カモシカ
 近年、カモシカは増えているのか、山中を歩いているとしばしば見かける。カモシカを見ていると面白い習性に気付く。それは、彼らが自分が安全と感じる距離を持っていることである。山を歩いていて、我々がカモシカに気付いたときは彼らはとっくにこちらが近づいていることに気付いている。しかし逃げようとせず、じっとこちらの動きを観察している。30米程度であろうか、そこまで距離が接近すると、突如、パッと蹄を蹴って逃げ出す。鉄砲を持っていたら、こいつらを撃つのは実に簡単だと思う。
 1965年頃、五月の連休の大台ケ原。日出ヶ岳山頂から大杉谷へ下る途中にあった堂倉小屋に一泊した。無人小屋である。粟谷小屋(有人宿泊施設)や、
海山町から上がってくる林道は当時はまだなく、小屋から堂倉谷上流へは現在の林道沿いに細い山道が通じているだけだった。小屋のすぐ裏手で、カモシカの死骸に出会った。死後、一ヶ月は経っていなかっただろう。雨のシトシト降る日だった。お陰で、その夜は何か気味悪くて、よく眠れなかった。翌日、山道を30分程下って堂倉谷へアメゴ釣に出かけた。そこでまたカモシカの死骸を見つけた。今度は少し新しいようで、半身を流れの中に浸して死んでいた。アメゴ釣は早々に切り上げ、桃の木小屋へと下った。小屋でこの話をすると、小屋の親父はギョロリと眼を光らせ、すぐにも皮を剥ぎに出かけそうだった。それから十数年経った夏、妻と二人の男の子を連れて、南紀地方をドライブした時、大台教会山の家に一泊した。例の田垣内政一さんの夜話では、あの年は大台ケ原周辺で十頭近くのカモシカの死骸が見つかったそうである。田垣内氏はオオカミの仕業ではないかと推測していたが、当時はまだ斐太猪之介がオオカミ生存説を唱えていた時期であった。しかし、伝染病などの可能性の方が高いだろう。
 1990年頃の五月。遠山川支流の易老沢を詰めて光岳を目指したが、残雪が多くて敗退した。下る途中、足を滑らせて、危うく絶壁から転落する所だったが、これはまた別の機会に話そう。さらに下って本流に近づいた所でカモシカの頭骨を拾った。辺りに何頭かの大型哺乳類の骨が散乱していたから、ここは密猟現場だったのだろう。頭骨をザックの上に結び付けて、沢を下っていると背中でヒューヒューと気味の悪い音がする。骨が風を受けて、笛となって咽び泣いていたのだった。貧弱な角を付けたこの骨は今、息子の部屋の壁に掛かって、一寸ジョージア・オキーフの絵の様な雰囲気を漂わせている。


シカ
 カモシカ以上によく見かける大型獣である。大峰・大台では特に近年の増加が著しい。
 大台ケ原で鹿が増え始めたのは何時の頃からであったろうか。昔は山中を歩いていてもめったにお目にかかれなかったが、近頃は正木が原や牛石ヶ原などは奈良公園の続きかと思うぐらい鹿がのさばっている。一説によると、伊勢湾台風によって樹木が薙倒されて、草や笹などの食料が増えたのが増加の原因とのことであるが、タイムラグが大きすぎるような気がする。ここまで増加した結果として、大木の樹皮が奇麗に噛み剥がされて立ち枯れの木が目立つようになっている。明らかに生態系のバランスが崩れつつある。金網を木に巻きつけて保護に躍起だが、幼木の保護なども考えると、間引き、避妊手術など鹿の数を減らす対策が必要だろう。
 大峰においても状況は似ている。近畿最高峰、弥山周辺には大山蓮華の群落が有り、天然記念物に指定されている。6月下旬から7月にかけて、白く可憐な花を付けるので、この時期の登山を楽しみにしていた。1995年頃までは、何も無かったのであるが、それから数年の内に急に鹿に食い荒らされる被害が出、新聞を賑わせることとなった。一度この時期に訪れたが、鹿の届く高さの葉はすべて食い尽くされ、目を覆う惨状であった。現在、群落地はフェンスで囲まれ、以前の勢いを取り戻しつつあるが、囲いの中でしか咲けない花を見るのは悲しい。何万年もの間、ここに生き続けてきたであろう大山蓮華が何故今急にこんな被害に遭ったのだろうか。山腹の開発で鹿が追い上げられたのであろうか。ここも相当上まで林道が上がってきている。
 鹿の悪口ばかり書いてきたが、勿論思い出に残る好い出会いも有る。カモシカの項でも書いた五月の南アルプス遠山川易老沢。林の中で戯れていたつがいの鹿が、私の近づいてくるのに気付いてサッと逃げ出した。その尻毛の美しかったこと。ピンと四方に広げた純白の毛は、まるで大輪の花のようだった。
 秋の大峰池郷川源流。会社の仲間と尾根を目指して、石楠花のブッシュを登っている時、美しい鳴声を聞いた。「鳥やろか?」「なんか獣のようやな。」「アッ、そうや、鹿やで。」−奥山の紅葉ふみわけ鳴く鹿の声聞くときぞ秋は悲しき− 別に悲しくはなかったが、深まりゆく秋の気配をしみじみと感じたのであった。
 ようやく楓の葉の色づきはじめた安芸宮島。妻と紅葉谷を弥山を目指して登っている時、前方から牡鹿が角を高く掲げて駆け下りてきた。狭い山道は逃げる余地も無い。立ち尽くす私たちをかすめて、鹿は駆け抜けていった。ただそれだけのことでは有ったが、すれ違った時の鹿の眼は、私たちを一顧だにせず、前方の唯一点を見詰めているかのようであった。あの鹿は何を思っていたのだろう。



