温泉紀行V (2010.12)
近畿には前にも書いたように日本三古湯のうち有馬温泉と白浜温泉があります(もう一つは道後温泉)。有馬温泉は六三一年舒明天皇が滞在したことが日本書紀に見られますが、太閤秀吉が通ったことでも有名ですね。大阪から1時間ですので、日帰りで食事と温泉というのも気楽でいいです。茶色の金泉と透明の銀泉があり、それぞれ金の湯、銀の湯という外湯もあってにぎわっています。
白浜温泉は六五八年に斉明天皇が訪れたとあります。有名な話として、謀反を疑われた有間王子が天皇と中大兄皇子の所まで連れてこられ、帰りに殺されました。古くはムロの湯と言われ、現在この近くに崎の湯という外湯があり、浪打際で潮の香ただよう素晴らしい温泉です。
田辺から中辺路をたどると熊野大社、その近くに湯の峰温泉があり、つぼ湯という二三人入れる岩風呂があり、小栗判官回復の伝説で有名です。この近くには河原から湯がわき冬には千人風呂になる川湯や、大きな露天のある渡瀬温泉があります。また新宮大社、那智大社とたどると那智勝浦の温泉に至ります。
日本海側ではなんと言っても城崎温泉。8世紀ごろから歴史に現れてくるらしく、柳並木の川に沿う7つの外湯周りが有名です。電車に跳ねられて重症を負った志賀直哉が療養に来た三木屋で書いた短編「城之崎」でも知られています。冬のカニのころがシーズンで、その頃は外湯も満員札留めになるとのことです。
北アルプス(1) (2010.10)
学生時代はもっぱらブッシュをやっていたので北アルプスの方にはあまり縁がなく、初めて行ったのは白馬での山小屋建設のボッカであった。このときは親の原からリフトの終点まで運びあげた荷物を、2時間かけて上までボッカした。往復3時間、一日二回の作業を面倒だとばかり倍の60kg担いで登った記憶がある。上の小屋に数日泊まっての作業であったが、みんな朝から丼3杯食べる食欲に米がすぐなくなって、予定外の食料のボッカに励んだものだ。
スキーは親の原にテントを張ってやった。安くつくのだが、夜中になるとしんしんと冷えてきて目がさめその後はまんじりともせず朝を待っていた。こんなスキーを2年続けたが、3年目は出来上がった小屋に泊まって天狗原でということになった。ところが滑り始めたとたん後輩が転倒骨折して、みんなで下まで運びおろすという大変なことになってしまった。ずっと後になって白馬会の人と親の原の民宿に泊まりこの小屋を見に行ったり、八方尾根に遊びに行った。錦秋の蓮華温泉に泊まり、雪の白馬大池で遊んだこともあった。
本格的な山歩きは同僚3人と太郎兵衛平、高天原、雲の平、双六岳と遊んだときであった。記憶に乏しいが、高天原で伊藤新道(湯俣からの道で今は廃道)を登ってきたグループの一人が足を痛めて温泉に浸かりにきていたが、ここまで入ると下に降りるのも大変だといっていた。次の日の行程が雲の平までなので朝湯に入ってごろごろしていたら、小屋番の人に追い出された。雲ノ平の小屋は満員で夜中にトイレに行って帰ったら寝るところがなかった。連日素晴らしい天気続きで夏のアルプスを満喫した。
禿羊とは佐々成政の道をたどろうと、立山から針の木峠を目指した。夜行できて朝早く一の越に登るとき、高山病か頭がぼうっとした。お花畑の五色が原で泊まり、夜の星を見た。黒部湖に下り、平の渡しを船で渡り、黒部川を遡行して奥黒部ヒュッテに泊まった。次の日はイワナ釣りの格好で上の廊下を遡った。淵にくるとジャボジャボと胸まで入ったり泳いだりしていたら、横の壁をへつっている登山者が目を丸くしていた。魚影は濃くなく、たまに大きなのが淵にいて頭のところにえさをぶら下げても釣れなかった。禿羊はフライで多少の釣果があった。明ければ針の木谷を遡り峠へそして扇沢へと下ったのであった。
その後、筑波、東京、松江に移り住んだりして山から遠ざかっていたが、富山市に3年住むことになって北アルプスはぐっと身近な存在となった。県外から客が来るごとに立山室堂に案内していたので十数回は行ったことになる。四季折々の立山を楽しんだ。一度は同僚と立山三山めぐりをして、ついてきた初めて山に行くという人がチロルハットから靴まで新品であつらえたのが、途中でバテて登山はそれきりとういう気の毒な話になった。剣岳には山岳会の人と一緒に行ったが、県警の山岳警備隊に差入れするのだと大きな西瓜を担いで剣沢まで登った。次の日は素人と見られたか一人だけヘルメットをかぶらされて剣に登り、そこから馬場島まで降りたが、あまりにも長い下りに足が棒のようになってしまった。富山市内から見る雪の立山は神々しいほどであった。歌集「白き峰々」もここで生まれた。ヘリコプターで黒部川を河口から遡り、幻の滝を見て、黒部湖、槍が岳を見物したのも楽しい思い出だ。父母が来たとき時は宇奈月からトロッコ電車で欅平、関電の高熱隧道を通る地下トロッコ、そして地下道を自動車で黒部ダムに出たこともある。下の廊下に入るという禿羊を夜の富山で接待したのもこの頃だ。
