11月のうろうろ (Dec.2011)
きのこ・紅葉・温泉 (Nov. 2011)
佐渡・北山 (Nov. 2011)
10月の遺跡 (Nov. 2011)
高野山にて (Oct. 2011)
飛鳥周遊 (Oct. 2011)
夏の遺跡旅行 (Sept. 2011)
6月の遺跡見学 (July 2011)
エスペラント大会 (July 2011)
遺跡探訪 (June 2011)
上州から信州へ (June 2011)
熊野古道伊勢路 (May 2011)
グァムで露天風呂 (May 2011)
春弥生といえども (Apr. 2011)
春の気配 (Mar. 2011)
お正月2011 (Feb. 2011)
2010年のこと (Jan.
2011)
11月のうろうろ
<帝塚山>は大阪市内の高級住宅地である。地名の由来は帝塚山古墳であり、市内で唯一原型をとどめる古墳とのこと。家から1時間くらい歩くと、帝塚山学院の西に古墳の森が見えた。入り口は鉄の扉に鍵がかかっている。古墳長は120mとかなり大きい。周囲を見ようと歩き出すが、入り口以外はびっしりと家に囲まれていて全容はわからない。管理は住吉村常盤会という大正4年設立の財団法人とあり、そのころ村は大阪市に編入されたとのこと。この財団に頼むと見学ができるらしい。
<池上曽根遺跡>和泉市の弥生文化博物館に山口県土井ヶ浜遺跡の人骨が展示されているので、春に続いて見学に行った。池上曽根遺跡ではボランティアの方に案内を頼んだ。男女を象徴する2本の立柱のこと、発掘の初期に森浩一さんが近くの泉大津高校に教諭でいたこと、橋下行革で博物館が廃止になりそうになって地域ぐるみで抵抗したことなど興味深い話を聞かせていただいた。北にある学習館で井戸と大型建物の柱の実物を見た。博物館は山口県響灘の遺跡のオンパレードで、土井ヶ浜の300体にのぼる発掘人骨は縄文人とは異なる渡来系のものだったそうだ。鵜を抱いたシャーマンであろうという人骨も発掘された。一度は響灘をたずねてみたい。この日は11月というのに暑くて疲れてしまった。
鵜を抱きて海の彼方を見はるかす清き姫巫女にわれは仕へむ
響灘二千年の白き骨そのかんばせは見れどあかずも
<飛鳥>住吉区の団体の主催した飛鳥散歩に参加した。飛鳥駅には時間前に着いて、駅前で野菜と柿を買い込んだ。先月説明をしてくれた万葉古代学研究所の人が案内してくれた。まずは丘を上って檜隈寺跡へ、ここは9月に来ている。講堂や門の礎石、金銅仏の右手、呉とかかれた刻書土器などが出た。周りは国営公園を作るために掘り返しているが景観を壊さないで欲しい。ついで栗原部落の呉原寺跡へ坂をどんどん上っていく。日本書紀に呉人に関連した記述がある。礎石が近くの寺に2つ(一つはくりぬいて手水鉢)、墓場に一つある。僧道昭の本邦最初の火葬の地とされ、瓦は出るが正確な場所はわからないらしい。文武天皇陵の横を通り過ぎて、立部の部落にある定林寺跡へ、ここは聖徳太子が建立した七箇寺のひとつとされ、立部寺と書いた木簡が出たとのこと。塔跡と建物跡のみが残る。今日の2時間コースはかなり学術的な見学であった。このあと9月に見逃した犬養孝万葉記念館により、犬養節をビデオで聴く。大学の授業にあったらしいが、もっぱら山に行っていて聞き逃したのがくやしい。
<新沢千塚>遺跡探訪教室の班で見学に行った。先ずは橿原考古学研究所で学芸員より仏教の伝来について大変わかりやすい説明を聞いた。また益田池跡から出た大きい木樋を見た。橿原神宮を参ったのち、久米寺を通り抜け、益田池跡へ。7世紀に作られた土手のあとが残っている。かなり大きな池であったようだ。西へ歩いて新沢千塚へ、600以上の古墳が集積するところ。丘の上に土饅頭がもこもこと見え、一種壮観である。資料館では日本最古の火熨斗、ローマングラスが出たことを知った。住宅地を南へ歩いて山坂を登り益田岩船へ、ここは何度目かになるが来るごとに木が大きくなっている。石は用途不明とのことであるが、同行者間では古墳の用材ではないかということになった。少し南へ歩いて牽牛子塚、2年前の発掘により八角墳で斉明天皇の陵墓の可能性があるとのこと。最後に岡寺の駅の西の見瀬丸山古墳の上に登った。これは欽明天皇と堅塩媛の陵墓ではないかといわれている。近鉄で阿倍野に出て一杯飲んだ。今日はよく歩いてビールがうまい。
<高野山>友人に連れられて高野山と立里荒神をを訪れた。車で河内長野から橋本、そして真田父子が閉じ込められていた真田庵(現在尼寺)へ。近くに大阪城まで通じているという抜け穴があったが、古墳の横穴との紹介が最近新聞に載っていた。近くの女人高野慈尊院は安産祈願の布で作った乳房がたくさん寄進されていた。その上の丹生官省府神社からは町石道が高野山に通じている。高野山では友人のつてで金剛峰寺の内殿を案内してもらった。障壁画はすばらしいものが多い。一般には入れないという奥殿も特に案内していただいた。前日ダライラマが泊まったとのこと。庭のもみじがすばらしかった。そのあと本王院で精進料理と、寒かったので般若湯もいただいた。外へ出てじゃばら道を通って中心伽藍へと入ったが紅葉が盛りであった(写真)。霊宝館では最近偶然に快慶の作と判明した執金剛神立像に人が集まっていた。金剛三昧院は小辺路の入り口、中心から離れているためたびたびの火事から逃れてもっとも古い建物である国宝の多宝塔が残った。ここの杉と石楠花も大木である。このあと立里明神へは山道をドライブし、山門から長い鳥居の階段を上った。拝殿はガスに包まれて寒くすぐに降りてきた。ここは空海が高野山を開山したとき火産霊神を勧請したもので、現在も火の神様として信仰が厚い。帰りは高野山でゴマ豆腐、山の下で柿を買って帰った。
鹿児島・宮崎
