十津川にて (Dec.2009)
紅葉と絵画または音楽 (Dec.2009)
秋きぬと (Nov. 2009)
戸隠山とそば (Sept. 2009)
恐山とねぶた (Sept. 2009)
七月のことども (Aug. 2009)
温泉と地酒の旅 (Jul. 2009)
晩春のインフル騒動 (Jun. 2009)
四月から (Apl. 2009)
アンコールワット・ホーチミンの旅 (Apl. 2009)
フィットネス考 (Mar. 2009)
冬のプサン (Feb. 2009)
2008年のことなど (Jan. 2009)
十津川にて
十津川村は面積は全国最大の村、人口は四千余人とある。大峰奥がけ、小辺路歩き、瀞峡のカヤック下りなどで訪れたことがある。秋も深まりゆく日、仕事の知り合いのT氏に連れられて訪れた。大和八木で待ち合わせて、もう一人のS氏の運転するベンツのジープに乗って出発。葛城山沿いの道を通り、五条で柿の葉すしを仕入れる。賀名生に入って柿の店に寄り立ち寄る。周りは一面の柿畑で、山々が柿の葉の赤に染まっている。
天ケ辻を越えるといよいよ十津川村に入る。昭和30年代はこの道はなかったそうだ。途中でソバを食べ、道の駅に寄る。笹の滝は細い林道を30分、沢の道を100m歩くと前日の雨でせいで32mの滝が轟音を響かせて落ちている。滝つぼから下も急流となって流れ落ちてゆく(写真)。周りの紅葉と岩壁が美しい。過日滝を訪れた人が行方不明になったとのこと、沢に水量の多いときならひとたまりもあるまい。
T氏は十津川出身で、実家の横に離れを持っていて、今日はそこでの泊り。荷物を運び込んだ後、近くの昴の湯に入りに行く。ここはホテルもある。帰ると同窓生が取ってきてくれたという松茸が三本あって感激した。50歳を過ぎた頃から頻繁に中学の同窓会を開いて、先日は皆で明治の大洪水の後被災者が移住した先の北海道の新十津川村を訪問したとのこと。夕食は焼き松茸、マグロ刺身、クエ鍋と豪華なメニューである。ビールとワインをいただく。午前様になる前に就寝したが、S氏のいびきと歯ぎしりに悩まされた。眼がさえたので、十津川警部天誅組殺人事件を読んだ。夜は結構冷え込んだ。
明けると一面の霧。上流に向かって散歩をする。平地がないので、棚田か斜面の畑である。昔はアワ・ヒエが主食であったらしい。神社にお参りしたが、敬神の土地で明治の廃仏毀釈以来お寺というものがない。南朝以来尊王の土地柄でもあり、天誅組の乱にも郷士が参加して酷い目にあっている。朝食は茶粥とフグの干物、片付けて玉置山に向け出発。
玉置山神社は駐車場より水平の道をたどると境内にでる。社務所が重要文化財になっており、中の襖絵が見事である。大峰奥がけの時はここに泊めて貰い、神社へのお供えが沢山あると鍋のご馳走にもなった。その翌日は南へ下り、熊野川を素足で渡って水ごりとし、大斎原に参ったのであった。玉置山神社はまた杉が立派である。樹齢三千年の神代杉のほか夫婦杉など、屋久島に行かずとも縄文時代の杉は見られる。頂上に上り伊勢方面を望んで合掌し山を下り、天ケ辻でうどんを食べ十津川村を後にした。
紅葉と絵画または音楽
十津川村に行ったときの笹の滝の紅葉と玉置神社の襖絵のことは別項に書いた。絵はこのほか、信楽にあるミホミュージアムに若沖ファンに連れられて行った。大阪から5人で車に乗り、名神、新名神と進んで信楽で降りる。途中の山は色づいている。川に沿って遡り途中で山に入ると、風に紅葉が舞って美しい。ミホミュージアムは信楽に来たときついでに2回ほど寄ったが、展覧会目的は初めて。入り口の紅葉がきれいだ。若沖はお得意の鳥のほか、野菜も楽しい。新しく発見されたクジラとゾウの屏風絵がとても面白かった。ここのガンダーラ立像仏は好きだ。
友達の娘さんがコンサートを開くというので京都に出かけていった。ピアノとバイオリンでプロコフィエフを3曲演奏した。革命後の亡命期からスターリン時代まで、曲も暗い印象があった。知らない曲ばかりであったので、少ししんどかった。終わって向かいの御所を通り抜けて帰った。ケヤキやイチョウ、モミジが色づいて爽やかであった。街中にこれだけの緑のある京都がうらやましい。
大阪城の公園も紅葉の盛りである。イチョウ並木は日が照ると黄金色に輝く。お気に入りの石のベンチに座ると紅く色づいた楓の葉が落ちてくる。一番上から徐々に色づいてくるのがきれいである。夜はサンケイブリーゼホールでイタリアのソプラノとバスのデュオのオペラアリアを聴く。ソプラノはあくまで高く、バスは体に響くような低音で、かぶりつきに近いこともあって声の魅力に圧倒された。アンコールも3曲あり、後でちょっと飲んで有意義な一日であった。
映画は「沈まぬ太陽」と「ゼロの焦点」の二本を見た。「沈まぬ太陽」は山崎豊子がアフリカにとばされていた日航社員に話を聞いたというだけに、話は真に迫っている。国民航空NALとなっているが、JALが左前の今だけに話題性は高い。三浦友和の悪役振りがなかなか板についていた。「ゼロの焦点」はテレビで「点と線」を見たので行く気になったのだが、昔読んだはずの話は完全に忘れていた。話に現実味が乏しいのは戦後それほど年月を経たということだろうか。やはり松本清張では「砂の器」が最高か。
秋きぬと
9・10月はインフルも拡大しているので、遠出はやめて安近短に徹し、飛鳥へ彼岸花、月ヶ瀬へ栗拾い、京都へ音楽会、大阪湾のクルーズに出かけた。