トンガ島へ (2010.07)
トンガというと、それってどこという答えが返ってくる。巨大な王様、女王様が来て新幹線のグリーンの座席のしきりをはずして座ったとか、相撲取りの弟子が着たとか、ラグビーが強いとか、冬にかぼちゃを輸入するとかしていても相変わらず認知度は低い。1981年に訪問した時の日記を読んでいて懐かしさがこみ上げてきたことと、あまり行った人もいないだろうと思うので梗概を書いてみる。
以前には直通便があったらしいが、このときは先ず成田からフィジーのナンディに4人で飛んだ。朝到着、蒸し暑い。人種は種々雑多。警官の白スカートが面白い。車・電化製品は日本製があふれている。ここから18人乗りの飛行機でスバへ。赤、黄、桃色など美しい花が多い。夕食はイセエビのマリネなど。ホテル横の芝生ではボーリングをしている。黄の嘴で白斑黒色のインドガラスがクーラーのところに巣を作ったのかうるさい。朝食のパパイア・マンゴがうまい。昼の焼き飯は辛かった。以前食人の風習があって博物館に人食い用のフォークが飾ってあった。Why do you speak English so
well? Because we ate English. という話があるそうな。
ここからトンガのヌクアロファに飛ぶ。島はココナツ・バナナの栽培、家は小さく教会は大きい。ホテルは海風の匂う美しいところにあった。市場はタロイモなど主食のイモ類がごろごろしている(写真)。パパイア、パインなどを仕入れる。店の人は気持ちよく挨拶してくれる。その日の夕食は湯麺と老酒であった。次の日は洞窟ダンスを見に行く。砂浜の月がきれいである。豚の丸焼きと砂の中の蒸し焼きのウム料理を食べ、そのあとダンスを見る。女性の踊りは衣装もしぐさも魅力的である。男性の火踊りは見ているだけで熱い。
敬虔なキリスト教国であるトンガは日曜日は店、タクシーなどすべて休み、教会に行く黒服の人だけが目立った。船に乗って小島を訪れる。遠浅の海岸で泳ぐ。水はやや冷たいが、素晴らしく澄んでいて、椰子のある風景は夢の様である。木をたたく合図で昼食、イセエビなど料理はうまい。船で同行した日本人は王子が招待した水産関係の人、王子の教師だった老夫婦など。昼寝は実が落ちてきて危ないので椰子の木の真下は避ける。浜に仕掛けた小さな定置網で少年が魚を取っていた。
港にクルーズ船が入って市が立った。籠、タパクロス(木の皮を叩いてなめしたものに彩色)、黒珊瑚を買う。同行者は土産に木の彫り物を大量に買った。島巡りに行く。新しい保健所、日本の援助で建てた小学校、大コウモリ(flying fox)の村などをめぐる。潮吹き穴は引き潮であまり迫力がなかった。女の子に首飾りを売りつけられる。フランスレストランのロブスターがうまい。10mほどでサンゴ礁になるきれいな浜があった。200m沖にはリーフに波が打ち寄せている。水に浸かっていると魚の様である。7,8人の女の子が水の中で踊りの練習をしている) (写真)。2時間も水に入っていた。貝を少し拾う。
食事はというと、現地の人と中華料理店で13種のコースを食べた事があったが、量が多く、辛く、ヤシ油の匂いが鼻についてあまり食べられなかった。日本レストランが2軒ありスパゲッティとかカレー(ご飯が生煮え)、親子丼などを食べた。ドイツ料理やフランス料理も食べた。大コウモリがいて果実食なのでおいしいらしいが、王様以外は食べてはならない。現地の人の食事はイモ、バナナ、魚である。アルコールは禁止で、飲めるのは一部のレストランとホテルのみ。かわりに木の根を発酵させた飲料を飲んでいる。果物はパパイア、マンゴー、パイナップル、西瓜などどれもうまい。冷やしたココナツに穴を開けてストローで飲むジュースは最高であった。
ちなみに当時のデータで多くの島を合わせて人口は9万人、首都に2万人、トンガ島は車で走れば縦に20分、横に40分。王国にして独裁国、土地は王様から酋長へ、そこから平民へと渡る班田制である。川がなく、天水や地下水を利用する。花は美しいが鳥はいない。町は西部劇の書割風、若者がごろごろしていた。のんびりしたfriendly islandでみんなが挨拶しあう。この国の男性の正装は背広に腰蓑である。女性は腰巻をまいていて、体重が重いほど美人ということになっている。電気のない家では椰子油のランプを使っている。
帰りはニュージランドのオークランドに一泊して帰った。涼しくかつ広々している。朝早く起きて散歩をした。広大な牧場や公園、ジョギングの人が目に付く。そういえばトンガではジョギングなどしていなかった。フィジーのナンディー経由で成田に帰る。同行した先輩はトンガ島の土がサンゴの粉ためかこの数日喘息様の激しい咳がとまらない。
温泉紀行U(ミニ新聞用の草稿)(2010.02)