春から暖めていたプラン、鹿児島県の上野原縄文遺跡と宮崎県の西都原古墳群jをようやく訪れることとなった。2泊3日の予定なのであと宮崎県の鵜戸神社を加えた。伊丹から鹿児島空港へはプロペラ機、ふと不安が横切る。四国も剣山あたりを越えると一面の雲になって鹿児島は雨。国分町までのバスとタクシーを乗り継いで上野原遺跡はシラス台地の上。9500年前からの定住集落遺跡が残っており、喜界カルデラの噴火で埋まったために保存がよく、また縄文文化は東日本中心という定説に疑問を投げかけた。先ずは縄文バーガーを食べる。展示館では特に集石遺跡による蒸し料理、連結土坑による燻製の製造が興味を引いた。外は雨、国史跡には52の住居跡があり、遺跡保存館では竪穴住居跡や集石、連結土坑などを見ることができた。その南には住居を復元したものがあったが、丸い形で南方風だった。鹿児島県立埋蔵文化財センターでは担当の人が親切に案内してくれた。出土した遺物の水洗い、接合、実測、撮影等大勢の人が作業をしていた。大変根気の要る作業であると思った。このセンターは最近新築され、九州でもっとも充実した施設との事であった。この日は国分よりJRで宮崎まで出た。車内で薩摩揚げで焼酎を飲んだ。宮崎では国際夜市をしていて、赤鶏炭焼、魯肉飯、チジミを食べた。
明けては風雨が強いので西都原は避けて、南の方へ。JRで飫肥、ここは城下町で古い建物が保存されている。ポーツマス条約の小村寿太郎の生家がある道を北に上がると飫肥城。5万石にしては城が大きかったといわれる。武家屋敷を通り抜け、店でおび天を買ってバスで食べる。フワフワして甘い。海岸は強い波が鬼の洗濯板に打ち付けている。鵜戸神社は駐車場よりトンネルをくぐると境内に出る。風雨が強く傘が吹き飛ばされそうになる。朱塗りの神社は階段を下った洞窟の中にある。誠に神秘的である。外の亀石に運玉を投げたが大体は届かず、ただひとつのかけらだけが桝型に入った。宮司さんがよくこの雨風のなか遠くから来てくれたと親切に話しかけてくれた。またバスに乗って青島まで行ったが、雨風はますます激しく島へ渡るのはやめて、手前の店でアサリうどんを食べた。
3日目はいよいよ西都原。バスで西都まで行き、タクシーで考古博物館へ。ここも新設ではなはだ立派である。ボランティアの人に案内され、豊富な展示品を見る。4−7世紀の300基あまりの古墳が集積している。金銅製馬具類、子持ち家形埴輪、舟形埴輪などが出土しているが一部はここにはない。CGや映像での説明がユニークだ。研究所の収集した人骨の一部をも見ることができる。3階に上がり周囲を見渡すと、一周は足では無理といわれたほど広大だが、とにかく歩いてみることとする。雨もようやくあがったようだ。国内最大の帆立貝形古墳である男狭穂(おさほ)塚、九州最大の前方後円墳である女狭穂(めさほ)塚はそれぞれニニギノミコト、コノハナサクヤヒメの陵墓地で入れない。その北の169,170号の円墳と方墳の171墳を通る。農家で野菜を売っているので安いので買ったが、重かったので後悔した。ここから台地の中央の鬼の窟古墳へ、これは周囲に土塁をめぐらせた変わった古墳である(写真)。石室の中にも入れる。酒元ノ上横穴墓群では覆屋があって遺跡が保存されている。地下式横穴墓は南九州独特のものであるという。ここより第一古墳群へ、円墳や前方後円墳がもこもこと見える。13号墳では内部を見ることができる。ついで第二古墳群へ、時間もだいぶたって疲れてきた。第三古墳群でようやく一周したことになり2時間を越えた。このはな館というところで宮崎名物チキン南蛮を食べ、この旅も終わったのであった。
帰りの宮崎空港で梅原猛の「天皇家のふるさと日向をゆく」という本を見つけて読んだ。さすがに推理は奔放で、天孫族は弥生系で薩摩半島に上陸して高千穂に本拠を作り縄文系のコノハナサクヤヒメなどと交り、その後西都、狭野とうつり、4代目の神武天皇が東征に旅立ったとある。今度行った西都原、宮崎市、鵜戸神社、前に登った霧島連峰が出てくるので私としては面白く読んだ。
鳥取・島根
寒くなった中を山陰への遺跡探訪教室の班の一泊二日の旅行。大日で集合し、車で一路中国・米子道をたどる。大山は真白で神々しい。淀江ICで降りて、先ずは腹ごしらえをする。目の前は上淀白鳳の丘展示館で、丘にある上淀廃寺の遺構・遺物から金堂、白鳳仏、壁画を復元している。特に壁画の破片は日本で最古のものという。少し上の台地が妻木晩田遺跡、国内最大級の弥生遺跡であり、二千年から千七百年前の9百棟の住居と30基以上の墳丘墓が見つかっている。ボランティアの方に案内してもらうが、標高100mの丘は風が吹いて寒いので手ぬぐいや毛布ををかぶって歩く。西に向かい、土屋根竪穴住居、掘立柱建物を復元したもの、墳丘墓を見る。特に四隅突出型墳丘墓は初めて見るので珍しい。奥へ進むと、海を見下ろす場所に環濠がある。この遺跡も高地性集落だが戦いの跡は出ていない。東へ戻って集落を復元したところと、竪穴住居跡露出展示を見る。小雨がぱらついてくる。急いでガイダンス施設へ戻りコーヒーと試作品の弥生クッキーで体を温める。下へ降りて上淀寺跡へ、7世紀末、金堂、南塔、中塔等が建てられた。向かいの丘には向山古墳群があり、このあたりは遺跡が集中している。岩屋古墳は石室内へ入ることができる。暗くて見えなかったがベンガラの彩色が残っているとのこと。皆生温泉の宿に入り温泉とカニ三昧を楽しんだ。
日本海は風が強く荒い波が打ち寄せている。島根に入り、富田城址を目指す。城跡を登り軍用大井戸のあたりに車を置き、大手門跡から山中御殿に入る。広々とした敷地である。本丸跡はここから20分急坂を登るが、今日は省略。花の壇を散策し、戦国専門家からいろいろ話を聞く。下へ降りて有名な山中鹿介の生誕地や来市歴史資料館を見る。安来もゲゲゲの女房の実家の看板が目立つ。西へ走って加茂岩倉遺跡へ、かなりな山の中である。駐車場から農道を登っていくと、1996年に農道工事中に39個の銅鐸が発見された急な斜面が見える。訪れてみてなぜここに埋めたかという疑問はますます深まる。。ここから荒神谷遺跡まで尾根伝いに8kmと近く、加茂岩倉の銅鐸と荒神谷の銅剣に同じ刻み傷があるので、何らかの関係はあるらしい。20分走って荒神谷遺跡、私が松江からj東京に移ったころの1996年に、358本の銅剣が出たと世間を騒がせた。浅い谷を歩いていくと左の急な斜面に遺跡が見える。ここは甘南備山である仏経山を望む祭祀空間であったとのこと。ここもなぜこれだけ大量の銅剣を埋めたのかははっきりしない。また20分走って西谷墳墓群へ、前日妻木晩田で最大級の四隅突出型墳丘墓がここにあると聞いて急遽予定に加えた。大きい墓が4つあり、最大は63m×55mである。丘の上は公園風にきれいに整備され見晴らしがいい。芝生で覆われたものや、葺き石を復元したものがある。四隅に突出している部分はカモノハシのくちばしのようであり、新幹線の先端にも似てモダンである。古代出雲王の墳墓であろうか。遅い昼食を大社の横の蕎麦屋で食べる。そばがきぜんざいを食べた人もいたが味はもうひとつといっていた。古代出雲歴史博物館は立派な建物である。出雲大社の3本束ねた柱の実物、加茂岩倉の銅鐸、荒神谷の銅剣には圧倒された。景初3年の銅鏡と保存のよい鉄剣もあった。やはり出雲はすごい所である。横の大社にお参りした後は、一路大阪を目指した。
