エスペラント(Dec.2010)
短くも美しき秋(Dec.2010)
蛇の抜け殻(Nov.2010)
行きたい所
(Oct.2010)
入院記 (Sept.
2010)
城崎温泉 (July 2010)
ヤマシャクヤク (July 2010)
白藤と山菜 (June 2010)
熊野三山 (June 2010)
金毘羅歌舞伎 (May 2010)
贅沢な気分 (Apr. 2010)
台湾歴史紀行 (Apr. 2010)
イチゴ狩り (Mar. 2010)
新年の誓い (Feb. 2010)
2009年のこと (Jan. 2010)
エスペラント
尖閣列島問題での中国のやり方に腹を立てて、去年から割合熱心に勉強していた中国語をやめてしまった。留学生の先生にはもったいないといわれた。このことをある人にいうと「そのうち中国に支配されるのだから勉強しておかなければ」などとまるで進駐軍のようなことを言う。英語の隆盛にしても中国語熱にしても大国のパワーと言うものが明らかに影響している。
というわけで1887年ザメンホフの発表したエスペラントをやることとした。国際語とか民際語とか架け橋語とか呼ばれている。若い頃かじって教科書や辞書も持っていたが、実際に使う機会もなく本も永年の間になくなってしまった。最近はインターネットで簡単に情報が入手できて、早速大阪エスペラント会の入門講習に参加し、また東京に行った際に早稲田にある日本エスペラント学会を訪ねて辞書と本を仕入れた。ネットのLERNUで勉強もしている。各国で自宅に泊めてくれるという制度があるので来年はこれを使ってみたいし、八ケ岳の研修所も素敵そうなので行ってみたい。
短くも美しき秋
長い暑さが続き、10月になると冷え込みもきついので「秋がなくて、夏から冬になったね」などと話している。秋の花といえばコスモス。武庫川べりのコスモスが満開と聞いて出かけた。阪急武庫之荘で降りてバスに乗り換える。降りたところに讃岐うどんがあったので腹ごしらえをする。堤防を越えると一面のコスモス畑である(写真)。赤白黄色といろいろの花がある。いい天気で芝生の上に寝転んでいたら眠ってしまい日が翳って寒くなって目が覚めた。武庫川べりを歩いて帰ったが緑が多く気持ちが良かった。
八ケ岳の西麓の長野県原村で田舎暮らし現地見学会があり参加した。茅野の駅まで役場の人が出迎えてくれ、先ずは八ヶ岳自然文化園で概要説明を受ける。昼食後定住案内人との交流、説明と質問。老人医療費が無料というのが魅力的、それに八ヶ岳の景観と夏の涼しさはいいが、冬の寒いのがチト辛い。ペンションに入り近くの温泉に浸かった。ペンションの夕食はボリュームがあって食べ切れなかった。次の日はこれに鍋までついていた。
二日目はマイクロバスで売り出し中の土地を8ケ所見て回った。上のほうは別荘地だが、下に降りると農地や住宅地になる。それでも高度は1000mあり夏は涼しいだろう。この辺りは縄文の遺跡が多く、隣地で発掘している所があった。最後は八ヶ岳農園に行き食用ホオズキが珍しく仕入れた。ここからは山が美しく見えた(写真)。まわりには八ヶ岳のほかに富士山、南アルプス、北アルプスの見える素晴らしいところである。
三日目は隣の茅野市の尖石遺跡を訪ねた。昭和初期から宮坂英弌氏が私財を投げ打って発掘し日本で初めて発見された縄文時代の集落である。尖石縄文考古館には土偶の「縄文のビーナス」と「仮面の女神」があり縄文土器もゴロゴロしていて感激した。八ヶ岳では黒曜石が出るのだがここにもその遺物が多かった。発掘跡には竪穴住居が復元してあった。陽だまりに寝転んでいると、縄文人になってどんぐりを摺っている夢を見た。どうもこの頃すぐ寝てしまう。バスで茅野駅まで降り、諏訪大社上社に向かった。適当に歩いていると御柱落し300m、上社5000mという標識に当たった。タクシーもないし時間も限られているので必死で歩き、前宮と本宮を参って帰った。ここは出雲系といわれている。原村に御柱の出発地があり26kmを引っ張ってくる。次の7年後には一度来てみたい。
