ブータン紀行(上)

 

ブータン第一日(4 / 30


 カルカッタを飛び立ったDrukair(ブータン航空)のAirBus A319はガンジス河上空を北へと進む。見下ろすと、インドの平原は熱気と湿気で濛濛としている。3,40分も飛ぶと、眼下はもう山岳地帯だ。山頂に薄く雪を頂いた山が見えると、飛行機は右左に谷間を縫って高度を下げ、やがて静かに着陸する。いよいよ竜の国、憧れのブータンに到着だ。


   


 昨年の中国黄山以来、海外旅行はご無沙汰なので、このゴールデンウィークを目一杯使えるツアーは無いかといろいろパンフレットを見ていると、ブータンのサムテガン・トレッキングというのが見つかった。4/29に出発して57に帰国である。まさに連休を目一杯に使える。サムテガンがどんなところかは知らないが、ブータンなら失望することはないだろう。ツアーは2名より催行である。これなら家内と二人で確実に行ける。少々値段が高いが早速に申し込んだ。

 ブータン唯一の空港、パロ空港はこじんまりとした日本の地方空港の雰囲気だ。空港に下り立ってまず感じるのは空気の清澄さである。四方を山に囲まれた景色は、以前行ったニュージランドのクイーンズタウンの景色を思い出させる。空港で今回お世話になるガイドのT氏と運転手の出迎えを受ける。二人ともブータンの民族衣装であるゴを着用している。何か日本の丹前姿を思い起こさせて馴染み深い感じがする。Tさんは日本語が話せない。これからは英語での会話となる。アー、肩が凝る。Tさんの英語は上手ではあるがいささか訛っているし、私の英語はお粗末なものであるから、以後のブータンに関する見聞には誤解が混じっているかも知れない。そのつもりでお読みいただきたい。ここでブータンの旅行費用について説明しておくと、ブータンでは一人一日200ドルの政府の公定料金が設定されており、ガイド、運転手、ホテル、食事などの費用が全て含まれている。トレッキングの費用も然りである。従って、格安ツアーは存在しないし、個人で勝手に国内を歩き回るなどということは許されない。どうも、ガイドは監視役も兼ねているらしい。

 ブータンは九州ほどの大きさで、国土のほとんどは山林で耕地面積は国土の数パーセントである。人口は70万足らず。これで航空会社を運営し、軍隊まで持っている。そのうえ無為徒食の大勢の僧侶(ごめん、言い過ぎ。大乗仏教のこの国では人民の救済のために祈っている)を抱えて、少ない人口で一国を経営することは、なかなか大変だと感じる。基本的には農業生産性の高い国なのだろう。

 さて車は、壮大なパロ・ゾン(昔の城砦で、現在は県庁)の前を通り、パロの街を通り過ぎて、タクツォン僧院へと向かう。途中の景色は、エキゾティックでありながら、何か懐かしいような気分にさせてくれる田園風景である。やはり、水田や、民家(鮮やかに彩色を施されているが、木と土壁で出来ている)や、人々の衣装(和服の雰囲気がある)がそう感じさせるのであろう。ガイドブックによると、ブータン人は戸外では民族衣装を着用するように義務付けられているとのことであるが、実際にはかなりの人がジャージーなどのラフな格好で街に出ている。ガイドのTさんに質すと苦笑しながら、確かにそういうことになってはいるが、若い人はかなり自由になってきていると云う。別に罰則はないようである。それから、中国の奥地でもそうであるが、車の少ないところでは人々はよく歩く。ひたすらに歩いている。昔の日本もそうだった。坂の多い国であるためか自転車は見かけない。



パロ・ゾン

 すこし、山を登って車は松林の中の駐車場に到着。ここからタクツァン僧院の展望台まで1時間ほどの登りである。明るい日差しの中、気持ちのよいのぼり道だ。野バラか、木苺か、白い花が咲いている。突然、真紅の花をいっぱい着けた大木が眼に飛び込んでくる。期待の石楠花だ。日本の石楠花に比べると、とにかく木が大きい。まさにゴージャスである。やがてピークに達すると、眼前にこれから向かう展望台とその向こうの巨大な岸壁の展望が開ける。その中腹にへばりつくようにして建つタクツォン僧院が眼に入る。ここは、「虎の巣」と呼ばれ、チベットから来た偉いお坊さんが建てた国第一の聖地である。丘の上は風が爽やかだ。数十本の経文を印刷したダルシンと呼ばれるのぼり旗がはためく。やがて展望台に着く。目の前に見える僧院までは谷を回りこんでさらに1時間ほどは掛かりそうである。時間のない我々は残念ながらここまで。

  



 