きのこ・紅葉・温泉
夏に行った乗鞍高原でマツタケやシメジが採れると聞いて、秋の一日きのこ狩りに繰り出した。午後にペンションに着くと早速奥さんの運転する軽トラの荷台に乗って一之瀬園地へ。キャンプ場を抜けて道からそれたと思ったら、急斜面をよじ登る。前に戸隠できのこを採ったときは平地だったので、予想外の展開に驚く。斜面をジグザグに登って探せというが、足がすべる。奥さんは猟用のスパイク付の長靴だからどんどん前を行く。そこにきのこがあるといわれてもわからない。結局10個ほど採って帰って主人の鑑定を受け可とされたのはシモフリシメジ2個だけであった。夜は主人が採ってきたマツタケほか9種(写真)のキノコ汁を楽しんだ。自家製の温泉小屋で旅愁をかみしめた。
明けてはバスで乗鞍畳平2700mを目指す。快晴に恵まれ北・中央・南アルプス、浅間山、八ヶ岳が見える。畳平から肩の小屋下まで歩き、バスに乗って位ヶ原小屋でビールを飲む。写真のグループの人がたくさん来ていたが、今年の紅葉は霜に打たれてもうひとつだといっていた、鈴蘭で昼食にピザなどを食べた後、腹ごなしにサイクルロード沿いに下って番所滝を見物に行く。40mの落差で水量も多く迫力があった。宿に帰り、温泉、昼寝。夜はマツタケ土瓶蒸しや郷土食である投汁(とうじ)ソバを食べた。これは柄付のざるにソバを入れ、煮汁の中でしゃぶしゃぶして食べるもの。最終日の朝は一之瀬園地奥にある少し色づいたた大かえであたりを散歩した後、乗鞍を後にした。塩尻のワイナリで試飲し、アイスワイン、ブドウジャム、ブドウを仕入れてきた。
佐渡・北山
古くは流刑と金山、今はトキと世界農業遺産で売り出し中の佐渡を目指し、お手軽ツアーに参加した。行きに一日、帰りに一日、中日は10時間で10箇所を廻る言うハードな旅であった。あまりにも忙しかったので覚えているのは、外海府の大野亀と二つ亀という巨大な岩山に砕け散る日本海の荒波(写真)、トキが羽ばたいた時に見えた朱鷺色、3日間しゃべりぱなしのサービス満点のバスガイドさんである。流刑になった人は、1242年承久の変で順徳上皇、1271年日蓮、1332年正中の変で日野資朝、1434年将軍足利義政の勘気に触れた世阿弥、1651年丸橋忠弥に連座した大岡源三郎など80名に上るという。また226事件の北一輝は佐渡両津の出身である。
禿羊に誘われ大津市坊村にある比良山荘に鮎を食べに行った。山荘のキャッチフレーズは「春は山菜、夏は鮎、秋は松茸、冬は猪と熊」とある。堅田で車に拾ってもらい、真っ暗な坊村に着いた。先ずは熊肉のローストなどの八寸、その後はひたすら鮎で、焼き鮎、松茸鮎ご飯まで含めて一人7.5匹を食べた。泊まると高いそうなので向かいのキャンプ場にテントを張って寝袋で寝た。次の日はハイキングをしたが、朝はラーメン、昼はパンと前日との食事落差が激しかった。鎌倉山、峰床山、八丁と秋の気配を楽しんだ。中村に下りる谷の道が悪くやや難渋したが、6時間半のいい山行であった。
10月の遺跡
高槻市にある今城塚古墳を見に行った。JR摂津富田で降りてバスで古墳前、先ずは今年4月にできた今城塚古代歴史館を見学した。無料であるがなかなか充実していて、数多くの埴輪や土器、発掘調査の説明などが興味深かった。高槻に古墳の集積していること、埴輪工場のあったことを知った。外へ出てきれいに整備された今城塚古墳へ。継体天皇陵といわれるが、宮内庁の管轄ではなく、唯一中へ入れる大王墓であるとのこと。埴輪を復元して並べた祭祀場がなかなか面白い(写真)。内堀を抜けると墳丘へ、安土桃山時代の伏見大地震でかなり崩れたとのこと。内堀の前方部には水がたたえてあり、後方部には芝生を張って子供が野球をしていた。一周すると900mになるが結界として円筒埴輪を並べてある。カシの木の生えた散歩にいいコースである。
昭和29年に芦屋市山手中学生が土器を見つけたことをきっかけにして、高地性集落としての初めての発見である会下山遺跡を見に行った。阪急芦屋川駅の西北にあり、住宅街の坂道を登ってゆくと滴翠美術館があるので先ずここで永楽保全の陶器を見る。尾根にとっついて急な山道を上ると遺跡に出る。竪穴住居跡、高床式復元住居、祭祀跡などがある。一番上は標高200mで見晴らしがいい。卑弥呼が出る前の倭国大乱があったという弥生時代のもので、遠くを見渡したり、逃げ込むために高地に作ったのだろうといわれている。東側の城山にも遺跡があるそうだ。全国に600余りの例があり、戦略の要地であるので戦国時代には城になった例が多いそうだ。
高野山にて
高野山と聞けば大阪では反射的に林間学校と出てくる。荘厳と冷涼の霊地に身を置き、精進料理と温泉で腐りきった肉体と精神の再生を果たさんと、晩夏の3日間高野山行を計画した。最近は宿坊もネット予約でカード決済という時代である。ところが当日は紀伊半島に大被害をもたらした台風12号のせいで、南海電車が紀ノ川を渡れず、橋本から代行バスということになった。くねくねした道を高度800mまでひたすら登って行く。福智院は唯一温泉のある宿坊で庭がすばらしいという前評判、なるほど3つの庭が立派だ。しかし部屋への案内や配膳が外国人女性というのに国際化時代を感じた。部屋から風呂まで1分の近さだが、建て増しをしたのか上ってまた下がる。内湯のほかに露天の木桶が3つあり、開放的で気持ちがよろしい。
