ゴミ持ち帰り運動 (12月)

殺人と死刑 (11月)

我が内なる優生思想? (10月)

ジョーク (9月)

少子化と老年化 (8月)

少子化問題−我が家から考える− (7月)

介護老人保健施設にて (6月)

「あるある大事典」事件 (5月)

宋の青磁 −汝窯− (4月)

高齢者の山岳遭難死について考える (3月)

三宅速とアインシュタイン (2月)
「橋本病」と橋本策 (1月)

 

ゴミ持ち帰り運動

 10月末に立山大日岳に登った。コース上にある2つの山小屋はもう冬期休業に入っているのでテントでの二泊三日の単独行である。

 山中ではゴミの処理は出来ないので小さな紙の切れ端まで全て持ち帰るのは当然である。といっても、年寄りの単独行であるから荷物は極力軽量化をはかり、食料は乾燥食品ばかりであるから、ゴミといっても小さなポリ袋一つに入る程度である。

 さて、素晴らしい展望の大日稜線を縦走し、室堂に下りてきて、バスターミナルでゴミを捨てようとするとゴミ箱が見あたらない。仕方がないので、ゴミ袋を持ったまま立山駅までバスとケーブルカーで下る。ところがここにもゴミ箱が見あたらない。富山電鉄のホームに、「ゴミは持ち帰りましょう。この駅にはゴミ箱は設置していません」と書いてある。これには少々頭に来た。「おいおい。せっせと観光客を呼んでおきながら、ゴミの処理はお断りとはちょっと身勝手すぎはしないか。大阪まで持って帰れと言うのか。」

 ゴミは結局どこかの自治体や処理業者が処理をしなければならないのだから、これは単に他へのゴミ処理の押しつけに過ぎないのではないか。観光客を誘致する以上、ゴミ収集車の入ることが出来て人が多く集まる場所ではゴミ箱を置くべきだろう。

 結局、JR富山駅のゴミ箱に抛り込むことが出来た。富山のゴミは富山でだ。アッ、これは大阪から持ってきたものから出たゴミだ。でも、富山のお土産が出すゴミは大阪で始末するからおあいこか。

 

殺人と死刑

 少し物騒な話題ではあるが、近頃の報道の論調には違和感がある。

 例えば、殺人事件の裁判の報道では最近は必ずと言っていいほど被害者の肉親のコメントが載せられる。そして、肉親は殺人者に対してだいたい死刑になって欲しいとコメントする。それはそうだろう。私だって、愛する近親者がたとえ相手の過失によって死んだとしても、相手を殺したいと考えるほど怒り狂うだろう。まして、故意の殺人となるとなると尚更のことである。「目には目を、歯には歯を」である。しかし、ちょっと待って欲しい。たとえ殺人者が期待通り死刑になったとして、一時の溜飲は下がるだろうが、それで肉親を失った喪失感が癒されるわけではなかろう。喪失感は別の方法で癒されるべきだ。

 人はいずれ必ず死ぬ。医学的に死の過程は以下の4形態に分類される。

1)急死:急性心筋梗塞、脳出血、事故死など

2)進行悪化死:ガン末期

3)寛解・悪化死:心・肝・肺・腎などの慢性疾患

4)遷延死:神経難病・老衰など

 上記のような例は、1)にあたる。

 2)3)4)においては、患者に対する医学的治療・ケアが行われるが、1)においては肉親を失った家族へのケアが重要とされる。しかし、これが日本では十分に行われていない。

 では、殺人事件と自己責任の事故死や脳出血などで急病死では何処が違うのだろうか。90%無神論者(10%ぐらいは神様がいたらいいなと思っている)である私は、人は死んだらみんな同じく「無」に帰すると考えている。死者に怨念などはない。怨念は遺族が抱くのだ。殺人の遺族は責任を追及すべき対象が存在するが、事故死・急病死の場合は怨念の持って行き場がない。「死」という現象だけから見ると、この違いだけではないだろうか。

 日本の刑法による刑罰は犯罪者の更生を目的としていると、社会科で教わった記憶がある。ハムラビ法典の時代とは違うのである。また、世界の動向は死刑廃止に向かっているように思われる。

 日本の報道は紋切り型の取材で、あらかじめ予想している通りの反応を期待し、それが得られれば安心している節が感じられる。遺族に取材すれば、当然「犯人を死刑にして欲しい」とのコメントが得られ、それをセンセーショナルに報道する。犯罪者の更生を基本とする刑法の量刑と報復を望む遺族の怨念の間にはギャップがある。このような報道が公正な裁判に対して圧力とならないことを望む。

 

 この文章を書いている途中に、小生の同僚のHPhttp://park12.wakwak.com/~pharma1/wak-miki/avenge.html)に似たような意見が掲載されているのに気がついた。ひょっとすると彼との会話の中で話題になって、小生にこの文章を書かせることになったのかもしれない。

 

我が内なる優生思想?

