春の花 2 (2018.05)

プリンセス雅桜

サトザクラ

サトザクラ 関山

 サトザクラ 御衣黄

シャクナゲ

 シャクナゲ

シャクナゲ

 雲南黄梅

 ボタン

 ボタン

 ボタン

 ガマズミ

 クヌギ

ハナスオウ

タラヨウ

 カラタネオガタマ

 ライラック

 ライラック

 ライラック

 ギョリュウバイ

 ミツマタ

 ハナノキ

 ハナミズキ

 ハナミズキ

 ピンクナツツバキ

 シモクレン

 ツバキ

 クサボケ

 カタクリ

ハナナ

シャガ

 アミガサユリ

 ヒマラヤユキノシタ

 ショウジョウバカマ

 スミレ

 オドリコソウ

 

春の花  (2018.04)

 ヨウコウザクラとヒヨドリ  ヒカンザクラ  シモクレンとハクモクレン  ハクモクレン
 モモ シデコブシ  ギンヨウアカシア  ユキヤナギ 
 アセビ エリカ  ボケ  レンギョウ 
 ラッパスイセン オオキバナカタバミ  ムラサキハナナ  ネモフィラ 


タイの花 (2018.03)

    モモイロノウゼン  ムラサキソシンカ  ムラサキソシンカ
   
 タベールアン(ギンヨウノウゼン)  ドーク・ラーチャプルック(ナンバンサイカチ)  オオバナサルスベリ  コルクノウゼン
   
 アソカノキ     ドー・ケム    タマリンド(マカーム・ワーン) 甘い   タマリンド(マカーム・テー)甘酸っぱい
   
 パパイヤ    ナツメヤシ  ジャックフルーツ  ヤシ
   
   チョウショウバト   シキチョウ  

                                


石仏写真館(10) 壺阪山五百羅漢 (2014.8)
 奈良県高取町の壺阪寺の近くに岩に刻まれた五百羅漢がある。摩滅して表情を読み取ることは難しいものが多い。写真のひとつは猿石で、高取城から飛鳥に抜ける道の途中にある。城の石垣用に運んできたものが、ここにおかれたといわれている。高取城と郡山城の石垣のために、奈良平野内の多くの石造物が失われた。

   

石仏写真館(9) 当尾(とうの)の石仏 (2014.7)
 木津川市の岩船寺や浄瑠璃寺のあたりは石仏が多く、石仏巡りと寺巡りの両方が楽しめる。岩船寺近くの三尊磨崖仏は「わらい仏」とも呼ばれ、永仁7年(1299年)の銘があり、上に岩の庇があって保存状態も良く、綺麗な石仏である。

 

 

石仏写真館 奈良頭塔の石仏 (2014.6) 昔も頭塔に行ったはずなのだが、古い写真が見当たらない。当時は只の山のようであったが、その後発掘・復元して先日撮った写真のようになった。このような土塔は堺市家原寺前にもあり、四天王寺内にもあったという話もある。仏像はその側面に飾られている。三尊仏が多い。


石仏写真館 石位寺の石仏 (2014.5)

 石井寺は桜井市忍坂にある。小さな寺であるが、その石仏は屈指の美しさを誇る。薬師三尊石仏は縦1.15m、横1.5mの砂岩に彫られている。撮影不可なので当時購入した写真を載せた。2年前に舒明天皇陵見学の時立ち寄ったが、無住で地区の方が管理をされていた。相変わらずお美しい姿であった。


             


  石仏写真館(6) 臼杵・熊野磨崖仏(2014.4)

 40年以上前大分に用事があったときに、臼杵を訪ねた。当時は柵の中の仏様は頭が落ちて下においてあった。その後頭をつけて国宝に指定されたという。写真ではかすかに彩色の跡が見える。熊野磨崖仏は国東半島にあり、鬼が積んだという乱積みの石段を登ると、高さ8mの不動明王と7mの大日如来が現れた。今は知らないが、昔は人のこない不気味な所であった。

    


  石仏写真館(5) 北条五百羅漢(2014.3)

   兵庫県加西市北条にある羅漢寺は450体の羅漢像が境内を埋め尽くしている。製作は江戸初期といわれ、稚拙であるが素朴さが好ましい。「親が見たけりゃござれ」といわれ、親や自分に似た像が必ず一体はあるといわれている。現在は中国縦貫道から近いが、昔はJR加古川で乗り換え粟生、北条鉄道で北条町へと大変時間がかかった。



