗ってこない。積み残しになるのではと心配し出した頃やっと入ってきた。そのお陰か、窓側の良い席に座れたようだ。
 飛行機は中華航空ラサ経由カトマンズ行であるが、ラサまでは国内線扱いで、ラサで出国となる。朝の機内食はお粥である。
 ラサまで3時間、雲南省からチベット東部の峨々たる山岳の上を飛ぶ。
 ラサ。外気温は−6℃。空気は澄み切っている。ガランとした空港ビル内は暖房が入ってなく、寒い。おまけに出国手続きに時間がかかる。何度パスポートをチェックされることか、官僚主義に凝り固まっている。
 ラサを飛び立つと、眼下にはヤルツァンポ(ブラハマプトラ)川が流れている。チベットを東西に横断してガンジスに合流する大河だ。広大な河原の中を水量豊かに流れている。遙か南方に見える白い山々はブータンヒマラヤのクーラカンリ辺りだろうか。
 やがて、ヒマラヤ越えにかかる。我々の座席は左側で、カンチェンジュンガ(8586m)が脇にジャヌーを従えてひときわ高く聳えているのが見える。思わず興奮する。反対側の座席が騒がしくなる。エベレストが見えてきたらしい。私もちょっと覗かせてもらう。エベレストの東面とマカルー(ローツェ?)らしきものが見える。

ヤルツァンポ川

エベレスト

マカルーかローツェ?


 カトマンズ上空で一時間ほど旋回してやっと着陸。
 カトマンズ空港。国際線ターミナルもこれが人口三千万の国を代表する玄関口かと思うほど薄汚れている。聞くところでは国の予算の40%が海外援助らしい。政治がガタガタして、経済がうまくいっていないのが何となく解る。
 空港から市内へ向かう。狭い道路は大変なラッシュである。車はスズキの軽自動車が多い。それとオートバイ。市内へ入っても信号は殆どない。車の増加に道路などのインフラが全く追いついていない。それと交通ルールなどはないに等しい。とにかく空いている場所に車の頭を突っ込んで進んでゆく。やっとホテル到着。バスが駐車するためバックしだすと、後でドンドンと叩く音がする。「ちょっと危ないよ」と乗客がさわぐが、これはバックオーライの合図らしい。
 旧王宮近くのホテルで、各グループごとに分れる。我々のグループ「エベレスト展望とシェルパの里」は14名、ツアーリーダーは佐々木慶正氏、山岳ガイドとして有名な人らしい。
 午後、リーダーに連れられて市内見物。タメルのバザールの中でたちまちリーダーとはぐれて、我々親子3人は他の2人との小グループとなり、バザールの通りをぶらぶらする。狭い通りをタクシーやオートバイが駆け抜けるので安心して歩けない。猥雑な町であるが、色々店を覗きながら歩くのは楽しい。お目当てのダルバール広場にたどり着き博物館(と言っても以前の国王の身の回りのものや記念品が陳列されているだけで美術的に価値がありそうなものは皆無)やクマリの家で生き神の少女を拝む。拝むといっても三階の木彫りの窓から着飾った少女が僅か10秒ほど笑いながら顔を出すのを拝しただけだが。

人力車

繁華街の人波

クマリの館の内庭

ダルバール広場の寺院

シバ神の化身、破壊神カーラ・バイラブ

野良牛が町中で寝そべっている

野菜売り

神に捧げる花輪を売っている

野菜売り(日本で見かけるものとあまり変わらない)


 夕食もリーダーに連れられて、ホテル近くのネパール料理の店へ。タンドリーチキンやカレー、モモ(チベット餃子)などたっぷり食べて日本円で500円ほど。結構美味しい。

12/28
 朝、7時過ぎ空港の国内線乗り場へ行く。濃霧である。予定では7:30発であるが、小型機は有視界飛行であるから霧が晴れるまでは飛ばない。カトマンズ盆地の一番低いところにある空港はこの時期、朝はいつも霧がかかるらしい。リーダーはゆっくり腰を下ろして小説などを読み出す。この国に来たならば、時刻表などは有って無いがごとしとのんびり構えるしかない。
 リーダーとの話。「小型飛行機は初めてなので、ちょっと怖いですね。」「大丈夫ですよ。事故などはめったにないですから。」「と言うことは、たまには有るんだ。最近ではいつ有ったんですか。」「実は、この10月に山に激突して、ドイツ人観光客など18名が死亡しました。」知っていたら、他のコースにしたのに。
 霧が意外と早く晴れ、930に出発する。20人乗りの飛行機は小さい。それでもスチュアーデスが乗っており、飴と耳栓にする綿を配ってくれる。山の尾根をスレスレに飛び越えながらの30分ほどの飛行でルクラ空港のある渓谷に入る。谷底から数百メートル高い中腹の緩斜面に空母の甲板のような小さな滑走路が見える。なるほどこれは一度着陸に失敗すると、前の山腹に激突するしかない。旋回して逃げる余地はない。300メートルほどの斜面になった滑走路を駆け上がるように着陸。やれやれ。斜面の滑走路だから短くてすむんだ。離陸はジェットコースターを降りるようにする。
 我々の後、数機続いて着陸し、すぐ客を乗せて離陸していったが、そのうち雲が低く垂れてきた。今日の飛行はこれでお終いのようだ。積み残しが出たようだ。

