第三日(5 / 2


 いよいよ今日からサムテガン・トレッキングの開始である。天気は晴れ。車でトレッキング開始のチャンゴカ村まで向かう。Tさんも今日はゴではなくて、ハイキング姿である。出発地点はプナカ・ゾンの対岸の広場だ。馬が十数頭集まっている。我々のキャラバンはガイドのTさん、コック兼雑用二人、馬方二人、馬が9頭と聞いて驚く。なんでそんなに大所帯なんだ。我々が預ける荷物は3個、全部で20kgちょっとなのに。

 荷物を預けて身軽になって、Tさんと歩き出す。しばらく川沿いに歩いてから河岸段丘に上がるとメドラガン村だ。ここから対岸に向かって長さ百メートル以上もある吊橋がかかっている。老若男女の民族衣装の村人たちが三々五々対岸に向かっている。プナカへ仕事や買い物に向かっているのだろう。村の中心部から山のほうに向かって歩く。トラックが土煙を上げて通り過ぎる。奥で道路の延長工事が行われているとのこと。中心部は5,6戸の民家が集まっており、商店もあるようだ。人通りも多い。

民家の多くは2階か、3階建で、以前は一階は牛馬用だったが今は倉庫、2,3階が住居、屋根裏が藁や作物などを保存するスペースらしい。木の柱と土壁で出来ている。土壁は日本と同じく切り藁を混ぜた塗り壁か、板築のようだ。手をかけた家は壁を漆喰で白く塗りその上に絵を描き、柱や格子に模様を施して大変美しく仕上げている。毎年少しづつ仕上げてゆくのだそうな。


水田はまだ鋤起こしもされてないが、もう少しすると農繁期にはいるそうだ。あと一月足らずで雨季に入る。畑には麦、ジャガイモ、トウモロコシが植わっているのが見分けられる。

村はずれから道は山に入ってゆく。気温はそれほど高くはなく、湿度も低いようでカラットしているが、日差しがきつい。下生えのほとんどない松林の中を道は徐々に高度を上げてゆく。よく踏まれた歩きやすい道である。落ちている松ぼっくりは球形で日本の3,4倍はある。松葉はしなやかで長く3葉である。マツタケがたくさん生えそうな松林である。Tさんによると、ブータンには食用となるキノコが二百種ほどあり、マツタケもよく採れるとのこと。近年マツタケは換金作物ということで、山林に入って自由に採ることは出来なくなったらしい。7,8月が季節とのこと。

山の肩を越えると山腹の道となる。平らな道が分かれて、自転車の絵がついた標識が立っている。サイクリングロードらしい。MTBで走るのは絶好のコースだ。下方にプナカ・チェの流れが望め、対岸に昨夜のホテルがある部落がみえる。屋根の光っているのがホテルだ。昨日ホテルから双眼鏡で眺めた対岸の山腹を歩いている。上を見上げると山頂の白いダルシンが見える。きっと僧院らしい建物のところへ上がってゆくのだろう。

やがて、キャラバン隊が追いつく。馬は小型で、背の高さは120cm位だろう。あまり頑強には見えない。一頭どれくらい運ぶのだと聞くと、最大50kg位で普通は30kg位積んでいるとのこと。それぐらいならばヒマラヤ辺りのポーターと大して変わらない。それでもなかなか苦しそうで、楽々と運んでいるようには見えない。今日は我々以外に一隊、イギリス人が先行しているらしいが、彼らのキャラバンはまだ現れない。何かトラブルがあったようだ。ここから、弁当持参の一人が加わる。Tさんはアシスタント・コックだと紹介したが、キャプテンと呼んでいるところをみるとグループリーダーのようである。

しばらく登って松林を抜けると、昼食タイムである。木陰に腰を下ろすと、風がほってった体を冷やしてくれて実に快い。まず紙パックのマンゴージュース。インド・ニューデリー製造と書いてある。ジャーから三段重ねの直径15cmぐらいのステンレス容器を取り出す。中には赤米ご飯、肉と野菜の煮たもの、野菜にチーズを絡ませたものだ。美味いと感心するほどのものではないが、まあ空腹を満たすには十分である。満腹、満腹。

