朋友との鈴鹿(2006.12

ヨセミテ渓谷(2006.12

コスモス (2006.11)

紅葉と温泉と猿 (2006.11)

牟岐の奥山今日越えて(2006.10

曼珠沙華(2006.10

OSK日本歌劇団観劇(2006.09

信州温泉三昧(2006.09

韓流結婚式 (2006.08)

まつほの浦(2006.07

歌姫(2006.07

くぐりぬけ(2006.06

牡丹・石楠花・藤(2006.06

桜咲く (2006.05)

語学オタク (2006.05)

里の春(2006.04

セザンヌ(2006.04)

ある晴れた日に(2006.03)

危機一髪(2006.03)

もち (2006.02)

信州渋温泉 (2006.02)

新年の誓い (2006.01)

年賀状 (2006.01)

 

 

朋友との鈴鹿

 

 禿羊さんと鈴鹿へキャンプに行きました。紅葉見物と、昨年いためた私の足の試運転のためです。西名阪で伊賀に寄り、伊賀牛を買ったあと、鈴鹿市椿大神社に向かいます。ここは猿田彦大神を祭っている伊勢一の宮です。

 神社の上の方の河原にテントを張ります。猿の多いところです。チーズとビールでのどを潤したあと、伊賀牛のしゃぶしゃぶを楽しみました。酒はワインと焼酎。禿羊さんはメーターが上がって、しゃっくりが出たらおやすみです。いびきがひどいので、私は外でしばらく起きています。月下に鹿やぬえどりの声が聞こえます。

 虫すだく鈴鹿の谷に火を焚きて酒くみかわす古き友かな

 秋澄みて月のさやけきこの夕べ心はしのに過ぎし日思ほゆ

 秋の夜の夢の浮き橋鳴きかかるおぐらき森に妻問う鹿の音

あくる日は朝明渓谷より根の平峠をめざします。千草越えといい、伊勢と近江を結ぶ街道で、織田信長も通って途中で甲賀側に狙撃されたとか。峠よりトラバース気味に愛知川源流へ降りていきます。川の横のかえでが色づいています。足の調子がいいので、杉峠まで行くことにしました。林には炭焼きの窯のあとが沢山あります。

 途中に鉱山跡があり、敷地のあとが残っていました。かなりの人数が住んでいたようです。杉峠から雨乞岳は40分ですが、引き返すことにしました。昼飯はラーメンということだったのですが、ガスボンベを忘れたのに気がつき、河原で火を焚きました。紅葉を焚いてラーメンを温むというところ。

愛知川源流を下っていきましたが、両岸はどこも歩けるという、気持ちのよい疎林でした。渡渉点は紅葉と水がとてもきれいでした。写真は禿羊さんのほうがカメラも腕もいいのでそちらにまかせます(写真)。足は問題なかったのですが、久しぶりに7時間歩いてかなり疲れ、帰りは大阪まで助手席でぐっすりと寝ていました。

 

 

ヨセミテ渓谷

 

 米国の西海岸に行って来ました。ロスでは石油王を記念した新設のゲッティ・ビラでローマやギリシアの彫刻とテラコッタを見ました。食堂のマグロサラダはおすすめです。印象派の絵画を集めたゲッティ・ミュジアムも有名です。ロスの北にサンタバーバラという美しい街があります。ここの桟橋でパンケーキを食べましたが、アジやイワシをサビキで釣っている人が大勢居ました。見ると後ろに、ペリカンがまっています。つれると、おじさんの落とした魚にぱっと飛びついていきます。ずぼらというのか、省エネというのか・・・(写真1)。さらに北上すると、海岸を見下ろす陸の上に新聞王の建てたハースト・キャッスルがあります。娘さんが過激派に誘拐されたという人です。中はまさにお城で、ローマ風の室内プールまでありました。金持ちの桁が違います。カーメルではきれいなギャラリーや海岸の別荘を見物し、モントレーではフィッシャーマンズワーフでおいしいブイヤベースをいただきました。夜の海にはアザラシがほえていました。

 ヨセミテ渓谷には、モントレーから車で6時間、平野から丘へ、そして山へと入って行きます。ここは花崗岩の山が氷河でざっくりと削り取られ、U字になった谷の両側は1000mもの壁に囲まれ、滝が落ちています。前に滝の見えるヨセミテロッジに2泊しました。近くで鹿や熊も見ました。熊は食料を車の中などに残すと荒らすそうです。    

一日、ミラーレイクのほうに歩いてみました。秋は水量が少ないので、滝を見るには雪解けの春がいいようです。松やもみの原始林が美しいです。見慣れぬキノコもびっしり生えています。ミラーレイクからは丸い岩山の半分が垂直の岸壁になったハーフドームを見上げます。圧倒的な景観です。そこから、1時間ばかり上に上ると谷が美しく見渡せます。谷の奥には雪の山々が見えます。この日はバーナル滝のほうにも行き、7時間ばかり歩きました。最後の日は、はなはだ高級なアワニーホテルでビュッフェの朝食をとり、グレイシャーポイントに車で上がり渓谷を俯瞰しました。遠くにはシェラネバダ山脈の脊梁が雪をかぶっているのが見えました(写真2,3)。おみやげに米松の巨大な松かさを拾って帰ってきました。

 

 

コスモス

 

 この稿に花のことが多いので、ある人が「花の好きな人はホモが多い」とおっしゃった。私は無論そうではないが、「なぜ」ときくと、「ニューヨークの花屋はそうなんだって」とのことでありました。やさしい人が多いのでしょうか。

秋の花といえば、菊、萩、竜胆などありますが、コスモスも可憐でよろしい。秋の一日コスモスを見にいきました。電車、バスと乗り継いで、サバーファームへ。初めはサパーかと思っていたら、味の農園という意味のようです。