食事は精進料理で、豆腐、湯葉、麩の料理が多い。メインは鍋とてんぷら、デザートは豆乳プリンとあったが豆腐に蜜をかけたようなもの。般若湯はもちろんいただいた。体にやさしい料理であるが、3日間で結局3kgも肥えてしまった。翌日は朝6時からの勤行に出た。昔那智山に泊まったときにもこの経験がある。お経は般若経しかわからなかった。後で本堂から重森三玲作の庭を見せていただいた(写真)。枯山水と格子模様の対比がモダンである。金剛峰寺までは5分でいける距離、本堂、根本大塔、霊宝館と廻った。開山1200年が近く中門の再建を計画しているようだ。昼はしゃれた店でカレーライスを食べた。帰って風呂に入り、昼寝、おきてはまた風呂と再生の3日間を過ごしたのであった。
高野山露天の湯より仰ぎ見る月さえざえと秋の近づく
真夜中にひとり目覚めてわれの居ぬ世界のことを考えている
金雀児(えにしだ)の枝より落つる露の玉そに映りたる涙顔かな
夢うつつうつつに明ける朝ぼらけ朝の光に消ゆるおもかげ
飛鳥周遊
1年ぶりの彼岸花の飛鳥である。今年は考古学のクラスに行っていることもあって、先ずは近鉄高取駅から光永寺の人頭石。片面の顔だが猿石の類でペルシア人ではないかとのこと。東に峠を登って壁画で有名なキトラ古墳、しかし全体が保護用の建屋で覆われていたので驚いた。ここの天体図は世界最古という。北に上がって於美阿志神社、ここは渡来系の東漢(やまとのあや)氏の桧隅寺跡と言う。北東に文武天皇陵、ここより東に行くと毎年寄るブドウ園があるのだが、今年は不作とのことでもう閉まっていた、残念! 朝風峠を越えて稲淵に入ると段々畑に彼岸花が咲いているが、今年は何か色がさえなかった。
石舞台に出て、丘の上から古墳を眺めながら弁当にする。周りは相当に観光地化されている。昔は石舞台の上に子供が登って遊んでいたものだ。犬養万葉記念館は休館、伝飛鳥板蓋宮跡から酒船岩へ、亀形石造物は上から眺めた。飛鳥寺を通り過ぎ、甘樫の丘に登る。途中にミツバが生えているのを採っていると通り過ぎる人に笑われる。甘樫の丘を南にたどって、亀石、鬼の雪隠、吉備姫王墓(猿石)と帰る。いつも寄る飛鳥駅前の農産物売り場は端境期とのことで寂しかったが、ニューオリンピアという甘いブドウを買ってきた。このコースで一周5時間半、体がなまったのか足が少し痛んだ。
夏の遺跡旅行
7月は仕事の変わり目で忙しくしていたが、避暑を兼ねて前から気になっていた八ヶ岳星糞峠へ赴いた。.大阪より名古屋、中央線を塩尻で乗り換えて茅野へ、バスで白樺湖へと登る。宿は湖の東にある民宿で安さで勝負、朝飯つき五千円である。昔漬物も売っていたのか梅宮さんの人形が片隅においてある。この日は近くの温泉に入り、少し散歩し早く寝てしまう。高度が千メートルあると涼しいのがうれしい。翌日はタクシーを呼んで鷹山町にある黒曜石ミュージアムhttp://www.hoshikuso.jp/ へ。3万年前の旧石器時代は石が川へ流れたのを拾ってナイフなどに加工していたが、縄文時代には土で埋もれたのを星糞峠で掘っていたとのこと。少し北の和田峠には星の塔という地名があり、キラキラ光る黒曜石を星に見立てたようだ。このあたりの黒曜石が関東まで運ばれていた。展示を見て外へ出て、峠への道をたどる。上まで上がる人は少ないようだ。20分ばかりで道の横にキラキラ光る石の落ちているのに気がついた。これが黒曜石のかけらだ。峠には表示があって国史跡のため掘ったり石を拾っては駄目と書いてある。上のほうにはへこんだ所が無数にあってこれが石を掘り出した跡だ。奥のほうでは明治大学の人が発掘をしている現場があった。ミュージアムへ降りて石のナイフを買ったが、現産地は北海道白滝であるとのこと。その日は白樺湖畔(写真)の芝生で本を読んで過ごした。次の日は乗鞍のペンションに温泉に入りに行った。4度目になるが東大ヒュッテを訪れ、夜泣峠から一之瀬園地に降りた。きれいなキノコ(写真)が印象的であった。ペンションのご主人ときのこの話をしていたら、マッタケやシメジが取れるそうなので10月にまた行くことにしている。
黒き石光れる見れば縄文の人になりたる心地ぞしたる
甲斐の国唐松林の彼方へとエスペラントの歌の響ける
エスペラントの会(別項参照)で8月に八ヶ岳小淵沢に行くことになった。このあたりは遺跡が多く野辺山には日本で最初に細石器が発見された矢出川遺跡があるが、今回は井戸尻縄文遺跡を訪ねた。大阪から車で3人、中央道諏訪湖では非常に珍しいサービスエリア内温泉に入った。諏訪湖の景色がよろしい。小淵沢で高速を降り、くねくねした道を通って井戸尻遺跡へ。考古館http://www.alles.or.jp/~fujimi/idojiri.htmlには縄文土器がびっしりと並んでいる。特に水煙渦巻文(藤森栄一命名)、半人半蛙文、神人交会文、蛇文など名前だけでも異様だが、実物は想像をはるかに超えて、縄文土器の頂点を示している。多くは縄文人の神話世界を現していると考えられている。外には竪穴式住居を復元したものがあった。湧水があり暮らしやすい場所であったようだ。このほか大泉駅の近くの三分の一湧水と信玄の軍用道路である棒道を散策した。湧水はその噴出量が莫大なものであるが、水争いを解決するために三つに分けたもの。棒道はほとんどが舗装されているが、一部山道のところでは古い時代をしのぶ事ができた。この道は白樺湖横の大門峠へと続く。
6月の遺跡見学
考古学のクラスで唐古・鍵遺跡を見学に行った。バスで郡山インターを降り南下、左前方に楼閣が見えてくる。これは発掘された土器に描いてあった絵を元に復元したもの。ここは弥生時代の巨大環濠集落であり、稲作に使われた石包丁や農具、土器、大形建物跡などが発見されており、銅鐸製造工房もあったようだ。池の傍で土器のかけらのようなものがあったので拾ってきた。近くの博物館には出土品とともに当時の祭りを再現したジオラマがあり、なにかインデアンの祭りのようであった。弥生時代にはこのような大きな集落が奈良平野中部に数箇所あったが、古墳時代になるとこれが消え桜井市纏向に中心が移ったとのこと。次に訪れた桜井市の資料館には、纏向遺跡からの出土した桃の種(写真)や鍬を加工した木製仮面が展示してあった。ここはヤマト王権発祥の地であり、邪馬台国ではないかとも言われている。街角には卑弥呼の町桜井などと書いた看板がある。遺跡の発掘は神殿風の大型建物が出たりして今が盛りである。卑弥呼か台与の墓ではないかといわれている箸墓古墳を見学し終わったところで、私は時間が尽きたので皆と別れて大阪へ帰った。