彼岸花はこの3年続けて出かけており、最近お目当ては当地のブドウに移りつつある。朝一番、近鉄で飛鳥駅まで行き、高松塚の北側を通り、平田のほうへ入って行く。ここから朝風峠を越えると稲淵の棚田が広がっており、彼岸花の季節は人であふれている。地元の人が作った案山子も立っている。一度飛鳥川まで降り、近在のおばあさんから野菜を仕入れ、新道を戻って、ブドウ園にブドウを買いに行く。巨峰、飛鳥スマイル、飛鳥ジャイアントという3種類を仕入れてご満悦である。駅の近くの直販店で目一杯野菜を買い込んで午前中には大阪に帰りついた。
月ヶ瀬の恒例の栗拾いを、9月末は同僚・友人達と10月始めは町内の人といずれも十数人で出かけた。栗は盛りを過ぎていて、数は取れなかったが、ブッシュの中で竹でイガを叩き落すワイルドな栗取りを楽しんだ。バーベキューと焼き芋も好評であった。同僚との会では沖縄武芸の鎖鎌の実演と帰りに笠置で果物と野菜を大量に仕入れたこと、町内会では飲みすぎた人を肩車して運び一台列車が遅れおまけに事故で学研都市線経由で帰ったが、それはそれで面白かった。
京都から山陰線特急で40分、胡麻の駅で降りて15分ほど田んぼの中の道を歩くと、かやぶき音楽堂があり、ドイツ人と日本人夫妻のザイラー・デュオのコンサートが開かれた。家は福井の禅寺の本堂を移築したもので当日は150人くらいの聴衆が入った。メンデルスゾーンの曲を、田舎のさわやかな風が通る畳敷きの窓際で聞いているのは不思議な体験であった。ケーキとお茶をはさんでの公演の後、新米のおにぎりもいただいた。
大阪市は1993年就航のAKOGARE(http://www.akogare.or.jp/)という帆船を持っていて、訓練生募集のポスターを見て応募した。3本マストで13枚の帆、全長52m、362トン、45名収容とある。南港より10時に出発し、11時に帆を張るがこれがなかなか大変な作業で、クルーの指揮の下、訓練生19名が、2-6-heaveという掛け声をかけて、綱を引くのである。甲板の周りは綱だらけである。命令の伝達や報告も英語で、復唱するが意味が良くわからない。マストのぼりの体験では15mの高さで縄梯子がオーバーハングになっている所がいやだった。途中にわか雨が降ったり、うねりで船が揺れて病人が出たりした。留学生が7人きていたが半分は船酔いしていた。夜は神戸港の沖に停泊した。禁酒なので三宮の灯りが恋しかった。2日目朝はうねりも治まり、6時半から椰子の実で床みがき(タンツーという)などしてまた大阪湾を帆走、途中で帆の向きをかえると船の傾斜が逆になっていかにも帆船航行という感じがした。天気もよく甲板に寝転んだり食事をすると気持ちが良かった。食事つくり、食器洗い、便所や廊下の掃除もしっかりやってきた。
夕陽はまさに大橋に沈みたる白帆わたれる風もさやけし
外つ国の人ら集える帆船の語らいもまた一期一会なり
戸隠山とそば
白馬会の今年の行事は戸隠行となった。メンバーの一人の卒業校K大が山小屋を持っているからである。大阪からはかなり遠いが、標高1000mを越えれば避暑にもなろう。
お盆の一日、四人が新幹線で名古屋、特急しなのを乗り継いで長野市、町は暑いのでレンタカーで早々に戸隠を目指す。途中で大師法師池で休憩、白鳥型のボートが目障りだ。農家が出している店でマッカウリとメロンを購入。宝光社の長い階段を登ってお参りし、神ん道を歩いて中社へ。地酒を買い、そばを食べようとするが、お目当てのうずらや屋はすでに売り切れ、近くの岩戸屋に入る。実は私はそばの味が良くわからないから気にならない。越水ケ原の山の庭タンネに泊まる。50年はたつ風格のある木造のロッジである。スキー場付近を散歩、戸隠山の鋸がかっこよい(写真)。K大小屋は大きい。夕食は一皿づつ提供される和食を堪能し、部屋で地酒で宴会、ベランダで主人と話す。周りは今は白樺や唐松の林だが、昔は採草地だったという。石油と化学肥料がでてきて、草地が林に変わったと主人は言う。5月10日頃小屋の前のカタクリが満開になるという。
明けると戸隠山は雲がかかっている。奥社の長い参道をたどる。随身門を越えると立派な杉並木になる(写真)。傾斜が増して、石段になると奥社、前に戸隠山が聳えている。登山道は連日の雨で崩れているところがあるらしい。いきなり直登となり息を切らせて登っていく。ガスの中に入ると小雨となり、五十軒長屋、百軒長屋という岩壁の横をたどっていくと鎖場に出る。二番目の鎖場で足場が丸石で雨ですべるので断念して降りることにする。小屋に帰りシャワー、そばを食べに行くが、うづらや屋は長蛇の列であきらめて山口屋へ。地産夏野菜てんぷらそばをおいしくいただく。また小屋へ帰って昼寝後、戸隠牧場を見に行く。キャンプ場はぎっしりとテントで詰まっていて人口密度は都会より高い。牧場は入場料がいるので入り口から眺めて、鏡池に向かう。ここは数年前の秋にキノコ狩りに来たことがある。前のロッジに入ってそばガレットとりんごタルトを食べる。大雨が襲う。小屋の夕食はフランス料理、スペインの発泡酒カバを開けてご主人にも振舞う。部屋でまた宴会、メロンなどを食べる。
鋸の戸隠山に登りたる修験の道の険しかりける
戸隠の蟻の門渡り雨降りて越すに越されず寂しく帰りぬ
朝はいい天気だが、戸隠山は見えない。山を下って野尻湖へ。下るにつれ小雨になる。途中農家の出店や道の駅で、ブルーベリー、トマト、桃、ヨーグルト、りんごジュースなどを買う。野尻湖は雨で寒いぐらい、真夏に贅沢である。釣りの人多し。ナウマン象記念館で湯タンポ型の臼歯化石に触り感激する。全国各地から毎年ボランティアが発掘に来ているようだ。黒姫高原にのぼり、温泉に行くが貸切で二軒断られ、新潟県妙高の杉野沢温泉に入る。食後休憩室でパン、生ハムと果物などで昼食をとる。長野市まで40分、駅で土産を買って列車に乗り込んだ。