場内に入ると、色とりどりのコスモスが咲き乱れています。赤、白、桃色のほかに黄色の珍しいものもあります。よい香りのするものもあります。

コスモスの乱るる丘に子らむれて遊びたわむるこの秋の日に

いちご、ぶどう、いも、みかんの園があり、この順にお客に実をとらせるようでした。今は芋ほりをしていました。食堂で大分待って食事をしたあと、売店で柿とぶどうを買いました。歩いて龍泉寺へ。果物が重たい。寺には庭園がありますが、池の島の橋やお堂は朽ちていて、一層わびしさがかもし出されます。いつか来たような記憶があるのですが、一向に思い出しません。

 山を越え、みかん園の横を歩いていくと、高校のログハウスがあります。そこを右に降りると、谷にこの7月里山保全の国際キャンプがあったところを通ります。滝谷不動にお参りし、滝谷駅まで約2時間でした。(写真蔵)

 

 

紅葉と温泉と猿

 

富山県の宇奈月温泉から欅平までトロッコ電車で乗っていくと、谷はまだ緑ですが、山の上はだんだんと色づいてきます。欅平からぶらぶらと歩いて小1時間で祖母谷(ばばだに)温泉に着きます。山小屋は白馬岳と唐松岳の登山基地になっており、登り10時間のハードコースです。

小屋の上流100mに祖母谷地獄があり、熱い湯がわいています。硫黄臭もします。猿が飛び出してきたので、湯に入っているのかと思ったのですが、どこも熱くてとてもはいれるものではありません。

小屋の下に地獄から湯をひいた露天風呂があり、いい湯加減です。川の水音を聞き、山を眺めながら湯に入るのは気持ちのいいものです。猿が石伝いに川を渡って行きます。土手には猿の一団がノミとりをしています。大胆なものです。

同行3人はというと、部屋の中にいるカメムシとりに追われました。あのくさい虫です。ちゃんと部屋にはガムテープが置いてあって、はじめはこれは何のためだと思ったのですが、テープで引っ付けて駆除するのが一番のようです。2人が観察して、「そこそこ」というと、もう一人がペタッという具合で、だんだん意地になってきます。食後も酒を飲みながら、10時ごろまで続きました。100匹はとったでしょうか。夜中に一人の顔の上に落ちてきて、くさかったそうです。仲間の復讐でしょうか。

明ければ晴天。祖母谷を奥へ林道をさかのぼりました。高度を上げるにつれ、紅葉が鮮やかになってきます。ぶなの黄葉も美しいです。谷の奥には雪のまだらについた白馬岳が見えます。谷の水もすさまじい青さをしています。

ばば谷の青き水面に映りたる色づきそめしぶなともみじと

トンネルがあって入って行くと、途中で真っ暗になります。壁を伝っていくとようやく明かりが見えます。真の闇は本当に怖いものです。トンネルを抜けると終点。小屋に帰って、最後の風呂に入り、帰路につきました。(写真蔵)

 

 

牟岐の奥山今日越えて

 牟岐は徳島県の南にあり、小学校の4年まで住んでいた海部の近くです。いろは歌の「うゐのおくやま」は小さい頃てっきり「牟岐の奥山」と思い込んでおり、海部川で泳いでいるときに牟岐の方の山を見て、あそこを越えて行きたいと思っていたものでした。今回は久しぶりにふるさとに帰った話です。

 牟岐でセミナーがあるというので、直通のバスに勇躍乗り込みました。神戸、明石、淡路島、鳴門と走って行きます。ふるさとを離れてから5回目の訪問になります。転寝をしていて目を覚ますと日和佐のあたり、雨が降ってもう薄暗くなっています。このあたりは海岸線が険しいので山の中を道が通っています。牟岐の駅には4時間半かかって到着しました、昔はここまでしか鉄道がなかったのですが、今は甲浦まで延びています。

先輩の親戚の民宿に入り、さっさとセミナーを済ました後、9人で酒盛り。船盛りと、あわびやイセエビの海賊焼きが新鮮で大変結構でした。あわびを腹一杯食べるのは本当に贅沢です。おとなしい宿の猫がいましたが、さしみは食べず、イセエビは喜んで食べていました。先輩の家に移って二次会。ここは築130年とかで、柱は囲炉裏の煙で真っ黒になっていました。町屋風の家なのですが、下に6部屋と二階もついています。3時近くまでだべっておりました。

翌朝は朝飯前に港を散歩。沖に大島と出羽島が見えます。昭和21年の南海大地震の時の津波の高さが電柱の2m以上のところについていました。避難場所も至る所に表示してあります。朝食に赤飯とパンを食べて一応解散。私は車で海部へ送ってもらいます。南海大地震のときに全滅に近かった浅川から遍路道に入り大里へ。このあたりは海南町海部町宍喰町が町村合併して海陽町になっていました。大里の松原を見て、八幡神社におまいりしました。ここの秋祭りのダンジリには稚児として乗ったことがあります。海部川をわたり、那佐、宍喰と走り、竹が島から太平洋を眺めました。台風前の波にサーフィンの人が大勢乗っていました。

海部で降ろしてもらい、短い時間でしたが、ふるさとを歩きました。物心がついた時に住んでいた家の上の明現神社にはヤッコソウの自生地がありました。11月ごろ見れるそうです。ここではよく椎の実を採りました。下にあるお寺では花祭りの甘茶が思い出されます。ここは母川の大うなぎも有名です。昔の海部銀座は閑散としていました。知り合いの家も無住のようでしたし、ほかの店もほとんど閉まっています。駅の近くに明現神社の山を削ってスーパーができたからでしょうか。昔は湾になっていた所は埋め立てられ、モダンな小学校になっていました。しかし町には子供の姿はもみえず、お年寄りばかりでした。海部を出てから今まで引越しを15回しましたが、ここがやはり一番心に残っているところです。写真と昔の歌を少し・・・(写真蔵)