東北は温泉の宝庫です。先ずは最近訪れた青森県から。霊山として有名な恐山は地獄があるだけに、境内に温泉があります。ヒバの湯船だけの簡素なものですが、泉源が真横にあるので湧きたての湯です。死者は恐山に来ると信じられイタコで有名ですが、昔はこのお湯目当ての人も多かったようです。八甲田のふもとにある酸ヶ湯(スカユ)は混浴の千人風呂があります。実際は100人位入れるでしょうか。http://www.sukayu.jp/touji/index.htmlここには日本混浴を守る会による「お互いじろじろ見ない」などの注意書きがありました。酸度の強いのが特徴で、湯を眼につけてはいけません。
秋田県では秘湯で名高い乳頭峡温泉に真冬に行きました。何箇所かの泉源に旅館が一つづつあり、泊まったのは一番奥の蟹湯。夜中に雪の積もった中を露天へ行こうとしましたが、滑るのとタオルが凍るぐらいの寒さに恐れをなして引き返しました。朝方は寒さも和らぎ、雪を眺めながら広い露天で湯を楽しみました。山登りの帰りに寄った湯沢市の南にある泥湯は近年温泉ガス中毒事故を起こしていますが、湯治用の旅館がずらっと並んだ所でした。風呂で一人のんびりしているとご婦人方がどっと入ってきて出るに出られず困った記憶があります。
福島県には智恵子抄で有名な安達太良山の中腹に山小屋があり、ここが岳温泉の泉源になっています。風呂は粗末なものですが、登り疲れた体には心地かったです。安達太良山の頂上から見る爆裂火口はすさまじく、下りに見たヤシオツツジとコブシは心にしみました。
関東の群馬県には日本一といわれる草津温泉があります。それは何といっても湧き出た湯が滝になっている湯畑の壮観のせいでしょう。樋に湯を流して、沈んだ湯の花を取っていますが、これが白骨温泉に利用されたのは記憶に新しいところ。草津は山の中ですから夏でも涼しく避暑にもってこいのようです。湯もみはしましたが、熱い湯を我慢する入浴法は遠慮しました。信州に抜けるドライブウェイを上がると万座温泉があり、ここの露天風呂から見る山の景色は絶景でした。また東の方には谷あいにひなびた四万温泉があり、四万の病を治すとのことです。このあたりが今話題の八ッ場(ヤンバ)ダムの建設地です。以前は草津温泉の酸性排水によりセメントが腐食してダムが作れなかったのが、排水を中和処理をすることで建設が可能になったと聞きます。
温泉紀行T(ミニ新聞用の草稿) (2009.11)
温泉には休養、療養などの効用があります。日本は世界有数の温泉国で、古くから温泉が利用されています。近畿にも有馬や白浜など千四百年前から記録の残る温泉があり、これと道後温泉をあわせて日本三古湯というようです。ハイキングが好きなこともあり、下山時に温泉で汗を流すのも楽しみです。このごろは温泉だけを目的に信州や飛騨を年に一二回訪れています。
数年前、足を痛めて療養のために乗鞍高原温泉を訪ねました。このときはユースホステルにとまりました。会員とか年齢に関係なく泊めてくれますし、飲酒も自由です。相部屋もいろいろな人と話をできる楽しみがあります。泉質は白骨温泉と同じで白く濁っています。木の風呂に一日数回、四日も入っていると足の痛みも和らいできました。諏訪湖のユースホステル内にもすばらしい温泉があります。
飛騨高山から東に平湯を抜けると奥飛騨温泉郷があります。西穂高ケーブル手前の高台にある中尾温泉ではペンションに泊まりました。林間の露天風呂を鳥の声を聞きながらのんびり楽しみました。宿からは笠が岳がよく見え、西穂高ケーブルで上がると槍が岳、穂高岳が間近に迫ります。ここを基地に上高地と乗鞍岳を訪ねました。
立山室堂平には標高二千四百米以上の温泉があります。バスターミナルに近いみくりが池温泉と雷鳥沢周辺のロッジ立山連峰の湯に入ったことがありますが、山を眺めながらの入浴とその後のビールの味は最高でした。少し歩くと雪渓があり、雷鳥に出会うこともあります。
木曾御岳山の中腹に中の湯があります。針葉樹の中にある百年もたつ小屋で、御岳教信者の登山基地の役目をしています。風呂は木曾ひのき造りの硫黄泉です。一つしか浴槽がないので、扉にかけた札で入っているのが男か女かを見分けます。ここから御岳山に登りましたが、頂上からの景色と下山して入った温泉の気持ちよさは忘れられません。
この夏行った木曽福島の駒の湯には湯治プランがあり、連泊すると割安になりました。標高が千メートル以上だと空気も澄み、温泉と休養を中心に都会の暑さと喧騒を忘れ、あるいは紅葉に包まれて山の温泉でのんびりと過ごすのもいいものです。
白馬会の旅 (2009.09)
昔同じ職場で働いていた連中が、夏に白馬栂池に旅行に行ったことがあった。スキー場の民宿に泊まり、栂池自然園あたりや八方尾根に遊びに行った。なにしろ前世紀のことなので詳しくは覚えていないが、民宿の食事がお粗末で奥ですき焼きを食べている主人の家族がうらやましかったこと、地酒白馬錦に酔ったこと、歩いていてプーしたところなにかケモノの匂いがするといわれたことがあった。その会が途切れ途切れ続いてこのところ白馬会と称し年に一度旅行に行っている。