 週に一回、看護学生に「倫理学」の講義をしている。小生が倫理を語るということ自体がもうお笑いの領域であるが、将来看護師として働く学生達に少しでも心に残るものを伝えたいと思うと、おざなりな話も出来ない。

 先日、「優生思想」について話をした。

 そもそも、「優生思想」とは、1883年、ダーウィンの従弟であるフランシス・ゴールトンが提唱したもので、ダーウィンの進化論を人類に応用し、人為的な淘汰に加えることによって人類の遺伝子から不良なものを除去し、優秀なものを増やしてゆき、人類を進化させようとする思想である。非常に結構な考えであるように思われるが、ちょっと考えると非常に大きな問題を含んでいることがわかる。すなわち、不良とされる遺伝子を持っている人は淘汰の対象となるのである。また、社会的弱者などは生存競争に敗れたものであり、当然淘汰されるべきものだから、それを救済する福祉政策などは必要ないということになる。

 20世紀、優生思想の嵐が吹き荒れた。ナチスドイツはゲルマン民族が優生学的に最優秀であるとの考えの下に、ユダヤ人500万人以上を殺害した。他の国々、スエーデンや米国でも優生思想に基づく政策がとられ、精神障害者などに不妊手術が行われた。

 日本も例外ではない。1948年施行された優生保護法の第一条には、「この法律は、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、・・・・・」と書かれており、この法律の下に多くの不妊手術が行われた。本来、遺伝子とは無関係の感染症であるハンセン病患者への隔離・断種が行われたのもこの法律によっているのである。

 優生保護法は1997年、母体保護法と改称され、優生学的見地からの条文は削除されたが、医学・遺伝学研究の発展から優生思想はまた新たな姿を表しつつあるといわれる。

 その一つといわれているのが出生前診断である。両親のどちらかに重大な遺伝疾患の素因があり、出生前診断の結果、胎児に発現していることがわかった場合、中絶するかどうか? 健常な両親でも胎児がダウン症であることがわかった場合、どうするか? いわゆる選択的中絶をどう考えるかである。選択的中絶を行うことは、現にそういう疾患を持っている人から見ると中絶した人たちはその病気の人が生まれるべきではなかった考えていることになる。その人たちが不幸だと考えるのは、普通の生を受けた人の傲慢な思いこみである。

 そういわれても、私個人がそういう場面に遭遇した場合、多分中絶を選択すると思う。遺伝的障害を持った子供を育てることは普通の子供の何倍もの苦労が必要である。子供が自分たちより先に死ぬのを見たくはないし、といって後に残して死んで行くのも心配である。要するに健康で将来自立して行ける普通の子供がほしいのである。

 しかし、障害児は遺伝的なものだけではなく脳性麻痺のように出産時の事故によるものもある。万一、そういう児を持ったとしても、それはそれで可愛がり一所懸命に育てると思う。それが普通の親である。あらかじめ解っているリスクを避けたいだけなのである。これでも優生思想に囚われていると云うのかなー?

 将来、胎児の遺伝子分析を行うことによって、その子の性格、能力など判るようになるだろう。生まれてくる児はどうも学校の成績はビリになりそうだ。どうしよう? ここまで来ると、完全に優生思想の範疇だ。


ジョーク

 今年の春、姪の結婚式が東京であった。例の如く披露宴の席で新郎新婦の友人のスピーチがあったのだが、みんな実に生真面目なもので正直言ってちょっと退屈であった。これが大阪であれば、友人のスピーチはお笑いがあるものと決まっており、スピーチする側も張り切り、聞く側も期待をもって傾聴する。時には張り切りすぎて、ネタが下品となり顰蹙をかうことも多いのではあるが。

 以前、私がよく参加していた医学関係の学会で外国人が講演をするとスピーチの中に一つ二つ軽いジョークをまじえて聴衆の笑いを誘い、緊張をほぐすことが多かった。また、講演途中のアクシデント、照明が消えるとか、スライドが逆さまに映されるなどに対して咄嗟にジョークを出す。これには、あらゆるアクシデントを想定してジョークを用意しているのかと感心する。