 

常春の故里旅のなつかしき浜辺に寄する四国白波

妙見の鎮守の森の椎の木に子供心に帰り実ひろう

よき人の心づくしの阿波のすし柚の香かおり口に広がる

 

 

曼珠沙華

 禿羊さんが会社の人を連れて飛鳥へ曼珠沙華を見にいくと聞き、午後にぶらりと出かけてみました。近鉄飛鳥駅まで降り,吉備王姫の墓で四体の猿石を見、鬼の雪隠、鬼のまな板、亀石とたどります。造り酒屋で利き酒をし、いい気分で石舞台の方へ歩いていきます。柿もみかんもまだ一寸早いようです。

飛鳥川をさかのぼれば稲淵。ここの棚田のあぜに土地の人が曼珠沙華を植えて、今がちょうど花盛り(924)。陽が照ると、花の赤と、稲の黄と、草の緑のコントラストが見事でした。帰りはちょっとさびしい朝風峠を西に越えると、金剛、葛城、二上、畝傍の山々がよく見えました。飛鳥駅の横に野菜売り場があり、最後はショッピングツアーになり、重いリュックを背負って帰路に着きました。(写真蔵)

いにしえの都に咲ける曼珠沙華あきの陽ざしにつややかに照る

秋の田のあぜに生うる曼珠沙華万葉人も愛でし花なるか

 

 

OSK日本歌劇団観劇

 OSKの招待券応募には落ちたが、はずれの特典として当日券3000円が1000円になるというのにつられて初めて見に行きました。あやめ池遊園地と近鉄劇場を本拠にしていたのが、3年ほど前に近鉄がリストラで手放して(バッファローもこの時)、廃絶の危機にあったが、今は松竹が面倒を見ているようです。この少女歌劇団はルーツをたどれば80年前発足、OSK は大阪松竹歌劇団の略で、笠置シヅ子、京マチ子、桂米朝の嫁はんもここの出身だそうです。

 第一部は劇で、モーツアルト生誕250年にあわせ、アマデウスの才能に嫉妬したサリエリが毒殺しようとするというお話。途中でモーツアルトの曲が流れ、それに歌をつけたのもありましたが、これと少女歌劇風の歌が混じってもう一つ違和感があります。いっそモーツアルト一色でやってもらったほうがよかったという感想でした。

 第二部はレビュー。私の好みでもあり、一気に45分楽しめました。途中で出てきたヒップホップ系の踊りは衣装もおどろおどろしくてなかなか結構でした。これに男役が絡むのも不思議な光景でした。ラインダンスもベテランの多いせいか、足も高くあがり大変よくそろっておりました。

 研修生も23歳まで募集ということで、宝塚より5歳上の人を募集しています。そのせいか、団員の年齢が全般に高く、男役は男っぽく、女役は女っぽく、またあまりどぎつい化粧でないのが好感をもてました。少女歌劇というのはどういう理由で女ばかりなのか理由はよくわかりませんが、宝塚とともに、すでに日本文化遺産という存在でありますから、是非がんばってほしいと思いました。

 

 

信州温泉三昧

 去年痛めた足がまだもう一つ本調子ではないので、夏山はやめ、お盆あけに34日の温泉めぐりということになりました。

 同僚とともに、特急しなので木曽福島へ。そばを食べた後、レンタカーを借り、御岳6合目の中の湯へ向かいました。途中には御岳教の霊神の碑が多く見られました。途中のこもれびの滝に寄ってみると、滝つぼは冷風が吹き快適です。脇に巨大な桂の木もありました。ここから登ると油木の美林で、樹齢300年のヒノキがあるそうです。中の湯は登山小屋で78月のみ営業、100年前の建物だそうです。つくりは大広間が中心で、各部屋に御岳教の祭壇がありました。お風呂はヒノキ造りで白く濁っています。この日は風呂三昧で、ご飯もおいしくいただきました。20畳に二人で寝ましたが、肌寒いぐらいでした。夏に贅沢な話です。

  遠雷のとどろく御岳ゆぶねより白き蝶の飛べるを追える

 次の日は早く昼食を済ませ、山を下っていきます。途中牧場で草を食べているサルの一団に出会いました。開田高原はソバの花盛り。信濃から飛騨に越える長峰峠では御岳がきれいに見えました。

  過ぎし日に一人越えにし雪のたわ飛騨への道をまた越えんとす

ここから濁河温泉に足を伸ばしました。途中の日和田高原は白樺の美しいところでした。このあたりには合宿にきている高校生が沢山走っていました。ふりかえると乗鞍岳が裾野を広げて堂々とした姿を見せます。濁河温泉は御岳の登山基地で、旅館も多くあります。露天風呂に入りましたが、鳥の声、河の音、木々の緑が結構でした。ここから戻って、野麦峠を目指します。途中の日和田部落は昔雪の長峰峠を越え、泊めてもらった学校で懐かしさが募ります。野麦峠へはつづら折れの険しい道。峠には資料館がありましたが、ディスプレー類はすべて故障していました。町村合併でこの山の中まで高山市になっています。下って沢渡に車をおき、バスで上高地へ。私は上高地のファンなのです。奥穂は雲がかかっていましたが、前穂・明神はきれいに見えました。上高地は岩と河と森林がいいです。徳沢までぶらぶら歩き名物のリンゴを食べてきました。沢渡から乗鞍高原ユースホステルへ。ここは昨年夏に湯治で3泊したところで、白骨温泉と同じ泉質とのこと。夜は同室の6人で一杯飲みながらだべりました。一人は日曜日の乗鞍岳自転車競技に参加するとのことで、標高差1300メートルを1時間で登るそうです。