 箕面。猿に恨みは数々御座る。次男のチョコマカしているのに比べ、長男はおっとりしているので、小さいとき2度も猿の被害にあった。一度はアイスクリーム。二度目は缶ジュースである。二度とも、滝の所で手に持っているのをひったくられた。コラッ、と怒ると、歯をむき出して逆に威嚇してくる。また一度は、政の茶屋でバーベキューをやっている時、ちょっと目を離したすきに大きな柿を一個盗られた。まるで猿蟹合戦である。あの当時は、滝壷の辺りから、ドライブウェイにかけて猿がウジャウジャいた。人と猿が混じり合っていた。じゃれ合っている子猿達、子供を抱いた母猿、車の屋根でノンビリ日向ぼっこのお父さん猿?。悪戯が目に余ると、近くの店舗や観光客からの苦情もあったようであるが、それはそれとして目の前で猿の生態が観察できて面白かった。
 近年、あの辺りに出没する猿がめっきり減った。何年か前の夏、会社を訪れたドイツ人3人を案内して箕面に行った。ドイツでは野生の霊長類など見る機会はないから、珍しがるだろうと思ったからである。ところが滝の辺りにもドライブウェイに上がっても一匹も出ていない。さらに山の上へと登ってみたが、とうとう猿に出会うことは出来なかった。猿を山に帰す活動とやらが行われているようであるが、手荒なことがされてなければいいが。元々、人が餌付けをして誘き出した猿である。また、人の勝手で山に追い返されようとしているが、これだけ増えた猿口は自然の中では維持できまい。少々の悪戯には目をつむって、以前のように猿と人とが混ざり合う場所となるのも楽しいのではなかろうか。
 私は四国の山中に育ったが、子供の頃野生の猿を見た憶えがない。剣山系に猿がいない筈はないので、当時は山中に食料が豊富であまり人里近くには出てこなかったのだろう。最初に猿を見たのは、高校生の時、一人で讃岐山脈の東端にある大麻山を越えて鳴門の海岸に出るハイキングを試みたときのことである。谷あいの道を歩いている時、頭上の木がザワザワと揺れているのに気がついた。よく見ると、猿が数匹遊んでいた。これが野生の大型哺乳類を見た最初だったと思う。大変印象に残っている。
 以来、山中で度々猿は見掛けるが取りたてて書くほどの印象はない。ただ、黒部下廊下を歩いている時、道沿いの低木に猿が二十匹ほどズラリと並んでいるのに出くわした。引っかかれないか、青柿でも投げつけられないかと気味悪かったが、「御免なすって」と前をコソコソ通してもらった。


イノシシ
 長年山を歩いているが、歩いていてイノシシに出くわしたことはない。能勢辺りの山中でもよくイノシシのノタ場を見かけるし、能勢から篠山にかけてはボタン鍋の盛んな所ではあり、また冬だけ営業のイノシシ肉専門店にはいつもイノシシが吊るされているところを見ると、沢山いるのだろうが、夜行性のためか見たことがない。ただ、有名になった六甲山麓のイノシシはハイキングの途中見かけたことがある。
 2000年の九月、会社の同僚N, 山の相棒Oと車で福井山中へ出かけた。山の中のダム湖で、カヤックを浮かべて岩魚でも釣ろうかと云うのである。薄暗くなって、キャンプサイトへと車を走らせていると、前方の路上に何か小さな生き物が数匹ウロウロしている。よく見ると瓜坊である。体長3,40センチの瓜模様の縞をはっきり付けたのが5,6匹、車の前のアスファルトの路上をトコトコ走る。可愛いい。早く逃げないと、今晩のバーベキューにするぞ。十米程も車の前を走って、やっと林の中へ逃げ込んだ。幸い母イノシシは現れなかった。飛び出してきて、車に体当たりでもされると、厄介なことになる可能性がある。