 一方、日本人はジョークを話すのも、聴くのも下手である。伝統的にあらたまった場で冗談を言うのを不謹慎と考える文化の下で育ったためだろう。

 政治家の失言問題も多くは不適切なジョークや、ジョークを許さない聴衆の雰囲気から生まれたものだ。「女性は子供を産む機械」という失言で失脚した大臣があった。これも、ご本人はジョークとして言ったのだろう。この言葉だけが取り上げられると相当どぎつい表現だが、こういうものはその場の雰囲気、前後の文脈の中で解釈すべきものだろう。今時の良識ある男性がこんなことを真面目に考えていることは絶対にない。

 こんなことで、国会が空転したり、有能な(?)人物が失脚したりするのは実に空しいではないか。ジョークは不適切であっても、たかがジョークである。反対党も揚げ足取りに時間を費やさず、もっと寛容になってはいかがか。今や政治家はスピーチをするのに戦々恐々をしているだろう。報道もいけない。スピーチの内容がどうであったかよりも、失言がないかどうかを鵜の目鷹の目で探しているのではないか。

 

 

少子化と老年化

 少子化が進むと、人口構成がアンバランスになり、老人が多くなる。これは長寿化によって益々促進される。こういった状況が現在進行中の現象なのだろう。もし、昔のように若い人たちは結婚して2,3人の子供を持つのが普通であるような社会になり人口が増加に転じるとしても、それにはどうしても2,30年はかかるだろう。その間、私たち老人は全人口の中での老人比率の急激な増加のなかで生き、そして死んでゆくことになる。

 老人階層の生活のため、年金にしろあるいは生活保護のような税金の投入、また老後の生活のために預貯金を老人が抱え込んでしまうことでも、結果的には若年層の負担を増やすことになるだろう。

 話は変わるが、私は現在看護学校で「倫理学」の講義を担当している。私が「倫理学」を教えていること自体、正にお笑いであるが、それはさておき「倫理学」の重要な概念の一つに「正義」ということがある。世界的レベル、国家のレベルから個人までいろんな「正義」があるのだろうが、国家のレベルで考えるとそれは政策が国民全体に対して公正であるということだ。

 先ほどの問題で考えると、老年層の福祉と若年層の負担をどうバランスをとるかということになるが、みんなが満足する解決は難しいのではないだろうか。結局のところ、これからの時代、老人は幾つなっても働けるうちは働かざるを得なくなるのだろうが、これは我々老人にとっても望むところではないだろうか。

 我々は老後の幸せを期待して、若い時代を生きてきたわけではない。それぞれ時代の要請の中で精一杯努力して、日々の幸せを実感してきたのだ。父母の世代は戦争の中で、悲惨な体験を世代として共有している。我々世代は日本の高度成長を維持し、充実した成功体験を共有している。それで十分ではないか。

 江戸時代、山間部に小さな村があったとする。そこの農業生産力では百人が食べるのが精一杯だとする。当時、産児制限の技術はないから生まれた子の間引きも行われたであろう。しかし、結局のところ村の維持のためには老人と子供のどちらが犠牲になったかといえば、これは言うまでもないことである。姥棄山伝説や「楢山節考」の世界は虚構ではない。

 私の存在が孫や子供達にとって負担が大きくなってきたとき、無理や贅沢は言っておられない。突き詰めて考えると、そういう問題では無かろうか?

 

 

少子化問題−我が家から考える−

 私の父方の祖母は10人の子供を産んだ。「産めよ増やせよ」の時代であったにしても、さすがに祖母は平均以上に産んだのであろうが、それでも当時としてはそれほどびっくりするほどのことでは無かったのではなかろうか。戦前の家庭の記録を読むと、よく子供が死んでいる。抗生物質のない時代であったから、ジフテリア、肺炎、赤痢など細菌性の感染症による乳幼児の死亡率が高かった。従って、産んだほどには人口は増えなかった。

 私の母は昭和18年生まれの私を頭に4人産んだ。四国の山村であったが、遊び友達の家には3,4人兄弟がいるのが普通であったような気がする。それに当時はむしろ人口増加が問題にされていて、このままではすぐに1億人とか、1億2千万突破とかいわれ、産児制限の必要性が叫ばれていたように思う。

 妻は3人産んだ。三番目の長女が生まれたのは昭和54年であるが、もうこの頃に三人の子供はちょっと多いという感覚ではなかったろうか。大阪近郊のマンションに住んでいた我々は子供が大きくなるにつれ、一戸建住宅を工面して移った。それでも三人の子供達それぞれに個室を与えることは出来なかった。男の子二人は次男が東京の大学へ行くまでは一部屋に抛り込んで置いた。三人子供をゆとりを持って育てようとすると相当なスペースの家が必要である。現在の平均的なマンションの間取りはどうも三人以上の子供を持つことを想定していない様に思われる。