蛇の抜け殻
9月に月ヶ瀬に栗拾いに行ったが、猛暑のためかまだ殻が青くほとんど取れなかった。かわりにベランダに長い蛇の抜け殻が見つかった。一昨年辺りから子供が小屋の中で時々抜け殻を見つけていたのでどこから入ったのか気になっていたのだが。
10月に小屋の整理にもう一度訪れた。なんと今度はまっさらな抜け殻が2段ベッドで見つかった。伸ばすと1.5mもある。青大将だろうか。仔細に点検をすると2段ベッドの床と柱のところに隙間がある。床下を調べても問題はなかったのだが、雨戸を閉めると外壁に大きな穴があいていた。雨戸のレールに雨が当たってあいたのだろう。蛇はここから入ったに違いない。木の板で応急修理をして一安心である。この日は栗は少し取れたが、道を刈ったので身体はヘロヘロになってしまった。
この夏に避暑で行く予定であった木曾御岳開田高原を訪れた。ここは若い頃に何回か、最近も中の湯温泉や木曾福島に泊まった時に訪れている。新幹線と特急で木曽福島まで2時間半、バスを乗り継いで1時間でペンションに至る。近くに尾の島の滝がある。水量が多い。樹も色づいて美しい(写真)。明神温泉の露天風呂に入って御岳を眺めるのも楽しかった。近くの別荘地の人と話をしたが、3月から11月まで滞在しているのだという。都会と正反対で自然しかないこんな所に住んでみるのも悪くないかもしれない。しかし冬は雪が深そうだ。
行きたい所
何しろ当分安静にせよといわれて動きが取れないので古代史などの本などを読んでいるが、遺跡など行ってみたい所が次から次へと出てきた。北からとりとめもなく書いてみると以下の様になる。ちなみに十大古墳の3位までは大阪府、残りは岡山県と奈良県にあり、かなりのものは既に見ている。
青森県十三湊・亀ケ岡遺跡(縄文)、長野県尖石遺跡(縄文のビーナス)、滋賀県大岩山古墳(134cmの銅鐸)、奈良県箸墓古墳、大阪市長原遺跡(外洋船埴輪)、神戸市五色塚古墳、島根県荒神谷、岡山県吉備古墳群、福岡県宗像神社、大分県宇佐神社、宮崎県高千穂・西都原古墳群、鹿児島県大野原遺跡(縄文)
古代史最大の謎というのは相変わらず邪馬台国のようであって、最近は奈良県の纏向遺跡の発掘によって大和説が強くなっている印象があるが、以前から京都学派は大和、東京学派は九州というのが面白い。また地元への我田引水も多く、近江説、出雲説、吉備説はては沖縄説まである。大和朝廷東遷説や邪馬台国東遷説、さらには前期邪馬台国は九州・後期邪馬台国は大和という説もあり百花繚乱である。一般に学者の説は小難しくて面白くないが、古代史家と称する方々のは分かりやすいが言いたい放題のところがある。松本清張の古代史疑を読んだがさすが緻密である。この本で第一次邪馬台国ブームになったらしい。
もう少し遡って日本人はどこから来たかという問題もDNA分析などによって大分解明が進んだようである。北方からの古モンゴロイド、南洋からの海洋民族により狩猟採集の縄文文化、さらに新モンゴロイドの米作りの人々が移住してそこから弥生文化に移行してゆく。米はDNA分析でルーツは揚子江辺りとなっている。縄文顔と弥生顔があるというのも興味深い。目が細くて鼻が低い私は寒冷適応した新モンゴロイドで弥生顔ということになる。私の疑問としては青森と鹿児島という本州の離れた両端でなぜ縄文という同じ文化があったのかその交流が知りたい。縄文文化が残存しているというアイヌ文化や沖縄の土着宗教をもっと知りたい。