三度目の熊
 つい先日熊に追っかけられた(2000.10)
 山に行き出して、ちょうど40年になるが、熊に出会ったのは数えるほどしかない。大学5年の夏には、同級生と北海道の山を歩いた。大雪の白雲石室のノートには「外をヒグマがうろついているので、一日中、外に出られない」などと書いてあって、スリルを感じたものだった。「向こうの尾根にいるヒグマだったら、見たいなー」 呑気な事をいいながら、日高の山を登った。日高山中で、福岡大学の3人の学生が羆に食われる悲劇が起こったのは、たしかそれから二年後のことであった。以後、北海道の山は慎んでいたが、ヒグマとは違って、本州以西に生息するツキノワグマは性格がおとなしいとされているので、あまり気にせず単独行をやっていた。
 最初に熊と出会ったのは、南アルプス南端の京丸山である。ここは幻の花・京丸牡丹や隠れ里伝説で有名な山で、以前から狙っており、三月末の東京への出張にリュックを担いで出かけた。竜馬ガ岳でビバーク、高塚山から西へ、京丸山まで縦走を試みたが、残雪とブッシュに阻まれて、無謀にも沢へ下った。何度か雪解け水の淵に飛び込んでガタガタ震えながら沢を下降し、植林と踏み跡に出会ってほっとした時、近くでガサガサと音がした。見ると黒い尻が、茂みの中へと消えて行くところであった。
 二度目は、夏の上越国境・平が岳である。利根川源流の水長沢を遡行して、三日目に頂上に辿り着いた。前の晩、あまりに天気が良いので、テントも張らずにシュラフにくるまっていると、夜中に何物かに足を踏まれた。熊なら足が無事に済むとは思われないので、これは鹿かカモシカだったのだろう。さて、たった一人の天上の楽園をまる一日十分に満喫して、奥只見・鷹ノ巣へと下る途中である。登ってきた単独行者がこの下で熊にであったと言う。ためらったが、下らざるを得ないし、多分もう行ってしまっているだろうと、いつもの癖で強いて楽観的期待をやった。10分も下った広い笹原のなかの登山道を歩いている時である。10メートルほど先で、ガサガサと音がするや、ものすごいスピードで一直線に笹がわれて、あっという間に向こうの丘に消えた。呆然!! 姿は見なかったけれど、すごい迫力だった。
 三度目の今回は、何と舗装道路上での出会いである。伊吹山一周サイクリングを試みた。関ケ原に車をおいて、長浜から木之本へと向う。金居原から土砂降りの八草峠を越える。トンネル工事で一年間通行止めであるが、自転車なら越えられるだろうと、たかをくくってゲートを押し通る。雨と休日で人は誰も居ない。難なく通れる。シコシコと峠へ漕ぎ上がる。峠から岐阜県側の広瀬まではスリップしない様にそろりそろりと下る。広瀬でようやく晴れて、気分よく快走する。揖斐川本流で国道と合流するが、車を避けて対岸の道を走る。昼は大分過ぎているが、どこかでヤナを見つけて、昼食は鮎と心がはやる。西津汲の九戸坂という部落に近づいた時である。緩やかな下りを走って行くと、20メートルほど先の崖の下に黒いものが二つ動いている。犬かな、いや熊だと気づいた時はもう10メートル。2頭の仔熊が道端の草むらでガサガサやっている。仔熊と言っても、芝犬などよりはずっと大きい。反対側を走れば、通り抜けられる。引き返すよりは、早そうだと例の楽観癖。母熊はいないのかなとフッと頭をよぎる。仔熊が自転車の近づくのに気付くと、グウォーと仔熊のくせに迫力のある唸り声を挙げて自転車と併走する。その時である。自転車の真横の3,4メートルほどの崖をダッ、ダーと大きい黒いものが飛び降りたのか、滑り降りたのか、とにかく下りてきた。ヤバイ。親熊だ。必死で漕ぐ。数メートル追いかけた様子であったが、こちらは後ろも見ず一目散に駆け抜けた。そういうわけで、親熊の姿はしかとは見る事が出来なかった。数百メートル程行った農家で老夫婦に警告すると、車道にまで出てくるとはと驚いていた。しかし、もし親熊が初めから道路にいたらどうなっていたか、前方に飛び降りられていたら? イヤイヤ、もう考えまい。もう一度、路上で熊に遭うよりも交通事故に遭う確率がずっと高そうだから、そちらの心配の方が大事だ。


 カワネズミ
 大峰池郷川。上流にとても美しい花崗岩の長い滑がある。ここで水に飛び込んで泳いでいるのを見た。水中では、毛に細かい気泡をまとわせているため、それが日を受けて銀色に輝いて、宝石で出来た動物のようであった。もぐらの仲間ということだが、結構すばやい。アメゴ釣の最中だったが、餌のミミズを食われると鉤を外すのが厄介と、慌てて竿を引き上げた。