再開一回目は2002年夏5人で記念ということで白馬栂池に泊まった。ベルクハウスというスキー宿でお湯は中房温泉から運んでいた。栂池自然園に登ったが、白馬はガスって見えなかった。夜は白馬錦を飲んだが、同室者N氏のいびきに悩まされてよく寝れなかった。翌日は猿倉から白馬尻まで歩いて白馬大雪渓の氷にアズキと練乳を加えてカキ氷を作ったが、寒いとか汚いとかいって余り食べてもらえなかったのは悔しい。午後はスキー場にあるパラグライダー教室に行った。一回目はわずかしか飛べなかったが、二回目は100mほど飛んで気持ちがよかった。T氏は風待ちをしていたところ雨が降ってきて結局中止になったのは気の毒であった。料金は割引になったそうである。
二回目も2004年秋白馬村に紅葉を求めて4人で行った。車で大阪から走ったので、途中大王わさび園、道祖神群、碌山美術館を見て周り、J氏が知り合いというヒュッテアルプスに入った。夜はトランプをした。翌日は峠を越えて、長野善光寺、小布施で北斎の天井画の岩松院と北斎館、さらに志賀高原を目指した。国境の渋峠まで登ると谷の紅葉がすばらしかった。少し下って渋池周辺を散歩した。夜道を3時間かけて白馬へ戻ったが、途中で迷いそうになった。最後の日は栂池自然園に登った。ブナの黄葉とナナカマドの紅葉の彩りが絶妙であった。ペンションから出たところの石仏の横でラーメンを炊いて昼飯とした。
その後のことは、折々の記に書いており、2006年(平成18年)の「信州温泉三昧」、2007年(平成19年)の「木曾御岳山」、2008年(平成20年)の「奥飛騨の山と湯」、今年の「戸隠山とそば」がこのグループによる旅行である。年老いたが(お前だけだ!と怒られそう)仲良く旅行のできるのは幸せなことだと皆様に感謝している。
大阪あたり (2009.06)
前回書いた四国から大阪へ小学5年生のときに移ってきたのであるが、引越しには抵抗した。以前扁桃腺が腫れて切る事になったが、嫌がっていたのを徳島市に行けばご馳走を食わしてやるとだまされて連れて行かれて、最初に病院で切られて食事がのどを通らずひどい目にあったことがある。こういうトラウマが都会不信(大人不信?)につながっていたのかも知れぬ。大阪の家の横に川があると聞き泳げると思って引越したのであったが、その川は駒川と言い実はどぶ川であった。
小さいときから山を走り回っていたので、中学や高校ではよく友達や級友とハイキングに行った。飯盒炊さんという言葉はもう死語になってしまったが、紅葉で有名な箕面の谷などでまきを集めてやったものだった。私市の方面や生駒山にも行った。中学のとき友達と生駒山から信貴山まで歩こうと、あのころは忌まわしいドライブウエーもなかったのだが、そのうち道もなくなって、笹の中で途方にくれている写真が残っている。
よく行ったのが六甲山である。大阪に近い東六甲が中心であったが、今のように芦屋ドライブウエーもなく、ふもとの家も迫っていなかったので静かなものであった。近頃は山道を登りきったとたん自動車事故に会ったという人を知っているので用心用心。六甲の登山地図に歩いた道を赤鉛筆で塗りつぶすのが楽しくなり、しげしげと出かけて、とうとう高校で大抵のところは通ってしまった。
高校の教科書に江戸時代、朝早く大阪で獲れた魚を担いで走って暗峠を越え奈良に売りに行く話が載っていたので、家からも見えた生駒山の彼方にいくべしと山越えをしたのであった。うっすらと覚えているのは、奈良の砂茶屋でどちらへ行くのか途方にくれていたとき風が吹いて道に砂埃が舞っていたこと、50km以上ある奈良についたときは足に大きなマメができて、どういうつもりか下駄を買って履いて終点の若草山に登ったことなどである。
東京から大阪に帰ってきた頃、9連休の正月で一日あたり1kg肥えたのを減量するために、大和川をさかのぼって奈良まで歩いたことがある。道は平坦だが、暗峠に比べてずっと距離はある。思惑通り体重は減ったが、ビールを飲んだら半分は戻った。伊勢街道を歩いてみようと、玉造神社から出発して再び暗峠を越えた事もある。奈良の手前で昼食をとった後、同行者の腰が抜けてもう歩けぬと言い出したのには困った。伊勢街道は三重県との県境までは歩いているので、あと伊勢神宮までは2.日半であるが、なぜかその後数年行けないでいる。
Sentimental
Journey (2009.05)