 次男の嫁は2人産んだ。可愛い孫を二人も産んでくれて、我々夫婦は感謝一杯である。孫の数はもっと多くてもいいのであるが、もうこれ以上作る気はないようであるが、今の世情では一所帯に子供二人で十分という気もする。 

 我々が子供の時は、小学校高学年のガキ大将が学校に上がる前の子供達まで引き連れて一緒に面倒見て遊んでいたので、母親はあまり手がかからなかった。もちろん、車の数が少なくて道路上で鬼ごっこなど平気でやっていた。しかし、今の子育ては事情が違う。家の外には危険が充ち満ちていて、母親は一瞬たりとも子供から目が離せない状態である。教育にも金がかかる時代である。三人以上の子供を持つ気になれないのも無理はないのか。

 あとの二人の子供は何時結婚してくれるのやら。もう二人孫がいないと我が家は人口減少に荷担していることになる。

 

 現在、日本の出生率は1.3ぐらいである。1970年代には2を越えていた。僅か340年、ちょうど一世代で日本人の生活スタイル、結婚、出産に対する意識は大きく変わった。もう過去には帰れない。しかし、夫婦が三人ぐらい子供を持つのが常識という世の中でないと日本の人口は維持できない。

 しかし、ひるがえって考えるとそもそも現在の日本の人口は多すぎるのではないか。日本の面積、食料生産力、歴史的人口推移などから考えると、せいぜい5-7千万ぐらいが適正人口ではないのだろうか。別に世界で覇を競ったり経済大国にならなくとも小国寡民の平和な国もいいのではないかと思う。

 

 

 

介護老人保健施設にて

 二年前から三重県の介護老人保健施設(いわゆる老健)で仕事をしているが、最近心に残る事件に遭遇したので紹介する。

 

1)八年間の沈黙

 Nさん(男性)は8年前59歳のとき、くも膜下出血で倒れ、以後ずっと病床生活である。四肢を動かすことは出来ず寝たきりで、言葉を発することもなく、また嚥下も出来ないため、鼻からチューブを入れて胃に栄養液を注入していた。昨年、チューブ交換時に顔を真っ赤にして痙攣状態になって交換が困難になり、昨年胃瘻(腹壁に穴を作りここから胃に直接チューブで栄養液を注入する)を造設した。

 言葉をかけると、こちらの方に目を向け、また表情からこちらの言っていることを少しは理解しているらしい。

 最近、何回か吐血し、内視鏡検査の結果、ストレス性の胃潰瘍だろうと考えられた。

 ある週明けに出勤し、Nさんに「こんにちは」と声をかけると、なんと「こんにちは」と返事をするではないか。小生は一瞬耳を疑った。看護師に聞いてみると、その週末に突然しゃべり出したとのこと。勿論、長い話が出来るわけではなく、せいぜい数語の言葉を話すだけだが、こちらの話しかけに対応してちゃんとした会話になっている。実に8年ぶりの発語であった。

 このことを知ったご家族は勿論大変喜んで、色々話しかけたらしい。「何か食べたい?」と訊いたら、「お酒」と答えたらしい。遠方の娘さんとも電話で話をしたとのことである。

 Nさんは何故、今突然話が出来るようになったのだろうか? 胃潰瘍と関係があるのだろうか? 何か強烈なストレスがかかって、それが意志を伝えたい要求につながり、発語できるようになったのではないかと考えている。

 

2)再会

 Tさんは今年ちょうど九十歳になるお婆さんである。認知症はなく、身体の障害も軽度で所内を老人車、杖で歩くことが出来る。介護する側にとっては、手がかからなくて実に有り難い入所者である。ご主人の遺産で経済的にも豊かなようでずっと個室暮らしである。小生が二年前勤めだしてから直ぐに親しくなり、時々部屋に立ち寄って世間話をする。朝のサイクリングの途上で撮った自宅のある集落の写真をあげたら、大変喜んでくれたのはよいが、お礼の金一封を断るのに苦労した。何でも、氏神さまに立派な賽銭箱を寄付したそうである。

 さて、そのTさんの隣の個室に入所者があった。肝ガンの全身転移で末期状態である。老健施設本来の入所対象からははずれている方ではあるが、現状では手の施しようが無く、何の処置も必要ないというので、ガン性疼痛がひどくなれば病院に帰っていただくということで入所となった。