梅棹忠夫さんがなくなられて復刊した本があるので何冊か読んだ。文明の生態史観を読んで感心し、欧州に3ヶ月行く前に京都まで会いに行った記憶がある。晩年失明したが、酒の飲みすぎだと告白していた。エスペランティストであったことを知り、昔興味を持ったこの言葉を図書館から借りてきて見直している。全世界に百万人いるそうだが、偶然に会うことはまず不可能だろう。
入院記
7月豪州滞在中に右目の異変に気づき、帰って早々眼科受診したところ即手術ということになってしまった。2時間の手術は結構痛く、その後も立つ座る寝るすべて顔を下向きという入院生活が3週間続いた。特に就寝時うつ伏せはなかなか苦しくて、円座を貸してくれるが顔を入れると息ができない。夜は1時間に一度看護師が注意しに来る。反省スタイルが身について、首を上げる方が痛くなってしまった。
当然単調な生活で、寝る食べる以外は読書が主であった。一日一冊のペースで読んでいたが、面白かったのは古代史、ローマ史、南極探検関係であった。ダン・ブラウンも3巻読んだがどれも荒唐無稽でダビンチコードが一番ましか。言葉の方は中国語とイタリア語のラジオを聴いていたが、この調子ではしばらくどこにもいけないと悟って一気にやる気をなくした。食事もそのうち飽きてきたが、1日1800Kcalを完食した上に間食して動かなかったので結局3キロ肥えてしまった。
無事娑婆に出てきたが、熱いのには参った。その点病院は快適であった。まぶしいのと眼内レンズが入ったので見づらい。足も弱ったのかふらつく。頭を強く動かしてはいけないので今年一杯は静かにしていなければ。酒は「気持ちの良くなる程度」ならいいとのご託宣だが、元来飲酒当日はそうだが次の日が気持ちが悪い。その辺の加減が良くわからん。泥酔転倒して再発がヤバイということらしい。くわばらくわばら。
城崎温泉
ミニコミ新聞より温泉紀行Vの執筆を依頼され、関西以西を書こうと思ったが、城崎温泉にはまだ行ったことがない。初夏の一日、お手軽な日帰りバス旅行に参加した。朝の8時梅田に集合、旗を持った添乗員に引率されバスに乗り込む一行は総勢28人。ぎりぎりに申し込んだので一番後ろで席はどこにでも座れる。先ず目指すは天橋立、しかし中国道に入るとこみ始めた。10kmの渋滞を抜け赤松SAで休憩、その後は一気に走って宮津に11時過ぎ到着。ここでの昼食はアワビ、エビ、すしなどの食べ放題である。しかしそんなに食べられるものではなく、60分のところを30分でダウン、後は庭で天橋立の景色を見て過ごした。食後智恩院に行き文殊菩薩におまいりした。横に天橋立に渡る回旋橋があるが、たまたま橋が開いて子供を乗せた船が歓声を上げて通ったのが珍しかった。海もきれいであった。
城崎は天橋立の西に当たる。狭い山道を峠を越えて出石、豊岡へ、そして広々した円山川を下ると1.5時間で城崎へ。城崎温泉は8世紀ごろから歴史に現れてくるらしく、7つの外湯周りが有名であり、また電車に跳ねられて重症を負った志賀直哉が療養に来た三木屋で書いた短編「城之崎」で知られている。添乗員さんによると、冬のカニのころがシーズンで、その頃は外湯も満員札留めになるとのこと。日照りが強くて先が枯れている柳の並木を歩いて、先ずは一の湯に入る。レトロ風の建物である(写真)。内湯は深くて熱い。早々に逃げ出して洞窟風呂に入る。ここは湯温も低く、空気も心地よい。湯にはあまり特徴がない。2階に休憩室があるがビールがない。町に出て缶ビールでのどを潤し、散歩する。みやげ物屋で見つけたげんぶ堂の素焼きのおかきがうまかった。バスに乗り帰途に着く。近くの土産物屋に寄るが鮮魚がないので迫力がない。和田山で休んだところでイカの一夜干しを仕入れた。バス旅行ではこまめに店に連れて行ってくれて4軒も回った。宝塚で例によりこんだが1時間遅れで大阪に帰りついた。この頃にはほかほかとした温泉の効果も消え果た。
ヤマシャクヤク