峠まではあと30分足らずだ。辺りの樹木はクヌギや楢のようで西日本の里山を歩いているのと変わらない。足元の5ミリほどの青いリンドウのような花も日本でも見たような気がする。ハハコグサも同じようなものだ。道端に小指の太さほどもあるワラビがたくさん生えている。これは食べられるかと聞くと、これは「ワラビ」でブータンでも食べるという。日本語を知っている。ではどうやってあく抜きするのか訊ねると話が通じない。どうも、アクがない様でそのまま食べるらしい。やはり、日本と微妙に違うのかも。このあたりが我々の会話の限界である。ヨモギに似た草が生えている。これは食べられるのかと聞くと、ブータンでは食べないが、日本では団子にして食べるのだろうという。前に日本人が同じ質問をしたようだ。食べないが煮汁を傷に塗るというので、これは日本と同じだ。折って臭いを嗅ぐと、ラベンダーそっくりの強いハーブの香りがする。これは日本のヨモギとは違っている。

ラプチャカ峠。標高2100mぐらい。ここまで7,800m程の登りであったろうか。チョルテンが建っている。これが昨日見た僧院らしい建物だったらしい。ここで下から登ってきた車道と合流する。平行に続く車道の先に今日の泊まり場、リムカ村の集落が見える。あと2km30分だ。V字に切れ込んだ渓谷のすぐ上の緩斜面に畑が開かれ、家々が点在している。ちょうどわが






故郷の近くの祖谷山(いややま)とそっくりだ。

村の中央にブータンの国の樹木、西洋ヒノキが一本聳えている。30m位はありそうだ。強風が吹けばひとたまりもなく折れそうだと、日本人らしい心配。集落に入り、イギリス人のキャンプサイトを通り過ぎる。手を挙げて挨拶。集落の一番奥の草地が我々のキャンプサイトだ。もう炊事場とキャラバン隊用の大テント、我々のテント、トイレテントが出来上がっている。荷を降ろした馬たちがのんびりと草を食んでいる。テーブルがセットされていて、座るとすぐに紅茶とビスケットがサービスされる。ウーン、これはちょっとした殿様気分である。

夕食まではまだ大分時間がある。裏の林にハンモックを吊って昼寝でもするか。

前の農家の庭に高さ2m位の潅木が数本あり、青い丸い実がなっている。何かと訊ねると、トマトだという。フーン、トマトの木ネェー。手前に一本、山椒の木らしきものがある。葉はセンチぐらいあり、ごわごわしている。イヌザンショウよりもっとゴツイ。潰してみると、まさしく山椒の香りだ。葉は食べないが、実を使うという。似ていてもやはり日本と微妙に違うようだ。


 

農家の裏、キャンプ場のはずれに水道の蛇口がある。水はたぶん谷の水そのままだろうが、これもブータン近代化の一つだろう。家の若奥さんが洗濯物を山のように抱えて来て、洗濯を始めた。コンクリートの床に着物を広げて石鹸を擦り付ける。持ち上げて床に叩きつける。重労働だ。日本で洗濯機が普及して、奥さんたちに暇が出来たのは何時からだったろう。奥さん、もう少しの辛抱ですよ。

夕食の準備を覗くと、肉を水に漬けている。ビーフだという。干し肉かと聞くと、いや生とのこと。乾燥肉のようにしか見えないけど。米は馬に積んできたプロパンガスで圧力釜を用いて炊いている。

夕食。Tさんがペットボトルに入った透明の液体を持ってきて、飲むかと聞く。アラ(ブータンの焼酎)だ。ティンブーで手に入れてきたとのこと。酒屋で買うのかと聞くと、酒屋では売っていないらしい。アラは、小麦、米、トウモロコシなどの穀類を発酵させ、簡易蒸留器でつくり、だいたい自家製のものらしく、知り合いから手に入れてきたという。まず、ブータン風の飲み方ということで、フライパンで卵を焼いてその砕いたものを入れ、くらっと沸かして飲む。ヘェー、ブータンにも玉子酒ってあるんだ。これは一杯で勘弁してもらって、あとはストレートにする。なかなかいける。味は日本の焼酎と遜色ないし、20度はありそうだ。ご飯は圧力釜で炊いたためか茹でこぼしを少なくしたのか、粘りがあって日本のご飯に近く美味しい。おかずは3品、アスパラガスを主とした野菜の煮物、ワラビのチーズからめ、鶏肉を野菜の煮物。デザートはマンゴー。

日本から持参のシュラフをひろげて、就寝。テントは二人には十分な広さである。

夜中、小便に起きだす。全くの静寂の世界。小雨が降っている。

 



4日(5 / 3

 小鳥のさえずりで目が覚める。ホトトギスも鳴いている。気のせいか、テッペンカケタカンと聞こえる。幸い雨は止んでいる。

 起き出して、家内と朝の散歩で村のほうへ行ってみる。少年時代の故郷に帰った気がする。

 連中は食事中。チラッと覗くと、山盛りのご飯と小皿に唐辛子らしきものの煮物を手で混ぜて食べている。そういえば、ブータン人は唐辛子をピーマンのように食べるとか。少しの漬物でご飯をかきこんでいた一時代前の日本の食生活と変わらない。