 Tさんは、その部屋の名札を見て、名前に覚えがあることに気がついた。この方は近郷のお寺の前住職で、今は息子さんがあとを継いでいるとのことである。お坊さんであることがすぐに判る名前である。確か村の小学校の同級生にそんな名前の子がいた。

 それで部屋を訪ねて話をすると、すぐに同窓生であることがわかった。二人は小学校卒業後、それぞれ女学校、中学校へ進み、以来会ったことがなかったので、実に78年ぶりの再会であった。奇遇を喜んで小学校時代の思い出や、互いの身の上話をされたとのことであった。お坊さんはこの頃状態が悪化し始めて、ご自分でも死期の近いことを悟られて、Tさんに「もう、あかんわ」と漏らされたそうである。

 二人のベッドは壁にくっついていたので、「夜中は看護の人が少ないので、ボタンを押してもすぐに来てくれるかどうか判らないので、困ったときはこれで壁を叩きなさい」とTさんはお坊さんに小さな木の棒を渡した。以後、数回呼び出しがあったとのことであるが、そのつどTさんは出かけて面倒を見てあげた。「壁を叩く音が段々弱くなってきた」とはTさんの言葉。

 結局入所後、2週間ほどでお坊さんは亡くなられた。

 Tさんはその後も、元気に所内を歩き廻っている。

 

 

 

「あるある大事典」事件

 どうしてあんな大事件になるのかな? テレビ会社の社長が辞任しなければならないほどのことなのかな? みんな、テレビの放送でやっているああいうたぐいのものはほんの軽い冗談のつもりで見ているものと思っていた。信じるにしても、せいぜいが半信半疑の程度だろう。騙されたとしても、「騙しやがったか、ワッハッハ」と笑い飛ばす程のもので、目くじらたてて怒るほどのものではないだろう。制作会社の方もその程度の意識ではなかったのかな? 誰もが驚く意外な事実なんてものがそんなにあるわけがなく、真面目にやっていてはネタが続かないだろう。

 小生も多少医学の実験や、薬の開発に携わったことがあるが、将来医学上の常識となるような新発見がテレビで最初に示されるようなことは絶対にない。また、動物実験で有効だと示された事実がヒトでも有効である保障もない。そんな事例は掃いて捨てるほどある。小生もある製薬会社で喘息の薬の開発をやっていたことがあるが、モルモットの喘息発作を実に見事に押さえる化学物質がヒトでは有効であるとの証明が出来ず、開発を諦めたことがある。会社は多分数十億円はドブに捨てたのではないかな。

 問題となった番組を小生は見ていないのだが、何でも納豆がダイエットに効果があると主張したらしい。それで全国で納豆が品不足になるほど売れたらしいから、日本人の信じやすさというか、素直さはちょっと驚異的だ。そもそも、何かを食べて痩せるというのはまず眉唾物と考えていい。昔、大宅壮一だったかが、こんにゃくを腹一杯食べて痩せたという話があったが、こんにゃくはカロリーゼロの食品だから確かにこれは痩せるだろう。しかし、そんなことをして健康に良いはずがない。バランスのとれた食事で、徐々に体重を落としてゆくべきだ。

 しかしそれはそれとして、納豆を適当量食べることは多分体に悪くはないのだろう。何百年もの間食べ続けられてきて、経験的に体に悪いという事実が見つかっていないのだから。しかしこれは絶対的なものではない。微量の発ガン物質が含まれていて多量に食べ続けると癌が発生するなどと言う事実が将来発見されるかもしれない。健康のために毎日30種類の食品を摂れというのがあったが、食品の持つリスクの分散の意味でも非常にいいことだ。

 納豆といえば、以前東大の老年内科の教授だった折茂先生が納豆が骨粗鬆症の予防になると主張していた。骨粗鬆症は納豆を常食する東日本で少なく、あまり納豆を食べない西日本で多いのだそうだ。これは納豆菌が作るビタミンK類似物質の作用であるとのことだった。講演を聴いた限りでは説得力のあるように感じたのだが、果たしてどうなのだろうか。本当であると証明されるためにはまだ多くの研究が必要なのだろうが、もう誰もあまり興味を示さなくなったのだろう。

 

 

宋の青磁 −汝窯−

 「雨過天青」、汝窯の青磁の色を表す言葉である。雨が通り過ぎた後の透き通った淡い青空の色、それと一寸の狂いもない美しい形状、それが汝窯青磁を特徴づける。汝窯は宋の哲宗から徽宗の治世僅か20年間、朝廷御用の品を焼くために開かれた窯(官窯)であり、その作品は現在世界に70点前後しか残っていない。