 ナキウサギ
 日高山系ポロシリ岳七つ沼カール。コースを間違えて人の背を超すハイマツのブッシュに突っ込み、枝渡りでようやく辿り着いた。北海道のハイマツは這っていなくて、威張って立っている。夕方、「キチー、キチー」と鳴声がする。見ると近くの岩の上にいた。すぐにナキウサギだろうと分かったが、耳が長くないのでウサギには見えない。一見ネズミに見えるが、顔はたしかにウサギ顔だ。


 オオカミ
 勿論、見たことがない。1963年、大学2年の秋、初めてビバークした。紀州護摩壇山である。当時はまだ高野竜神スカイラインは無く、三日歩いて人には誰も出会わなかった。その日はシトシトと秋雨が降っていた。ツェルトなど野営具はまだ持っていなかった時期で、雨が降ったらポンチョを屋根にして寝ようと思っていたのであるが、幸い杉皮の屋根を片流れに付けた樵の休み場に行き合った。ちょうどシュラフを広げる分だけ雨を防いでくれる。初めて一人で寝る山の夜はさすがに恐かった。廻りに身を防いでくれる壁はない。鉈と懐中電灯を胸に抱いてシュラフに潜り込んだ。この時、思った。「紀伊半島は日本オオカミが最後に捕獲された場所である。今でも残っていて、この辺をうろついているかも知れん」と。深夜の山中、万物は決して眠っていない。結構、音がする。小動物が動き回っているようである。「ガサッ」、鉈を掴んでパッと懐中電灯を照らす。何もいない。こんなことを2時頃までやっていた。


キジ・ヤマドリ
 ご存知か、数年前まで
豊中市内に野生のキジがいたことを。中央環状線沿い、モノレール小路駅の北側は、以前は畑、水田、林が広がり、中に溜め池があり、自然が豊かに残っていた。野鳥も多く、溜め池にはカモが飛来してきていた。カワセミを見かけたこともある。娘が小学2年生の時、小犬を拾ってきた。なかなか可愛いい柴犬だった。娘はチップと名付けた。飼うにあたっての「面倒を見る」との娘の約束は当然ながら一ヶ月も経たないうちに反古となった。それで、早朝の犬の散歩でこの辺りを歩くようになった。ある朝の散歩の時、雄キジが横の畑を横切って前方の雑木林の中へとピョンピョンと走っていった。私は一瞬夢の中にいるのかと思った。こんなところにキジがいるとは考えてもいなかったから。つかの間の強烈な印象だった。数年後、薮を掻き分けて雑木林の岡に登ってみた時、キジがパタパタと飛び出して逃げていった。やはり、ここにはキジが住んでいると確信した。近くに巣があったのかもしれないが、そっとその場を離れた。
 現在、この場所は開発されつつあり、フェンスの隙間から垣間見る風景に昔の面影はない。
 子供の頃、父が開業医だったため、一冬に1,2度は患者さんからキジやヤマドリの到来物があった。その日はすき焼きである。脂身の少ない野鳥の肉は少しパサパサして、子供にとって牛肉ほどには喜ばれなかったが、肉などめったに食べられない時代だったから嬉しかった。かみ締めた歯に、鉛玉が当ったりして。キジよりもヤマドリの方が旨かったような記憶がある。


ヤマセミ
 山間の清流にしか棲まない。幻の鳥と言ってもいいだろう。たった一度だけ見たことがある。
 秋田、雄物川支流皆瀬川のそのまた源流虎毛沢である。小安温泉から相棒Oと一日歩いて、川原にテントを張った。広い川原に清流が流れる。早速、晩飯のおかずをと竿を出す。流れに近づいた時、前に岩に音もなく一羽の鳥が止まった。ヤマセミである。カワセミと同じようなものと思っていたが、意外と大きい。2,30センチはある。白と黒の縞模様は鮮やかで、鋭い目は猛禽であることを示している。神秘的な威厳がある。相棒を呼ぶ間も無かった。あっと云うまもなく飛び去った。
 二日後、滝から滑落して骨折した。あの鳥は不吉の予兆だったのかしらん。後から思うと、確かにそんな雰囲気を持った鳥だった。