金沢で生まれ、もの心がついた徳島県海部町は第一のふるさとという事になる。現在は町村合併で海洋町となっている県最南端の町であるが、元来海部というからには海人族の末裔の土地であろう。節句のときは山に旗を立て陣取り合戦をし、初夏は山でヤマモモを摘み、夏は川で泳いだり、海にもぐってウニをとったり船で漕ぎ出した。秋は椎の実を採り、冬は綿入れを来て路地で夕暮れまで遊んだ。よそ者であったのでいじめられ、けんかをしてかんしゃく玉を相手の顔に投げつけたことがある。小学校の運動場は昔の海部川の跡で、大雨が降るといつも海のようになった。学校の遠足は毎回隣村の大里海岸に、近いところから順に1年生、一番遠くが6年生と歩く距離だけが違ったのであった。ここの松原では松露がとれた。
小学五年で大阪に出、高校を卒業して初めて訪ねたが、昔の近所の人によくしてもらい、あちこち訪ね歩いた。魚を開いた中に酢飯を詰め込んだすしは味も量も満点であった。昔子守をしてくれていたバアバンにも会えた。この人は大阪に遊びに来たときいろいろと案内してあげた。同級生は地元に職がないのでほとんど大阪に出てきているのであった。
鳴門海峡の橋ができたとき、橋を渡って海部までドライブした。秋祭りにダンジリがでた大里海岸の八幡社を見に行ったがこんなに小さなものだったかと思った。街中の道も海部川も子供のころは広く見えたが実際はずっと狭いものだった。海部川には新しい橋が掛かり、国道は街を避けて通っていた。
禿羊と船に乗って甲浦まで行き、釣りをしたこともある。このあたりが土佐物語で海賊が出没するあたりではあるまいか。釣りは海でも山でも坊主であった。轟の滝の下を禁漁区と知ってか魚が悠々と泳いでいるのが悔しかった。このあたりには天然記念物のオオウナギがいる。小学校のあたりやよく遊んだ妙見神社も回って、禿羊に Sentimental Journeyといわれたのがこの時だ。
3年ほど前には、高速バスで牟岐に行き、先輩の実家に泊待ってうまい魚を食い、次の日には故郷を久しぶりにじっくりと見てきた。住んでいた家のところは空き地になり、小学校は移転し、町には年寄りの姿が目立ち、妙見さんの山の一角はざっくりと削られてスーパーになっていた。道には歩き遍路がちらほら見え、ブームである様だった。一度遍路もしてみたいが、このあたりは鯖大師から室戸まで長い国道歩きをしなければならないのが憂鬱だ。
常春の故里旅のなつかしき浜辺に寄する四国白波
なき人を偲び故里訪ぬれば鳥の声にも涙流しぬ
山河に共に遊べる故き友顔かわれどもなどかなつかし
妙見の鎮守の森の椎の木に子供心に帰り実ひろう
よき人の心づくしの阿波のすし柚の香かおりて口に広がる
慶州 (2009.03)
韓国の慶州は新羅の古都で、山に囲まれ古墳が多く飛鳥に似た雰囲気がある。ここは気にいったのか4回行っている。しかしその間には30年以上の間隔があいている。
最初は玉造の教会で一緒に英語を習っていた人と訪ねた。もう亡くなられたがこの教会のカナダ人牧師さんは後に指紋押捺を拒否して逮捕されている。関釜フェリーで韓国に渡り、慶州では教会関係から紹介された駅近くの旅館(木賃宿に近い)に泊まって、仏国寺や山の上の石窟庵を見学した。今と違うのは石窟庵はガラスの覆いがなく自由に近づけたこと、また現在は市内に古墳公園があって入場料を取るが、当時は古墳と家が混在して異様な景色であった。その後大分立ち退かせたのであろう。見学を終えて旅館に帰ると韓国人の女学生がうなだれて座っている。事情を聞いてみると、乗る列車を間違えグループからはぐれてしまったのだという。驚いたことに後に同行者はその人と文通をして、結婚にまでいたるのである。
2回目は先輩二人と旅行して同じ旅館に泊まった。プサンの海雲台海岸で3人で花札に夢中になって、体が焼けてひどい目に会ったのもこの時である。初めて海外に出る一人の先輩は沢山の人から餞別をもらっていて、それのお返しに、慶州の店で30個ぐらい文鎮を買い込んだ。「おい、これ持て」といわれて重い文鎮は後輩の私が持ち運びすることになった。ところが、旅館の部屋に泥棒が入ってその先輩の持っていた20万円の大金が盗まれてしまった。お金は残りの二人が立て替えて旅を続けたのだが、憎いことに泥棒は文鎮は残していって、お金を立て替えている私がなぜかその文鎮を抱えて、扶余、ソウルと行き日本までもどったのであった。
3度目は富山にいたとき、知り合った人と、直行便ができたばかりの富山空港からプサンへと飛び立った。歴史の好きな人で、金海にあるクジボンという、天孫降臨の伝説の地を見たあと、タクシーで慶州まで行った。このあとソウルまでずっとタクシーという豪華旅行計画である。慶州もじっくり見学したがこのときすでに石窟庵にはガラスの覆いがあった。その後ソウルへと向かっていたタクシーが追い越しを掛けて左に出たとき、前から来たバスと激突したのである。衝突の前に気がついた私が左側で居眠りをしていた同行者を引っ張ったので怪我はなかったが、砕けたドアのガラスがその人の頭に散らばって、少し血も出ていた。近くの農家で頭を洗い、ほうほうの態でバスでソウルに向かったのであった。