 台湾の故宮博物院がリニューアルオープン記念に昨年末より、宋時代を中心とした特別展を行っており、その目玉の一つとして汝窯特別展がこの春まで開かれている。そこには故宮博物院が所蔵する20数点と他からのものを加えて約30点の汝窯青磁が一堂に会しており、空前絶後の企画といわれている。

 見たい! 先月、エジプト旅行に行ったばかりで、ちょっと気が引けるが、一期一会である。まあ、北海道旅行するのとたいして費用は変わらないと、思い切って出かけた。二泊三日で中の一日は故宮見学にあて、他には何もしないという予定である。

 三月中旬の日曜日、9時の開門と同時に真っ先に汝窯の展示室に駆けつける。展示室の入り口には、清の乾隆帝が作らせた図版が展示されている。乾隆帝もまた汝窯磁器をこよなく愛した一人である。胸が躍る。部屋にはいると、暗い部屋の中に展示ケースが一筋光に浮かび上がっている。一番目の汝窯の皿を見て、思わずドキッとする。直径15センチほどの皿であるが、千年前の空の色を閉じこめて、今我々の心を吸い込んでゆくような色である。細かい貫入がまた、青さを引き立てているようで、凛とした気品を感じさせる。 数点の水仙盆(本当に水仙を飾ったのかな?)の中には、貫入のないものがあり、それもまたえもいわれぬ高貴な色を見せている。次から次へと目の前に現れる磁器はそれぞれ微妙な色の違いがあり、それぞれに心を引きつける。どれも一切模様はなく、形も皿、水仙盆、椀など単純ではあるが気品にあふれている。

 行ったり来たりしてこの部屋で2時間を過ごし、ボーッとなって出てきた。次に行った部屋は元・明の磁器であったが、いつもは素晴らしいと感じてみる青花の模様が今は煩わしい、汝窯の余韻が醒めてから出直そう。

 一日故宮で過ごし、最後にもう一度名残に汝窯を見ると、もう閉館時間である。足が棒になった。

青磁盤

青磁水仙盆

青磁蓮花式温碗

                                    故宮博物院出版 「北宋汝窯特展」より転写 :やはり、実物の色は出ていない

 

 私は焼き物が嫌いでは勿論無いが、といって夢中になるほど好きでもない。だいたい備前焼など見ても、店頭に並んでいる安物と人間国宝が作ったものと区別が付かない。しかし、宋代の青磁だけは別で文句なしに惹きこまれる。端正で気品に満ちた姿、淡く神秘的な色合い。まさに「たからもの」と言う言葉がぴったりである。その頂点に位置するのが汝窯である。

 最初に宋代の磁器を意識したのは、大阪市立東洋陶磁美物館で開催された耀州窯の特別展であった。表面に浅く彫り込まれた花柄模様、それに特徴的なオリーブグリーンの透明な釉がかかり、その濃淡のグラデーションで模様が浮き上がりまことに美しい。

 次に、決定的に惹きこまれたのが、1999年、朝日新聞社の主催で開催された宋磁の展覧会だった。これは素晴らしかった。この展覧会で宋磁がどういうものか理解できた。耀州窯、汝窯は勿論、定窯、鈞窯、南宋官窯、景徳鎮窯、龍泉窯、建窯など、哥窯を除いて代表的な宋磁は全て見ることが出来た。

 汝窯の作品が日本に幾点所蔵されているかは知らないが、少なくとも大阪市立東洋陶磁美物館に一点、素晴らしい水仙盆が展示されている。私にとっては、これが龍泉窯の飛青磁の瓶と共にこの美術館を訪れる楽しみの一つとなっている。

 

 

高齢者の山岳遭難死について考える

 

 少し過激な意見を書こう。

 近年、山の上は中高年の登山者で一杯である。このこと自体は、高齢者が老後の生活を楽しむ余裕があると言うことでまことに喜ばしい。ただ、それに伴って高齢者の山での遭難も増えてきているようである。新聞、雑誌などでは、高齢者の山岳遭難について、警鐘を鳴らす意見をよく見かける。しかし、騒ぎ立てて問題にするほどのことだろうか。

 普通の登山でも、その行為は普通の生活よりは生命に関するリスクは高い。登山を続けていると、どうしても少しでも高いレベルの登山がしたくなる。能力ギリギリの登山をして、さらに能力アップを図るのである。たとえ年寄りの冷や水といわれようとも、一概に非難されるべきものではない。一段高いレベルの登山が出来れば、それだけ素晴らしい山の世界が開けてくるのだから。言葉を変えて言うならば、それは冒険である。危険を冒すのであるから、リスクの高くなるのはやむを得ない。横並び社会の日本では冒険を嫌う。冒険して失敗すると、それ見たことかといった感じの非難を受ける。しかし人間は冒険して進歩してきたのである。冒険精神は大事にしたい。