飛行機に乗り込む

扉のない操縦室

ルクラ空港に着陸する飛行機


 ルクラのロッジで昼食をとる。この時世話になるガイド、シェルパ頭(サーダー)、シェルパ数名、キッチンボーイ、ポーター、牛使いなどが紹介される。これからの食事は全部彼らが作ってくれる。また荷物はゾッキョ(ヤクと水牛の掛け合わせ)が運んでくれる。 山の中腹にあるルクラから今日の泊まりのパクディンまではゆっくりとした下りである。道はこの辺りの住民(主にシェルパ族)の行き来する生活道路であり、幅はだいたい2メートルぐらいはある。乾期の今は、細かい泥とゾッキョの糞が舞い上がるほこりっぽい道である。道には石段が多く、車輪のつくものの往来は不可能であり、荷物は人か家畜が背負って運ぶ以外にない。江戸時代の東海道もこうだったのかなと思わせる往来の多さである。荷物を積んだゾッキョの行列が長くて鋭い角を振り立てて行く。あの目では足下は見えないはずなのに、石段を上手に上り下りする。山のような荷物を背負った人々が行き来する。集落では子供たちが駆け回って遊んでいる。頬はみんな霜焼けで真っ赤である。 シェルパは敬虔なチベット仏教徒で至る所にチョルテン(仏塔)、マニ車、マニウォール(お経を刻んだ石)がある。これらは常に時計回りに巡らなければならないし、マニ車も当然時計回りに回さなければならない。我々もマニ車を回しながら通り過ぎる。
 パクディンのはずれでドードゥコシ川を渡る。水は氷河から流れ出したミルク色の曲がれだ。橋で兵士の一群とすれ違う。ナムチェバザールに駐屯する兵隊らしい。みんな立派な体つきだが、持っている銃は大分旧式みたいだ。

ルクラを出発

ゾッキョ(ヤクと水牛のかけ合わせ)

ルクラからの下り

荷物を運ぶゾッキョと人々

路傍の畑

道は広いがほこりっぽい

ポーターと行き違う

マニウォール(左側を通らねばならない)

村の子供達(頬には霜焼けがある)

村にはチョルテン(お堂)やマニ車が必ずある

経文を書いた石と旗

道は川岸へ降りてくる。建材のパネルを運ぶポーター

兵士と行き違う(ナムチェに駐屯の兵士の交替か)

橋を渡るゾッキョの列

パグディンのロッジ


 3時頃、橋を渡った処にあるロッジに到着。今日の宿泊地だ。お茶を飲んで、夕食までの時間を寛ぐ。標高2600mだが、大阪辺りの冬と大した違いがない程度の寒さだ。3m四方ほどの部屋には、簡単なベッドが二つ置いてあるだけ。その上にポーターが運んできた寝袋と毛布が広げてある。寝具はこれからずっと専用となるものだ。
 夕食にオクラのたたきやホウレン草のおひたしが付いた。以後、ずっとコックが日本人の食べやすいものを気をつけて作ってくれ、毎回今度は何が出るか楽しみだった。
 就寝。ボーイが湯たんぽを持ってきてくれる。夜中、熱くなって湯たんぽを蹴り出す。

 



12/29
 朝、目覚めと共にボーイが紅茶と洗面器にお湯を部屋まで持ってくる。
 今日はナムチェバザールまでの行程だ。道はドードゥコシ川に沿って、小さい上り下りを繰り返し、何回か対岸に渡りながら続いている。崖下の道は以前、崖の上で動物が落した石に当たって死者が出たことがあるそうだ。猫の額ほどの平らな場所には畑が作られ、小さな集落が点々と続いている。
 やがて、雪で白く輝くタムセルク(6340m)が頭を覗かせる。いよいよヒマラヤの入口にかかったという気がする。正面にはクンビラ(5760m)の峰が見えてくる。これはナムチェの上に聳えている山だ。滝のある日当たりのよい岩に冬というのにサクラソウが可憐な花を咲かせている。

タムセルクが見えてきた

クンビラ(手前の稜線が明日登るシャンポチェの丘)


 モンジョの集落を過ぎると、渓谷が狭まりサガルマータ国立公園の入口となる。ネパールではエベレストのことを古来からサガルマータと呼んでいた。 
ジョサレで昼食後、暫く歩くと峡谷に高く架かった吊橋を越え、ナムチェバザールへの登りにかかる。約600m程の登りである。荷物を積んだゾッキョの行列が行き交うなか、建築材料のパネルや材木を担いで登るポーター達に混じって、我々もゆっくり登る。歩き馴れない家内と私はたちまち最後尾となる。その前は心筋梗塞後であることを隠して参加した75歳のご老人である。娘は平気で先頭グループに混じっているようだ。

路傍の雑貨屋

水を飲む馬(ロバ?)