東京での会議の後、上野から列車で1時間の埼玉県行田市にあるさきたま古墳を見学に行った。十個あまりの古墳が固まってあり、そこが史蹟公園として整備されている。先ずは博物館へ、目玉は稲荷山古墳出土の国宝金錯銘鉄剣である。115字が刻まれていて、辛亥とあるのは471年、ワカタケルは雄略天皇と考えられている。これ以外にも鏡、帯金具、馬具、剣などが一括して国宝指定されている。外へ出て先ずは円墳である丸墓山古墳へ、ここは石田三成が忍城を水攻めにしたとき頂上で指揮を取ったそうだ。隣の稲荷山古墳の後円部には鉄剣が出た石槨を復元してある。その隣の将軍山古墳には展示館があり、埋葬状況が復元されている。一番大きな二子山古墳は周りのポピーがきれいであった(写真)。行田名物フライを食べたがお好み焼きのことであった。バス停前の埴輪を売っている店で遮光器土偶を仕入れた。「のぼうの城」という忍城攻防の映画が完成したが、水攻めのシーンがあり時節柄開演は延期になったと地元の人が悔しそうに言っていた。
考古学クラスの京都の見学は西本願寺前の龍谷ミュージアムから始まった。できたばかりのここの2階には釈迦の一生をたどる展示がある。ガンダーラ仏もあったがこれらは戦前に大谷探検隊が持ち帰ったものの様である。ベゼクリク石窟復元展示や、シアターでの西本願寺の障壁画の復元が興味深かった。ついで三条で食事した後、下賀茂神社へと向かった。奈良の小川の横には昔の祭祀跡があった。本殿に参拝した後和田神社に寄って鴨長明の方丈を復元した物をみた。タクシーで近頃とみにパワースポットで有名な清明神社、そして歩いて京都市考古資料館へと向かった。ここでは長岡京から出た厄よけに使う人面土器が大量に展示してあった。暑い日であったので土器を見ているよりは、それをジョッキにして生ビールが飲みたかった。
ジャカランダというベトナムで見た紫の花が朝潮橋の公園に咲いているらしいと行ったのだが未だつぼみで、かわりに大阪市歴史博物館を見学した。入り口の前でボランティアが案内してくれると言うのでミニツアーに参加した。難波宮の一部の大型倉庫の柱跡が床に張ったガラスの下に見え、建物の地下に入ると掘り出した時のまま保存されていたのは興味深かった。10階で古代の展示を見、下にある図書館で里中満智子の王朝漫画を読んでのんびりと過ごした。
エスペラント大会
エスペラントの関西大会が神戸であり出席した。始めは歌のプログラム。日本と世界の歌が翻訳されていて、知っている歌ばかりなので楽しく歌えた。ついで開会式だが、日本人のエスペラント語は良くわからなかったが、ベトナム女性の言葉は明快で、外国人が言うのを始めて聞いてエスペラントが通じるということを実感した。後でこの人のベトナム紹介があったが、日本と違って若い女性のエスペランティストが多かったのは印象的であった。質問で「なぜベトナムでは若い女性が多いのか(日本はじじいが多い)」との回答に「ベトナムでは女性の方が賢いから」と答えて笑いを誘っていた。後で中華街に出てミニコースを食べたら結構量が多くて体重が増えてしまった。翌日も作文教室にでたが、うっかりミスやつづりミスをしてしまった。昼は相楽園で昼寝をした。
エスペラントの勉強では一週100ずつ短文を暗記するのを終了して、次はネット版の作文教室の過去問を週30ずつやっている。一週間学習してクラスメイトに問題6個の番号をメールで送ると、相手からも届く。成績は自己評価する。このほか毎日lernu!(勉強せよ)というネットから送ってくる短文を読むこと、週一回ネットの作文教室に投稿することをつづけている。会の初級講座は6ヶ月たってやっと終わったが、中級の「イワンの馬鹿」は仕事の都合でいけそうもない。その代わり、8月の八ヶ岳と9月の京都の合宿に出て会話の力をつけたいと思っている。また中級の通信講座にも申し込んだ。
遺跡探訪
4月から週1回考古学のクラスに通いだして、その興味から近所の博物館やら遺跡を見て回った。先ずは近場の近鉄古市駅から15分西に歩くと住宅地に囲まれた翠鳥園遺跡があり、2万年前の旧石器時代に二上山からとってきたサヌカイトをナイフなどに加工する場所であったとのこと。帰りに付近の大和尊陵墓や大きさでは日本第2位の応神天皇陵も見て回った。
阪和線和泉砂川近くの信達市場の梶本邸では季節になると藤棚を公開している。相当古い木で2万房がつくそうだ(写真)。この近くに本陣跡があってご主人の説明を聞いた。昔は広大な屋敷であり、年貢が免除されていた。紀州藩の参勤交代の時には1600人が山越えしてここまで20km、次の日には大阪まで45kmを歩いたそうな。拝領の重箱や勝海舟の書があった。
比良山の麓に別荘をさがしに行ったついでに、大津市錦織にある大津宮跡を見学した。住宅密集地であるのでばらばらにしか発掘されていないが、天智帝の宮に間違いないということである。東の方にある皇子山古墳にも登ったがかなりの急傾斜で息が切れた。この上で弁当を食べている人がいた。そのあと大津市博物館、ここでは大津事件の特集をしていて、津田巡査に切りつけられたニコライU世(後にロシア革命で死刑)を助けた車夫にロシアから莫大な謝金が出たと書いてあった。外には渡来系の人の作ったと思われるオンドル遺構があった。近くには明治時代に追号された弘文天皇(大友皇子)の陵墓もある。近くの三井寺は八重桜が満開であった(写真)。
長居公園に自然史博物館があり、ここにナウマンゾウとオオツノシカの模型とこの近くで出たという巨大な足跡のレプリカがある。旧石器時代に歩きまわっていたらしい。大阪も上町台地以外は海の時があって、ビルの工事現場からクジラの骨が出てくることもあるらしい。恐竜の化石などもあるが、これは考古学の範疇からは外れる。植物園の牡丹がきれいであった。