 展望台で昼食。ブータンでの最初の食事だ。ビュッフェスタイルで、皿に山盛りの白米、赤米、数種類の煮込みの肉、野菜である。とても美味しいとはお世辞にもいえないが、案ずるほどのことはない。結構いけるではないか。もちろん外国人向けに作っているのであろうが、大して辛くもない。ご飯もぱさぱさであるが、おかずを混ぜて食べればどうということはない。大いに安心である。十分満腹した。展望台でしばらく食後のお茶を飲みながらのんびりとする。それにしても人が少ない。国第一の名所でありながら、我々以外には数名の外国人がいるだけである。雄大な景色を目の前に、午後のひと時をゆっくりと過ごす。

 





 山を下りると、首都ティンブーに向かって車を走らせる。

パロの町の柳に囲まれた広場でアーチェリーの競技が行われている。今日は日曜日なのでパロでも勤め人は休日なのだそうだ。弓はブータンの国技であるが、ここでは従来の弓ではなく近代的なアーチェリーが使われている。距離は120m、私の眼では直径50cmほどの的はよく見えない。射手は腰蓑のように色とりどりの布を腰に纏っているが、あれは的に命中したとき一枚付け加えるとのこと。的の周りに人が立っていて、矢が放たれる度にはやし立てている。的の近くに立っているのは危険そうなのでTさんに尋ねると、時々死亡事故があるとのこと。柳の木陰で十人ほどのキロ(女性の民族衣装)を着た女性が輪になって歌を歌っている。チアーガールのようなものらしい。

     

道はパロの広い盆地から急峻な渓谷に入り、山肌を縫って下ってゆく。国唯一の空港から首都へ通じる道であるからには、国道一号線のようなものであろうが、大変狭い。トラックが行き違うのには苦労しそうな道である。まわりの山は痩せた赤土に小さな松が生えているのみで、一見乾燥地帯のようである。雨が少ないとも思えないので、山に保水能力がないのであろうか。やがて、道は三叉路に出る。ここから更に渓谷を下るとインド国境に出る。一方の谷を遡るとティンブーへ通じている。さすが、最大の交易路であり、トラック、バスが頻繁に行き来している。Tさんは書類を持って、検問所に入ってゆく。どうやら県境を通り抜けるには許可証のようなものが必要らしい。

ティンブーに近づくと盛んに道路の拡張工事が行われている。所々に片側2車線の道路が出来ている。ブータンの車文化はようやく緒についたところという感じだ。それにしても、働いているのは全てインド人である。Tさんによると、コンクリートを使った建築、道路工事などはほとんどインド人によって行われているとのこと。農業文化に馴染んだブータン人には技術もないし、肌に合わない仕事だという。GDPは最低レベルでも、農業だけで十分平和で、幸福な生活が送れるだけの生産能力があるのだろう。もともとはチベット文化の強い影響下にあった国であり、現在も独自の文化を保とうと努力しているようであるが、そんなにのんびりしていては、ヒンズー文化の圧倒的な圧力に抵抗できるのか他人事ながらいささか心配ではある。



                インドからティンブーへ向うバス

   首都ティンブーに到着する。人口6万とのこと。町の中央の通りでは警官が手信号の交通整理をしている。ブータンではたぶんここだけなのだろう。町の中心部にある、こじんまりとしたクラッシックなホテルに入る。明るいうちにと、町に出てみる。日曜日のせいか、大変な人出だ。見たところ、半分以上はインド人である。それと野良犬がおおい。そこいらじゅうに、五匹、十匹とたむろして寝そべっている。通りに並んだ店を覗いてみるが、観光客目当ての店はほとんど見当たらず、生活必需品を商う店ばかりだ。肉屋、奥のほうで牛肉か何かをぶった切っている。手前に50cmほどの魚が56本並んでいる。八百屋も興味深い。日本にもあるようなものばかりであるが、何か微妙に異なっている気もする。一見、ワラビかと思ったが、頭はゼンマイのようでもあり、コゴミかとも思われるシダの若芽が積んである。人々がよく歩くせいか、靴屋もおおい。一軒の土産物・骨董店を見つけて入ってみる。あまり食指の動くものはないが、家内は絵葉書、私は木彫りの竜の壁掛けを買う。馴染みの飲み屋への土産にしよう。手織りの反物は眼を惹くが、値段のほうもさすがなものである。

    

夕食は、ホテルのレストランでTさんも同席して摂る。食事の内容は、昼食と似たような味付けのものである。話好きのTさんは、話し出すと止まらない。彼は東ブータン・ブムタンの近くの生まれで、ここから彼の町までは車で三日かかるとのこと。16歳のとき(法律上はまだ結婚できないらしい)、一歳年上の同級生と駆け落ちして、両親からは子供が出来るまでは許してもらえなかったとのこと。そういえば、現在30過ぎのTさん、なかなかハンサムである。現在、お子さんは二人。奥さんはもう一人ほしいと思っているが、彼は将来の子供の教育を考えると、これで十分と思っている。「ブータンの人口は増えているの?」「正確にはわからないが、減ってはいても増えているとは思わない」 日本のように人口過密なのも困るが、ブータンのように過疎の国ではもう少し人口が増えないと、国力が維持できないんじゃない?