  石仏写真館(4) 飛鳥(2014.2)

  飛鳥には不思議な石像物がたくさんある。写真には昔の益田岩船が写っているが、現在の薄暗い杉林に比べ、明るく村が見渡せた。これは古墳の石室が未完成のまま残されたのではないかと言われている。また亀石も廻りに人家などがなかった。石製の道しるべには「左いせ」などと書かれている。


  石仏写真館(3) 柳生街道(2014.1)

  先日禿羊と柳生街道をたどった。この道も何度か歩いたことがある。昔の写真を見てもそんなに環境は変わっていないので、最新の写真をアップした。春日大社から滝坂道に入り、夕日観音、朝日観音を経て石切峠。小道を通って芳山(ほやま)の石仏に。この石仏は2面になっていて、私の最も好きなものである。

   
   


石仏写真館 (2)修那羅峠(2013.12)
 
 最近禿羊が修那羅の近くを自転車で通ったと言っていた。そういえば、半世紀以上前に名前に惹かれて禿羊と石仏を見に行った。現在は築北町といい、長野県上田市の西に当たる。石仏のHPは
http://www.vill.chikuhoku.lg.jp/villager-sightseeing/events/history/post-15.php
古い話でほとんど忘れてしまったが、二人で長野で待ち合わせ、雪があったので初冬だったか。山の中を大分歩いたら不思議な石仏や神様や猫神が並んでいた。帰りは上田からバスで群馬県に入った。

     
     
(写真をクリックすると拡大写真に移ります。)

石仏写真館 (1)京都石峰寺(2013.11)

 遥か昔に石仏に凝って、写真を撮ってまわったことがある。近畿を中心に、西は九州の臼杵、東は信州まで旅をした。古い写真は転居中にほとんどなくなったが、石仏のアルバムは残っている。その中から、印 象に深いものをアップしてみる。先ずは先頃再訪した京都石峰寺の仏たち。原案は若冲で、最近は有名になっているようだが、当時は訪れる人もなく、写真に見るように荒れた竹林にシャガが茂っていた。

     
    写真をクリックすると拡大写真に移ります 



熊野川を下る(2013.4)

 熊野古道シリーズの最後の記事は、禿羊との2002年8月3日から3日間の熊野川のカヤック下りである。昔の参詣では熊野大社から新宮までは船で下っていた。大阪から車で行くが北山道は土砂崩れのため通行不可で、下市で引き返し十津川に入り田戸に着く。川まで2人乗りのカヤックを運び、暑い中組み立てるのが一仕事である。遊覧船の船着場より出発したが、とたんに岩で舟の底をする。新宮までは距離はないので急がない。瀞峡をのんびりと下って行く。両岸の岩と森が美しい。3時半川原に上がり、テントを張る。アヒルが遊んでいる。近所の部落の畑はイノシシの被害を避けるため、すべて網で囲っている。病院通いが大変とおばあさんが言っていた。禿羊は魚釣り、私は水泳やスケッチ。夕食はBBQ,ワイン、チーズ。暗くなってから、電灯をつけて川エビを獲る。目がきらりと光るのを網でさっとすくう。揚げればうまいが、油がないので茹でて食べる。
 明くる朝の川原は冷える。川えびの味噌汁、卵焼き、キュウリ、トマト。漕いでいるときジェット船が来ると波に煽られる。鮎つりの人が多い。水はあくまで美しい。昼にジェット船の乗船場の志古に着き、船にのって車を回収に行く。志古から下流は船は通らない(註;その後三反帆船が通るようになった)ので、一部3級の急な所があって波をかぶる。3時にテントを張り、スケッチ、歌詠み、ウイスキー。夕食はシチュー、ゴーヤ、エビ。
 朝はエビみそ汁、おじや。淵になって流れが無く一生懸命こがねばならないところや、そこを抜けるときに急な岩のあいだで波をかぶるところが何箇所かあった。11時新宮着。バスで車を回収し、佐藤春夫記念館、新宮参拝の後、川湯温泉に行って、川原の露天風呂で汗を流す。後から水着の女性連が入ってきて、裸の我々は顰蹙を買う。風呂のあと川で泳ぐと気持ちがよかった。      