 三日目の朝起きると、雲がかかっているので、乗鞍岳はやめ、三本滝に行きました。15分ほど降りていくと、本流に一本、それに合流する2本の支流にも滝がかかって、大変めずらしい滝でした。

  行く夏の三本滝におつる水白きながれをあかずながむる

少し下って、東大ヒュッテへ。ここは何年か前の朝散歩をしていて偶然に通りかかった所で、湿原と草地と白樺林がすばらしいお気に入りの所です。一の瀬園地にも寄りましたが、暑く、早々にソバを食べ、島々に出てアルプスサラダ街道を北上し中房温泉へと向かいます。山道を登っていくと、燕岳登山口に新築の露天風呂があり、透明のお湯がさわやかでした。湯上りにアサヒ新生を飲みましたが、350円の値段のせいでほろ苦さがしみました。下る途中サルに何匹も会いました。穂高町の安曇野パストラルユースホステルは文字通り田園地帯にあり、環境はとてもよろしい。部屋も広く、料理もヘルシーでした。食後ビアタイムがあり、クラシックを聴きながら世界のビールを楽しみました。ユースホステルは色々な人と話ができるという楽しみがあります。ユースでなくても泊めてくれます。

 最後の日は、同室の人を乗せて、松本を抜け、美しが原に上がりました。高山植物が咲き乱れ、霧が出ていましたが、王が鼻からは時々松本の町が見えました。山頂からは美しの塔の方が広々と広がり、鐘の音も聞こえて来ます。鹿教湯に行くのはやめて、ここでのんびりと過ごしました。松本市内は込み、予約した電車に間に合わないのではと思いましたが、木曽路に入ると信号がほとんどなく、木曾福島で車を返して特急しなのにようやく乗りこめました。温泉には計14回つかりました。このせいか、足の方も調子よく、快適な旅でした。(写真蔵)

 

 

韓流結婚式

 2月までほぼ2年間韓国語を習っていた留学生が卒業、帰国し、結婚するからいらっしゃいとご招待を受けました。初めての経験なので、喜んで行きましたが、ただし2分間の韓国語のスピーチつきとのこと。熱心な先生です。彼氏ともすでに2回会っています。

 式場は安山(仁川の南)の礼式場。1時からの開始ですが、3階に行きお祝いを出すと、食事券がいただけます。花嫁花婿はと見ると、横の控え室で、友達なんかと写真を撮って、大サービス中です。衣装はタキシード風とウエディングドレスです。来る人はほぼ普段着に近い格好です。背広は着ても、白のネクタイはしません。

 いよいよ150人ぐらい入れる式場で式が始まります。花嫁はバージンロードを入ってきますが、式は無宗教、媒酌人なしで、人前結婚風に宣誓を読み上げます。そのあと、日本から来たもう一人の人と私が挨拶をしましたが、出席の人はヘンなやつらと思ったでしょうね。客の挨拶はこれだけ。スライドで両人の子供の頃からの写真が写ります。次に、両家のご両親にひざまづいて挨拶をします。そのあと両家の父から挨拶があり、これで式は終了。ついで、その場で家族、親戚の写真、全部で50人位いました。さらに、友人がワット出て集合写真。皆に催促されて、花嫁花婿は接吻をしておりました。ショー性の強い式です。

 5階の宴会場に行き、先ほどの食事券を出し、バイキングの食物をとり、適当に座って食べます。ホールの反対側ではもう一組の式の人が食事をしています。焼肉や寿司、ビフテキなどなんでもそろっています。酒はセルフで生ビールを飲みましたが、皆様は大体焼酎です。マッカウリが珍しいので食べようと思いましたが、残念ながらあまり残っていませんでした。一人の人などは退屈しのぎに友達を連れてくることもあるようです。そのうち韓服と背広に着替えた花嫁花婿が現れ、ちょっと挨拶をしてケーキカットをし、全部のテーブルをまわっていきます。後は流れ解散となります。

 日本から来た数人は珍しかろうと言うので、別室での伝統の式に呼んでくれました。格好は写真でご覧ください「写真蔵」。 花嫁のほほの紅がかわいいです。屏風を背にした花婿の両親にひざまづいて挨拶、酒を差し上げ、お言葉を頂戴し、その後二人のひざの上に広げた布の上に、両親が机の上に飾られたナツメの実を投げ入れます。これで生まれる子供の数が決まります。十数個は入ったでしょうか。おじいさん・おばあさん、さらにおじさん・おばさんにも挨拶し、妹や年下の従弟からは逆に挨拶を受けます。写真班に促されて、抱き合ったり、花婿が花嫁を背負って一周しましたが、どこまでが伝統の式でどこからがショーなのかは聞き漏らしました。

 

 

まつほの浦

 年に一度の恒例で、昔のクラブの友達と旅行をしました。今年は関西の当番で、新神戸駅に集合し、淡路島へ、明石大橋を渡るとすぐ、数年前の博覧会跡地の淡路花舞台。大きな温室には白いアジサイが寄せ植えしてあった。ここでは、3時から結婚式が行われるという。ウエディングドレスによく合うであろう。アロエの大木があったのには驚いた。外には海を見下ろす花畑があった。東のほうへ山越えをしたが、淡路花さじきは分かれ道を見過ごししたためパス、震災記念公園に行く。ここは二度目だが、阪神大震災の時にできた上下左右約50センチの断層を室内に保存している。震度7の体験というのにも挑戦したが、食卓のいすに座っていたら、転げおちそうになった。やはり震度7は大阪で体験したものよりすごい。記念館の外の食堂には、なまず丼というものがあり笑ってしまった。宿は岩屋で、昔の名では松帆の浦とのこと。敷地内に藤原定家の歌碑がある。