橿原神宮の近くに橿原考古学研究所付属博物館がある。前庭には石棺が転がっており、サツキが満開だ。弥生時代の特別展があり、弥生部落を取り巻く動物たちの陳列があった。ネコはいなかったのか疑問がわいた。ボランティアの人が説明してくれるというのでそれについて回った。素人とは思えないような詳しい方であった。50分見当の所をしつこく質問して100分も説明を聞いてしまった。巨大な円筒埴輪と法隆寺横の藤ノ木古墳から出土した馬具や装具が素晴らしかった。
関連で万葉集のいい講座はないかとふたつほど試し聞きに行った。一つは50人の大所帯で結構私語が多くにぎやかであった。もう一つは少人数で途中で柏餅とお茶をいただいた。しかしどちらも2時間近く話を聞いているだけというのは辛い。斉藤茂吉とか犬養孝の本をもう一度読み直している。
考古学のクラス仲間と一緒に近つ飛鳥博物館に行った。近鉄線
東京に行ったついでに、縄文土器を名づけたモースの発見した大森貝塚を訪ねた。大森駅から北に歩きNTTの建物の横の狭い道を降りると碑が一つある。もう少し先に行くと公園があってこの場所と前のが本家争いをしている。いずれも崖にあり、モースは東海道線の窓からこの貝塚を見つけ、そこから掘り出した土器の縄目紋に着目した。縄文の時代はすぐ下は海であったらしい。弥生土器の由来となった本郷弥生町も訪れたが、ここは看板が立っているだけで、どこで発見されたかは分からないようだ。どうも東大の建物の下に埋もれているという説が有力らしい。
御茶ノ水の明治大学は1950年に考古学科ができて、前年発見された旧石器の岩宿遺跡を掘ったので名高い。新しい建物の地下に博物館があり、考古学の分野では4種の重文が展示してあり、小さいわりに充実している。黒曜石の原産地である八ヶ岳の星糞(ほしくず)峠にも研究施設がある。法科の集めた拷問・処刑具がなかなか面白くて、鉄の処女とか、明治時代のさらし首の写真などもあった。
考古学のクラスで阪和線信太山にある弥生文化博物館を見学した。先生の説明では池上曽根遺跡で見つかった巨大建物の柱を年輪年代法で調べて紀元前52年とわかったことで有名とのこと。その柱や直径2mもある楠をくりぬいた井戸枠が展示してある。そのうち実習で土器を作らねばならないので種々の土器の写真を撮った。八尾市の遺跡から出た犬の骨をDNA鑑定して韓国の珍道犬と同じとわかって、弥生犬「海渡」と名づけられていた。外に出ると環濠に囲まれて巨大建物と井戸が復元されていた。建物の大きさには圧倒された。
ワンゲルの同窓会で草津に行く前の日に高崎に泊まり。岩宿遺跡を見に行った。高崎からは電車で30分余り、歩いて20分で小高い岡の切り通しに石器の発見地がある。納豆の行商をしていた相沢忠洋氏が1946年に関東ローム層の下からそれまで日本にはないと考えられていた旧石器時代のナイフを発見した。その向かいには地層を保存したドームがある。近くには博物館があり、開館一番乗りであったので、案内の方がテンション高く説明してくれた。ここの石器は和田峠産とのこと。売店で北海道白滝の黒曜石を記念に買った。
考古学クラスのバス旅行で、唐子・鍵の弥生遺跡に行った。ため池の所に出土した陶土片に描かれた楼閣を復元したものが建っていた。池のほとりで土器片らしきものをひろってきた。近くに考古ミュージアムがあってボランティアの人の解説を聞いた。遺跡は内部が径400mもある環濠集落で大型建物や銅鐸の工場があった。岡山、愛知、静岡などの土器や糸魚川のヒスイが出土していて広い地域との交流を物語っている。大型建物や当時の祭祀を復元したジオラマが興味深かった。ついで桜井へ移動して市立埋蔵文化財センターを訪れた。ここは纏向遺跡を掘っていてこのところ大当たりで、道の看板にも「卑弥呼の里」などと書かれている。卑弥呼は別として倭王権発祥の地であったことは間違いないらしい。四連の居館の模型とともに、祭祀に遣われたと見られる大量の桃の種が展示してあった。外へ出て卑弥呼か台与の墓ではないかと言われる箸墓古墳を見たところで、私は時間切れになったので独り大阪へ帰った。今月は遺跡を沢山見て回ってで頭がごちゃごちゃになってしまった。
上州から信州へ
年に一度のワンゲルの同窓会は今年は草津と戸隠。高崎駅で皆に合流して、震災の影響で特急の間引かれた吾妻線を鈍行で行く。途中中止でもめた八ッ場ダムの付帯工事の巨大な橋脚が見える。長野原草津口でバスに乗り雨の草津へ。ホテルに荷物を置いて先ずは見物、坂を下って湯畑へ。3度目という人は湯量が減ったという。客は震災の影響で三分の一だとも。途中温泉饅頭をほおばりながら西の河原へ。ホテルへ戻り温泉に入った後食事。この日は完食してしまって反省。部屋に帰って恒例のmeeting、各人の近況報告をするが、茶茶が入ってなかなか前へ進まない。シンデレラになる前にお開き。
朝はバイキングでまたも食べ過ぎ。バスに乗り白根山に向かうが、梅雨入りで山もガスっている。横手山のところで停まると、かろうじて周りが見える。新緑の志賀高原を抜け、下まで降りるといい天気に変わり、妙高も見えるようになった。道の駅でご婦人方は野菜を買い込んでいる。小布施で栗オコワの昼食、周りを散歩。町おこしで個人の家の庭を公開している。北斎館、高井鴻山記念館、岩松院を見物する。北斎の天井画や屋台画は様式美と色彩美が素晴らしい。須坂に行き、豪商の田中本家博物館を見る。蔵に囲まれた豪壮な建物で、丁度玩具展をしていたが、マニアには垂涎ものだろう。春夏秋の三つの庭があり、二階に上がって見物することができた。もう少しするとシャラの花が咲くらしい。池にはカルガモが泳いでいた。バスの中で寝ているうちに戸隠の宿坊に着いた。山菜づくしの食事の後、植物に詳しい宿のご主人のお話を聞く。ついで遅れてきた二人を中心に話が弾む。
早く目覚めて同室の人と宝光社までの神道を歩く。七年に一度の祭祀には神輿が中社までわたる道である。霧にかすむ道がゆかしい。帰りに日之御子社もお参りした。この後中社、奥社、九頭竜社も参ったので戸隠五社を一日で廻ったことになる。奥社の植物園に水芭蕉が残っているというので、木道を廻った。野鳥観察の人が多かった。この後、随神門、奥社と雨の中を歩き、バスで長野へと向かった。善光寺では面白い案内人から説明を聞いて勉強になった。本堂の戒壇めぐりをしたが、真っ暗闇というのは気味の悪いものであった。食堂でソバを食べて解散、大阪へ直行の特急で帰った。来年は中部の鉄チャン担当である。隠れ鉄チャンも出て二人で話が弾んでいた。