恐山とねぶた
この地域は旅行社にきくと車がないと不便というのがあたっていて、下北半島の大湊線は昼間3時間便がない。その日は恐山に行くのはあきらめて青森空港から三内丸山遺跡に直行する。ついたとたん発掘の説明があると放送があり暑い中を走ってゆく。縄文時代のゴミ捨て場である盛り土を掘った幅1m、深さ2mのトレンチの底には陶片や石棒が露出している。5千年前の遺物につい手が伸びそうになる。この日が初日というボランティアガイドに案内してもらった。遺跡は千1500年間にわたり住み続けられた縄文の巨大集落であり、竪穴住居は数百も見つかったという。広い共同の住居も何戸かある。有名な巨大やぐらは直径1mの椎の杭が6本立っていたとのこと。復元にはロシアの椎材を使った。食物は栽培したクリの他、ブリ、ヒラメ、小動物と何でも食べていた。昼食にクリ、クルミ、松の実の入った縄文コロッケを食べた後、バスで青森駅に出、東北線で野辺地、大湊線で下北まで。ホテルは斗南温泉で、窓の正面に恐山が見える。斗南藩は会津藩が会津戦争に敗れた後、移封されて苦労した所である。
明けてバスで恐山へ。途中冷水があり、1杯飲めば10年、2杯飲めば20年、3杯飲めば死ぬまで長生きするという。私は1杯にしておいた。まわりは見事なヒバの美林である。恐山菩提寺に入ると荒涼とした風景に変わる。いわゆる地獄である。東北の人は死ぬとここにくると信じているとのこと。シーズンではないがイタコもいた。地獄めぐりをして賽の河原、そして宇曾利湖は極楽(写真)という。このカルデラ湖は周囲10キロある。
恐山心と見ゆる湖を囲める峰も蓮華なりけり 大町桂月
境内にある温泉に入る。木の浴槽が2つあるだけであったが、白いにごり湯が心地よかった。外へ出て風に当たると寒いくらいであった。
下北より野辺地へ、特急に乗り換え弘前へ。車窓からお岩木山が見える。ホタテがうまい駅前の飲み屋で時間をつぶして、ねぷた会場へ向かう。交差点で待っていると、前にいる人が見た顔ではないか。ほぼ数年ぶりの再会である。定年後大阪から郷里に帰ってきたとのこと。3兄弟に案内され椅子まで借りて鑑賞する。保育所のねぷたはかわいい。町内から出しているので昔はけんかがあったとのこと。弘前は扇ねぷたといって青森の人形ねぶたとは違うし、また五所川原の立ちねぷたとも違う。絵柄から優雅な感がした(写真)。青森へもどり、ラッセランドに行って青森ねぶたの前夜祭を見る。点灯しているだけなのだが10台ばかりならぶと相当に勇壮である。費用は一台2千万かかるとか。大きいものには企業がついている。
3日目は八甲田山の方へ行った。ケーブルで登ると一周一時間の遊歩道がある。湿地にオオバギボシなどの花が咲いている。青森トドマツの黒い松かさがめずらしい。少し登るとハイ松がある。高度は1300mだが、信州の3000m位の植生と似ている。ハイキングの人は大山を越えるという。その向こうが明治35年の八甲田死の行進の場所である。ガスが厚いが時々晴れて周りが見渡せる。降りて酸ケ湯へ。このあたりのブナ林がすばらしい。千人風呂に入る。「混浴を守る会」の三か条が貼り出してあり、男女お互いじろじろ見るなとある。白い湯で、浴槽は大と中合わせて2百人は入れるであろう。旅館部のほかに湯治部もあり、自炊もできるらしい。観光客の多いのが難点だが、年をとったら夏はこんなところでのんびりしてみたい。冬は南国で。青森に帰ると駅前をねぶたを引っ張るハネトを載せた自衛隊のトラックが続々と通っていった。雨が降ってきたのでねぶたはビニールをかぶせて引くようだ。私は今日帰るので、特に残念とは思わない。
七月のことども
諸事多難で遠出のできなかった7月であった。映画は「剣岳点の記」が印象的であった。昨年立山に行ったときようやく撮影が終わったという話を聞いていたが、一年かけて公開されたもの。新田次郎の原作とちがう部分や若い俳優の生煮えの演技が気になるが、山の映像美は圧倒的である。どこも知っているだけに感動が深い。遂に頂上に登りつく前の長次郎谷の雪渓を俯瞰した場面が特にすばらしい。ビデオの小さな画面では味わえぬ映画の魅力である。
コンサートは4回行った。一つは大阪フィルで、かぶりつきであったので、指揮者の汗が飛んできそうであった。バイオリンの人のしぐさも見えて退屈しなかった。「シェラザード」では余り気持ち良くて(いつもだが)寝てしまった。アンコールの「ブラジル」はにぎやかで迫力があった。クラシックの人もロック調ドラムの演奏ができるのだと感心をした。友達と行ったので、帰りに難波で一杯飲んだ。
二つ目はテノールのオペラアリア。清原邦仁という若い人で声も良く大変よく通る。定番の「人知れぬ涙」、「星は光りぬ」、「誰も寝てはならぬ」などもあり楽しめた。オペラは市場が狭いのか年寄りが出たがるのか、歌手もなかなか演奏の機会がなくて大変とか。三つ目は若いソプラノ歌手とピアノとオーボエであった。前で子供が走りまわり、司会がうろうろするのが気になった。
最後はさんけいホールブリーゼでのチョン・ミョンフン(ピアノ) 樫本大進(バイオリン) 趙静(チェロ)のコンサート。黒で統一された新らしいホールはシックであるが、2階は傾斜が急でご婦人が転がり落ちて行った。演目はシューベルトとブラームスのピアノ・トリオ、名手のアンサンブルが全身にしみわたっていった。