6月下旬禿羊さんに連れられて、大峰山系に花を見に行った。大阪から2時間、幸い雨も降らず、駐車場から登り2時間弱で草原に着いた。みるとピンクの花が咲いている。これがベニヤマシャクヤクである(写真)。姿はシャクヤクそのもので、野生は白色が普通とのこと。つぼみが可憐で、開くとすぐに型崩れがしそうだ。また少しはなれたところにはジギタリスの群落(写真)があった。外来の栽培種であるから鳥が持ってきたものだろうとのこと。ピークで食事にするが、ブヨがうるさくて早々に立ち去る。所々ブナの林があって(写真)、霧もかかり幻想的である。私のカメラは電池切れで写真はすべて禿羊さんのものである。ぐるっと一周して6時間、途中で足が突然痛んでおやっとなったが、その後は問題なく可憐な花と幽すいな森を見れて楽しい一日であった。往復の途中で野菜と果物も仕入れた。
このごろたばこをやめている。3月の末に風邪をひいて2,3日やめていてそのままずるずると続いている。禁煙に関しては自慢ではないがエキスパートかつベテランで、もう2,30回は試みたことがある。最長は1年、最短は1日である。昨年から職場でたばこがすえなくなり、今年からは外の道でもみっともないから吸うなといるお触れが出た。値段も10月から上がるという、消極的かつ外圧的な理由もある。禁煙して周囲の評判はすこぶるよろしいが、別に身体の調子がよくなったというほどのこともなく、人が吸っているのを見ると時々吸いたくなる。さていつまで続くか。
旅行に行くと、ローカル線やバスの便利が悪かったりして難儀をすることがある。そこで現地でレンタカーを借りて旅行をしようと、運転の再開を試みた。あまり年齢が高くなりすぎるとボケテストで落とされてしまう。昔免許を取った芦原橋の教習所のペーパードライバー講習に入った。1回目は所内をぐるぐる回ったが、浦島太郎はパワステが初めてでかるがると回しすぎになる。先生はひやかし気味である。2回目は外へ出たが、スピード感覚が悪くて前の車についていけない。信号が青に変わったのに停まっていて、先生に早く出なさいといわれる。3回目は阪神高速に乗った。合流、路線変更がやりにくい。女の先生で優しかったが、直線では逆にスピードが出すぎて注意された。友人は一緒に乗るときはヘルメットをかぶると言っている。
白藤と山菜
4年前に見た当麻寺の藤をまた見んものと、春の一日出かけていった。日和はよし、参道の周りの店屋はおいしい饅頭を並べて誘惑をする。ぐっとこらえて入った当麻寺の入り口の藤はあと一歩で先の方がまだ開花していなかった。満開の姿はhttp://www.tcct.zaq.ne.jp/tokuyohsu/kaien/shashinngura/0606/fuji.htmlをご覧いただきたい。
本堂にお参りしたあと、中の房に入った。奥に回ると池のある落ち着いた日本庭園、抹茶を頼むと円窓のある座敷から庭をながめられる。進むと牡丹園である。紅白の他、黄色の牡丹が珍しい。なにかいいにおいがするなと思うと、大きな白藤が満開であった(写真)。木の下に入ると馥郁たる香りに包まれる。
白藤の香りにつつまれ果てるとき浄土はそこにあるものと知れ
宝物館で当麻寺曼荼羅を見た後、ぶらぶらと二上山の方へ歩いて摘み草をする。その日の夕食はドクダミ、モミジ、クズ、ツツジ、タビラコ、ヨモギ、ギシギシ、タンポポ、スミレ、カラスノエンドウ、セリ、オオバコなどのてんぷらで、要は柔らかいものは何でも食べられるということ。
月ヶ瀬の小屋には四月に続き五月には三回行った。10人の団体で竹の子を堀り5人はその夜泊まった。虫で腐ったのか大きなクヌギが倒れて軒がつぶれてしまった。1週後この修理の見積もりをしてもらうために工務店の人を案内した。またその後にも訪れることになった。いずれのときも竹の子、ワラビ、セリ、クレソンなどの山菜をとったので身体にアクがまわってしまった。性格にアクはないのだが。