     波たぎる急流こぎて下り行く熊野の水の玲瓏にして



熊野古道・雲取越を行く(2013.02)

 昔の熊野詣では、概ね中辺路から熊野大社に参り、熊野川を船で下って新宮に出て速玉大社へ、そして海岸沿いに那智大社に至る。その後、北へ大雲取越、小雲取越を越えて熊野大社に帰るというコースを取っていた。1201年陰暦10月に後鳥羽院の御幸に供奉した藤原定家の「御幸記」でもこの道を通っている。定家は慣れぬ山道で雨・寒冷・風邪・腹痛・疲労などで輿の上で前後不覚になったとある。修験の人は今も那智大社から熊野大社まで10時間で歩くという。今回の雲取越コースはそれとは逆になるが、2000年11月に行ったものを書いてみる。


 クラブの後輩2人と大阪を車で出て、田辺を経由し熊野に入った。下地橋で昼食を食べ、車を置いて登りだす。今日のコ−スは小雲取越で約12km。部落を抜けて少し登ると下に熊野川が見える。杉林は松葉茶屋跡を過ぎると雑木林に変わる。妙法山を巻いて行くと、山また山の景色が開けて百間座(くら)。下は絶壁で高度感がある。石堂茶屋跡を過ぎ、桜茶屋跡では小和瀬の集落が下に見え、一気に下りとなる。車道に降り、小口自然の家に向かう。ここは元中学校の校舎で何かなつかしい。夏はカヌーの教室を開いているそうで、ゆったりした川が美しい。


 2日目は大雲取越にかかる。ゴールの那智山の方が高いので、こちらからは800mの登りになる。杉林の中に円座石(わろうだいし)があり、神々が円座になって酒を酌み交わすという。苔むした石段や石畳をひたすら登る。胴切坂は最も険しい所である。越前峠に到着、雨が降ってくる。石倉峠からは下りになる。石畳にコケがつき、雨にぬれているのですべって尻を打ってしまった。後はこわごわ歩く。傘のない人は、雨具で蒸れて難儀をする。地蔵茶屋跡からは林道になったり古道に戻ったりして舟見峠、ようやく熊野灘が見える。ここから下りとなって、那智高原公園、阿弥陀寺への分岐を経て青岸渡寺へ到着した。宿坊の尊勝院に荷物を預け、神社、寺、大滝を廻り、時間もあるので大門坂を降りる。この坂は石畳と杉が古道中最も美しい。http://www.nachikan.jp/kumano/daimonzaka/ そのまま補陀洛寺、那智駅の裏の浜まで歩いた。ここが名高い補陀洛渡海の浜である。彼方に浄土のある如く美しい海だ。


 尊勝院の朝5時の勤行に参加した。あとの二人は寝ている。バスで那智駅に出て、列車で新宮駅へ、速玉大社にお参りし、またバスで下地橋にでて、車を回収した。熊野本宮と旧社地に参り、渡良瀬温泉に入湯、昼食後、帰阪した。


    熊野灘ニライカナイの彼方よりとこしなへに寄する波かな



小辺道を行く(2013.01)

 小辺路(こへち)は4つの山を越えて、高野山と熊野大社を最短距離でつなぐ道である。この道も、大辺路、中辺路、大峰奥駈道とともに世界遺産に指定された。今回は1998年11月に先輩2人と歩いたことを書いてみる。早朝に大阪を出発して、南海電車で高野山へ。金剛三昧院から入る道を間違えたが、何とかろくろ峠へたどり着いた。ここには昔女人堂があって、山内は女人禁制となっていた。林道を南下し、薄峠から下って有田川の上流にあたる大滝へ、紅葉が美しい。また坂を上ると、コウヤマキを栽培している。やがて高野龍神スカイラインに出て、水ヶ峰でまた道が分かれる。屋敷跡で昼食をとる。天誅組やそれを追って紀州藩士もここに来たという。ここから野迫川村に入る。なだらかな尾根を南下するが、古道は林道で寸断されている。途中から今西に降り、かわらび荘に宿を取る。近くの野迫川温泉に入る。近くに撃ってきた鹿を血抜きのため吊ってあった。