ブータン人は酒が好きらしい。彼のお母さんは毎朝アラ(ブータンの焼酎)を一杯飲むらしい。彼は日本に一月ほど滞在したことがあるが、日本の焼酎を大変気に入ったとのこと。ビールはアルコール度が低いので好きではない。数種類あるブータン産のウイスキーうちから、彼お勧めの銘柄を二人で一杯やる。それほど美味くはない。

夜、やっぱり風呂の湯は一人分しか出ない。

 

第二日(5/1

朝、朝食を摂りにレストランに下りる。ボーイがメニューを持ってくる。トーストと紅茶と卵はどうして食べようかなと考えていると、卵はないという。エー、でも朝のメニューから卵を抜くと、パンと飲み物しかないということになる。そういうわけで、私の嫌いなコンティネンタルスタイルの朝食となる。後でTさんに文句をいうと、鳥インフルエンザの影響でインドからの卵の輸入が止まっているとのこと。国内に養鶏場はないらしい。このあともホテルでは卵は全然出なかった。

8時半、出発。午前中はティンブー観光。先ず、市内を一望できる岡に登る。谷あいに開けた小都市である。あまり広くない谷なので、山の上まで人家が建っていて結構密集した感じを受ける。風の通る峰にはところどころブータンの風景を特徴づけている旗が風にはためいている。長い竿の経文をびっしりと印刷したのぼり旗・ダルシンは死者の霊を弔うものが多いとのこと。紐を張って万国旗のようにつけたものは願い事の成就を祈るもの。家々の屋根にも必ず一本の旗が立っている。Tさんはたしか4種類の旗があるといっていたが、あとの一つははて何だったか? そういえば、今までどこにも墓地らしきものを見たことがない。Tさんに聞くと、「ブータンに墓は無い」と、下方を指差す。川沿いの平屋の建物が火葬場らしい。あそこで火葬され、灰は川に流されるとのこと。さっぱりしている。

国王はどこに住んでいるのかと聞くと、この岡の反対側に住んでいて、その住居はTさんも見たことがないそうだ。質素で僧侶のような生活をされているとのこと。岡のこちら側の山の中腹を指して、あそこが四人の王妃の住居だという。確かに四つの建物が見える。しかし、王様の住まいとはえらく離れているではないか。毎日気軽に顔を会わせられる距離ではない。驚いたことに、この四人の王妃は実の姉妹だそうだ。そうなると、この結婚は政略的なにおいが強いし、王妃の父親は国一番の権力者に違いない。もし四人の妻を持つとして、たとえ絶世の美女でも四人姉妹と結婚したいと思う? 私は思わない。因みに、ブータンでは男女とも四人まで配偶者を持つことが出来る。ただし、新たな配偶者を得るときは、既存の配偶者の承認が必要だそうだ。一人の女性がある男性の複数の妻の一人であり、同時に複数の夫を持つことが出来るのかを聞きたかったのだが、私の英語力では無理だった。ああ。ややこしい。
 坂を下ったところの動物園で珍獣ターキンをみて、有名らしい尼寺に寄り、ブータン政庁を見る。川の対岸に国会議事堂が新たに完成している。2008年に国王の決断で立憲君主制に移行するとのこと。ネパールの王さんとは違って、ブータン国王は英明で国民の敬愛を一身に受けられているようだ。
 


 プナカに向かう。ティンブーを離れると、道はドチュ・ラ(峠の意)への登りだ。古いゾン(城砦)が見える。途中のリンゴ畑ではちょうど花が満開だ。鬱蒼とした樹林帯に入ると峠は近い。この辺りの石楠花はピンクである。ドチュ・ラ(標高3116m)到着。この旅の最高地点である。少し肌寒い。幸いの好天で、雲はかかっているがはるか北方にブータンヒマラヤの白い峰々が望める。ラッキー!! 峠には近年108個のチョルテンが建てられている。2004年?の国王自ら銃を執って参戦したアッサム紛争での戦死者を慰霊するためのものだそうだ。インドと中国の二大国と国境を接するブータンの微妙な立場が窺われる。インドからのハネムーンのカップルがいる。少し森の中に入ってみる。苔や着生シダをつけた高木が茂っている。雨林帯の森だ。ブータンまではサイクローンは上がってこないらしく、強風が吹けばひとたまりもないような高さまで背を伸ばした木が多く、森の中はほんとに幽邃な感じに満ちている。ピンクの花をいっぱいにつけた日本では見たこともない様な巨木の石楠花が所々にみえる。この辺りを一日歩いてみたいと思う。