熊野三山
昔の山友達と恒例の年会で熊野三山めぐりをした。東京、中京、大阪、広島より18名が土曜日の午後3時に白浜駅に集合。先ずは三段壁と千畳敷を見学、エクシィブという会員制ホテルに入って6時より夕食。温泉に入り、大部屋に集結して近況報告をする。ちゃちゃが入るのでなかなか進まない。酒も年のせいか進まない。12時にお開きになる。一部は2時まで話していたとか。部屋は広々としている。外では動物園の猛獣の泣き声がする。
明ければ予報どおり大雨。バスに乗って先ずは中辺路の滝尻王子に向かう。土産物屋のご主人が語り部として案内をしてくれる。話が詩的で素敵であった。ついで野中の一方杉・清水、この水は簡易水道に使われていると聞いた。雨風が酷くびしょぬれになってバスに戻る。昼の弁当は外で食べるのを変更して、川湯の民宿の食堂でいただく。温泉のわく前の河原は大水で浸かっている。次いで熊野大社参拝。本宮館という新しい建物で那智曼荼羅の説明を聞く。なかなか味わい深いお話であった。うとうとしているうちにバスは新宮速玉大社、土砂降りのなか早々に参拝を済まし那智大社に向かう。石段を上がり大社、青岸渡寺から滝道を降りる。なんと那智の滝はものすごい水量で轟音が響き渡る。是まで6回のうち最高の壮観である。那智勝浦の港から船に乗り中の島ホテル、入浴、夕食の後は集会、来年の予定を決める。
明けては東回りで東京に帰る人などが船で出るのを手を振って見送り、10時までのんびりと風呂に入る。大阪へは10人がまたまた宴会をしながら帰る。今回の旅は大雨の中ずぶぬれになって三社にお参りし、身も心も清められた。温泉には10回入って肌はつるつるになったが、3.5kgも肥えてしまった。しばらく粗食をせねばならない。
神さびし太古の森より崩れ落ち轟きわたる那智の大滝
真夜中に一人目覚めて我の居ぬ世界のことを考えてみる
金毘羅歌舞伎
四月は金毘羅歌舞伎の季節、建物の見学はしたことがあるが一度は公演を見てみたいとツアーに申し込んだ。個人ではなかなか切符がとりにくい。大阪から岡山で乗り換え、高知行き特急南風号で2時間。神社の参道の坂を少し上がって左に折れると、1835年建設、その後移築した重要文化財の芝居小屋がある(写真)。小屋の前には三越の土産店、JRとJCBのお土産渡し場がある。3時の第二部の開場の前には長蛇の列となる。小屋にはくぐり戸から入って行く。
一階の正面はすべて4人用の桟敷である。2階まで入れて700人は入っているらしい。席は上場、中場、並場の3段階に分かれ、私は2階の横桟敷の一番後ろの並場で、一間ごとにある柱で舞台が見にくい。演目は通し狂言敵討天下茶屋聚(むら)、亀次郎、愛之助、翫雀、壱太郎などが出演している。ツアー客が多いせいか、ありえないところで笑い声やどよめきが起きるのが気にかかる。亀次郎の叔父の猿之助の演出か、役者が桟敷まで乱入したり、2階へはしごで登りまた舞台へ飛び降りるなど、ハチャメチャなのが観客に受けていた。私はきれいな壱太郎を見て満足であった。
今年の桜は風邪をひいていたこともあり、近場ですませた。桜は早く開花したのだがその後の低温で花が長持ちしたらしい。大阪城で桜と桃を見て、大川に回り桜ノ宮、対岸を戻って天満まで。造幣局の外の桜のトンネルがきれいであった。一週後に長居公園で満開の八重桜に出会った。お気に入りの木の下で本を読んだり昼寝をしたりいていると、写真の人が近づいてきて煩わしかった。向こうも邪魔と思っているのだろう。昼休みに大阪城の八重桜を見た。ぼてっとして豪華な房がとても好ましい。
行く春の城のほとりの八重桜風にさそわれ散り初めにける
柔らかき風にさそわれ散る花にうづもれ果てし夢を見にけり