 大股から伯母子岳への登りとなる。途中萱小屋には崩れた屋敷跡あり。檜峠より上で道を広げて無残なことになっている。峠から伯母子岳へ往復する。山また山の眺望がいい。昼飯は峠の避難小屋で食べた。峠から南は十津川村、長いくだりになる。途中上西宿跡には、石垣のみが残り、トリカブトの花が咲いていた。その下からの紅葉が良かった。途中木の切り出しで巻き道を通り、五百瀬(いもせ)に出て玉屋旅館に泊まった。ここには平維盛や大塔宮の伝説が残っている。

 同行者が夜中に寝ぼけて荷物を作って出発しようとした。朝、坂を登ると三浦の部落、何軒かの家が残っている。くねくねと登り、また巻いて三浦峠、新しい林道ができ道がややこしい。矢倉付近で同行者が倒木に足をとられ膝を打つ。西中へ降り立ち、バスで蕨尾、いよいよ最後の果無山脈越えにかかる。西国三十三ヶ所の石仏がある。石畳を登って行くと、果無の部落を通る。景色が良い。ウバメガシの林を抜けると観音堂。ここからひたすら登って果無峠、シダの中の急な道を下ると熊野川が見える。いよいよ和歌山県本宮町に入った。八木尾に降り立ち、バスで十津川温泉に行き、同行者の足の事もあり、翌日はバスで帰った。

   秋深し万紅葉の山に入るいにしへびとのたどりし道を

   伯母子越ゆる人の姿の露もみず経りにし時もかくありつるか

   山の辺に石垣残る宿の跡とりかぶとのみ寂しく生ふる


   熊野なる神の国へと入りたる冬枯れそめし小辺路たどりて 



大峰奥駈南半部(2012.12)

 大峰奥駈は吉野山から熊野大社まで、7泊8日の修験道の道である。吉野山から前鬼までは若いころに歩いた。そのころは南への道は荒れていると聞いていた。近年新宮山彦グループが道を整備し、山小屋も作ったと聞いたので、1997年11月禿羊と出かけた。
 一日目は上市口まで近鉄、バスで前鬼口まで行って、途中不動の滝をみて2時間歩き、前鬼の小仲坊に泊まった。5人グループの焚き火にあたった。星がきれいだった。
 6時20分発、2時間ののぼりで太古辻、南へ少し行くとブナの枯れ木にびっしりついたナメコを採った。天狗岳、地蔵岳、涅槃岳、持経ノ宿と仏教由来の名前が続く。4時平治ノ宿到着、ここは新宮山彦グループが作った新しい小屋で、夜食はナメコけんちん汁を楽しんだ。夜は冷えたので焚き火をした。この道は昔西行が来て、泣くような苦労をしたらしい。
 6時半出発、2時間半で行仙岳、このあたりは小さなピークがたくさんあり、アップダウンを忠実にたどるので疲れるが、人が全くいない静かな山旅だ。道はきれいに刈ってくれてあった。毎年大変な労力だ。笠捨山で西に曲がり、地蔵岳をたどると岩場があり、行場風だ。ここでやっと2人の人と会った。尾根はまた南へ曲がり、貝吹金剛より上葛川の部落に下りて民宿に4時に到着。夜は古道取材中という親子と話した。
 7時出発、峠に上りなおして尾根をたどり、花折峠を過ぎ、玉置山には10時に到着、杉の古木がすばらしい。神社でお神酒をいただいてほろ酔いになる。今回はここより下った。道を間違えそうになったが、1時半には十津川温泉に浸かった。ビール、冷奴、野菜炒めで打ち上げをした。バスで五条から吉野口に出て、大阪へ帰った。
 「想い出の山と旅 (2010以前)」の「禿羊とオットット」の項で書いたように、1998年夏に禿羊が秋田の山で怪我をしたので、奥駈の残りは1999年秋に、今は亡い先輩と行った。大和八木からバスで3時間、十津川の折立で降り、林道から山道を玉置山に登った。途中炭焼き道に迷い込んだりしたが、4時ごろ神社に到着。奥駈ということで社務所に泊めてくれた。禰宜さん2人、奉仕の方2人がいて、供物があったということで、重文の台所で鍋料理をご馳走になった。
 朝6時出発、玉置辻、大森山とたどる。五大尊岳は痩せて感じがよい。金剛多和、吹越宿、七越峠には西行歌碑があった。七越峰から備崎まで巻いており、熊野川を裸足で渡った。これが大斎原へ入るために昔行われた禊である。2時半熊野大社に到着、これで大峰奥駈を完歩した。大社の宿泊所に泊まったら、下から弁当を持ってきてくれた。次の日は時間があったので、中辺路の牛馬童子のところから、逢坂峠、高原熊野神社、滝尻王子と歩き、田辺から大阪に帰った。