プールは夏なので真田山の屋外プールに足繁く通った。なんといっても本など持ち込んで甲羅干しをするのが気持ちよろしい。一度は寝こんでしまって、寒さに目覚めたら誰もいなくなっていたこともあった。50mを泳ぎ通すのは結構息が切れてしんどいが、ジムに比べて開放的で、荷物が少なくてすむのがよろしい。また室内プールに比べてカルキ臭くないのもよい。
本は塚本青史の歴史小説を図書館から借りてきて集中的に読んだ。項羽、呂后、王もう、光武帝など漢時代をよく書いている人である。出てくる悪少年、密輸業者などの描写が生き生きとして興味深い。虚構と史実の境目がどこにあるのかわからないところがまた面白い。あと呉越舷舷という本も楽しく読んだ。おかげで夜更かしの癖がついてしまった。この人は歌人の塚本邦雄のご子息である。
温泉と地酒の旅
前から気になっていた信州の温泉地を回る旅の同行者が酒に詳しく各地で地酒をあさったのでこのような題となった。時は卯の花の咲く初夏、信州はまださわやかな季節である。
長野新幹線で上田の駅に降りつく。昔修那羅峠に石仏を見に来たときに立ち寄って以来である。真田の六文銭の旗がはためいている観光案内所で特産品を見てみる。少し北に杏の里があるので、その製品が多い。上田城は真田が徳川の大軍を二度破ったところとしても名高い。再建された櫓しかないが、平城にしては西の石垣はとても高い。博物館でじっくりと真田三代の歴史を勉強する。直筆など興味深い。隣には農民美術を提唱した山本鼎の博物館があり絵画・木彫などが展示してある。城の中は緑が濃く気持ちが良い。外へ出て食事をしようとするが、何しろ信州なのでそば屋だらけで、アレルギーのある同行者は困って仕方なくウドンとする。このあとも松本まで店屋はそば・うどん時々丼しかなかった。池波庄太郎真田太平記館見学後、旧北国街道の酒造へ入って試飲をし、早速一本仕入れる。同行者は甘辛党かつ大食で団子とおやきを食ったあと、駅前でもう一本酒を仕入れる。
上田電鉄に一時間乗って別所温泉に、駅から歩いて寂しい田んぼの横から山に登ってまほろばYHへ。客は我々のみ、昼寝をして温泉街に繰り出す。先ずは常楽寺、本堂は重厚なかやぶきである。庭の松がすばらしい。石造多宝塔は暗くなってきたので良く見えない。山際の道を歩いて安楽寺へ、禅寺で庭が美しいが、国宝の三重搭は時間切れ。善光寺に向いた北向き観音にお参りする。両参りをすると霊験あらたかとか。少し歩いて外湯の大湯に入る。地元の人ばかりで話ものんびりしている。夕食はまたうどんとなる。真っ暗な道を歩いて帰り上田で買った地酒で宴会となる。
明けておいしい朝食をいただいたあと、歩いて常楽寺(写真)へ、国宝の三重搭はひさしのせいで四重にも見える。屋根が八角形をしているのが珍しく宋様式とある。周りには地元の人の墓があるなど時間内は開放的である。駅に出て、別所線の途中で降り、日本の中心という生島足島神社にお参りする。池の中の島の小さな土地が祭られている。回り舞台のある農村歌舞伎の舞台には武田信玄の戦勝祈願の起請文や武田家に対する近在の土豪の誓紙が展示されていて歴史の勉強になった。
バスで鹿教湯(かけゆ)へ、寝ているうちに着く。早速外湯の文殊湯へ、川の音と対岸の緑が心を和ませる。マディソン郡の橋風の橋は工事中で向こうへ渡れない。四つ角で酒を試飲してまた一本仕入れる。昼食をとろうとしたが、近くの蕎麦屋で不幸があり、近所の店も大勢葬式に出ていて人手が足りないらしい。仕方なくアイスコーヒーと温泉饅頭のセットにする。再びバスに乗って長いトンネルを抜け美ヶ原の北を通って松本へ。
松本はさすが都会でいろいろの店がある。駅ビルでラーメン・三色丼セットを食べる。荷物を預けて松本城へ。途中菓舗開運堂でロボットの出すソフトクリームを食べる。松本城はつつじの庭が美しく堀には大きな鯉が多い。城の中は、急で高さのある階段で人がつかえてしまう。天守閣からは、ちょっと曇っていたが、西にアルプス、東に美ヶ原が見える。松本駅より鈍行で上諏訪へ、タクシーで諏訪遊遍館YH。ここはゲストハウスといってYHの中でも上等である。部屋はツインの個室、外には温泉がついている。庭も広い。一浴びした後、歩いて湖岸でビールとロブスター、戻っておしゃべり部屋で他の人に買ってきた地酒を振舞う。
三日目朝食後、YHの自転車を借りて甲州街道を西に諏訪大社へ、途中蔵のついた大きな家が多い。ジェットコースターのような道で息の上がったころに秋宮に着く。竜の口から湯がわいていて、これで手洗いをする。神社は深い森に囲まれている。御柱が社の四周に立っている。有名な神事は来年の四月であるらしい。一度見てみたいものだ。ここから中山道に入って、本陣岩波家があるが時間が早すぎた。坂を下りて行くと春宮、ここにも四周に御柱がある。横の道をたどると万冶の石仏というのがあった。岡本太郎は絶賛したらしいが、私の趣味ではない。
緩やかな坂を下って湖岸へ、ここから逆時計回りに諏訪湖を一周する。湖の周囲は16kmとある。ジョギングの道があるのでそれをたどる。景色の移りかわりが楽しい。途中に競艇場があって、高校生がたくさんいる。湖畔の芝生にテントを張っている人もいる。釣り人も多い。冬は氷に穴を開けてワカサギ釣りであろう。去年行ったタカボッチ高原(写真)、その横には霧が峰、遠くには南アルプスや八が岳が聳えている。上諏訪駅の近くで昔財閥が地元の人のために開いた片倉館の百人風呂に入る。彫刻のあるレトロな風呂で湯浴みをする。サイクリングと風呂で体がぐったりしたので、すぐ近くのYHに戻り、帰り支度をする。昨日調子の悪かった洗濯物の乾燥機を直していたご主人がパイプをはずしたとたん鳥が飛び出てきたのには驚いた。どうも暖かいところに巣を作っていたらしい。タクシーを呼んで上諏訪の駅に行き、同行者と東西に別れ、今回の旅も終りを迎えた。