連休恒例の月ヶ瀬の竹の子掘りは朝の雨も上がり、日も照って五月晴れとなった。子供3人を含め12人が掘りも掘ったり70本ばかりを収穫した。湯を沸かしてアクを抜いたものを含めてほとんど持ち帰ってくれたのはうれしかった。わたしの方はこのところの腰痛のため、監督椅子に座って昼から夕方まで弁当、焼き芋、バーべキューと飲み食いを続けていたら体重が大幅に増えてしまったのが悲しい。
贅沢な気分
元来閑散期の飛行機の利用を図るためにできた企画で、大阪松本便で扉温泉泊まりというのに行った。日航が便を廃止するといううわさがあり最後の機会と思ったからである。飛行機は悪名高いプロペラ機ロンバルディアで大変うるさいが富士山や御岳、北アルプスが見えて楽しかった。扉温泉は立ち湯と料理が売り物である。立ち湯は窓の部分が外につながって、雪の谷川を見る一幅の絵画のようである(http://www.tobira-group.com/myojinkan/)。このほかに風呂が三つある。食事は3種類から選べるが、懐石料理は2時間半に及ぶ本格的なものであった。部屋も水屋、控え、書斎コーナーがついて広々していた。贅沢な気分になって帰ろうとすると、飛行機が機器整備上の問題で欠航になり、地面を這いずり帰ってきたのであった。
高島屋の新館に食品街ができたと訪ねると、鼎泰豊dintaifongがあった。この店は小籠包では台北一の店で、一昨年連れて行ってもらった。パンフによると以前世界十店の中に入ったそうな。東京には出店がいくつかあるが大阪は始めてである。蓮華に載せた小籠包を箸でつついて穴を開け、中のスープをすする、それが至福の時間である。基本的に点心の店で腹一杯食べるところではないので、小腹のすいた時ぐらいが丁度良いのではないだろうか。夕食時は行列ができていた。
南座に歌舞伎を見に行った。ここは久しぶりである。演目は角力場、曽根崎心中、連獅子である。角力場は遊女の身請けをたのまれた二人の相撲取りがやり取りするのだが、話が中途で終わっている気がした。曽根崎心中はだまされた徳兵衛をみる群衆の冷たさが印象的であったが、お初との道行きは時代背景が違うからか、涙は流れなかった。翫雀ととてもきれいな壱太郎の親子が恋仲を演じている。獅童と松也の連獅子は華麗で力強く手に汗をにぎって見入ってしまった。歌舞伎の醍醐味である。
台湾歴史紀行
3月始め友人と二人で歴史紀行・中国語研修旅行と称し台湾を訪ねた。一日目は台北に泊まり市北部の淡水を訪れ、二日目は台中まで新幹線、バスで山中の日月潭、三日目は在来線を乗り継いで台南、四日目は新幹線で再び台北、五日目に帰阪した。これらの地を台湾の歴史と関連して書くと次のようになる。
元来山地の方に居住していた原住民は南方系と考えられており、日月譚ではサオ族、昔訪ねた花蓮ではアミ族など13族を数える。15世紀にはスペインが台北の淡水にサント・ドミンゴ城を築いている。ここは後にオランダ、鄭成功に征され現在は紅毛城と呼ばれている。オランダが台南に築いたプロビデンシャ城は1661年鄭成功に破られ、今は赤カン楼と呼ばれている。国姓爺合戦で有名な鄭成功の父は明の都督、母は平戸の人であり、成功の幼名は福松という。台南の延平郡王祠には鄭成功と母が祭られている。
ついで清の時代となり、日清戦争後1895年台湾は日本に割譲された。台北の総統府などはこの時代の建物である。反抗した原住民が日本人を殺した霧社事件の舞台は日月潭の東北にあり、これを契機に日本は原住民を弾圧した。第二次世界大戦後、国共内戦に敗れた蒋介石が60万の将兵を引き連れ1949年台湾に渡ってきた。元からいた漢族を本省人、この時来た漢族を外省人というが、反抗した本省人を弾圧したのが228事件で、その記念公園が台北駅南にある。中正紀念堂には1975年死亡した蒋介石の巨大な像がある。中正は蒋介石の号であるが、一方中山は国父といわれる孫文の号である。以前にも書いたが孫文は南方熊楠と親しく、日本に亡命していたときの偽名が中山であるという。孫文が宿泊した旅館が台北駅東にあり国父史蹟紀念館として保存されている。