  奥駈けの峰のもみぢ葉ふみわけてゆきにしひとの姿しらずも

  夜半の風古びし小舎のわびしきにぬばたまの夜をいねもやらずに
  
温泉紀行X (2011.04)

 私達の修学旅行は中学では箱根・東京、高校では別府・阿蘇・雲仙と先生方も温泉が好きだったのですね。九州は「火の国」温泉の宝庫です。九州の温泉の人気は、別府から湯布院そして北阿蘇の黒川温泉へと移りつつあるように思えます。関東では熱海より箱根が人気があるように、俗化を避け自然の豊かさを求める傾向にあるといえましょう。

 数ある観光地にはあまり縁のない筆者が印象に残ったところを二ヶ所。先ずは湯布院から山並みハイウェイで九重連山の麓まで行き、山道を歩くと坊がつる温泉です。「四面山なる坊がつる」の坊がつる讃歌のとおりミヤマキリシマ(ツツジ)の咲き誇る山あいにあります。周囲の山に登ると噴煙を上げている所もあり、遠景の阿蘇も素晴らしい眺めです。


 今は天孫降臨よりも坂本竜馬の新婚旅行で名高い高千穂峰のある霧島連山に登山した時の事、韓国岳の下のロッジは露天温泉風呂付きで一泊五百円という安さでした。食料を持ち込んでミヤマキリシマの撮影に何日も泊り込んでいる人がいました。この霧島連山は数個の旧火口の景観が特徴的で火口湖もあります。記事を書いている時に新燃岳が50年ぶりに噴火しました。

 行ってみたいのが南阿蘇の地獄温泉。二百年の歴史のある湯治場で底からお湯のわいてくるスズメの湯のほか四つの風呂があり、自炊施設もあるようです。こんな所にゆっくり泊まってみたいと思っています。地元の人との交流も楽しみですね。


各地での聞き書き(2011.01

 これまで各地を放浪して採集した話で気に入っているものを書いてみた。


隠岐の島では海辺の飲み屋の電灯がついているとイカが上がってくるという。またタコは畑の大根を抜いて海へ引きずっていくとか。


国体では自県が勝つためいろいろ工夫をする。馬術では当日障害物をでかい金魚にしたり(奈良県?)出雲大社の鳥居にする(島根県?)と他県の馬はびっくりしてとまってしまうという。もちろん自県の馬は前もって慣らしておくとか。


富山では怪我のことをあやまちといい、整形外科をあやまち医者という。


加賀藩と富山藩の境には両藩の猫が逢引したという猫坂峠がある。


代が変わっても名前を残すのは医者と飲み屋だそうだ。


あまりにも多くの作品に名前がついているのでアール・ヌーボーとはフランスの巨匠と思い込んでいた人がいる。


田舎で火葬場のことと思って話を聞いていたら過疎バスの話であった。


浅草寺で親が線香の煙を身体にかけるのをまねて、小さな子がくすぶっている煙草入れの煙を身体にかけていた。


クリニックにコンピューターが導入され必死で使っていた医者が、患者が胸を開いたとき間違ってマウスを胸に当ててしまった。


「先生この薬はいつ飲めばいいのでしょうか?」「そう、痛みの起きる一時間前かな」


スエーデン旅行中のコメント:「スエーデンは貧しかね。昔はバイキングが出稼ぎに行きよったもんね」


トイレの張り紙:@東から来る人もある、西へいく人もある、南へ帰る人もある、だから北なくしないでね。 AYour Honest John is not so long as you think.