4回目は禿羊夫妻と行った。このとき慶州では一日目は古墳公園、半月城、金冠の在る国立博物館、二日目は掛陵、仏国寺、石窟庵という通常のコース以外に、東海岸にある武烈王の海中墓と慶州南山の石仏を見に行った。石仏めぐりはちょっとしたハイキング気分であった。慶州に2泊したあと、安東で両班村、ソウルで2泊と比較的ゆったりした旅で、旅館も食事も昔の旅に比較すると破格であった。ソウルの新羅ホテルから南山に歩いて登り、禿羊さんは一人で北郊の山にハイキングをしている。あと慶州では見たい古墳が3つほど残っている。行く季節としては、レンギョウかツツジの咲いているときや好物のマッカウリ(チャメ)の季節に行ってみたい。
禿羊が同行したときの写真(http://www.kcc.zaq.ne.jp/dfjhz905/photo-korea/photo-korea.html)
薬師岳あたり (2009.02)
丁度一年前に、山に連れて行ってもらっていた先輩が亡くなられた。その方と行った薬師のあたりを故人をしのんで綴ってみる。最初は高天原に大物のイワナつりということで、大阪を深夜に出て折立へ。太郎小屋に上がると、団体客が薬師沢小屋にいるので、今夜はここに泊まる事になる。愛知大遭難のビデオを見る。最後の遺体を小屋の主人が発見したとのこと。次の日は小雨、黒部谷本流で竿を出すが小さいのが2匹つれただけ。ここから巻いて20年ぶりの高天原へ、少し紅葉している。温泉は夏の大雨で流されたとかで、かわりにバスタブが置いてある。団体客が小屋に入ってきて、我々は小屋の手伝いをすることになる。あくる朝は4時におきて朝食準備の手伝い。ところが台風が近づいてきて黒部川が渡れなくなるので帰ることとなる。釣り用の靴は残念ながら次のときのために小屋に置いておく。来た道を雨にぬれて帰るのはわびしく寒いが、その日のうちに大阪に帰りついた。次の年も天候悪く中止、その後小渕沢に住んでいる元高天原小屋の小屋番の方を訪ねて行ったことがある。
五月の連休を薬師岳で過ごさんと太郎小屋に3泊した。雪は2m、薬師岳へはステップを切りながら、ほぼ直登してゆく。2時間半で頂上、見渡す限りの雪山は絶景である。スキーの人は小屋までのタイムトライアル、我々はシリセードで下ってゆく。黒部側に落ちないように気をつけねばならない。次の日は北股岳まで行ったが、一面の雪原のうえ、ガスも出てわかりにくい。ビールを持っていったが寒くて飲む気にもなれず。小屋に帰り昼寝、ビール、夜は酒とトランプ。明ければブリザード、停滞となる。連休のこの季節は小屋を開けていて結構縦走者がいる。4時ごろより酒肴が整いパーティとなり歌って踊って夜が更けていく。
白銀の薬師岳よりながむれば地上あまねく新緑にみつ
薬師岳白銀の峰月照りて街の灯りのまばたくが見ゆ
吹雪鳴る太郎の小屋に酔いしれて夢見る夢はたが夢なるか
シュプールの残る北俣たちゆけば霧ののぼれる風はたつよし
熊野古道の一つ、高野山から熊野大社へ続く小辺路もこの方とともに訪ねた。3泊の旅である。紅葉が美しく、高野槙の栽培やイノブタの飼育が珍しかった。ただ昔の道が一部林道でずたずたにされていた。大股の民宿でカニ・カキ・オデンの入った不思議な鍋を食べたこと、途中の石畳がぬれていて滑ったこと、果無山脈ののぼりがきつかったことなどを覚えている。最後に泊まった十津川温泉の証明書にその方の名前があったのには驚いた。別の機会に初日は玉置神社、二日目は熊野大社に泊まり大峰奥駆の仕上げをしたこともある。天国でも山を歩いていられるであろうか、合掌。
秋深し万紅葉の山に入るいにしへびとのたどりし道を
伯母子越ゆる人の姿の露もみず経りにし時もかくありつるか
山の辺に石垣残る宿の跡とりかぶとのみ寂しく生ふる
熊野なる神の国へと入りたる冬枯れそめし小辺路たどりて
禿羊とオットット (2009.01)
このホームページの所有者である禿羊との付き合いは長いので語り継ぐべき椿事には事欠かない。先ずは自動車で韓国旅行をしたときのこと。下関まで国道を走っていたが、明け方運転をしていたSさんがダンプカーに追突して、こちらの車は前部がぐちゃぐちゃになってしまった。運行には差し支えなかったが、この状態ではフェリーに乗せてくれないだろうと、板金屋に行った。1万円払った出来上がりは立派なもので、3万円のぼろ車の前だけがピカピカであった。関釜フェリーに乗り込むときには、禿羊さんが他の車にぶつけたそうであるが、車を移動したので事なきを得たとか。最後は免許を取って1ヶ月の私が運転して太白山脈を越えて雪岳山に向かうとき、雨のカーブでスリップして前方から来たタクシーと正面衝突したのだ。トヨタが無茶苦茶になって湯気をふいている。これは高くつく、金あるかと青ざめる。近くの町に連れて行かれ、談判が始まったが、お互い言葉がわからない。韓服を着たお爺さんが出てきて、そのうちタクシー会社の人がいない時に3万円払って行きなさいと言ってくれたので急いで出発した。そのあとも心配で、帰りのときは安全のために夜中にその街を通過したのだった。