晩春のインフル騒動
連休の一週間前に月ヶ瀬小舎に行き初物の竹の子を2本取った。4月29日には14名の日帰りで5、60本は収穫したであろうか。5月3日からは10人が2泊して竹の子ご飯や信楽での陶器店まわりを楽しんだ。新緑が目に鮮やかで鶯の声も聞こえ誠にいい季節である。
ところが新型インフルエンザが日本にも波及してきて、遠出もままならない状態になってきた。楽しみにしていた行事もいくつかキャンセルとなった。こういうのはfrustaration がたまる。そこでストレス解消のため市内の美術館や博物館などをまわった。
中の島に東洋陶磁美術館があり、安宅コレクションが寄贈されている。韓国、中国のものが多く、青磁などはよだれの出そうなものがある。油滴天目もすばらしいが今は中にしまってあって、木の葉天目が展示してあった。木の葉の葉脈が白く浮き出ているのは玄妙である。ここの喫茶店は緑に包まれてなかなか気持ちがよろしい。美術館の横にはバラ園があるが、新しく植えたのでまだ貧弱である。
大阪市立美術館は、住友から寄付を受けて天王寺に昭和10年開館したもので、洋館の上に屋根がついているという少し変わった建物である。松坂屋の集めた小袖の展覧会をしていて、江戸時代のものに実に斬新なデザインがある。やはり昔から着るのは女、倒れるのは男と相場は決まっている。常設展の方は庶民の生活を活写した絵巻物が興味深い。美術館の裏の慶沢園はつつじは盛りを過ぎて今はあやめが咲いていた。四天王寺とともに都会の中で静けさが味わえる庭である。
長居の植物園にはよく行く。桜のころ、ボタンのころ、そして今回はバラがお目当てである。中に自然史博物館があるのでちょっとのぞいてみた。ワニやゾウの化石、ビル街の地下から出てきたというクジラの骨なども興味深い。恐竜の模型も迫力がある。カブトガニはクモに近いという記載があり、意外の感がする。バラ園は丁度満開で、色とりどりの花を楽しめた(写真)。薄紫のものがめずらしい。ユーカリの木陰に寝転んで読書、食事をする。ユーカリの香りは鎮静作用があるのかすぐに寝込んでしまって顔の上を蟻が歩いていく。
大阪市は近代美術館の計画を持っていて、その収蔵品展が心斎橋の元出光美術館であった。入ると土田麦僊の大きな「散華」が見える。僧侶2人づつに囲まれて裸体の菩薩が踊っているが、これは将にアンコールワットで見た天女の舞である。小出楢重は裸婦の他に屏風に松竹梅と鶴を描いた「めでたき風景」という珍しい油絵があった。小磯良平のバレリーナも結構なものであった。建物の下に東北産品の店があって、南部せんべいと炒りじゃこを仕入れてきて一杯飲んだ。
四月から
四月から生活のパターンが少々変わった。家に帰るのが早くなったので、早く寝て、朝は5時半には起きている。6時になるとテレビ外国語講座を視る。そのあと朝飯を食べて、ラジオ講座で中韓仏西伊英を聞いている。イタリア語は新規なのでとりあえずまじめに教科書を見る。仏西伊はラテン語系で単語とか動詞の活用には共通点が多く興味深いが、こんがらがる。この前スペイン料理店に行ったらセニョーラがいて、挨拶をした。仏伊は料理名以外は使い道が先ずない、旅行に行くのも遠い。
夕方は月2回ピアノに通いだした。若いころにエレクトーン、20年前と 5年前にピアノをやったがもともと指は動かない。気にいった曲を練習して、何回かで仕上げる方式で、アメージング・グレイス、ついでタラのテーマ(風とともに去りぬ)と曲は良い。先生は全く期待していないようなので気は楽である。負担になるとサボりたくなる。
英語のクラスは飽きたのでやめて、週1回の中国語教室に通いだした。昨年台湾、香港に行ったので今度はちょっとしゃべってみたい。10年前に一度やったことがあるので教科書は沢山ある。問題をやってみると昔よりできない。
週に2・3回はジムかプールに行く。4月の始めプールから出たら、外が寒くて風邪を引いてしまった。寒いときはこれが厄介である。息が切れてそんなに長く泳いでいられないので、水中歩行とかジャグジーを楽しむとか、プールでもジムでも1時間ぐらいのものである。あと図書館に行くが、中国語とピアノの教室、プール・ジム、図書館が徒歩10分圏内にあるのではなはだ都合がよい。
夜中にゴミをすてに行って、出ているアルミ缶を集めて、マンションの外に出して置くと、あくる日にはホームレスの方が回収してゆく。ビッグイシュー購入とともにホームレス支援の一環である。1日平均10個で年間3000個が目標。
4月といえば桜。今年も大阪城、四天王寺極楽の庭、京都府立植物園、吉野、長居公園でソメイヨシノ、ヤマザクラ、八重桜をたっぷり楽しんだ。特に吉野は久しぶりで、特急券が売り切れで急行でチンタラ行ったが、その値打ちは十分あった。吉野駅を降りてケーブルの横を登ると下千本が美しい。蔵王堂あたりの馬の背道は人と店だらけで花より団子である。中千本の桜の下で昼をした。上千本の花矢倉の辺りまで満開であった。水分神社におまいりして旧道を毘沙門堂に向かったが、舞い落ちる谷の桜が見事であった(写真)。天気もよく花も見ごろで日本の春の幸せをかみしめた。
花吹雪舞える城の木の陰でひとり静かに老ひを養ふ