岩場のサクラソウ

サガルマータ国立公園入口

ナムチェバザールへの登り初めの吊橋

村の子供


 ナムチェの入口にかかった林の中で、突然ルリ色に輝く素晴らしく美しい鳥が現れた。雉ぐらいの大型の鳥である。カメラを構える間もなくまた林の中へと消えてしまった。ダフェ(帝王キジ)と呼ばれるネパールの国鳥らしい。残念。悔しいからロッジに付いた後、もう一度ダフェを探しに戻り、山の中を30分ほど這い回ったが見つからず。

ダフェ(絵はがきより)

ナムチェバザール

ナムチェバザールの通り


 ナムチェバザールは山の斜面に開かれた町である。夏はチベットからの行商が市を開いて賑わうらしいが、峠が雪で閉ざされている。町の商店も半分以上閉められているが、それでも登山用品や土産物を売っている店が並んでいる。
 ナムチェの宿はサーダーが経営するロッジである。美人の奥さんと可愛い赤ちゃんが出迎えてくれる。
 ここで標高3450m、少し頭痛がするが大したことはない。まだ、富士山以下である。家内や娘は胃がむかつくらしく、夕食もほとんど箸をつけず、リーダーから胃薬をもらっている。私は食欲な無くなるときは死ぬときという人間であるから平気でパクつく。

12/30
 今日はいよいよエベレストにお目にかかれる。今日も快晴である。朝起きると、対岸に聳えるコンデ・リの頂上に朝日が射している。峰から谷の底までの大岩壁には何本もの氷瀑が落ちている。稜線に建物が見える。コンデ・リゾートという標高4200mにあるホテルらしい。

コンデ・リ


 本日の予定では、まず標高3900mのシャンボチェの丘まで登る。ナムチェの背後の急斜面をジグザグにゆっくりと高度を上げてゆく。家内はもうこの辺りから喘ぎだす。稜線まで上がると道はなだらかになる。
 3時間ほどかけて、ようやくシャンボチェの丘。北方の展望が開け、タムセルクからアマダブラムに続く山並み、更に遙か奥の方に雪煙を長くなびかせるエベレストとローツェの二つの八千米峰が聳える。息を呑む光景だ。隣で家内が感激の涙を浮かべている。

シャンポチェの丘よりの眺め

 

雪煙を上げるエベレスト(左)とローツェ

タムセルク

 

 ここから展望を楽しみながら尾根伝いに、ホテル・エベレストビューに向かう。近くに大きく聳えるクンビラとその麓の盆地にあるクムジュンの村が美しい。谷を隔てたタウツェの麓の村、ポルツェとその上部に美しい氷瀑が光っている。

クンビラと麓のクムジュン村

ポルツェ村

タウツェ山腹の氷瀑


 ホテルのテラスで一同お茶の時間である。ここからの眺めもシャンボチェの丘からと同じ眺めである。お茶の後、ゆっくりとクムジュン村へ下ってゆく。この辺りの眺めも素晴らしい。クムジュン村のロッジで昼食。その後、寺によって雪男の頭なる怪しげなるものを見物する。

クムジュン村より仰ぐアマダブラム

 

 ヒラリー卿が作ったガッコウの脇を通って、少し登ると峠でここで朝上ってきた道と合流する。後はナムチェの宿まで下るのみである。今日は本当に感激の一日であった。

ナムチェバザール全景

ナムチェ対岸のコンデ・リの岩壁と大氷瀑


12/31
 今日は一日半かけて上ってきた道を引き返し、一気にルクラまで下る。家内と私は例のごとくどん尻をゆっくり下る。ナムチェの下りの途中にエベレストが望める休憩所がある。先行した連中は雲に隠れて見えなかった様だが、我々が着いたとき丁度雲が晴れてエベレストが見えた。全くの残り福だ。さらばエベレスト、また来よう。
 今日は天候が下り坂で雪さえちらついて、寒さが身にしみる。パクディンからルクラは200m程の登り返しで、家内の愚痴につきあわされながらトボトボと歩む。
 ルクラ。空港近くのロッジに宿泊。ここが一番居心地がよい。
 大晦日であるが、この辺りで使われているチベット暦では正月はもっと後らしく、何事もない平日である。
 夕食は最後の夜とあって、コックが腕によりをかけたご馳走が出る。チャンと呼ばれるドブロクで乾杯する。後は宴会。酔っぱらって早々に就眠する。

