大和丘陵歴史散歩

 魁猿が太安万侶の墓を見に行きたいと言うので同行することにした。
 十二月初旬、近鉄奈良駅を9時半に出発しての老人二人のノロノロ歩きである。奈良公園から春日大社に向かう。鹿寄せの見物か人が大勢集まっている。新年初詣の準備か、あるいは若宮祭りの用意か道ばたには杭打ちがされている。春日大社はお参りもそこそこに先を急ぐ。

 柳生街道に出て谷沿いの石畳をゆっくり登って行く。もう、紅葉も枯れてほとんど色褪せており、シーズンオフの平日とあってハイカーは少ない。夕日観音、朝日観音、首切り地蔵とおきまりのコースだが、私はもう三十年以上通ったことがなかった。魁猿は時々通っていたようだが。石切峠を越え上誓多林集落の入り口から北への山道に魁猿が案内する。だいぶ歩いた山の頂上に芳山(ほやま)の石仏がある。一つの石に2体の仏が刻まれていて、なかなか見事である。尾根伝いの踏み跡を石切峠まで戻り、再び誓多林に入る。谷間に田畑が広がり、のんびりとした農村風景である。鈴なりに実を付けた柿の大木がある。もう今では干し柿の作り手がいないのだろうか、鳥たちも持てあましているのだろうか姿が見えない。

   
柳生街道   朝日観音
   
 首切り地蔵  芳山の石仏
   
 誓多林集落を往く  誓多林の外れ



 上誓多林の外れで左に向かう柳生街道と別れ、右、中誓多林の方へ向かう。集落を過ぎさらに谷に沿って下り、T字路を右にとり白砂川を上流に向かうと日笠町に出る。白砂川に広がる田地の中央の小さな丘に光仁天皇陵(田原東陵)がある。直径50メートルほどの円墳で鬱蒼と木々に覆われている。ここでコンビニの握り飯で昼食。
 第49代光仁帝は数奇な生涯を辿った天皇だ。第38代天智天皇の孫に当たり、壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)が天武天皇に敗れ皇統が天武天皇系に移ったため、傍流となり長らく不遇の身となる。しかし、聖武天皇の第1皇女、井上内親王と結婚したこと、多くの政変で天武天皇系に有力な後継者がいなくなったことにより、62歳の高齢で即位することとなった。その治世中、井上皇后の呪詛事件が起こる。皇后が光仁天皇を呪詛したとされ、皇后と共に皇太子であったその子他戸親王も廃されしまった。その後、二人は庶人に落とされ、同日に死去していることから暗殺されたようだ。その後、山部親王(桓武天皇)が立体子したことによって、以後の天皇は天武系の血統は絶え、天智系の血統に復することとなった。このあたり藤原氏北家と式家の勢力争いでむちゃくちゃにされたようだ。

 
 光仁天皇田原東陵 



 光仁天皇陵から少し西へ辿ると茶畑の急斜面の中腹に太安万侶の墓がある。100m程登って行くと整地された墓地に行き着く。ここからの眺めは山間の茶畑の続くなかなか結構な景色である。
 1979年、茶畑の整地をしていた農民によって発見された。銅製の墓誌が出土したことによって太安万侶の墓であると同定された。古事記の編纂者というこの時代の歴史上著明な人物の墓が見つかるのはきわめて珍しいことのようである。

   
 太安万侶の墓  墓地からの眺め



 太安万侶の墓から更に西へ行くと春日宮天皇陵(田原西陵)だ。
 春日宮天皇は天智天皇の第七皇子で施基(志紀)皇子という。死後50年経って、その子、光仁天皇が即位したことにより、天皇号が追尊されたもので実際に天皇として在位されたものではない。施基皇子は歌人として「万葉集」に歌を残している。「石ばしる垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」「采女の袖ふきかえす明日香風都をとおみいたづらに吹く」など。のどかな人生を送られたのだろう。

 
 春日宮天皇陵



 車一台通らない静かな道を通り、鉢伏町から谷川沿いに荒れた山道を下る。やがて、谷間の静かな寺院、正暦寺に出る。紅葉の名所として有名なところだ。名残の紅葉がまだ十分見られるが、もうシーズンオフでありひっそりとした佇まいだ。まだ先が長いので素通りする。

   
 正暦寺  名残の紅葉



 寺を少し下って山道を100m程登り小さな峠を越える。後は谷沿いの細い車道を真西へのんびりと辿る。峠から2kmほど来ると右手は森に覆われている。この奥に山村円照寺が隠れている。ここは後水尾天皇の皇女が開山された尼門跡寺院で拝観は出来ない。また機会を改めて、門前まで行ってみよう。

 さらに少し下ると小さいながらこんもりとした森が見えてくる。御霊神社だ。御霊神社というのはだいたい憤死した人物の鎮魂のために建てられた神社であり、ここは崇道天皇(早良親王)を祀っている。
 早良親王は光仁天皇の皇子で、桓武天皇の同母弟である。桓武帝が光仁帝から譲位されたとき皇太子となるが、長岡京遷都の時に事件に巻き込まれて廃位され、絶食して死ぬ。後にその祟りを恐れ、崇道天皇と追号されすぐ近くに陵墓が作られている。

   
 農家の庭先の皇帝ダリア  御霊神社



 予定では崇道天皇陵から帯解寺に廻って終わる予定であったが、もう疲れた。傍のバス停の時刻表を見ると10分後にバスが来る。崇道天皇陵の入り口で今回の散歩を終える。光仁天皇、その父、子と三代ゆかりの地と太安万侶の墓を廻った22kmの散歩というよりはハイキングでした。