熊野古道伊勢路
禿羊に誘われて伊勢路まで繰り出した。大阪から車で西名阪を通り、亀山から伊勢道に入って大内山で降りて尾鷲まで約4時間あまり。道の駅まんぼうでマンボウとさんま寿司を食べた。マンボウは鶏肉のような食感であった。最近よく定置網にかかるらしく、大きなものは3m5トンもあるとか。紀北町でキャンプ場に入ってテントを張る。海抜が15mなので津波の時裏山に逃げ込めるよう山側にテントを張る。その日は足慣らしに尾鷲から北に抜ける馬越峠を往復した。石畳がよく残っている(写真)。登り30分だが熱くて大汗をかく。町のスーパーで食糧を買ってBBQと刺身とワインで夜を楽しむ。しかしテントでは禿羊のいびきには悩まされた。
伊勢から熊野へ行くには西国一の難所と呼ばれる尾鷲の南の八鬼山越え600mを越えねばならない。大曾根浦駅に車をおき、古道センター西側の登り口からきれいな石畳をたどる。途中紀州の殿様の籠が休んだ籠立ち場を通り、急傾斜の七曲がりを登ると九木峠、荒神堂から峠の八鬼山まではわずかだ。江戸道と明治道に分かれるが古い江戸道を行く。尾根を行くと、眼下に水軍で有名な九鬼が見える。途中から急な下りとなる。世界遺産指定反対の文字が木に描いてある。三木里の町には約5時間でついたが、次の汽車が2時間先まで来ないので食堂でビールを飲んで時間をつぶす。ママさんは、津波がこわい、うちのお父さんは昔尾鷲まで何十分かで走っていたなどと。この峠道も昭和30年代ぐらいまでは生活道路だったのだ。汽車で戻り車を回収して古道センターの風呂に入りに行く。夜はチーズフォンデュと寿司と酒。
次の日は戦術を変えて賀田駅まで車で行き、先に汽車に乗って新鹿(あたしか)から北に道をたどる。リヤス式海岸では半島をぐるっと回るより越えていくほうが早い。逢神峠という狼が多かったとも熊野と伊勢の神がデートをしたとも言う峠に登り、イノシシ除けの石の猪垣(ししがき)のあるところを抜け2時間で海の美しい二木島の部落(写真)、登りなおして昔の段々畑の石組みや猪垣の跡を抜け、尾根をたどったのち、甫母峠からは一気に海に落ちるように下って2時間で賀田に帰り着いた。村の神社の楠と杉が立派であった。尾鷲の古道センターでおふくろの味バイキングを食べて一路大阪に向かった。
グァムで露天風呂
昨年のオーストラリアの珊瑚礁の海がきれいで浸かっているのが極楽であったので、グァムの海を楽しむために赴いた。関空からは機内食のビフテキ丼風のものを食べて3時間あまり、降り立つと熱気がすごい。ホテルの広いプールの前は砂浜でなかなか景色がいいが、向こうの岬がかすんできたと思う間に、スコールで土砂降りとなった。この雨は毎日経験したが、終わったあとは湿度が高くなってムワッとなる。現地の人はぬれるに任せるが、こちとらは外出時は傘必携である。
海にも毎日浸かりにいったが、焼けて肌が真っ赤になってしまった。タオルで隠せなかった足先がひりひりと痛んだ。海水浴もしているのは子供ずればかりである。町も恐ろしく日照りが強いのでそもそも歩いている人があまりいない。いきおい観光客はバスに乗ってモールに行きブランド品やらアウトレットの買い物をするということになる。大きなモールが数個あり涼しいので人が多い。フードコートもついているのでジャンクではあるがバラエティに富んでいる。チャロモ風焼きそば、ワンタンメン、タコス、シュウマイ、スムージィなどを食した。あとチャモロ料理とイタ飯、中華の店に入ったが特に感激することはなかった。空港でコシヒカリの袋をおいてある店で食べたがこちらへ来るとコシヒカリも長くなるようだった。
海は遠浅で、遠くで波がくだけている環礁までは歩いていけそうである(写真)。寝転んで浸かっていると温度も適当で大きな露天風呂に入っているようではなはだ気持ちがよろしい。ただ雲が切れると日がさして顔が痛い。もぐって頭を冷やすのを繰り返す。頭と尻尾以外は透き通った魚や、上半身が色とりどりで人の足をつつく魚などがいる。黒いナマコが多い。釣りをしている人がいるので魚は食べられるのだろう。魚屋に行くと見慣れぬ魚ばかりで、アジらしいのも少し顔が違う。
人種の多い順に原住のチャモロ人、フィリピン人、アメリカ人となる。首都のハガニアには灯篭のような形のラッテストーンがあってこれが原住民の文化の象徴となっている。その後来たスペイン人の象徴は要塞や大聖堂、それに日本軍の防空壕やトーチカもある。食料も大部分が輸入ではないかと思われ、主な産業は観光と軍隊ということになろうか。熱さでだらだらしているうちに頭のほうも熱変性してしまって、帰国してからもなかなか直らない。
春弥生といえども
寒々とした日が続いた。月初めには仕事のことで居残りをして、このことは月末まで尾を引いたしかたづくまでにはまだまだ時間がかかる気がかりなことである。足を怪我した知人がいてお見舞いのメールなどを打ったり、先輩の様子を見舞ってくれという知らせがあり訪れてその変わりように打ちのめされたりした。
禿羊と奈良県大和下市の南方の山の上にある広橋梅林に行った。今年は80歳の人も始めて経験したという60cmの雪のためか、梅も未だ3・4分咲きであった。近くに何年か前に亡くなられた歌人前登志夫さんの家があるので見に行った。部落の入り口には広橋青年団の名の入った古いトタン看板に清水の十数軒の家が描いてあった。私たちは前登志夫さんの立派な家の周りをひっそりと見て回った。
夕闇にまぎれて村に近づけば盗賊のごとくわれは華やぐ(前登志夫)
そのあと黒滝村に出てきつねうどんの昼食後、赤岩という川の中の赤い岩を見に行った。ここにも前登志夫の歌碑があった。もう一箇所高見山(写真)の見える歌碑まで行った。
朴の花たかだかと咲くまひるまをみなかみにさびし高見の山は(前登志夫)