 では、高齢者が若い人よりも山岳遭難のリスクが高いのだろうか。必ずしもそうは言えないのではないだろうか。それは若い人と競争するような登山をすれば負けるし、危険も高くなる。しかし、高齢者は長い人生、無駄に生きてきたわけではない。海千山千、危険を察知する能力は高く、用心深くなっている。若い人のような無茶はしない。昔、山は若い登山者があふれ高齢の登山者が少ないときだって、山岳遭難は結構多かった。今、高齢者の遭難が増えているのは単に高齢の登山者が多くなったというだけのことではないだろうか。

 話は変わるが、ピンピンコロリという言葉がある。ピンピン元気に生きてコロリと死のうと言うわけである。この言葉、ピンピンはよく解るのであるが、コロリが難しい。医学的にコロリとはどういう死に方を言うのだろうか。一般に急性死といえば、事故死の他、心室細動のような致死性不整脈、脳卒中死などが思い浮かぶ。しかし、脳卒中などは下手をすると長年寝たきりなる可能性の方が高い。また、長生きすればするほど、認知症になる可能性が高く、まわりに迷惑をかけまくることになるのだが、これも自分でどうすることも出来ない。いずれにせよ、元気に十分長生きして後で、コロリと死ねるかどうかは、自分で決められることではなく運任せであろう。

 私の家内は海外旅行が好きなのだが、口癖のように言うのは、「行きの飛行機が墜落して死ぬのは悔しいけど、帰りの飛行機なら許せる。十分楽しんだ後、アッという間に死ねるのだから」 万全を期しての登山でも、リスクはある。その上での遭難死ならば、これはピンピンコロリの一つと考え、もって瞑すべきではないだろうか。

 山岳遭難は、捜索のために迷惑、費用などがかかるという非難があるが、この節、人が死ぬにあたって、まわりに迷惑をかけなくて済んだり、また費用をかけずに済ませられるような死に方が出来るのは希有のことである。認知症や、脳卒中後遺症などで寝たきりになって数年過ごすと、まわりからはもう早く逝ってほしいと思われるようになる。

 人は遅かれ早かれ必ず死ぬ。幾つで死ぬにしても、本人にとっては惚けていない限りまだ人生途上であるとの思いはあるだろう。生き尽くしたと思って死ぬ人はいない。元気なほど、まだまだやりたいことはある。さりとて、自分がいなければ世の中困るというほどの人は少ない。

  そういうことを考えると、まあ遭難のことは余り気にせず十分に登山を楽しみたくなる。



三宅速とアインシュタイン

前回は橋本策について書いたが、今回はその師にあたる三宅速(はやり)について書こう。

同じ徳島県生まれであり、短期間ではあるが私の母校に在職していたこともあり、何となく名前は知っていたが、細かい事績は知らなかった。橋本策の師と知って改めて興味をもって調べてみた。

 四国吉野川は阿波池田で東に折れて、中央構造線にそって徳島市へ向かってまっすぐに流れる。その中間北岸に「うだつの町」で有名な脇町がある。ちょうどその対岸が三宅速の生まれた舞中島である。ここは普段は吉野川南岸と涸れ川で隔てられているだけだが、台風で増水すると忽ち孤立する川中島である。

 三宅速は慶応2年(1866)、代々の外科医の家に生まれ、12歳で上京し勉学に努め、1887年東京帝国大学に入学、首席で卒業する。その後、大学で外科スクリバ教授の助手として研究を続けていたが、老父の懇請によって帰郷、徳島市で病院を開設する(1893)

  しかし、医学研究の志やみがたく、1898年ドイツ・ブレスラウ大学(現ポーランド)のミクリッツ教授の下へ留学する。ミクリッツはウィーン大学ビルロート教授の高弟であり、また現在シェーグレン症候群として知られる膠原病の研究においても先駆的な業績を挙げた外科医である。

 ビルロートといえば、近代腹部外科学の創始者として不滅の名前を残す大外科医である。外科学など全く勉強しなかった私が唯一知っている外科術式の名称は胃摘出のビルロート法である。

