昔のノートをめくっていたら、当時の登山記録があったのでご紹介します。これを読み返してみると、当時の山は若者(特にワンゲル)の世界だったことがよく分ります。私自身は2ヶ月ほどワンゲルに入り、道具を買いそろえたところで脱落し、以来ほとんど単独行をやっていました。

 

屋久島・霧島山行記録(単独行)       昭和42年3月8日−16日

3/8
 10 : 50 AM 新大阪発の急行「第一関門」で出発。大阪駅からは満席状態でとなる。山陽本線は特に感想なし。下関−門司間は普通電車。門司港から急行「はやと」に乗車する。博多からは混雑し、鳥栖で満席となった。
 夜中、隣に座った老人(英国大使館に十数年勤務していた)と前の帰省中の東大生と話し込みほとんど不眠。

3/9
 5 : 50 AM 鹿児島着。朝飯にチャンポンを食べる(90円)。
 8 : 00 出港。1000トン以上の船。登山者らしいのも45組見かけられる。船内で鹿児島から屋久島の原まで帰省途中の高校生と知り合いになり、色々教わる。本富岳(モッチョム)はなかなか素晴らしいらしい。他のグループや屋久島の山岳指導員とも知り合い、情報が得られ有益だった。林用軌道は営林署のトロッコは無愛想で荷物も運んでくれないらしいが、民間のものは親切だとのこと。
 途中、薩摩、大隅半島の眺めは素晴らしい。特に開聞岳付近の海岸は美しい。天候はあまり好くなく、竹島近くは雨のようである。屋久島もすっぽり雲の帽子を被っている。しかし、種子島は快晴。硫黄島、永良部島も見えた。
 12時過ぎ、宮之浦入港。乗船してきた佐賀大ワンゲルの話では、宮之浦岳−永田岳間は雪で通れず、ウィルソン株へ下ったとのことである。学習院のワンゲルも同様らしい。
 宮之浦−安房間は横波を受けひどく揺れる。気分が悪くなり、寝込む。その上、安房でははしけに乗り移っての上陸で、はしけに乗り込むのに少し気味の悪い思いをするが、はしけの揺れは苦にならなかった。
 安房上陸は2時半頃。出来れば小杉谷まで入りたいので、早速軌道に交渉に行くも問題にもならず。諦めて、安房川対岸の丘の上の公民館に泊まることにする(一泊:50円)。同宿は岐阜の単独行の女性、二人組、東北大ワンゲルの三人組。東北大の人たちとは親しくなり、夕食のおかずをご馳走になり、同行を約す。一緒に尾之間軌道(
民間の業者?)に交渉に行き、明朝六時半出発の便に荷物を積んでもらうことに簡単に決まった。ただし雨ならば出ないとのことである。

9時就寝。

3/10
 4時半、起床。外は雨である。これではトロッコは出ない。一同がっかり。気象情報はあまりよくない。
 6時半、出発。対岸を見るとなんとトロッコが走っている。慌てて走るも、あとの祭り。残念だった。仕方なく、荷物を担いで16キロ先の小杉谷を目指す。さすがにワンゲルは歩くのが速い。時速4キロぐらいだ。ついて行くのが精一杯。
 途中、トロッコが屋久杉を積んで下ってくるのに出会う。下りは、下り勾配ばかりなので、作業員が一人材木の上に乗って、ブレーキを操作しながら下ってゆく。10台ほど続いて下ってきた。面白そう。
 9時半頃、安房から11キロの地点で、同行の三人組は第一昼食を摂るというので、花之江河で会うことにして先行する。多分途中で追いつかれるだろう。
 1040 小杉谷に着く。結構大きな集落。売店にてパンとミカンを買う。20分待っても三人組は来ないので出発する。(
ここには当時小学校もあったようであるが記憶にない。
 1150 石塚部落に着く。ここで道を尋ねるとお茶と菓子を出してくれたので、腰を下ろして30分ばかり話し込む。軌道があるため生活はそれほど不便ではないらしい。(
安房川南沢を行くこのコースは現在は一般登山者は通行禁止。
 1230 出発。軌道がジグザグに走るため近道をとる。道標はよく整備されている。谷に沿う軌道をテクテクと歩き、二時頃軌道の終点に着く。ここまでは楽であったが、ここから道が悪り急坂をまじえた登山道となる。所々に残雪が現れ、足がめり込む。一時間で鏡明水、この辺りで大分バテてくる。ここから花之江河まで2キロぐらいだが、二時間以上かかった。
 5時過ぎ、花之江河到着。6時になっても三人組は来ない。小屋跡にツエルトを張り、食事にかかる。疲れすぎて食欲はなし。茶漬け2杯とオイルサーディンの缶詰のみ。風が冷たいので、7時半、ツエルトにもぐり込む。