西行の愛でし吉野の山桜霞のごとく咲きわたりたり
アンコールワット・ホーチミンの旅(Bさんによる)
2009年2月末から3月にかけて魁猿とカンボジア・ベトナムを旅した。目的は世界遺産アンコール遺跡群の見学と発展著しいベトナム・ホーチミンを見ることである。時期は友人のK氏がベトナムへのミッションに参加する3月はじめとした。
初日、ホーチミンへ飛ぶ。ホーチミンまで約5時間半、時差2時間である。宿は市内繁華街ドンコイ通り近くのサイゴンホテル、いささか固くなった体をほぐし、夕方サイゴン川河畔を散策した。広い通りを疾走するバイクの流れを縫って道を渡る練習をする。フォー24で夕食、入り口の外観に似合わず瀟洒な店内、さすがフォーは美味であった。
2日目 午前中は市内散策、オールドマーケットを歩く。見たこともない魚や野菜、果物に圧倒される。売る人、買う人、座ってフォーを食べる人、気温の高さと相まってむせ返るようだ。大きな交差点の一角を占めるベンタイン市場、ここにもありとあらゆるものがそろっている。観光客も多く、店員が声をかけてくる。中は迷子になりそう。大通りを歩いてバクダンUという小奇麗な喫茶店でアイスクリーム、ベトナム風コーヒーを楽しむ。冷房にホッと一息、外は暑い。
15時35分VN82便、1時間でシェムリアップへ、機内は日本人と韓国人が目立つ。空港の建物は熱帯の国らしい造りである。迎えに来たガイドのポチ君は日本語を話すがたどたどしい。夕食はホテルレストランで夕食、何と我々だけであった。ウエーターの一人は日本語を話す。明日のタクシーの手配をし、早々と床についた。
3日目 シェムリアップはアンコールワットなど世界遺産遺跡群のあるところである。そう遠くないので午前中アンコールトムに、一旦ホテルにもどって午後アンコールワットを観光することとした。シェムリアップから北へ約13kmほぼ一直線の道を行けばアンコールトムである。移動手段はトゥクトゥク(人力車風バイク)か自転車または観光バスである。我々は車をチャーターしたおかげで快適であった。途中アンコール地区への入場門がある。1日20ドル、チケット売場の窓口で顔写真をとり入場証明書をくれる。それを遺跡の入り口にいる係員に見せるのである。
アンコールトムの南門に到着、手前の橋の欄干には阿修羅の像が並び門の上部の大きな観音像に歓声を挙げる。この遺跡は3km四方の広大な敷地で、その中心をバイヨンと言い巨大な観世音菩薩の四面仏塔がみものである。象に乗ってバイヨンの周囲を一周した。 3m余の高さの背中に揺れながらの見物は印象的であった。一周したあと、象にバナナをプレゼントしてバイヨンに入った。巨大な観音菩薩像そして回廊の壁に彫り込まれた長大なレリーフ、一つ一つ意味は良くわからないが、往時のこの国の様子がしのばれた。バイヨンの先にある像のテラスに到着、暑い、いささか疲れ気味だ。車に乗り込み帰路についた。アンコールカフェで軽い昼食、外の喧噪はきこえず、冷房も効いていてビールとスパゲッティで疲れも取れる気分であった。
ホテルに戻って2時間ほど熟睡、今度はアンコールワットへ向かう。アンコールワットは南北1.2km東西1.5km、幅約200mの環壕に囲まれている。橋を渡って西門をくぐれば、正面に写真で見慣れた石の寺院が現れた。想像していたより巨大である。正面から見ると3つのとがった塔であるが、
実際は正方形の頂点にある4つの塔と真ん中のひときわ高い塔の5つである。トムのように巨大な観音像はなく、周囲の回廊の壁に彫られた神話のレリーフ群を見て回る。ラーマーヤナとか乳海攪拌、天国と地獄などきちんと見るには何日もの日にちと知力、体力、粘りが必要であろう。クメール山(須弥山)を象徴している中央塔は立ち入り禁止であったが、これを囲む4つの祠堂を巡り、長い参道を歩いて車の待つ環濠の外に出た。夕陽と夕陽に輝くアンコールワットを見るべく、夕陽を見る丘に出かけたが、その日は雲が多いためかクローズであった。残念だが仕方がない。あっさりあきらめて帰途についた。途中ポルポト政権下で犠牲になった人たちの慰霊の場所を見学したが、こういうのはいささか苦手である。しゃれこうべがうずたかく積まれた堂やもと刑務所だったという建物を外から眺めただけであった。夜はアプサラダンス(天女の舞)をみた。
4日目 この日はアンコールトムの更に北にあるバンテアイ・スレイ、10世紀に作られた寺院、その中にある東洋のモナリザといわれる赤色砂岩に彫られた彫刻が目的である。クメール美術の至宝とも言われているとのこと、ガイド本の写真ではかなり大きいものと思っていたが、実際にはモナリザの絵のように小さなものであった。同じような彫刻がいくつもあったが写真と比較して何とか確認、近寄れないので離れたところから鑑賞した。そのあとはタプロム、タケウ、プリヤカンなど周辺の遺跡群を巡った。榕樹の根が遺跡を覆っているタプロムは印象的であった。座って音楽を奏でている地雷の被災者達にも複雑な思いであった。
ホーチミンへはボンバルディアの小さな機体、あっという間に浮き上がるとトンレサップ湖、アンコールの遺跡が目の下であった。空港には知人のハイさんが迎えに来てくれた。ホテルはフンセンホテル、先日のホテルの近くである。夕食はきれいなレストランでベトナム風お好み焼き、焼きえびなど堪能し、食後は近くのホテルのバーへ、しばらくするとK氏とハイさんが探し当ててきてくれた。ホテルで聞いてきたのだ。サイゴンの夜はふける。