   


 峠のレストランで昼食をとる。外国からのツアー客ばかりである。日本人も数組見かける。観光客の数ではアメリカ人が一番で次いで日本人であるが、滞在日数では大きく差をつけられているとのことだ。

峠を下りだすと、道端には白い石楠花が現れる。他にブータンでは黄色い石楠花もあるとのことである。2時間近く下ってゆくと大きな川のほとりに出る。標高1300mぐらいであり、ティンブーより1000mほど標高が低い。川の両側は広々としていて、水田が広がり豊かな地方という感じがする。所々では収穫近い麦が実っており、まさに麦秋である。この辺りは暖かくて二期作も可能らしいが、近年誰もやらなくなったらしい。そこまで頑張らなくても、十分に食べていけるということであろうか。

この水量の川がインド国境まで1000m以上の落差を流れ落ちるならば水力発電で電力は豊富なのだろうと聞いてみると、まさにその通りで、近年インド資本でいくつかの発電施設が造られ、現在ブータンの外貨獲得の第一位はインドに売る電力だとのこと。ちなみに、第二位は観光収入とのこと。観光収入といっても、観光客は毎日2便の飛行機で入って来るだけだろうから、一日二百人そこそこでありたいした額にはならないだろう。

少し上流に向かって遡るとプナカの町に至る。プナカは何十年か前まで冬の間国王が滞在する冬の都だった町である。町に近づくと二つに分かれた川の間に壮大なプナカ・ゾンが姿をみせる。まさに巨大な城塞である。白い城壁をバックに満開のジャカランダの紫の花が息を呑むほどに美しい。ジャカランダは南米原産の木らしいが、ここの風景にぴったりと馴染んでいる。城内見物になると、Tさんはゴのうえに白いマフラーのような布を巻きつける。これはカムニといって袈裟のようなもので、公式の場所に行くときは着用しなければならない。国王は黄色、高位の人物は赤色、庶民は白色だそうである。小さな吊橋を渡り、ジャカランダの花の下を通って城門を抜けると石畳の広場である。中央に大きな菩提樹が植わっている。周りの回廊は県庁の事務所、正面は寺院である。ここはブータン最高位の僧が冬の間滞在する場所である。本堂では数十人の少年僧が並んで、勤行か勉強をやっているようだ。その間城内を一巡する。本堂の裏手は僧侶の居住区らしい。窓のない、灯火無しでは住めないような場所で何年もの修行を行っているようだ。本堂の正面には大仏が三体、正面はお釈迦様、左は最初にパキスタンから仏教を伝えたお坊さん、右はその後チベットから仏教を伝えたお坊さんの像である。我々夫婦は極めて信仰心の薄い人間であるので、小額のお布施を仏前に置く。横目でTさんのお布施を見ると赤いブータン最高額の紙幣を置いている。日本円で千円以上である。ブータン人の収入、物価から考えるとこれは一万円ぐらいにもなるのではないだろうか。さすが、信仰にも力の入れ方が違う。帰り道でTさんに信仰のことを聞いてみる。彼はキリスト教、ヒンズーにも興味があり、聖書、経典などを読んでいるという。「では、輪廻転生は信じていない?」 彼は、それは信じるか信じないかの問題ではなく、確かに存在する事実だという。偉い僧侶が死んだとき、その転生した子供は生前僧侶が使っていた品物を自然に選ぶという。してみると、ブータンでもチベット風の生き仏がいるのであろうか。輪廻転生を信じていれば、信仰にも力が入ろうし悪事も出来ない。

 

  

 

 

橋の下の流れには大きな魚が群れて泳いでいる。それにしても、このゆったりと流れるプナカ・チュ(川の意)に舟は一艘も見えない。

今夜はプナカ郊外の丘の上にあるリゾート風ホテルに泊まる。部屋からのプナカ・チュの渓谷の眺めは素晴らしい。持参した双眼鏡で心行くまで景色を楽しむ。対岸の山は相当高く、頂上近くにダルシンが白くはためいている。稜線に僧院らしい白壁の建物が見える。下から小道を通ってゴやキラの制服を着た小学生たちが三々五々にホテルの敷地を通り抜けて上の部落へと帰ってゆく。34キロは歩いて通学するのだろう。四国の山村で2キロ歩いて通学していた子供時代を思い起こす。