 朝食は、まずオートミールが出て、トーストとフライドエッグ、豆の煮物(缶詰だろう)。卵はプナカあたりの農家から仕入れてきたのだろう。ホテルと違って小回りが利く。

 農家では若主人が小型耕運機に荷台をつけて、農道を出かけてゆく。町まで用事らしい。農道がついたことで始まった近代化であろう。

 今日はトレッキングでの最高地点、ダチェラプツァ峠(2470m)を越えるが、既に高度を稼いでいるので300m程の登りだろう。登りは鬱蒼と茂る雨林帯樹林の中、今までより険しい道である。馬は大丈夫だろうかと心配になる。大木の幹、枝からは苔が垂れ下がっている。イギリス人の一行(68歳の英国男性と若いインドネシアの男性)と抜きつ抜かれつで登ってゆく。所々、真紅の花をつけた石楠花の大木が迎えてくれる。やがてキャラバン隊が追い抜いてゆく。馬も険しい坂道に必死である。

 

 
 ダチェラプツァ峠。先行したキャラバンが休憩している。見晴らしが良い所ではないが、やかな風が通り抜けて気持ちがよい。一同、座り込んでのんびりする。少し歩き回ると、白い着生ランが大きな木の幹についている。日本のセッコクに似ているが、異同の判定は出来ない。やがて英国隊到着。爺さん急な登りで大分こたえたようだ。

 峠からは登りとは違って、なだらかな下りとなる。植生もからりと明るくなって、西日本の里山を歩いているような気分である。昼前に昼食。あまり頑張ると、今日のキャンプ地に着いてしまう。牛肉の料理が出る。硬い、ゴムを噛んでいるような肉だ。

 ここでTさんと肉談義。「仏教国であるブータンでは狩猟はもちろん、魚釣りも禁じられている。」「エッ、ティンブーの肉屋に魚が並べられていたし、ホテルでも魚のから揚げが出たやん。」「あれはみんなインドから輸入されたものか、もしくは密漁だ。」狩猟禁止は理解できるとしても、魚釣りまでもねー! 安価で生産性の高い蛋白源だと思うけど、もったいないなー。プナカ・チェの光景が理解できた。そういえば、日本でも昔は猟師、漁師は後生の悪い職業とされていた。「当然、ブータンでは牛も殺さない。牛肉もインドからの輸入だ。」「ちょっと待て。インドこそ、牛は神聖な動物だろう、なんでインドから輸入できるんだ?」「それは判っているが、どうもあるカーストは牛を殺しているようだ。ブータンは確かに国境の町で牛肉を買っている。」「ブータンの農村にもたくさん牛がいるが、あれが死んだらどうするの?」「獣医が検分して、病死の場合は穴に埋め、自然死の場合は解体して食べてもよい。」それで判った。インドでも、そのカーストは屠殺するわけではなく、自然死した牛を解体するだけだろう。とすると、大半は老衰死の牛ということになる。軟らかいはずがない。帰国して、2ヶ月インドを放浪したことがある息子にこの話をすると、インドでもたしかにビーフカレーを供するレストランがあるが、その肉はカレーにでも入れるしかないような肉だったとのこと。

 


  さて、昼食後しばらく歩くと、道端の木に1mほどの棒がぶら下げてある。よくみると溝が彫ってあって、明らかに男性のシンボルだと分かる。村の入り口にあって悪魔よけをしているのだろうか。林を抜けると素晴らしい光景が広がる。目の前に大きな渓谷が開け、谷のこちら側も向こう側も谷の底から尾根までの千枚田だ。涼風が吹きぬける。ここから30分も下ると今日のキャンプ地チュンサカ村だ。テントは十戸ほどの村の真ん中にある小さな寺院の境内である。山の急斜面にある村からの展望は絶景である。

 テーブルに寛ぐと、Tさん早速アラを持ってくる。今度のは、リムカ村で仕入れてきたもの。少し酸っぱく、しかも薄い。コップ一杯一気飲みできる。ビールに毛の生えたぐらい。ケチってとことん蒸留したみたいだ。自家製だけに品質の差がおおきい。