この旅行では切符を買ったり、道を聞いたり、料理を注文するのに中国語を使って何とか通じた。日月譚では見学した玄奘寺でバスが間引かれて一時間半ほど待つ間、時間つぶしに土産物屋で茶を入れてもらいながら店の人と話した。おかげで茶を買う羽目となったが。また日月譚のホテルの総支配人とも話した。あまりにうまい日本語のため中国語の余地はなかったが、戦前の日本人で茶生産や電源開発に努力した日本人の話を聞いて大変参考になった。台北のシェラトンホテルでは全面禁煙になってからバーの売り上げが落ちたという話を聞いた。ここで聴いたデュオの演奏と歌は素晴らしかった。
おいしかったのは、淡水の漁人嗎頭での渡り蟹の揚げもの、日月譚(写真)の総統魚・飲茶、台北欣葉のとこぶし・蟹おこわなどであった。参ったのは台南が32度と暑かったこと、台北16度、大阪8度と温度差がこたえた。印象に残ったのは、台南のいたるところに見られる道教の寺で、その華麗な装飾(写真)にも感嘆するが、いつも真剣に祈っている人を見かけたことである。台北では新北投温泉に行った。地熱谷の湯気もすごかったが、男女混浴露天風呂の熱気もすさまじかった(写真)。
淡水の彼方に沈む夕陽を君の父も見しことありしか
遥かなる日月潭の水面にも四手網にて漁どる人あり
朝まだき寺の床にひざまずき媼は媽祖に何祈れるか
イチゴ狩り
友達六人連れで岡山と香川にいった。山陽道を走り和気で降り、岡山県伊部駅の横の美術館で備前焼をみた。岡山市からも一人生絞り荒走りというおいしいお酒を持って駆けつけてくれた。昼飯はボリューム一杯のカキお好み焼きを食べた。雨が降っていたので街歩きはせずそのまま日生に買出しに行く。漁港の五味の市でカキ、エビ、コチ、野菜などのほかカキフライ、たこ飯まで仕入れた。上郡にある友人の別荘は広大な山中の敷地の一角にある。一度は道を間違って外へ出てしまう。別荘は冬は凍結防止のため水抜きをしていて、この栓を締めるのが雨の中分かりにくくて大変だった。薪ストーブをがんがん焚き、鍋を楽しんだ。トランプは負けた。寒いと予想していたが、2階の寝室は暖かかった。
翌日はまあまあの天気。朝は鍋の残りとパン。出発に手間取り宇高航路は時間が合わなかったので瀬戸大橋を通ったが、後で宇高航路が3月に廃止と聞き心が残った。四国に渡り東高松で高速を降り、讃岐うどんを食べたが、大盛りを食べたのが失敗であった。同行者の従姉妹夫婦の経営している農園でイチゴをあまり食べられなかったのだ。しかし自分でもぐイチゴは新鮮で、特にサヌキオトメという品種が口にあった。子ヤギ(写真)と遊んだあと、淡路島経由で帰阪した。
最近訃報をふたつ聞いた。一つは同じ飯盒の飯を食った何十年来の山の友である。難病に冒されて徐々に筋肉が衰えてきた。2年前に韓国に行った時は箸を持つのが不自由になり、長い距離も歩けなくなっており、昨年は家で車椅子に乗る状態になっていた。原因不明で治療法がない病気で誠に人生不条理である。毎年毎年同窓会を開き、会うのを楽しみにしていた友を失うのは辛い。
想うれば十九二十のころなれや山よりほかに学びしことなし
もう一人は伯母で丁度100歳の誕生日に亡くなった。子供の頃から夏の海水浴などに遊びに行ってかわいがってもらった。水墨画を良くし、もらった絵を何枚か額装して飾っている。娘孫の染色とともに三人展を開いたこともある。告別式の夜の直会では芸術関係の知り合いの方も集まり、にぎやかであった。かまわないの意味で「だんない」と言う上方言葉をよく使っていたことが子供心に印象的であった。
喜びも悲しみもあり百年の命生きたる媼と別れぬ
新年の誓い