カラス
 賢いというか、悪知恵がはたらくというか、結構恐い鳥である。会社の同僚が駐車場に車を止めたちょうどその時、カラスが車に糞を落とした。腹を立てた同僚はカラスに向かって石を投げつけたらしい。勿論当りはせず、カアッと飛んでいったそうであるが、オフィスの方へ歩いていると、さっきのカラス?が飛んできて、小石をポトンと側に落としていったそうである。
 会社は
川西市の山間、多田神社の近くにあるが、猪名川の川岸の竹薮が烏のねぐらになっていて、夕方になると四方から帰還した烏がねぐらに入る前にグループ毎に周囲の高い建物に集合する。会社のビルの屋上も格好の集合場所となって、多い時は百羽以上が集まっている。見渡すとどの建物の上にもカラスが群がっており、壮観なものである。
 私は一時、東海自然歩道を歩こうとしたことがある。第一回は自宅を出て、箕面から高槻摂津峡まで。第二回は続いて京都高尾まで。これらは昼間歩いた。次からは夜どおし歩こうと、第三回は午後高尾を出発して、鞍馬、大原から比叡を縦走し、翌日の昼前に逢坂の関まで着いた。この時は、深夜比叡山廻峰行者に出会ったり、払暁の延暦寺浄土院での勤行を覗いたりで面白い山行だった。これに味を占めて、第四回も夕方、逢坂の関を出発した。すぐに音羽山の登りである。頂上に着いた時は初冬のこととて、もう日はとっぷりと暮れていた。東海自然歩道はよく整備されているので、夜中でもほとんど懐中電灯を点けずに歩ける。降りに掛かると、道はやがて松林の中へと入っていった。ふと上を見ると、松の枝にはギッシリとカラスが群がっている。カラスのねぐらに突っ込んだのだ。見渡すと周りの松の木には数知れぬカラスの大群が異様なほど静かに止まっていた。時々パタパタと羽音を立てるだけである。ヒチコックの「鳥」の恐怖の場面が思い浮かぶ。恐かったが、行くも帰るも同じである。息を潜めて通り抜けた。この時は結局、信楽を経て柘植まで到着した。私の東海自然歩道挑戦はここでストップしたままである。


ヘビ
 子供の時から、蛇は苦手である。四国の山育ちであるから、蛇はしょっちゅう見かけた。小学校の帰り、悪友達と、日が暮れるまでに帰ればいいと、山野を遊びながら帰った。今の子供と違って、塾などはないし、宿題もあまり真面目にやった記憶はない。こんな子供たちに見つかったアオダイショウは迷惑である。石垣の中に逃げ込もうとしているやつの尻尾をつかんで、力任せに引きずり出し、そのままクルクル頭の上で回転させ、遠くへ放り投げる。近くに女の子の一団でも居ようものなら、そちらに向って投げつけて悲鳴を挙げさせて喜ぶ。アオダイショウにしてみれば、それでもその場で石や棒で叩き殺されるよりは生き延びるチャンスがあるだけラッキーである。
 私にはこれが出来なかった。あの爬虫類独特の冷たい不気味な鱗に触れる勇気はなかった。両生類のカエルは平気で触れるのに。
 祖父母の家の蔵の中にマムシの焼酎漬けの瓶があった。祖父が野良仕事への途中で捕らえたものだそうである。小学校へ入る前は、これがあるために蔵の中へ入るのが恐かった。
 当時の農家には大抵ネズミトリと呼ばれる蛇が巣食っていた。首から腹にかけて鮮やかな黄色をしていた。祖母の家にも、これがいて納屋の縁の下などで時々見掛けた。いつも夜の屋根裏はネズミの運動会であったが、時にはひっそりとして、天井裏をザーッ、ザーッと音がしている時があった。添い寝の祖母が「あれは、ネズミトリが這っている音じゃ」と教えてくれた。
 やはり、少年の頃。田舎であったが、時々大道芸や物売りがやってきた。印象に残っているものが二つある。第一は山伏。その山伏はそこらに転がっていた50センチほどの長さの割り木に一端に、これまた近くにあった、重さ10キロもあったであろうか、石を縛り付け、ヤッ!との気合とともに立てた。山伏が手を放しても、その木は倒れもせず、重心を保って立っていた。第二は、薬売りでマムシに噛まれた時の薬を売っていた。当時、私たちの田舎ではマムシのことをハメと呼んでいた。「喰(は)む」から来ている言葉と思われるが。その薬売りは親指をきつく紐で縛り、10匹ほどのハメがたむろした籠から一匹を取り出し、首を掴んで口を大きく開けさせ、その鋭い牙で親指を噛ませた。親指は見る見る腫上がった。薬売りは薬を取り出すと、その指に塗った。すると、親指はたちまち元の状態に戻った。今考えると、これなどはインチキに違いないが、私たち悪童どもは口をポカンと開けて見ていた。
 山を歩いていると、蛇に出会うのは日常茶飯事のことである。木の根などを蛇と間違えてドキッとしたことも数え切れない。何時のことであったか、大台ケ原東の川を遡行しようと、林道を下りて川原を歩き出した時のこと。10米毎に蛇が日向ぼっこをしている。ヤマカガシである。蛇嫌いの私は急に元気がなくなった。しばらくの間は遡行を続けようか、このまま帰ってしまおうかと考えながら歩いたものだった。
 どこの沢だったか? 対岸へ渡りたいが、濡れるのがいやでルートを探していたら、飛び石伝いに対岸へ辿れる場所を見つけた。ピョンピョンピョンと飛んで向こうの大岩にすがり付くとオーケーだ。ピョン、ピョン、ピョン。ソレッと大岩にすがり付いた時、鼻の先にとぐろを巻いて日向ぼっこをしていたマムシがニョキッと鎌首をもたげた。目が合った。ワッと夢中で飛びさがったが、腰まで水の中。元の岸に逃げ帰って、悔しくて石を投げつけてやった。
 昔、先輩に「ワシは××大学下山部や」と言った人がいたが、私もそんな感じだった。ガイドマップに書かれているコースタイムは、登りはキッチリその通り掛かったが、下りは半分ぐらいの時間しか掛からなかった。今の私には、そんな事が出来たということ自体が信じられないのだが、二十代の時は荷物を担いで山道を走り下りることが出来たのだ。膝の柔軟さの問題だろう。さて、これはそんな若い時の話である。ある小雨降る五月、大台ケ原近くのサンギリ峠から河合までの山道を例によって走り下りていた時、前方の山道の真ん中にマムシがとぐろを巻いているのを見つけた。しかし、もう止まれない。スピードをつけて飛び越え、夢中で二十米程駆け抜けた。止まって振り返ると、蛇も何があったのか分からなかったかのように、鎌首をもたげてこちらの方を眺めていた。
 これは大峯での話。一人で池郷川を遡行していた。池原から、ダムへの取水口までは涸谷となっておりどうということのない沢であったが、それからが大変であった。ゴルジェ帯に入り、しばらく頑張ったが、行けども行けどもの厳しいコースに意気阻喪した。「コリャ、手におえる沢ではないわ。」と、中腹の山道へ逃げた。当時はまだ林道は峠まで通じていなかった。山道を源流へと向かっていると、途中で出会った山仕事の人に尋ねられた。「あんた、蛇取りか?」!!!  まあ、こちらも普通の姿ではなかった。ボロボロのキスリングにダンボールを積んで、下界では着られなくなった古着に地下足袋、草鞋ばき。相当にむさ苦しい姿であった。蛇取りなんて商売があるとは考えもしなかったが、蛇嫌いの小生が選ぶ最後の職業だ。
 山ではないが、もう一つマムシの話。××大学医学部の動物舎でマムシが見つかった。当時市内にあった医学部の屋上に動物舎はあった。大正時代に建った建物は、昭和の終わり頃はもう魔物が棲んでいてもおかしくない状態であった。今の近代的な動物実験施設を想像してもらっては困る。まさに動物小屋であった。ラットが韓国出血熱に感染したこともあった。さすがに冷暖房はしてあったので、冬には浮浪者が潜り込んで生活していたこともあった。ここを見つけたマムシにとってはまさに楽園だったに違いない。年中温かいし、ケージの中の動物には手が出せないにしても、逃げ出したマウス、ラットがそこら中にウロウロしていた。その頃、同じ五階にあった私たちの研究室でのこと。屑箱のゴミを集めて、大きなビニール袋に入れた時、気がついた。20センチ足らずの小蛇が袋の中に混じっている。よく見ると、小さいながら三角形の頭をした立派なマムシである。これは動物舎のマムシの子供だろうということになった。しかし、親マムシはどうやってこんな高い所まで登ってきたのだろう。外の雨樋でも伝って登ってきたのだろうか。