5日目 クチ地域はホーチミンの西北約40km、ベトナム戦争の激戦地である。枯葉剤の散布やそのあとの後遺症で名高い。村のジャングルに縦横に掘られた地下トンネルを拠点にベトコンがアメリカ軍と戦ったところである。日本の若い観光客はトンネルの入り口にもぐって屈託なく楽しんでいるがあの戦争を少しでも知っている我々にとっては全て複雑な思いの残るツアーであった。帰り道みごとなゴム園を見物、お昼は市場近くのフエ料理、一風変った料理であったが口にあった。市場の店頭で臭いので有名なドリアンを切ってもらった。クリーミィだがそういくつも食べられるものではない。
ホテルで休憩後、統一会堂、戦争証跡博物館、サイゴン大教会、中央郵便局などベトナム戦争とフランス統治時代の史跡を見学して回った。夕食はベトナム風バイキング料理、食後の楽しみに水中人形劇を鑑賞、コミカルな人形の演技に疲れも吹っ飛ぶ気分であった。
6日目 ミトヘ出かける。南西40kmにあるメコン河支流の観光である。支流といっても川幅2〜3km、小さな舟で一旦下流へ下り、上流にさかのぼって対岸の中州へ行くのである。船頭がくれた椰子のジュースがうまい。中州にはいろんな店があって茶のサービス、ココナッツアメ、蜂蜜など売っている。民族衣装のお嬢さんが歌を唄って楽しませてくれる。勿論チップが必要。ジャングルの小道を歩いていくと幅5mくらいの川、これを小舟で下っていく。前後の船頭が舟を操る。沢山の舟とすれ違ったあとメコンの支流に出た。舟から船に乗り移ってミトに戻った。川面は涼しい。
大通りから入ったところに小奇麗なレストランがある。池に大きな魚が泳いでいる。象耳魚である。大きな皿にこの魚(エレファントフィッシュという)のフライを4本の箸で立たせてある。それを一人ひとりの皿に盛り付けてくれる。たれにつけて食べたがあっさりした美味であった。
午後ホーチミンで漆工場の見学、工芸品店などで時間を過ごし、夕方にはハイさんの実家で汗を流した。最後の夜である。ミッションの参加者が懇親会を行うホテルの庭で夕食、庭も大勢の客で賑わっている。そのうちK氏一行も到着、わざわざ席に来てくれて一緒に話しを楽しんだ。ホーチミンから関空へは深夜便しかない。空港でベトナム紅茶などを味わって24時VN940便、関空へは翌朝7時、浅い眠りの5時間のフライトであった。外は10℃、気温差25度であった。
フィットネス考
私の同年輩でエアロビクス中に足の肉離れを起こした人がいる。老いて益々盛んというか、年寄りの冷や水というか。インストラクターに見とれていたか、あるいは無理してダンスについて行こうとしたのであろう。というが、こちらもくわばらくわばら。
昨年7月から山登りのためにダイエットとフィットネスを始めたが、体重が一割近くやせて、フィットネスも続いている。飽きっぽい私としては珍しい。仕事場の近くにある半官半民のクラブへ行っていたが、リストラで4月から無くなるので、このところ別な場所を探すために体験に行っている。
2週間体験3千円という安さにつられて2月はアメリカ村の真ん中にあるクラブへ足しげく通った。ジムは手狭であるが、場所柄若い人が多く、会費も安い。外国人の多いのも特徴である。しかし若い人ばかりの中ではちょっと浮いてしまう感がある。
市の施設も行ってみたが、プールが中心でジムは狭く、マシンも少なく、ジムプログラムも極く貧弱である。管理している民間会社によってなかなか厳しくて、講習会を受けないと使えないところもある。市は高齢者割引があるせいか、年齢が高い。単におしゃれでないからかもしれない。
あと3つほど民間施設を見たが、ホテル内は有閑マダム風が多い、ターミナルは職業人が多い、女性用が別れているところは殺風景などの特徴がある。プログラムはエアロビクス、格闘技、ダンス、ヨガなどがあるが、ベリーダンスやフラダンス、社交ダンスまである。このごろラテンダンスがはやっているらしい。
私はプログラムは初心者向けと書いてある簡単なものしかやらない。飛んだり跳ね回るのは足がついていかない。エアロも30分以上だと息が切れる。エアロをしていて皆と違う方向を向いているのは決まって中高年男性である。しかし羞恥心を超越した世界であるので別に気にすることはないのかもしれない。
一度バーベル揚げに挑戦してひどい目に会った。重すぎて持ち上がらず、胸の上にのって動かずあせって脂汗が出てきてしまった。まるでひっくり返った亀である。これ以来無理はしないことにしている。怪我をしたら笑われるに決まっている。
ストレッチ、自転車こぎ、マシン、そして時々のプログラムなどをしたあとに入るジャグジーや風呂が大変気持ちよろしい。最近はこれを目的に行っているようなものである。今度は温泉のついているクラブへ行ってみようと思っている。
冬のプサン