来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ

日暮れ時は晴れて、光る海、沈む夕日に通う船、紫に染まる雲が美しい。歌も作ったが、所詮定家にはかなわないので今回はのせない。総勢17名でにぎやかに食事をし、そのあとは部屋で近況報告、大演説を始めるものもいて、1時ごろまで。最後に寮歌を歌って就寝。

 次の日は福良の港から日本丸という、帆を張らない帆船に乗り、渦潮を見に行く。大潮を計算して行ったので、年中で一番激しい渦とのこと。鳴門大橋の下は、1メートルばかり段差がついて、瀬戸内から外に潮が流れ、激しいところでは渦になっている。小さい船は渦に巻き込まれているので、そのほうがスリルがありそうである。上陸して、昼食をとり、一隊は四国の剣山登山へ、こちらは、チリメンジャコ、アジ開き、びわを買って帰る。

 

歌姫

 岩国の南の周防大島に、大阪から移った人が2人いて、先日島に寄ろうと、前もって電話すると、83歳の方はなくなられたと聞き、呆然としてしまった。年に一度づつ計3回この島を訪問したのだが・・・もう一人の人が先に島に住み着き、その人の誘いもあって移り住んだとのこと。この方は、歌と踊りをよくされ、大阪を引き払って、この島の老人寮にきてからも、小学校や老人寮の人に歌を教えて、一種有名人になっていたのであった。和服や中国服で歌う写真をいただいたこともある。 

 最初に私が島に来たときは、いろいろ案内していただき、次の日には松山に船でわたり、坊ちゃん湯に入り、そのあと石手寺の前のうどん屋で、おいしくうどんを食べたのが思い出される。後になって、私がその方の皿からうどんを横取りしたと何度もいわれた。老人寮にも2度おじゃまをした。とてもサバサバした人で、妙に気があったのか、かわいがってもらったことがうれしく思われる。亡くなられる時は、迷惑をかけないように、人に知らせないようにといわれたとか。合掌。

 

くぐりぬけ

 連休前に4日間韓国を旅行してきました。詳しいことは別に書くとして、地下鉄の改札をやむなく潜り抜けるということがありましたので、そのことを少し。

 ソウルで地下鉄を降り改札を出ようと、切符を入れてもバーが動きません。料金が足りないのかと、清算機を探しても見当たらず、駅員も見つかりません。すると似たような人がいたのか、3本のバーの下をくぐっています。仕方なく私もくぐって出てきました。

 次の日は、切符を買って改札を入ったところ、逆方向と気がつきました。ええいと思っていると、おじさんが仕切りをぴょんと飛び越えて出て行きます。そんな元気はないので、くぐり抜けて出て、切符売り場の駅員に、まちがえたから切符を換えてくれというと、手振りで、こえるかくぐれというしぐさをします。やむなく、逆の入り口にまたもぐりこみました。

 ソウルからバスで2時間の百済の都、公州に熊津城跡と武寧王陵を見に行きました。城跡から武寧王陵へてくてく歩いていると右側に王陵が見えますが、金網が張ってあって、坂もきつくなかなか近づきません。見ると金網の下が大きくえぐれていて、人の入った気配があります。ではとショートカットをしました。帰りは人の出入りしている門から出ましたが、入場料がいるようでした。

 

牡丹・石楠花・藤

 連休最後の日、雨が降っていましたが、この雨なら当麻寺の牡丹も人が少ないだろうと、出かけました。お寺は奈良県の二上山の東麓にあります。駅から寺に続く道は、門前町の雰囲気があります。門を入ると。雨で大きな水溜りができて、通るのも大変です。当麻寺は、奥院と中の坊が浄土宗で、あとは真言宗というちょっと変わったお寺です。中将姫伝説と当麻曼荼羅で有名です。

 一番奥の奥院に入りました。庭は牡丹が満開です。雨除けか傘がさしてあるのがかわいいです。赤、白、桃色のほか珍しい黄色のものもあります。ここからは三重の東塔と西塔がよく見えます。紅葉の新緑も美しいです。極楽はこういうものかと感じさせる庭園です。

 石楠花があるというので西南院に入りました。前庭には牡丹やハンカチの木などがあります。裏庭は山を背にして池のある本格的な日本庭園で、ぐるっと一周できます。この山のところには石楠花がたくさん植わっていました。今年は少し遅いとのことで、ちょうど満開でした。赤、白のほか、黄色、紫色の石楠花がとても珍しかったです。

 あと、中の坊を見ようかと思いましたが、雨が激しくなってきたので、入り口の院の軒下で雨宿りをしましたが、ここの藤も見事でした。牡丹、石楠花、藤の写真をご覧ください。当麻寺の少し北の石光寺の寒牡丹も有名です。「写真蔵」

 藤牡丹咲ける寺の甍には春のおわりの雨のしのつく

 

桜咲く

 寒い季節がおわり、いっせいに桜が咲くと、浮き立つような気分になります。今年は、関東では満開というのに、彼岸がすぎても寒さが残り、冷たい雨が降ったりして、こちらではつぼみの状態というと、本当に待ちどおしくなります。暖かい日が二三日続き、やっと花が開くと、待ちに待った春が来たと、野へ繰り出します。知らぬ間にか咲いたのとは違い、じらされた末の開花は、喜びもひとしおです。