1/1
 異郷で迎える2009年。朝食は雑煮、菊正宗で祝う。
 天候があまり優れず、飛行機が飛ぶかどうか心配である。ロッジでカトマンズからの飛行機の到着を待つ。暫く部屋で仮眠する。変な初夢をみる。
 飛行機がカトマンズを出たとの報告が入り、空港へ急ぐ。3、4機他社の飛行機が到着し、客を降ろし、客を積んでソソクサと飛び立つ。天候が思わしくないので、早く来て欲しいと焦る。やっと緑のYeti Air機が着陸する。やれやれとばかりに乗り込む。結局この日は後一機発着したのみで、大分積み残しが出たようだ。
 ホテルに戻り、夕食までゆっくりしてトレッキングの間入れなかった風呂を楽しみ、夕食まで一休み。
 夕食はチベット鍋料理へ、リーダーに連れられてゆく。あっさりして美味しい。元来チベットの上流階級が食するもので、チベットでは手に入りにくい野菜がたっぷり入った火鍋料理である。

1/2
 今日は本来、ルクラ−カトマンズ間の飛行機が欠航した場合の予備日である。午前中、家内と娘はショッピングに出かける。私は一人で市内を当てもなくブラブラと散歩する。市の北の郊外で小さな岡の上にある寺院をへ入る。見晴らしがいい。
 またブラブラと歩いていると、中年のネパール人に呼び止められ、家の中に案内される。色々話をして、お茶をご馳走になる。旅行会社でガイドをしているらしい。次に来るときは是非声をかけろと云う。ナイフを買いたいのだがと相談すると、早速、原付の後に乗せて、タメル(繁華街)まで連れて行ってくれる。車が行き交う狭い道を縫うように走る。怖い怖い、足が車に触れる。友人の金物屋に案内される。色々出されるが、少し高いと思ったが良さそうなのを一本買う。ぼられたかな?
 午後はオプショナルツアーでカトマンズから10km程離れた古都バドガオンを見物する。まあ、途中の道路の混雑のすさまじいこと。素晴らしい世界遺産のこの町の様子については、インターネットの他のホームページに任せて割愛しよう。
 夕食は娘が予約してくれた、ドゥワリカホテル内のレストラン、クリシュナルパンで摂る。ホテルは今度来るなら絶対ここで泊りたいと思う程、素晴らしい雰囲気の民俗風の建物。レストランも民族衣装のウェイトレスが給仕してくれ、味も素晴らしいネパール料理である。値段もネパールにしてはずいぶん高いのだろうが、一人五千円ぐらいであった。ここで地酒のロキシー(米の焼酎)を味わう。なかなかいける味である。

1/3
 とうとう、ネパールを離れる日となった。
 飛行機は940発なので早朝空港へ向かうが、どうせ出発が遅れるのは目に見えている。最終待合室に入るが、中華航空の飛行機はやってこない。アナウンスは何もない。ただ黙々と待つのみである。待合室にはトイレと、飲料水の給水があるのみで食べ物などの売店はない。12時を過ぎて、やっと飛行機が着陸した。やれやれ。
 飛行機は来たときと同じコースでエベレストとカンチェンジュンガの間を抜けてチベットに入る。我々の側は来たときと同じくカンチェンジュンガ側であるが、いっそう美しく見える。ネパールよ、さようなら。またきっと来るよ。

カンチェンジュンガとジャヌー(右に黒々とした岩壁が見える)

遙かに見えるブータンヒマラヤ


 飛行機はラサに立ち寄るのを中止して、成都へ直行する。乗降客がなかったのだろうか。 成都。夕食は本格的な四川料理の店「陳麻婆豆腐」。名物の麻婆豆腐は頭から汗が噴き出るほど辛くて、舌が痺れる。食後、川劇を観劇する。変面が見事であった。

1/4
 成都を早朝の飛行機で北京へ。北京空港で5時間待って、やっと関空行に乗れる。夕方帰国。

 ヒマラヤトレッキングの途上で、多くの個人旅行者と出会った。ルクラの宿で会った若い日本人は一人でエベレストベースキャンプまで行ってきたらしい。また、一人でポーターを一人連れて歩いている外国人旅行者もいた。そうなんだ。個人旅行でもこの辺りを歩くことが出来るんだ。次はこれで行こう。

 
 Google Earth上に乗せたGPS軌跡

Google Map 上の軌跡