博多港から出た定員200人のビートル号はプサンまで213kmの距離を3時間で航行する。志賀島を過ぎたあたりから波が高くなり、上下左右にゆれる。時々波頭にぶつかって大きな衝撃がある。気分の悪くなる人も出ているようだ。ビールを飲むと酒酔いか船酔いかわからない。そのうち寝てしまって、目を覚ますとプサンの町が見えた。入国審査と荷物検査を終え、タクシーでホテルへ。部屋の窓からは港が見える。ぶらぶら歩いて南の南甫洞へ。国際市場は日用品、衣服などを売っているが、道に露天も出て闇市の雰囲気を残している。チャガルチ市場は漁港の前の立派なビルに入っており、一階が活魚などの売り場、二階は食堂となっている。船酔いかもう一つ気分が優れないので、あっさりとビビンパを食べる。プサンタワーに登って市外を一望する。天気のいい日は対馬が見えるらしい。地下鉄で東莱(トンネ)温泉に向かい、虚心庁という巨大なサウナに入る。今回は温泉めぐりの旅なのだ。風呂場はドームの下に高温、低温、泡風呂、薬湯、打たせ湯、サウナに子供用プールまであり、300人は入っている。ここの人は前を隠さず歩いているので、一人だけ違うことをするのはやめる。簡易服を借りて一階下のチムジルバンに行く。男女共用で、家族、友人などがごろごろしている。暑い石の上に寝転ぶと寝入ってしまう。食堂もついていたのでカルビスープを食べる。ここはフィットネスもある。すっかりいい心地になって地下鉄でホテルまで帰る。部屋は床暖房が利いていて、藤沢周平を読んでいるうちに寝てしまう。
道の向かいの高級なコモドーホテルでバイキングの朝食とする。おかゆがおいしい。坂を下りて地下鉄で名刹梵魚寺に向かう。タクシーで山を登っていく。壬申倭乱(豊臣軍の侵入)で焼かれて残っているのは三重の石塔のみとある。色彩の美しいお堂の中では信者が跪拝している。相当な寒さである。テンプルステイというのがあり、高校生が多い。横の道から金井山城に行けるとあるので、大きな石のごろごろした涸れ沢を登っていく。クヌギから松に変わって行き、40分で山城の北門に出る。北に標高850mぐらいの岩の頂上が見えるが方向が逆なのでカットし、南下してゆく。750mのピークから海や錦江が見えて気持ちがよい。登ってくるハイカーが増えてくる。おばさん達は日本と同じでうるさい。ここは壬申倭乱の時の城で、山の尾根を岩壁で囲っており、ミニ長城の観がある。1時間で東門に出て、道路に降り、ちょうど来たバスにとび乗って温泉場へ。ごたごたした市場を通り抜け、泉一温泉というサウナに行く。ここは公衆浴場という雰囲気で、300円ほど。風呂に入っている間に、ハイキングで汚れた靴を磨いてもらう。散髪屋もついている。汗を流しすっきりした体で地下鉄を2回乗り継いで海雲台海水浴場に向かう。まず昼食をとフグ屋に向かうが長蛇の列なので、横の店でマントースープを食する。ご飯にはキムチと野菜がつくのでそれだけで満腹になる。海岸に出るが、冬で人影はない。ここは久しぶりなので感慨にふける。昔浜辺で花札に夢中になって肌が焼けて夜苦しんだこと、刺身を食べて腹をこわしたことなど。あの頃の景色は忘れたが、現在はホテルとマンションが林立している。丘を登って景色のいいベンチに寝転び昼寝。桜咲く春に来てみたい。丘の中腹のVESTAというサウナに入る。とてもきれいな施設で窓からは浜辺が一望できる(写真)。シャワーは塩辛い。今日のアロマ湯はハコネとあったので笑ってしまった。あかすりに挑戦する。相当な力でこするのでお兄さんは汗だくだ。体が軽くなった気がする。チムジルバンでは皆がごろごろして、アイスクリームを食べたり、食事をしたりなど、社交の場である。そのうち夕焼けとなって大変景色がよろしい。帰りにフグ屋をのぞくと空いていたのでふぐちりとする。韓国語でもチリである。しかし唐辛子よりはポン酢がほしかった。地下鉄で西面に出て、ロッテ百貨店で買い物。食品売り場は呼びこみの声でかまびすしい。たこ焼きを作って売っていた。フードコートは韓和洋と種類豊富である。今晩は満月である。
いい天気が続くが、朝は道も凍り、風も冷たい。南甫洞まで歩いてアワビ粥の朝食とする。小さいがよくはやっている店である。チャガルチ市場に出て、その西側の露天をみて回る。おばさん、おばあさんが道に魚を並べるのに余念がない。店によっては囲いの中で食事をさせるところもある。水槽には15cmぐらいのソーセージのようなユムシがうごめいている(写真)。これは韓国ではケブル(犬のオチンチンの意)といい束草で刺身を食べたことがある。店は1kmも続いていてトラジや人参を売っているところもある。別のコーナーはキムチ一色である。農協に入って好物の巻き寿司を買い、ロッテリアのコーヒーで暖をとる。帰ってコモドーホテルのラウンジでクラブサンドの昼食後、港に出た。日本へ帰る客は海苔の入った段ボールやブランド品など大荷物の人が多かった。円高で例年の1.4倍の値打ちがある。船は出ると45分位で対馬を通る。対馬は韓国のほうが近いのである。波は静かで、巻き寿司を食べて昼寝をするともう博多であった。
2008年のことなど
今年も食品の事件、中国の地震、首相のドタキャン、世界的不況など相変わらずの年であったが、唯一興奮したのはオバマの当選したこと。勝利演説を聴いたときは感激してしまった。HOPE,CHANGEをこれからの私のキーワードとしようと思う。
必要があってTOEICというものを受けるために久しぶりに英語の受験勉強をした。2ヶ月間ほど夕方酒を飲めないのが辛く、受験生の気持ちがわかった。今後も英語学校に通い、中韓仏西のラジオ講座を聞くこととする。
外国は韓国、台湾、香港と行ったが、韓国は急用で一日で帰ってきた。台湾と香港ではおいしい料理と南方の果物を食べて幸せであった。台湾の玉山にはそのうち登って見たい。ベトナムとアンコールワットにも行きたい。
あわただしくて山はあまり行けなかった。禿羊さんと立山から後立までのやり残した縦走を計画していたがキャンセルになったのがいたかった。その代わりこの計画のために始めたダイエットとフィットネスで体重が一割減った。
新年はいろいろな意味で一段落つくので、料理のレパートリーを増やすこと、一時はやっていたピアノとスケッチに取り組んでみたい。和歌のほうもまあボチボチと。