 通勤途上の家や学校の桜、大阪城や服部緑地の桜を見、49日には月参りの伏見大社の後で、桂川、宇治川、木津側の合流点にある、背割堤(せわりてい)の桜を見物に行きました。京阪電車の岩清水駅を降りると、人がぞろぞろ歩いています。橋にかかると、向こうの堤にあわあわと桜が連なっています。

 近づくと堤は満開の桜。堤の上を歩くことになりますが、木も大きく、堤の両側にたれていて、なかなか見事です。全長1.4Kmあるそうです。堤の下は宴会の人で一杯。遠くへ行けば人も少なかろうと、どんどん歩いて行き、下へ降りて見上げるとこれまた結構でした。風が吹くとはらはらと花びらが飛んできます。

 桜咲く春の喜びかみしめぬこの惑星に人とうまれて

 風に舞う桜花びら手にうけて呪文をひとつ唱えてみたりす

染井吉野の満開から10日もたてば、八重桜があでやかに開きます。東京の新宿御苑の八重桜にはとてもかないませんが、長居公園にもかたまって何本かあり、去年に続き今年も訪れました。人も少ないので、草の上に寝転び、本を読んだり、昼寝をしたりします。こんなときは西行法師の歌が、しみじみと実感できます。

 ねがはくは花のしたにて春死なんその如月の望月のころ(西行法師)

禿羊さんと、信州安曇野と高遠の桜を見に行こうといっていたのですが、私の方の不祝儀で実現できませんでした。桜と紅葉は北へ追いかけていきたいものです。養蜂家になればいいのでしょうか。「写真蔵」

 

語学オタク

 語学オタクといわれたことがあります。本人も自覚しており、これまでにお金を使って習った言葉は、英語、フランス語、韓国語、スペイン語、中国語、ネパール語の順になり、現在も韓国語を留学生に習っています。どれもものになりませんが。

 年をとると朝が早く、6時に目が覚めて、ラジオ講座で、英語、ドイツ語、韓国語、フランス語、英語、スペイン語と聞くと、出勤の時間となります。眠いと、睡眠学習をしている場合もありますが、これはほとんど効果はないようです。オペラのアリアの理解に、イタリア語のテキストもながめています。

言葉というのは厄介なもので、上達には時間がかかりますが、ほんのわずかの時間で忘れてしまいます。ネパール語のサンスクリットは,一時は読み書きできたのが、今はすっかり忘れてしまって、以前のノートを見ると夢かまぼろしのようです。従ってたくさんの言葉に手をつけると、大変厄介なことになり、維持するためには他に何もできなくなる可能性があります。

家には、有線放送が入っていて、一週間前のラジオ講座の、全部の言葉を流しています。日曜日には聞いたりしますが、6日分で1言語2時間かかるので、大概疲れます。退職したら、これだけで余生を送れるという感がします。どこにも行かず聞いているばかりで、何になるのかという疑問は残りますが。オタクとは所詮そういうものかもしれません。

知らない土地に行くときには、「55カ国語で話そう」という本から、言葉を五つだけ覚えていきます。こんにちは・すみません・トイレはどこですか・ありがとう・さようならの五つです。これで何とか生き延びることができます。なまじ、いくら?などと言えても、返事の金額はわかりませんから無駄と思われます。眼鏡をかけ、カメラをぶら下げて、トイレを聞くのは日本人といいますが・・・

 

里の春

 以前住んでいた生駒山系のふもとでは、園芸用の花の栽培が盛んでした。3月になると花桃がまず咲き始め、ついで、ぼけ、小緋寒桜、沈丁花、れんぎょう、木蓮、さんしゅゆ、日向みずき,山吹、桜と次々に山が彩られます。心のうきたつ季節です。

 日当たりのいい傾斜地が栽培に適しているとの事で、山の中腹のそれも相当の傾斜地に花木を植えています。たずねるのも大変です。自動車道路の切れたところから谷を渡り、細い道を登り、滑りそうになりながら行くと、夢のような景色が開けてきます。小緋寒桜の濃いピンクに混じった白い木蓮が見事です。

 山腹を横切り、隣の谷へ降りていくと、れんぎょうやぼけがあわあわと咲いています。毎春写真を撮りにきているひとも多いようです。個人で出された写真集をいただいた方もおられました。里山保全の下草刈りをしていた先輩の方でした。私の撮った写真を何枚か「写真蔵」のところに載せておきます。

下へ降りていくと、花桃が多くなります。つぼみの時に刈り取って水につけ、おひな祭りにいっせいに咲いたのを出荷するようです。山の仕事もなかなか大変です。こちらは楽しんでいるだけなので、道が悪いからと文句をいうのはひかえ、枝をおったり、踏みあらしたりしないようにと気をつけねばなりません。

別な谷には、もみじが群生していて、11月の終わりになると全山紅になります。山の頂上近くにもやはりもみじの大木の多いところがありますが、山登りをせねば見えないところですから、いわば隠れた名所ということになります。自分用にそっととっておくということでしょうか。

ひなざかる里にはあれど春されば木蓮の花華やかに咲く

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セザンヌ

 セザンヌが好きです。風景画では山や家壁の土色と紫がかった陰、そして木の緑と青。静物画では、果物の赤から緑、青へ変わる色彩。少し顔のとがった人物像。このところ眼福にめぐまれていて、大阪でのプーシキン美術館展へは2回、ポーラ美術館展は東京と京都の両方を訪ねてきました。

 プーシキン美術館展では、サン・ビクトワール山を描いたものが大変よく、前にしばらくたたずんでいましたが、はっと前に見たことに気がつきました。中学校の教室の壁にかけてあって、いいなあと毎日ながめていたものだったのです。久しぶりに出会ったということになります。セザンヌの移り住んだプロバンスの風景だということです。