百千鳥(ももちどり)
  五月のゴールデンウィーク、大峰・大台の沢の遡行。花崗岩の岩肌に新緑が映える。渓に枝を垂らした石楠の花が水面に写る。もう水も温んで、徒渉が気持ちいい。流れの中をアマゴの影が走る。今夜のおかずはアマゴの塩焼にするぞ。
 流木を集めて、川原でたった一人の豪勢な焚き火。火の周りには、串に刺したアマゴ。いつもせいぜい2,3尾だが、一人にはそれで十分。ウィスキーをチビリとやる。見上げると、両岸の岸壁に挟まれた小さな空には降るような星々。明日も天気は心配なさそうだ。
テントの中で目を覚ます。少し明るくなってきたかなと思うが、まだ起きるには暗すぎる。また少しウトウトする。
 突然、テントは小鳥の囀りに包まれる。渓にいる全ての小鳥が鳴いているかのようだ。といって、私には鶯の声ぐらいしか聞き分けられないが。数分経つと急に鳴きやんで、また渓はもとの静寂を取り戻す。それと同時に辺りは明るくなる。あの囀りが日の光を呼んでいるようだ。さあ、朝飯の支度だ。

 三月下旬、岡山県日生、鹿久居島に隣接する小島、鶴島の朝。昨日、仲間三人とカヤックを漕ぎ出して、島の浜でキャンプをした。昨夜は漁港の市で買った牡蠣、ニシガイ、シャコなどのバーベキュー。大分飲んだ。
 寒い。シュラフの中まで寒気が沁み込んでくる。寝られない。夜の明けるのが待ち遠しい。
 明け方、突如として起こる鳥の大合唱。アレッ、ここでは鶯にカラスの声まで混じっている。眠たい、もう少し寝よう。

