初めてテラスに立って、縄文杉に対面したときには流石に感動を覚えた。
幹の太さも大きいが、ゴツゴツと波うった樹皮がなにか地を蹴って空に駆け上がろうとして果たせないで悶悶としている龍のようなエネルギー溢れるものを感じた。
四十年前、屋久島登山をしたときには縄文杉のことはガイドブックに載っていなかった。ただ、ウイルソン株のことだけが記載されていたように思う。それで切り株を見ても仕方がないと思って、このコースは採らなかった。
案内を読むと、昭和41年ちょうど私が島を訪れた前年に再発見されたらしい。再発見というのは、この木の周辺には屋久杉の切り株があるので、江戸時代の木こりはこの杉の存在を知っていたと考えられるからだ。どうも、幹がデコボコしていて木材としての用をなさないと見なされたようだ。
荘子の逍遥遊編に、樗という大木の話が出てくる。この木の幹には、大きな瘤があり墨縄で測れず、枝も曲がっていて定規が当たらない。無用の長物だと考えられた。ところが、荘子は「どうしてその木を何もない茫漠とした荒野に植えて、自由に大きく育ててその下で昼寝をしないのだ。斧に切り倒されることもなく、天寿を全うできるのは木にとっては幸せなことではないか。」と云った。
縄文杉にピッタリの言葉ですね。