 ポーラ美術館展でもプロバンスの家というのがありました。アルルカンというピエロの絵もよかったです。化粧品会社の社長が1950年ごろから収集したもので、質・量ともに驚くべきものです。女性の方々の貢献に感謝しなければなりません。箱根の仙石原に美術館があるので、温泉がてら一度いってみたいものです。ホームページを参考までに。http://www.polamuseum.or.jp/

何年か前に、ニューヨークのメトロポリタン美術館をみた後、はるばるフィラデルフィアまでバーンズコレクションを見に行ったことがあります。タクシーも散々迷い、おまけにお屋敷は閉まっていて、ベルを押しても、独立記念日の休暇でお休み、とのテープしか流れてこず、泣く泣く帰ってきたことがあります。世界で最高の印象派コレクションということだったのですが。http://www.barnesfoundation.org/ed_c_highlights.html

 いつの日かプロバンスの里おとずれん夢にあくがれし丘をたずねて

 

ある晴れた日に

 オペラ歌手の大岩千穂さんを聞きに、シンフォニーホールへ行ってみた。オペラの定番の曲が多く、席も中心からずれてはいるが、かぶりつきの次ぐらいであった。期待どおり、ソプラノは高音に伸びがあり、今迄で聞いた中でも、もっともすばらしいものだった。

「うたに恋して」のテーマどおり、心から歌が好きな様子が伺え、好感が持てた。休憩の時もやや興奮気味だったが、後半のプッチーニのラ・ボエームに入ると夢見心地になり、ついにマダムバタフライの「ある晴れた日に」を聴いていて、例の高音部で何故か鳥肌が立ってきた。いわゆるゾクゾクとした感覚で、これははじめての経験だった。

何か懐かしさを覚えさせるようなメロディ、あるいは哀愁を帯びた曲ではいままでにも涙が出たこともあったが、このようにゾクゾクとしたことはなかった。その後は、3曲のアンコールのときも、出て来たときも放心状態であった。歌のすばらしさをしみじみ感じた日であった。

うたかたの恋のしらべにゆれうごく歌のちからのいやつよければ

 

危機一髪

 またも、秋田に行ったついでに足を癒さんものと、乳頭峡温泉を目指した。昼前に秋田駅に行き、新幹線に乗るが、時間になっても動かない。そのうち、車掌さんが、田沢湖の先で列車が雪崩に突っ込んで動けないという。ついに運行停止となり代行のバスが出ることになる。ほとんどの人は盛岡以遠でバスに、県内へは2台のタクシーに分乗して、角館、田沢湖へと向かう。

 2時間かかった田沢湖の駅は、止まったままの列車にまだ人が乗っていたり、代行バスで混雑をしている。ここから路線バスに乗り換え、人のいない田沢湖を通り過ぎ、山の中に入っていく。雪は3メーター近くある。

 鶴の湯の前にテレビ局など車がたくさん止まっていてバスが容易に通れない。何事かと思っていたが、これが雪崩による露天風呂の事故だと知ったのは、蟹場(がにば)温泉についてテレビを見てからであった。

旅館は数ヶ所の温泉の一番奥にあり、秋田杉の風呂がなかなか情緒があった。露天風呂は夜に偵察してみたが、雪がふり、100mばかりの道は危うく、寒さで手ぬぐいがバリバリに凍ってしまったので断念した。

次の日は、まあまあの天気で、雪の露天風呂を楽しんだ。ここは横の穴から湯が湧いている。部屋では、トリノ五輪の開会式で、パバロッティの「誰も寝てはならぬ」を聴けたのは幸いだった。これはお気に入りの曲である。

鶴の湯には、12月に申し込んで断られたのだが、もし1日前に泊まっていれば、雪崩にあったかも知れず、当日の客は角館に移動になったという。秋田市でも、ひとつ後の列車であれば、運休で田沢湖までたどり着けなかっただろう。豪雪の折、君子危うきに近寄らずか。

みちのくの湖(うみ)のほとりのこずえには雪からすのみさびしくとまれる

さらさらとさらさらとふる粉雪を湯よりながむる山かいのやど

 

もち

 もちが好きである。正月以外には食べるわけでないが、雑煮やら焼いたもちに醤油と砂糖をつけて食べるのはうまい。何年か前に正月休みが9連休あったときは、3個のもちを入れた雑煮で3食食べていたら、9日間できっちり9キロ肥えてしまった。此の頃は一日に4個ぐらいにとどめている。

 9キロ肥えたときはさすがにズボンに困って、2月になってから歩いてやせることにした。大阪より大和川に沿って奈良県の王寺に入り、奈良市まで50キロ超を一日かけて歩くと7,8キロの減になった。あとでビールを飲むと半分は戻ったがそれでも大きな成果である。

 体重は生涯(そんなに長くないが)結構変動している。学生時代山登りをやめたら、1食に飯盒4合を食べるという胃拡張だけが残っていて、一挙に20キロ肥えた。あの頃の写真を見るとまるで風船である。その後半分を減らし、別項にある東欧遍歴3ヶ月の飢餓旅行で10キロやせた。しかし日本に戻ってしばらくたつとまた元に戻ってしまった。このごろはやや肥え気味である。

 ちなみに、奈良まではこのほかに2回歩いている。初めては中学か高校時代で、教科書に江戸時代暗峠を越えて大阪から毎日魚を運ぶ話を読んだのが動機である。暗峠も砂茶屋も地道であった頃の話である。もう一回は数年前大阪から伊勢までと言うことで歩いている。このとき伊勢街道を奈良県と三重県の県境の杉平まで行ったが、あと二日のところをまだ達成していない。大阪の玉造神社から晦日の夜に伊勢神宮につくお伊勢参りが毎年開催されていると聞くが、毎年足を痛める人が多いので沿道の薬屋は繁盛するそうである。