 さて、三宅速はミクリッツのもとへ前後2回、約5年間の留学している。そこで身につけたヨーロッパ外科学本流の知識、技術をもって帰国、当時新設された九州大学医学部の外科学教授に就任する(1904)。その後は、その卓越した外科技術で日本の近代外科学の発展に大きな寄与をなした。彼の言葉として「胆嚢摘出はミカンの皮を剥ぐようなもの」が残っている。

 1922年、欧州出張の帰り、訪日途上にあったアインシュタイン夫妻と同じ船に乗り合わせる。船上、アインシュタインが下血し三宅速がそれを診察したことから二人は親交を深め、船旅の間いろんな話題で会話を楽しんだという。在日中に、アインシュタインは三宅の自宅を訪問し、また三宅がドイツ出張の折にはアインシュタインの自宅を訪問し、二人の文通は長く続いたが、第二次大戦により、アインシュタインはアメリカへ亡命し、文通は途絶える。

 1945年5月の岡山大空襲により、三宅夫妻は防空壕の中で死亡する。三宅速、享年80歳であった。

 戦後、夫妻の死を知ったアインシュタインは弔辞を遺族のもとに寄せ、それが墓碑として、先述の舞中島光泉寺境内に建てられている。

    


この記事は、ご子孫の比企寿美子さんをはじめ、さまざまなインターネット上の記事を参考にして、書きました。

 

 

「橋本病」と橋本策

魁猿さんの「折々の記」に感銘を受けて、私もその時々の思いを綴ってみたくなった。さて、どこまで続くか、また他人に読んでいただくだけのものが書けるか分からないが、とりあえず「禿羊:草原の独り言」を開始しようと思います。第一回は少しまじめな話題から。

 伊賀で働き出して、ふとしたことからこの地が「橋本病」の発見者・橋本策(はかる)博士の生誕地であることを知った。それで、今回は橋本先生の紹介をしたいと思います。
 「橋本病」は自己免疫性の慢性甲状腺炎で、日本人の名前が冠せられた病気としては、もっとも世界で知られたものであり、どこの国でもこの名前を知らない医者はいないでしょう。私も「橋本病」は学生のときから知っていたが、この名前の語源の「橋本」については、どのような人物であるかは全く知らなかった。
 先生は明治十四年(1881)、伊賀市郊外の農村、阿拝郡御代村(現在伊賀市)で出生された。代々の医師の家であり、古くからの旧家であったようである。三高から九州帝大医学部に進み、明治四十年(1907)同大学第一回生として卒業、外科学講座に入局された。 
 四年間の在局中に甲状腺に異常な組織形態を示す疾患群に気づき、その病理組織所見を研究しリンパ腫性甲状腺腫と命名し、ドイツの医学雑誌に論文を発表した(1912)。大学卒業後、僅か四年の研究で後の世に残る立派な業績を挙げたことは、彼がいかに非凡な研究者であったかの証左と云えよう。しかし、研究は一つの発見を発展させて論文として完成させる一種の職人的技術であり、大学を出たばかりの人間が独力でできるものではない。講座主宰の三宅速(はやり)教授は、ドイツでの留学先が、後にシェーグレン症候群として知られる自己免疫疾患(「橋本病」と類縁の疾患)の研究において先駆的な業績を挙げたミクリッツ教授の所であり、この方面の知識があったと考えられ、適切な指導があったのであろう(三宅速については、次回にでも紹介したい)。
 1912年から、ドイツへ留学するが、第一次世界大戦の勃発によって、1915年帰国を余儀なくされる。
 帰国後、家庭の事情、地元の人たちの強い要望により、研究を断念して郷里で開業することとなった。先生、35歳のときである。
 こんな農村にドイツ帰りの医学博士が開業したというので、大変な評判となり、大変盛業だったようである。先生自身、人格者であり、また確かな外科技術と丁寧な診察で伊賀一円は言うに及ばす京都、奈良、滋賀県辺りからも患者が来ていたとのことである。
 しかし、往診先でのもてなしから腸チフスに罹患し、1934年に52歳でなくなられた。

 「橋本病」の名前が初めて使われたのは、1939年のイギリスの研究者の論文であり、先生自身は発見した病気に自分の名が冠せられようとは夢にも考えなかったであろうし、日本人が欧米で「橋本病」の名が使われているのに気づくのは戦後になってからである。
 
 以上の事実を知って、私は早速仕事が終わった後、自転車を駆って先生の開業していた場所を訪ねた。当時あった大きな医院の後は(伊賀市御代)、老人ホームとして使われており、また先生の胸像が愛田地区に建てられていた。
          

(資料:伊賀の医事史 北出楯夫編著 阿山医師会発行)