 四月、大峰和佐又山。小屋への沢道を、山菜を採りながら辿る。途中で道と別れて、涸れ谷を詰めて行く。曇り空で少し肌寒いが、しばらく登ったところで、苔むした岩に腰を下ろして休憩する。辺りの木々はもう大分芽吹いてきている。音一つしない静かな谷だ。
 その時、雲が割れて、辺りに日が射した。次の瞬間、私は一斉に起こった小鳥の囀りに包まれていた。こんなにたくさんの小鳥たちが周りの木々に隠れていたなんて。私はめしいだったのか。まるで小鳥たちが湧き出てきたようだ。ひとしきりの囀りの後、日の陰りと共にまた谷は静かになった。
 春の季語に「百千鳥(ももちどり)」というのがある。春の野山での多くの小鳥のさえずりを総称していうらしいが、まさにこの情景は百千鳥の言葉にぴったりだと思った。

     入り乱れ入り乱れつつ 百千鳥  子規
     百千鳥 なかに男の子の声すなり 川崎展宏

 しかしながら、俳人、禿羊はまだあの時の感動をものに出来ていない


北海道の動物たち
尾白鷲
今年(2001)の夏、北海道サロベツ海岸の夕暮れ。北海道サイクリングの一夜をここにテントを張ることにする。海岸に下りてみると漂流物の山で少しガッカリ。ゴミを掻き分けてテントを設営する。夕晴れであるが、あいにく海上には靄がかかっていて眼前にあるはずの利尻島は全く見えない。
夕食用のビールは何処まで買いに行かねばならないのかなどと考えながら、腰を下ろして一休み。
ふと、340メートル先の枯れ木の上に大きな鳥がいるのに気付いた。2メートル程、砂から突き出た流木の上に留まって、鋭い目で海上を見渡している。色は茶と白のまだらで全体に薄茶色に見え、何か襤褸を纏っているかのように見える。海上の獲物を探す目は猛禽の迫力十分である。鳶か鷹かと思ったが、いかにも大きすぎる感じである。ひょっとしたらと思ってカメラを構えてそっと近付く。あいにくカメラは他愛ない望遠付きの安物のバカチョンである。せめて10メートルまではと思って忍び寄るが、残念!! 鳥は大きく羽を拡げて、海岸の後ろの松林の方へと飛び去った。その時真っ白な尾羽をはっきりと見た。
尾白鷲だ!!! 感激!!!

キタキツネ
小生、まだホンドキツネも見たことなかった。
「尾白鷲」と同じ、北海道サイクリングの途中。朱鞠内湖から美深町へと向かう。美深峠の下り、広大に樹林帯を見下ろしながら快調に走る。道ばたに茶色い動物がチョコンと座ってこちらを見ている。キツネだ。
「道路に出てくると危ないよ!!」

狩勝峠へと向かう新得町の国道。早朝。路上にキツネが横たわっている。昨夜、車にはねられたようである。
「ホラホラ、いわんこちゃない。かわいそうに」

前の北海道サイクリングからちょうど2年後(2003.09)、今度は渡島半島を一週間サイクリングした。終わりに積丹半島神威岬についた。ここの観光客用の駐車場にキタキツネがウロウロして客に食べ物をねだっている。落ちぶれたものだね。野生の誇りはどうした。
その夜は、積丹岬のキャンプ場へ。管理人のお姉さん、「履き物はテントの中へ持ち込んでおいてください。キツネが持ってゆきますから。」 夜、食事をしていると確かにキツネが現れた。テントの周りをウロウロとして、何か食べられそうなものがないか狙っている。
翌朝、数十メートル離れた草原でつがいのキツネがじゃれ合っている。ジャンプ。体高の三倍ぐらいは飛び上がる。のどかなものだ。

エゾジカ
知床半島にはほんとにウヨウヨいる。国道沿いに出て悠々と草をはんでいる。
知床ウトロの国設知床野営場にテントを張る。ここは眼下にウトロの港を見下ろす夕陽の丘にあって風光絶佳の地である。十頭ほどのエゾジカがキャンプ場の草を食べている。驚かさないようにとそっと近づいて写真を撮る。

夕食の支度をしていると、シカたちがテントに近づいて、傍らの草を食べだした。すっかり人に馴れている。
オイオイ、これじゃ、奈良公園のシカと同じじゃないか!!