風に吹かれながら、双眼鏡であたりの風景を楽しむ。谷の向こう側は明日の宿泊地、サムテガン村だ。3時間も歩けば着きそう。渓谷の奥のほうに目を向けると、谷の奥までよく開かれている。最奥の集落が小さく見えるが、ちょっと変わったたたずまいを見せている。中央に大きな寺院らしき建物とそれを取り囲んで小さな画一的建物の一群が見える。周りに田地が少ないので僧院らしい。行ってみたい。眼を上方に転じると、驚くほどの高地にダルシンが立っているのが眺められる。Tさんにあの辺りに村があるのかと聞くと、人々は死者の霊や願い事のためには高地まで登ってゆく苦労は厭わないのだという。ただ、ダルシンを立てる場所からは水の流れが見えることが必要だ。人々の願いは水の流れに乗って海まで運ばれなければならない。



    

 

まだ、日は高い。村の散歩。リムカ村より豊かな感じで、民家がきれいに装飾されている。白壁に、鮮やかに彩色された絵が描いてある。人物の姿をした鳥である。両足で蛇を踏みつけ、クチバシにも蛇をくわえている。ガルーダといって地下からやってくる邪悪なものを退治する神とのこと。ここにも男根の絵が描かれている。柱、窓枠、格子にも丁寧に模様が描かれている。窓から老人が顔を覗かせている。穏やかな実にいい顔をしている。生涯を平穏に暮らしてきた顔だ。巨大な牛の頭骨を入り口に飾った家もある。畑の柵に近づいたところ、イラクサに触れる。ズボンの上からでも強烈にヒリヒリする。昔、スイスのハイキングでも刺されたが、日本では経験しない痛さだ。

夕食。調理法が単調なのであまり変わり映えはしなし、美味しいと思うほどのものでもないが、食べられないこともない。心配して日本からいろいろ副食物を持ってきているがまだ全然使っていない。きれいな空気と適度の運動にも助けられている。

 

5 ( 5 / 4)

 今日は1時間ほど坂道を下り、谷を渡って2時間ほど坂を登り返すともうサムテガン村だ。途中、英国人一行と軽口を交わして前後になりながらの道中。田園風景の中の道で、特筆すべきこともなく昼前に村に入る。最初に迎えてくれるのは小学校。ブロックで新しく作られた建物だ。もう放課後の様子だ。学校に接して十数軒の掘っ立て小屋がある。貧しい農民の住家かとTさんに聞くと、少し考えて、多分小中学校へ通学するのには遠すぎる近隣の村の子弟が世話をするその村の大人と寄宿している建物だろうと答える。ブータンにはまだ義務教育制度はないそうな。小学校の上の小さな切通しを抜けると大きな池に出る。Tさんは湖といっており、我々もここで水に浸かれるのでは期待していたのだが、鉄条網が張り巡らされているし、どうみても池か沼である。池の上の松林が今日のテントサイトだ。ここも風通しは良いし、景色もいいのだが、上の集落からの通り道らしく人通りが
多い。テントを設営していると、たちまち人だかりがする。アレッ、そんなに珍しいのかな? このトレッキングコースもそれほど頻繁に人が歩いている様子ではなさそうだ。そういえば、Tさんも年に2,3度しか来ないといっていた。池の向こうの中学校から生徒がゾロゾロと帰ってくる。男女とも民族衣装の制服をこざっぱりと着ている。昼食を摂りに帰るらしい。4,5人のグループの男子生徒と話をする。まあまあ英語がしゃべれる。質問にイエス、サーなどとサーをつけて返事されるものだから、ちょっととまどう。生徒は全部で500名とのこと。一人の若い女性が話しかけてくる。ブータンでみた最もおしゃれな服装をした、すらりとした美人だ。ハンドバックなど下げている。中学校の理科の先生で、まだ教師になって5ヶ月とのこと。教科書は英語で書かれている。国語(ゾンカ語)以外の教科は全て英語で教えるらしい。パロの出身で、東ブータンにある国で唯一つの大学を出たらしい。近くで友人の地理の教師と一緒に家を借りて生活しているとのこと。

 昼食後、昨日見た僧院らしき建物へエクスカーションを試みる。Tさんが土地の人に聞いたところでは、僧侶の学校らしい。彼も行ったことはないらしい。家内は松林でのんびりするというので、木陰にハンモックを吊っておいてやる。

 30分ほどは新しい農道を歩くが、それは一つの集落で終わり、あとは田んぼのあぜ道のような細い道。途中で下校途中の小学生の女の子とお姉さんの二人づれと一緒になる。我々は相当早足で歩いているつもりだが、彼女たちは軽々とついて来る。最奥の農家で別れると、あとは目的の僧院まで家はない。Tさんが、「まだ遠い」とため息をつく。まだ30分以上かかりそうだ。結局、1時間ほど歩いたところで諦め、引き返した。残念。