この3月は外相が辞任したりしているうちに11日東北で大地震・津波が起こった。津波の映像を繰り返し見ていると、欝状態になっていくのがわかった。なにか目がしくしくするので眼科へ行くと炎症で視力が落ちていて、市大を受診したりした。気分転換に月ヶ瀬の小屋を訪ねたが、時刻表が変わって1時間も電車待ちをしたり、鍵を忘れて入れず、ラーメン用の湯も沸かせず、おまけに雨にもぬれて散々であった。このように普段なら春の華やぎの始まる3月もなにか寂しくすぎてしまった。
春の気配
3日連続で4本の映画を見た。先ずは阿倍野で1934年製作「別れの曲」。革命の戦局を逃れ恋人と別れてパリに来たショパンはジョルジュ・サンドと恋に落ちる。それを知った元恋人は自分に捧げてくれた曲をもう一度だけ弾いてくれと頼む。これが別れの曲。その他ショパンの有名な曲が何曲も流れ、登場人物もリスト、バルザック、ユ―ゴと豪華である。続いて1952年ルネ・クレマン監督の「禁じられた遊び」。ナルシソ・イエペスのギターの曲にのせて、悲しい物語がつむぎ出される。大人のおろかさと残酷さ、それに対比して子供の純真が際立っている。3本目は難波で1962年日活の「若い人」。石坂洋二郎原作、石原裕次郎、浅丘ルリ子、吉永小百合出演である。話は良くわからなかったが、スターのかっこよさと美しさだけで満足すべきであろう。4本目は梅田で新作の「180°SOUTH」。イースター島やパタゴニアでのサーフィンや登山の映像が美しい。両方とも一度は行ってみたいところである。
エスペラントのセミナーを受けに1泊で名古屋近郊の東海市まで出かけた。あらかじめ歴史や町のことなどについて作文をしてきて、それを講師の先生が直してくれる。2時から5時まで講習、7時から9時まで2人の講師の講演、翌日も9時から11時まで講習という大変密度の濃いものであった。私は三内丸山縄文遺跡の話を書いたが、文法的間違いはもちろん、分かりやすさという点でもみっちりと絞られた。発音も注意を受けたが、大阪弁なのだろうか。夜遅くParadizo(極楽)のコーナーがあり酒を飲んでだべるのは楽しかった。しかしまだエスで会話ができるというレベルには達していない。同室に盲人の方がいて、盲導犬と一緒に寝たのも始めての経験である。
一足早い春を求めて伊豆の河津桜を見に行った。熱海まで新幹線、踊り子号で河津へ、駅は見物の人で混雑している。河津桜は1955年に発見された大島桜と小彼岸桜の交配種であり、染井吉野より1ヶ月も開花が早く花色が桃色である。その原木は民家の庭に堂々と根を張っている。川に出ると両岸に咲いた桜と河原の菜の花の対比が美しい(写真)。桜のトンネルもある。途中の噴泉搭、千年の蘇鉄などを見て駅に近づくと店が多く、花より団子の領域となる。伊豆の名物といえばミカン類、干物、わさびということになろうか。その夜は伊東温泉に泊まり、翌日は大室山、伊豆高原のほか、城が崎海岸を2時間ばかり歩いた。遊歩道と思っていたが、結構登り下りが多く時間がよほどかかった。大室山の爆発で押し出された溶岩が流れ込んだという岸壁の景観は見事であった(写真)。
お正月2011
12月から1月にかけては音楽会などに行く機会が多かった。京都での崔理英さんのピアノコンサート、難波でのバイオリン・ハープのクリスマスコンサート、梅田ブリーゼホールでのチェロ・ピアノ+タップダンス、シンフォニーホールでのウィンオーパのNew year concert(声楽・バレー付)、松竹座での新春寿大歌舞伎などであった。テレビでも恒例のジルベスターコンサート、歌舞伎、ウィンフィル、邦楽、オペラなどを楽しんだ。
元旦は近くの阿部王子神社と安倍清明神社に、3日は四天王寺と一心寺にお参りをした。この頃は晴れ着を着ている人が少ない。かくいう私も昔は和服を着ていたことがあったが、今は普段着そのままで行く。百貨店も2日から開いているのでおせちを作らなくても買い食いで済む。流行なのかどの店も福袋を出しているのが興味深い。これが松の内をすぎると寿袋というものに化ける。
暮れから飲む機会が多かったので体重はずっと高止まりであったが、正月明けからようやく下がってきた。ただし昨夏の入院後のレベルに戻っただけで、そこからは運動してもどういうわけか減らない。点眼薬は6種類がようやく3種類に減った。もう普通の運動はしてもよいと言われているが、飛び込みとゴロゴロ道での自転車のような衝撃はダメと言われている。
ラグビーシーズンであるので、高校・大学・トップリーグとめじろ押しである。高校生も体格が大きくなって、社会人といっても通用するのが増えてきた。ラグビーは格闘技であるので何といっても身体である。本場のニュージランドからの出稼ぎが多く、目だった活躍をしている。ニュージランドのテレビでも日本の試合も放送しているようである。今年のワールドカップはこの国であるが、切符は高いらしい。
2月の中旬に東海市であるエスペラントの研修会に申し込んだが、宿題が日本紹介の文章をA4一枚書くこととなっていて、今になってあせっている。例題は沖縄の原始時代である。内容も問題だが、作文も大変だ。辞書を2冊買い込んできて首っ引きである。やはり高望みをしてはいけないというか、己のレベルを知れというか。
2010年のこと
1月にフィットネスクラブに入った。3月にタバコをやめた(三十数回目の禁煙)。このふたつはまだ続いている。
3月には台湾台北、日月潭、台南を、7月には豪州ゴールドコースト(写真)、ケアンズを旅行した。これで旅行した外国は30ヶ国・地域になった。
7月に眼疾で3週間入院した。その後もおとなしくしているせいか、やや肥え気味である。
9月よりエスペラント語を始めた。OESに入会し毎週木曜日講習にまじめに通っている。これまで7ヶ国語を勉強したがこれを最後の語学にするつもりだ。
100歳の叔母と48年来の山友達を亡くした。
2011年はエスペラント語を使って外国を旅行してみたい。また毎年新しい国に行ってみたい。先ずはエルミタージュとバルト三国。モンゴル。
月ヶ瀬の小屋が30周年になるので記念の集まりをする。
考古遺跡旅行をする。九州編と東北編は既に入院中に構想が出来上がっている。この中に登山・温泉・YH泊を組みこむ。
北アルプスの剣から白馬までをつなぐ縦走は一昨年計画して行けてないが、あと2回で済むのでなんとかしたい。
その他伊豆河津桜、信州杏の里、高遠の桜、八ヶ岳本沢温泉など行ってみたい。