終戦直後大阪の五階百貨店で靴を買ったら一晩でねずみにかじられた。スルメで裏底を作ってあった。またここへ行けば盗まれた靴の片方が売られていたという。


三味線に合わせて猫が踊るという猫踊りというのがあった。熱い鉄板の上に猫をのせて三味線を弾く。そのうち三味線を聴いただけで踊りだす。


ダメ虎を評して:阪神不随、阪神半疑、阪神麻痺、優勝を3回見ると寿命が尽きる


修学旅行に行った生徒が夜騒いでいたら女の先生が注意しに来た。眉毛のない先生の顔を見て皆凍りついてしまった。


言い間違い:「五十回記念おめでとうございます」→「五十回忌おめでとう・・・・」;急遽やんごとない用事で失礼します


思い違い:@流れ寄るや椎の実一つ A追われて見たのはいつの日か Bうさぎ美味しかの山 Cにっちもさっちも→さっちもよっちも D一朝一夕→一鳥一石 E肥満→ヒミツ F何卒よろしく→ナニソツ G帆船日本丸→ホブネ H電柱に染み付いた夜→しがみついた夜(大阪で生まれた女)


 難問集:@6本のカシの木に5匹のサルを一匹ずつつかまらせるには? A尻と尻とのあいだの線を何というか? B氷がとけたら水、雪がとけたら何になる? C大尉と少尉の乗ったジープが事故を起こした、なぜか? Dクジラより大きな魚は? Eカエルは両生類、タヌキ、キツネは? 回答:@むつかしござる A尻間線 B春 C注意が足りない Dそんなものイルカ(オルカ)E麺類


地口:トイレの火事(やけくそ)。ブスに二号はない(武士に二言はない)。人間は姿や顔ではない・スタイルだ! 飲み込みの悪いカモ(えさを苦労して食べている)。適齢期みんなで越えれば怖くない。プチ還暦(30歳)。40にしてマドモアゼル。誠にイカン・頭はヤカン。男の顔は証明書・女の顔は請求書、男はレース・女はラリー、男は愛嬌・女は度胸。健康のためには命をすててもかまわない。


日本語は清むと濁るで大違いハケに毛がある禿に毛がない。日本語は清むと濁るで大違い人は茶をのむ蛇は人を飲む。


怖い女のマミムメモ: マ;魔性 ミ;見栄っ張り ム;無神経 メ;目立ちたがり モ;文句いい


 ボーイフレンド五段活用:本命くん、キープくん、ベンリーくん、ミツグくん、アッシーくん


 熟年男性:ひふみ族(ひとえまぶた、二重あご、三段腹)月の輪グマ(ワイシャツから透けて見える下着)忠犬ファックス(ファックスの前でじっと待っている)恐怖のワシ族(ワシもお前についてゆく)


 英語で三段腹をどういうか? スペアタイア


 大学の呼び方、いろいろあるが:CHARM(中央、法政、青山、立教、明治)神田大学(明治、専修、中央、日本)ポントン(日本女子、東京女子)ワケメ(早稲田、慶応、明治)その他日東駒専、大日本帝国など。SKY(駿台、河合、代ゼミ)


 穴埋め誤回答: ○肉○食→焼・定、○山の人だかり→青、○骨奪胎→恥、○入れ→腰、○○の迷惑→口臭、単身○○→不妊、○○の典→過食、○○の仲→嫌煙、○○活性剤→海綿、○○矢の如し→荒淫


 きどにちかせし衣食住(話題のきっかけ):気候、道楽、ニュース、知人、家族、性、趣味・仕事、衣、食、住


 各国の言葉:見ろ→ミレ(スペイン語)、窓→アクノー(ロシア語)、こそばい→カンジルワ(韓国語)、ください→ダイテミ(ブルガリア語)、買う→カウフェン(ドイツ語)


 典型的大阪弁:よういわんわ。あきまへん。・・してはる(敬語 活用例:虎がねてはる、 ホームレスの人がアウトドアしてはる)。あまり聞かないが:むらくそおもろい(無茶苦茶おもしろい)、ねえちゃんお茶しばかへんか(お嬢さんお茶飲みませんか)


 仕事のコツ:@ホウレンソウ →報告、連絡、相談 Aシイタケ→仕事一番楽しく健康に Bネギ→ネバーギブアップ Cダイコン→大胆に根気よく


福祉について困ること:思い込み、思い過ぎ、思い入れ、思い迷い、思い違い