 帰ってみると、ハンモックに子供が群がって遊んでいる。二人も三人も乗り込んでブランコ遊びだ。ひっくり返りそうになるまで振っている。我々の子供時代と同じで、何でも遊びのたねに出来るのだ。こんなところで子供に怪我をさせるとどうなるか心配になってきたので、可哀想だが片付ける。しかし子供が多い。どうも人口減少はTさんの杞憂ではないか。家内が座って「地球の歩き方」やブータンで買った写真集を見ているところにも子供たちが取り囲んでいる。人口の少ないブータンでは印刷物は高価で、写真は珍しいらしい。若い馬方まで一緒になって覗き込んでいる。そのうち馬方が声を挙げた。僧侶になっている従兄弟が写真集に出ているらしい。

 松林に隣接して一軒の民家がある。広い芝生の庭と二階建ての新しい家屋だ。前にトラックが止まって、ジャガイモの袋を一杯に積み込んでいる。換金作物だろう。道路がついたことで商品経済が入り込んできて、こうやって貧富の差がどんどんついていくのだろう。庭に入って写真を撮っていると、お爺さんが出てきて「マイハウス」と誇らしげに言う。従来の民家ならば、一階は家畜用のスペース(今は屋内で家畜を飼うのは禁止されて、倉庫として使われているらしい)だったが、この家では両階とも居住スペースだ。爺さん夫婦と少なくともその子2所帯の大家族で15人ぐらいは居そうだ。中が覗けないのが、残念。

 


 夕方のひと時、Tさん、キャプテン、若い馬方(といってもさんと同年で、4人の子持ち)の三人でバロという石投げゲームに興じる。ほど先の地上の的に向かって、直径位の円盤状の石を投げ、的の手前で一番的に近いものが勝つらしい。子供のときからやっているらしく、みんな正確に投げる。撥ねないように投げるのがコツみたいだ。お金のやり取りも。
 夕食。きれいに盛り付けたサラダが出る。キュウリ、トマト、中央に例の木になったトマトを飾っている。今まで果物以外でなま物は食べたことがなかったので、ちょっと気になったが、箸をつけないのも悪いように思い食べてみる。木になったトマトは確かにトマトではあるが、酸味が強く変わった味である。今日がキャラバンの人たちとは最後の夜なので、関空で買ったグレンフィディックを出す。コックさん二人はもとは大酒のみだったらしいが、今はきっぱりとやめているとのこと。若い馬方も飲まず、Tさん、老馬方と三人で飲む。老馬方はゴの懐から小さな椀を出してウイスキーを注ぐ。そういえば、ゴを着るときは懐に短刀と椀を入れるのが正式だと、Tさんが言っていた。チュンサカ村で買ってきたアラまで出てきて大酒盛りとなった。泥酔してテントに転がり込む。

 

 

6 ( 5 / 5 )

 食事前の散歩。二日酔いのせいか調子が悪い。

 池の向こうの学校のほうへ歩を向ける。高等学校の建設が始まっている。ここでもインド人の労働者が多い。

 今日の歩きはこの尾根の上から谷へ下るだけで、1時間ほど。英国人の一行は昨日のうちにサムテガンでトレッキングを終えたようだ。今日も快晴。日差しが強い。結局、今回のトレッキングは快晴続きで、腕がヒリヒリするぐらい焼けた。下りの途中で、ピンクの新しい花に出会う。ハルウコンというらしい。

 トレッキング終点到着。運転手が迎えに来てくれている。ここでキャラバンの連中とはお別れ。純朴な人たちだった。馬方さんたちの村は、この谷を反対側にあがったところにあるという。数日したら、馬を連れて高地の放牧場へ移るらしい。しかし将来、自動車の普及で馬方の仕事はどんどん減っていくのではないだろうか。トレッキングの仕事はこれからも続くのであろうが。

 振り返ってみると、このサムテガン・トラックはテントを担いでも日本流に朝6時に出発して頑張って歩くなら、一日ちょっとで歩けるコースである。それを3泊して歩くのであるから、登山のつもりで来ると少々物足りない。以前歩いたニュージランド・ミルフォード・トラックよりも大分楽なコースである。村々を巡り、農村生活の一端を覗き見、古き日本へのセンチメンタル・ジャーニーであったろうか。

 このあとティンブーで週末の市場を見物して、パロまで帰って一泊したのだが、帰りの車では家内は車酔い、私は腹の調子が悪く元気がなかった。この下痢が赤痢であったとは、関空での検便で初めてわかり、ちょっとうるさいことになったのであるが、これは後日談。幸い家内は陰性であった。同じものを食べて、なんで私だけ赤痢に感染したのか? 食べたなま物の量の差か?