次は北アルプス双六沢の遡行である。朝タクシーで入り口について、はっと気がついた、ガソリンを入れるのを忘れてきた。仕方なく近くに落ちていたビニールパイプを停めてあったバイクのタンクに突っ込んでガソリンを吸い出した。このあたりがケチのつきはじめで、谷に入るとなんと巨岩累々、下は逆巻く急流である。沢は初心者の私は岩から岩へ飛び移るにもだらだらと冷や汗が出てくる。全行程3日とのことだが、お先真っ暗である。2日目の朝、前を歩いていた禿羊が、あっという間に大岩の上から川の中に転げ落ちてしまった。乗った岩が浮石で、おまけに1mもあるその岩が落ちて川の中で指を挟まれてしまった。体は水に漬かっている、一大事である。木を探してきてテコにして岩を動かそうとするが、ぼきっと折れてしまう。「動かなかったらどうする、沢の水は冷たいし、上の岩も崩れ落ちてきそう」山に入り大きな木を必死ににさがしやっと岩を少し動かすことができた。新しく買った装備もほとんど捨てたが、帰りは上にまき道を見つけ何とか無事帰還できた。町に帰ってかなりの期間指を曲げるのに不自由があったので、二人でリハビリにビリヤードに通った。
秋田の虎毛沢をつりをしながら遡行してもう3日目である。これまで会ったのはわずか2パーティだけである。朝5時にテントサイトを出て、本流の端は岸壁で無理なので、西の支流に入る。直径1mもある倒木が谷をうずめていたり、ナメや滝が続き、状態はどんどん悪くなってくる。午前10時、5mくらいの滝に出た。私は横の藪から登れないかと眺めていると、わーという声が聞こえ禿羊が落ちてきた。滝を直登したが上がったところで足を滑らせたのだ。滝つぼに水がなく足底部の骨折、えらいこっちゃ。3日も登ってきたので下るに下れない。とにかく尾根まで出なければと、荷物をほとんど捨てて、ロープで引っ張りあげることになる。途中は滝が続いている。滝を登ろうとすると「お前が落ちたら共倒れや、気いつけや」と弱弱しく声を掛けてくれる。こんな谷は誰も通らない。よじ登っては、ひざにタオルを巻いた禿羊さんをロープで引っ張り揚げる作業の繰り返し。岸壁みたいな所に出たが登るより仕方ない。ついに午後4時、尾根の登山道に出た。アドレナリンが出ているのか、疲れは感じない。ここからブナの道を降りていくが、尻をついていざって行くのではかどらない。夜11時に林道に出た。ここに寝かせて、電話のあるところまで助けを求めに行くことにする。国道に出て、トラックを止めようとするが深夜は猛スピードで走り去って行く。ドライブインも閉まっている。午前4時ようやく公衆電話で警察に連絡が取れた。パトカーが来て事情を聞かれ、とりあえず毛布を貸してくれてバス停で寝るが、山の中なので夏でも寒い。夜が明けて駐在所に行き奥さんに食べさせてもらったイクラおにぎりと味噌汁のうまかった事。ヘリが飛んだが木が多くて着陸できないので、車と歩きで救助隊に収容され、無事湯沢市民病院に入院した。この事件は地元のテレビに出たそうで、宅急便の店で例の大阪の事故を起こした方々ですかといわれた。
大峰奥駆けをした時、ブナの枯れ木にびっしり生えているナメコのうまかったのに味をしめ、その次の年は本格的にキノコ狩りに尾根筋の小屋に泊まった。禿羊はキノコには詳しいという。倒木にぬるぬるとしたキノコがたくさん生えている。大丈夫か、大丈夫やろと、早速キノコなべにする。うまいうまいと食べている途中で胸がむわっとした。何かな思うが、そのうち腹がおかしくなってきた。やられた・・・なんと残りのキノコが暗い小屋の中で光っている。ツキヨダケである。あとで聞くとこのキノコの中毒が一番多いのだそうである。次の日山上ヶ岳から縦走してきた女性が、私もシイタケと思いスパゲッティに入れたら当たったと言っていた。しかし、この程度の症状で済んでよかった。君子危うきに近寄らずである。禿羊はこの一件でとにかく一緒に行くと危ないという定評ができてしまった。
若狭に行き、海水浴場に車を置いて、カヤックで沖にこぎだした。その夜は無人島にテントを張り、次の日は周りをこいで回ったり、天然体で泳いだりして過ごした。沖の方に大きな船が見えて、こちらのカヤックに近づいてくる。突然マイクで「そちらは○○さん、△△さんですか?」と、名前を呼ぶのでびっくりしてしまった。なぜ名前を知っているのか、もしかすると家族に不幸がと思うが、「こちらに近づいてください、海上保安庁です」という。なにがなにかよくわからない。近づくと相当大きい船で前に機関砲もある。やり取りをすると、われわれは捜索対象になっているらしい。昨夜車を浜において、漕ぎ出して帰らなかったので、遭難したと警察に通報した人がいるらしい。車のナンバーから家を割りだし連絡して、海に出ていることがわかって船のお出ましとなったわけである。携帯の圏外であったので連絡もつかなかったのである。岸までカヤックを引っ張りましょうかというという親切な申し出を断り、必死でこいで海岸に着き、警察に連絡して一件落着となった。禿羊の奥さんは、警察が何度も連絡してくるので、遭難したとはっきりわかった時点で連絡して下さいといったそうな。