3/11
 6時起床。寒気強し。昨日のぬかるみで濡れた靴下がパリパリに凍っている。昨夜は12時頃までは熟睡したが、その後は1時間ごとに寒さで目が覚めた。シュラフを外に出すとたちまち氷が張り、ポリタンに汲んできた水は30分ぐらいで凍ってしまう。付近を散歩したり、写真を撮ったりしてのんびりする。
 9時出発。黒見岳に登る。快晴になり、眼下の花之江河、北方にはこれから向かう宮之浦岳、永田岳や国割岳、遠くは口永良部島まで眺められる。南には七五岳、栗生部落あたりの海岸線が美しい。種子島もよく見える。正に島の高山である。まわりは一面の霧氷である。
 10時半、分岐点に戻り出発。遭難碑、1115。宮之浦岳には1時前に到着する。途中、霧氷のためズボンはびしょ濡れとなった(
当時の雨具はポンチョで、上下セパレーツの雨具は持っていなかった。)。山頂で、東北大の三人組と再会する。昨夜は小杉谷宿泊所で泊まり、ウィルソン株を通って登ってきたとのこと(現在の大株歩道−宮之浦歩道。縄文杉はもう見つかっていたようではあるが、まだ観光の対象とはなっていなかった)。
 1:50、出発。3時頃、永田岳到着。途中雪は多かったが、通行できないほどの所はなかった。永田岳頂上は霧につつまれ、視界は全くきかない。ここで鹿之沢小屋に向かう4グループ(東北大3人、大阪の3人、一橋大1人、自分)が合流して、一緒に鹿之沢に下る。
 4時前、小屋に着く。火を焚くのに一苦労する。
 9時就寝。明日は永田に下ろうか、それとも栗生にしようか。

3/12
 6:30起床。9時頃、一名花之江河から小杉谷へ帰る(この一橋大生とは翌年南アルプス赤石岳山頂で再会する)。同じく東北大、永田へ下る。9時半、大阪の3名も永田へ出発。
 本当は花山新道を下りたかったが、人の通った形跡が無く、雪で道が埋まっていて迷うと困るので断念する(
花山新道は、新しい道のようでガイドブックには載っていたが、5万分の1地形図にはまだ載っていなかった)。
 10時出発。今日は永田泊まりなので、急ぐことはない。岳の辻までは山稜づたいで、尾根の北側を通るときは雪がかなり深い。出発時から右脚のつけねがかなり痛んだが、辛抱して歩く(
当時はストレッチ体操が効果あるとは知らなかった)。岳の辻からの下りは、大きな杉の植林の中の長い急坂でうんざりする。出発時は霧がかかっていたが下るにつれて快晴となり、永田部落辺りではもう5月のような暑さであった。3時半過ぎ下山。
 公民館に泊めてもらうことになった。先行の6人はバスで宮之浦の方へ出たらしい。
 トラックに便乗して灯台へ。ここの灯台は自家発電、回転は振り子だそうだ。電力の余っている屋久島なのに、皮肉な感じがする。灯台からの眺めは素晴らしい。正面に口永良部島、右へ硫黄島、竹島、左に仲の島が眺められ、後ろは南国の海岸らしく常緑樹が茂っている(
今回、レンタカーで訪れたが、以前も来ていたのだ。全然覚えていない)。
 公民館長の家を訪ねると茶を出してくれ、ポンカンを頂いた。この部落も若者が殆どいなくて、漁業は出来ないとのこと。農業(サトウキビ、ポンカン)と日雇いの道路工事が中心とのことである。
 この日、部落で葬式があった。参列者は普段着、もんぺ姿や地下足袋で、女性は白い布で角隠し、男性は黒布を襟にかけただけであったが、虚礼に満ちたものより何か心を打つものがあった。
 9時頃より海岸を散歩して、10時就寝。

3/13
 9時頃のバスで一湊へ。ここから折田丸で鹿児島へ。甲板で昼寝をしたため大分日焼けした。桜島の噴火がすごい。煙が動いていないように見えて、いつの間にか流れてゆく。5時過ぎ、鹿児島に到着。
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以下は霧島登山になるので省略