 過ぎし日に人と往きにし道ならば雪の峠をまたこえんとす

 

信州渋温泉

 所用で長野市に行ったついでに渋温泉に泊まってきた。正月明けで雪の多い善光寺平を信州鉄道で行く。湯田中温泉で降りてタクシーで渋温泉へ10分。屋根の上に雪が1メートル以上ある。古い旅館を希望したら、戦後すぐの建物であろうか、湯治場の雰囲気を持った宿である。

 風呂は旅館内に露天3か所を含め5つある。一番大きな風呂は地下6メートルから湧いた湯をかけ流しにしてあり、板で仕切ってあつめとぬるめに分けてある。いい湯であるが隙間風で顔が冷たい。ついた日は3回入った。食事は部屋食であるのがよろしい。

 次の日は外風呂に行ってみる。石畳の街を下駄をカランコロンとさせながら湯めぐりをする。前の日から夫婦で回っていると言う人と一緒になる。大湯は広々して、蒸気浴もあり、なかなか結構である。9ヶ所あるが、次の湯に行くのに雪が降ってきて体が冷えるので3ヶ所でやめる。

旅館内で入り残したのがあるのでまわってみる。ひとつは座敷風呂で、風呂だけは外に露天になっている。前面は雪の壁である。次は小さな家族風呂。亀風呂という亀の形をした露天もあって、入ろうとしたらもう客がいないせいか、熱くてアッチッチと飛び出した。そこで廊下の向かいの中庭にある本格的な露天に飛び込んだが、これはギャーというぐらい冷たい。下の方はまるで氷水である。とその時上のほうから声がする。旅館の女の人が3階の屋根から顔を出して笑いながら、「すみません。屋根の雪を落としていますから。」・・・・結局風呂には2日間で11回入ってきた。

みすずかる信濃渋の湯冬ごもる松より落つる雪にめざめぬ

 

新年の誓い

 毎年年が改まると、その年の目標をたてる。2005年は、第二歌集を作る、アウトドア40日、英語のスキルアップの三つであった。

まず歌集のほうは、禿羊さんの好意を得てホームページに寄生させてもらって、何ヶ月かかけてようやく出来上がった。結構苦労した甲斐があって、二三人は見ていてくれるらしいのだが、文法がおかしいという指摘もあり、印刷すべきか、果たして印刷の値打ちがあるかどうか、迷っている。

アウトドアは、熊野行きが8日間あり、5月で16日と今年はまあまあと思っていたところ、なんと5月末に肉離れを起こし、おまけに坐骨神経痛と診断されてしまった。足の賞味期限切れとの事である。仕方なく、夏は山のかわりに温泉ということにし、乗鞍高原のユースホステルに行った。3千円で2食温泉つきなのである。起きては温泉に入り、本を読んでは酒を飲み、飯を食っては昼寝というまことに結構な4日間、温泉には20回入った。あと北海道の旭岳温泉と兵庫県の湯村温泉にも行った。温泉もアウトドアの中に換算して、ようやく37日となった。

英語のほうは、昔の先生にまた習い始めたのだが、彼女が夏前に別府へ引っ越してしまったので中断してしまった。朝にラジオ講座を聞くことで現状維持に努めているというところか。

さて、今年の目標。アウトドアは一応目標40日。伏見大社への月参りと、温泉など旅行を含んでということとする。先日久しぶりに「星の王子さま」を読んで、大変気にいったので、早速原本を買ってきた。というわけで、言葉はフランス語。最後は、このホームページを読んでいただいている方々への手紙のつもりでなにか書き続けること。どうか本年もよろしく。

 

年賀状

 かなりの方から年賀状をいただいたが、返事は出していない。数年前からそうしていて、理由は地球温暖化防止のためと言っている。

 そういうわけで、我が家にはテレビも新聞もない。テレビは時間の無駄と言うこともあるし、新聞も広告が半分あり、また折込広告がごみになる。ニュースはインターネットから入手している。ただきょうびテレビがないことで変人と思われているふしがある。

 待機電力も馬鹿にならないので、コンセントのところにスィッチをつけて、小まめに消している。風呂も夏はシャワーのみにしている。一戸建てに住んでいたときは、庭の散水用に雨水タンクを使っていた。なまごみも堆肥にしていた。

 昨年夏には、クールビズが流行したが、ノーネクタイは私の性格にはぴったりである。6月から10月まで続けていた。昨年12月に寒波が来たとき、スーパーへ行くと、ウオームビズ製品が並んでいるので、久しぶりにパッチを購入した。アンダーウエアにもいろいろある。

 本もできるだけ図書館で借り、読みたいものがあるとき買うのは単行本で、カバー、袋なしをお願いする。つまらなければ職場へ持って行ってリサイクルし、家で保存しても場所をとらない。写真もアルバムをやめてCDロム保存にすると、スペースの節約に最適である。

 テレビを捨てたとき、車で回ってくる人に無償で引き取ってもらった。どこかで再利用するらしい。冷蔵庫も、省エネ型が出回っているが、これに買い換えるかどうかは悩ましい。今の冷蔵庫がごみになるからである。故障するまで待つと言うことにするのであろうか。

 環境家計簿と言うものがあるが、要は、電気、ガス、石油、ガソリン、ごみを減らすことである。これから言えば、車に乗らないのが多分一番効き目がある。何かほかにネタはないかと考えつつ、楽しんでいる。