クマゲラ
ウッフッフ、遂に見た。
温根沼から雌阿寒岳に登り、雄大な眺望を十分に楽しんだ。その下りである。キャンプ場の近くまで下りてきて、エゾマツやらトドマツやらの樹林帯の中を歩いていると、コーンコーンとのんびりしたリズムで木を叩く音が聞こえた。キツツキのドラミングかなとは思ったが、日頃近畿の山で聞き慣れているハイピッチのリズムとは全く異なる。
藪を掻き分けて音のする方へ近づいてゆくと、太い枯れ木の上の方に頭の赤い巨大なキツツキがいた。
クマゲラだ。
しばらく感激してみていると、ヨタヨタと歩いて木の裏側にまわって、それから飛び去った



足踏んだのは誰だ?
 この話は、何ものかは判らないが獣であることはたしかだ。
 十五年ほど前の夏の話。赤城山麓での研修に参加した時のこと。こういう時は後に必ず休暇を取って、山へ行くことにしていたので、山道具一式を持参しての研修参加である。終了後、荷物は仲間に託して、利根源流水長沢から平ヶ岳を目指した。
第一日目は、矢木沢ダム湖畔にてキャンプ。次の日は快晴ながら、延々とダム湖畔の元林道を歩く。元は林道だから平坦であるが、山の襞をクニャクニャと丁寧に辿ってゆく。おまけに藪がひどくて、ほとんど踏み跡に近くなっていた。林道が終わって尾根を一つ二つ越すと水長沢の出合である。出合から23時間遡ったところで夕方となったので、林の中の少し平らなところをキャンプサイトにする。見上げると空は快晴である。万に一つも雨の可能性はないので、ツェルトは下に敷いて寝ることにする。ツェルトをきれいに張るのは案外と面倒なのである。それに星を眺めながら眠りにつくなんてロマンチックではないかなどと柄にもないことを考えて、シュラフにもぐり込む。
 真夜中。
 「アッ、痛たー!! 足を踏まれた。」
 慌てて懐中電灯をつけるが、もう何もいない。
 何に踏まれたのだろう? あの痛さは、兎や狸ではあるまい。といって、熊なら足が折れているかも知れないので、まあ、鹿かカモシカぐらいだろう。それにしても人が寝ているのに気が付かないとは、鈍な獣ではないか。また踏まれてはかなわないので、渋々起き出して、ツェルトを張り直した。
 翌日は無事平ヶ岳山頂に到着して、平ヶ岳のキャンプサイトにツェルトを張って、一日山頂の草原を独り占めにした。当時は百名山ブームなんて無かったので、こんな辺鄙な山は静かなものだった。
 その翌日、熊にであった話はもう紹介済みだ。



若狭のオオワシ
 2009年の二月、高島トレイルから三十三間山にかけて2泊3日で縦走した。最後の日、三十三間山の頂上から南へ轆轤山の坊主頭に向かって下っているとき、ふと上空を見上げると三十三間山の頂上辺りに巨大な鳥が旋回している。鷹かと思ったがはるかに大きい。どう見てもワシだ。羽の先が白い。堂々たる姿である。暫く見とれていたが、やがて山の向こうに消えた。残念ながら、写真を撮ることをすっかり失念していた。
 家に帰って図鑑を見ると、オオワシとそっくりだ。しかし、オオワシなんて知床半島辺りにしかいないのではないのかな。
 数年後、鳥が専門のアマチュア写真家と話をする機会があった。彼は特にイヌワシに興味があるとのことだ。そういえば伊吹山北陵のドライブウェイ沿いには大きな望遠レンズを構えてイヌワシの飛んでくるのを待っているカメラマンがたむろしている。彼はその中のいい顔だとのこと。ふと思い出して、三十三間山の鳥の話をすると、琵琶湖周辺には毎冬オオワシが現れると話してくれた。やっぱりオオワシだったんだ。オオワシは魚を常食とするワシであるが、三十三間山は琵琶湖からも若狭湾からもちょっと離れていて、毎日狩りをするには不便なんじゃないかな? まあ、ワシなら一飛びか。あるいは、北へ帰る途中に立ち寄ったところだったか。
 2013年11月、魁猿と越前・若狭をドライブしたとき、遠敷川上流の鵜の瀬に立ち寄った。ここは奈良東大寺二月堂のお水取りの儀式の水をここで瀬に注ぐと鵜が地中を東大寺まで運ぶという伝承があり、今もお水送りの儀式が行われている地である。この地はまた、東大寺の良弁僧正の生まれたところとのことである。良弁僧正は赤ん坊の時、ワシにさらわれて東大寺の杉の木にぶら下げられたという伝説で有名である。こんな話は全くの嘘だと思っていたが、思い出したのが三十三間山のオオワシである。鵜の瀬は三十三間山と目と鼻の距離である。奈良時代、この辺りにはもっと沢山のオオワシが飛来していたかもしれない。オオワシは翼を拡げると2メートルを超える。赤ん坊を引っさらってゆくことは簡単だ。当時赤ん坊がワシに掠われたという事件が実際に起こっていたとしても不思議ではない。奈良東大寺まで運ぶことは無理にしても、どこか近くの寺の杉の木に引っかけられて幸運にも助かったのかもしれない。
 

おしまい
ウサギ、タヌキ、オコジョ、北海道でシマリスなどを見かけたが、これは見たというだけで、特に話すほどのことはない。揖保川だったか?の淵で、巨大なネズミが泳いでいるのを見かけた。一瞬、カワウソが生き残っているのかと思ったが、どうも帰化動物のヌートリアだったらしい。


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