つい最近も財布紛失事件があって、山の中を探し回ったが、まあこのぐらいのことでは動じない度胸がついてしまった。しかし毛がないのに、怪我が多い男だなあと思うことはある。お互い体力も記憶力も落ちていることだから、用心用心。
近畿脊梁山脈縦走 (2008.12)
昭和39年8月に20日間で近畿の背骨に当たる鈴鹿山脈、布引山地、台高山脈を縦走した。ヒル、ブト、ハチ、ウサギのことは覚えていたのだが、このときの同行者が昔の青焼きコピーの記録を書き直して送ってくれたので、ようやく詳細が判ったのである。
メンバー5名途中のサポート4名という体制で、先ずは醒ヶ井より鈴鹿山脈北端の霊仙山に登る。しかし南に行く道がなく、初日よりブッシュの中でテントを張る。次の日炭焼き道や沢筋をたどって南下するも、三国岳前ではまたブッシュに突入し、頂上を刈り込んでテントを張る。鞍掛峠の辺りではヒルに襲われシャツが真っ赤に染まり、御池岳辺りを走って逃げ、ブッシュをこいで藤原岳へ。猛烈なブトに狂いそうになるが、小屋には入れずボーフラの湧いたドラム缶の水を飲む。蛇の峠谷、治田峠、銚子岳、静ヶ岳と越えて竜ヶ岳へ、石榑峠でサポートのYと会い、一日休養する。ここで降りるOを送る。三池岳、八風峠とたどり、土曜日の朝明川から登ってくる多くのハイカーに会う。この日は根の平峠泊まり。御在所岳はハイカーであふれている。降りるYとロープウエイ駅の店でカレーをぱくつく、格別なり。鎌ヶ岳はチョンボして道のないところを直登する。やせ尾根を降りてこの日は仏峠まで。小岐須峠、宮指路岳、仙ヶ岳とたどり、東に鈴鹿山系最後の野登山を目指し、下に降りて野登寺へ、ここでHと分かれる。下界は暑い。亀山から電車で津へ、津では神社でテントを張る。
早朝参詣者に起こされ、津からバスを乗り継いで青山高原笠取山ふもとの長野へ。農家でジャガイモ、タマネギ、ナスをいただく。笠取山では自衛隊のレーダー基地で水を分けてもらい、基地のグラウンドの隅にテントを張る。元取山を過ぎ、青山高原山の家で栄養補給の昼飯。山を降り、真夏のロードとバスで尼ヶ岳方面に向かい、小沢でテントを張る。尼ヶ岳、大タワ、大洞山とたどり、上太郎生に降り、ここより敷津、神末に向かう。校庭にテントを張り、小使いさんから漬物やナスビをいただく。これより三峰山、今は霧氷で観光バスも出るがその頃は見向きもされていない。頂上付近でグミの実を必死で取る。西の高見山を目指すが、ブッシュで路ははっきりしない。白鬚峠では登ってきた人にピースをもらう。タバコが切れて紅茶を紙に巻いて吸い、そのうちにススキを吸うようになる。途中一泊した後、請取峠を過ぎた頃ガレ場の巻き道でKが足を滑らせる。ようやく旧人錬成で通ったコースに出て、見覚えのある食器を拾う。高見山を降りて大峠小屋で高校の先生と同宿し、夜遅くまでのんびり話をする。
いよいよ最後の台高山脈、地図を見ても尾根がわかりづらいところがある。踏み跡程度の路はあるとのこと。山を降りるOと分かれ、大峠から明神平は慣れた路、明神平の小屋にはボッカが届いており、平凡パンチにとびつく。夜遅くまで焚き火をする。Kが仔ウサギを捕まえ食べようかと言っていたが、怯えているので放してやる。次の日は休養日。行動日は朝から霧、そのうち雨、あまりの寒さに途中焚き火をする。明神岳、迷い峰、池木屋岳までは道はよい。それよりぐっと路が悪くなり、倒木、笹の連続。弥次平の手前の水場でダウン。次の日も相変わらずのブッシュと倒木にこぶ。伊勢湾台風での風倒木を越すのに疲れる。道もはっきりしないし、雨が降って時間がかかり、気分もめいってきて、愚痴ばかり出る。旅の疲れもあるはず。ダニも皮膚に食込んでいる。この日は地池越でテント。山の神より父ヶ谷高もひどい道、こぶも多く、やせ尾根の下りに時間がかかる。ちょっと開けた所に出たとき椿事が発生した。4人の先頭がハチの巣を踏み抜いたのか、巨大なハチの大群の急襲を受けることとなった。2番手のFの被害が大きく、激痛とともに顔が腫れ上がってきた。少し進んでダウンとする。次の日振子辻、御座クラとたどりようやく一般道のある大台辻に到着、ここより大台ヶ原へ、休憩所脇にテントを張り、食堂で夕食、ありがたさに涙が出る。翌日Fは診療所に行くが、尻に注射をされ1週間は腫れは引かないといわれる。雨なので尾鷲をあきらめ、Fの福助のような顔を帽子で隠し、バスで上市に降りた。ブッシュと暑さと虫と格闘した旅、我々の青春の夏は終わったのだ。