というほど大げさなものではないが、今年も思いつくままに。北アルプス縦走のやり残しのところを歩く。中国語をものにする、そのため現地に研修旅行に行く。筋力をつけ体重を70kg未満に維持する、このため一月には近所のフィットネスクラブに加入した。ピアノの練習を続け2週間に1曲仕上げる。ボランティア活動をする、例えば月1回の献血など。物事をありのままに受け止める。
正月は阿部王子神社、安倍清明神社、住吉大社、四天王寺、一心寺におまいりした。テレビでは恒例のウィーンフィル正月コンサート、歌舞伎、オペラ、ラグビーなどを見た。もちは以前三食三個ずつ食べて9日間の休みで9kg肥えたのに懲りて、このごろは二食二個づつ。
千早赤坂村の水仙がきれいと聞いて出かけた。役場前バス停から川を渡り丘に登っていくと、楠木正成生誕の地がある。この上の段々畑に植えた水仙が満開であった(写真)。花はやさしく、甘い香りが漂う。野生の水仙は淡路島黒岩で見たことがある。一度越前海岸にも行ってみたい。近くにあった道の駅は日本一小さいと称するだけに何もなかった。下の農産物直売所も閉まっていて、今回は花だけでダンゴはなかった。
松竹座で忠臣蔵をみた。藤十郎が高師直、大星由良之助、早野勘平、戸無瀬の四役を勤め、子供の翫雀・扇雀、孫の壱太郎と我當、秀太郎が脇をかためる。話は足利時代に変えてあって、「遅かりし由良助」の切腹の場、「色にふけったばかりに」のおかる・勘平、「天野屋利平は男でござる」などの名文句・名場面で進んで行き、討ち入りの場で大団円となる。通し狂言で計7時間を演じきる役者には本当に感心してしまう。いい席に座りお弁当をはさんでたっぷりと歌舞伎を楽しんだ。壱太郎が力弥を演じて若侍ぶりがとても格好よかった。祖父、親とちがい醤油顔である。追っかけしようかしら。
一月も終わりになると大阪城公園の梅林にはロウバイが満開となり、紅梅白梅もつぼみを開くものがあってほのかな香りを漂わせる。2月になると順々に花が咲き、3月には桃、そして桜へと続いてゆく。春ももう近い。
2009年のこと
この年のニュースはなんと言っても政権交代であり、鳩山首相とオバマ大統領である。両方とも年末にはメッキがはげてきて支持率が下がっているが、国民とのハネムーンが長く続く政治家は最近少ない。誰がやっても難しい時代といえるか。
新型インフルエンザも歴史に刻まれるであろう。その意味で貴重な体験である。世の中全部が全部うまく対処することを期待するのも無理なので、死者の少ない日本はそれなりに予防面も医療面もほめられてしかるべきであろう。
今年から始めたお稽古事は中国語とピアノ。中国語は4月から毎週一回夜の講座に通い、9月からは加えるに留学生に月2回会話を習っている。年末になって効果が出てきたのか少し聞き取れるようになった気がする。ピアノは月2回、ポピュラー曲を毎回一曲あげるペースで習っている。Amazing graceから始まったが、年末はYesterday once moreで苦しんだ。テンポの早い曲は手がついていかない。
身体つくりの方は、春からプールに通ったが、泳ぐよりジャグジーに浸かっている時間が長くあまり運動にならず、食欲の秋になって段々肥えてきた。12月の検診を機にダイエットとジムに励んで体重を落としたが忘年会でリバウンドした。
海外は冬のプサンと春のアンコールワット・ホーチミン、寒さと暑さの両方を経験した。歴史的なものと食べ物に興味が湧く。国内の旅はねぶた・恐山、戸隠山、十津川村が印象に残っている。山の方は戸隠で雨に敗退した他は、禿羊さんも負傷したのでこのところご無沙汰である。最近は山男というよりは温泉男である、年にふさわしいか。
今後行ってみたい所:羽黒山、後生掛温泉、種子島ロケット発射場、沖縄クジラ見物、玉山、シルクロード、サントビクトワール山(南仏)、ドロミテ、オーロラ見物など