十津川・吉野・金沢へ(2012.12)
上信越の旅 (2012.10)
折々の記-9月 (2012.10)
八ヶ岳ふたたび (2012.09)

八ケ岳あたり (2012.08)
北九州の遺跡 (2012.07)

吉備路の旅 (2012.06)
伽耶・新羅への旅 (2012.05)

奄美大島など (2012.04)

二月は逃げる (2012.03)

1月の遺跡とエスペラント (2012.02)

2011年のこと (2012.01)

 


十津川・吉野・金沢へ(2012.12)


 高齢者大学の同級生が持っている十津川の別邸へ行った。堺で待ち合わせ、一行八人、五条から十津川に入った。途中で去年の大水害で崩れたところを見た。発電所が流された所、部落で人が未だに行方不明になっている所など、明治に熊野本宮が流されて以来の災害という。谷瀬のつり橋を渡ったり、野猿に乗ったりして、十津川温泉の先の桑畑へ行った。ここの上は以前小辺路越えをしたときに通ったところ。桑畑は1400年以上続いた部落で、急な斜面に段々畑と田がある。昼過ぎについてBBQ,夕方渡瀬温泉につかり、戻っておでんをつつきながら酒盛り、外へ出ると星がきれいだった。寒いのでコタツに足を入れて寝た。

 起きてみると、朝になったら眼鏡のレンズがなくなったと騒いでいる人がいる。知人で酔って自転車から落ちて、気がついたら入れ歯も自転車もなくなった人に比べればまだましだ。十津川温泉で朝風呂に入り、玉置山神社へお参り、ここには樹齢三千年の神代杉がある。重要文化財の社務所には、前に大峰奥駆けの時に泊めてもらったことがある。下に降り、熊野本宮に参り、近露で昼ごはん、少し歩いて牛馬童子、ここでは中辺路の語り部に連れられて阪大の留学生が沢山歩いていた。紅葉を見ようと高野龍神スカイラインへ、中腹の紅葉が盛りだった。高野山の紅葉も好く季節を楽しんだ。


     玉置なる山やうやくに紅葉(もみづ)れどふもとは未だ緑遥けし 


    玉置山三千年の杉の木は人の営み如何に見つるか


 吉野の蔵王大権現のご開帳に行った。三体の顔の青い権現は恐ろしげであった。その後行った宮滝遺跡には、縄文土器で四方がとがって、カワニナの貝で模様をつけた宮滝式土器が出ている。吉野歴史館の学芸員の説明では吉野川の河口から人が来たとのことである。弥生時代には方形周溝墓があり、甕棺も出た。古墳時代以降はその上に朝廷が離宮を作った。大海人王子、持統天皇、斎明天皇などである。万葉集には宮滝の歌が多い。橋の上から見る景色は、その頃の面影をとどめている。象山、象の小川、三船山、夢のわだ、滝の河内(写真)、夏見の川など。


     面青き蔵王権現怒りゐてわが怠惰をば戒めたまへる 


    音にきく夢のわだに浮かびたる泡のごときか人の命は


 出生地は金沢だが、物心のついたのは四国徳島で、金沢は全く記憶にない。生まれた場所を見んものと北へ向かった。昼に着き、近江町市場で香箱蟹と甘えびの海鮮丼、尾山神社、武家屋敷、九谷焼、県立歴史博物館、そしてどうも出生地らしい金大病院、21世紀美術館を見て、疲れてホテルに帰り温泉に入った。次の日は、早朝で誰もいない東茶屋町、後はずっと歩いて主計町、金沢城、兼六園(写真)で昼食を食べ、また近江町市場によって帰途に着いた。金沢城の本丸跡と兼六園の紅葉がきれいであった。また桜の頃に行きたい。


 大阪府立弥生文化館に「縄文の世界像・八か岳山麓の恵み」を見に行った。先月上信越を廻った時とは違った異形のものがあった(写真)。目の釣りあがった土偶も面白い。大阪国際美術館のエルグレコはスペインへ行ったときにトレドやマドリッドで見たことがある。長い顔と赤と青の色が特徴的だ。「無原罪のお宿り」がすばらしかった。神戸市博物館へはフェルメールを見に行った。「真珠の耳飾の少女」は美しい被り物の青と黄色の服のコントラストが美しい。レンブラントの自画像も良かった。11月の17・18日が例年の関西文化の日で、博物館などが無料なので、国宝の飛青磁花生と油滴天目茶碗の展示された東洋陶磁美術館、緒方洪庵の適塾、「発掘された日本列島展」の堺市博物館、大仙公園内の日本庭園に行った。ここも紅葉が盛りだった。


 うちの猫が年をとって、人間の年に直すと、96歳と78歳という。20歳では105歳で、その後は書いてないので、多分化け猫になるのか。両方とも出自は野良で、雌のナミは洋ミックス、雄のタケは和ミックス、要するに雑種だ。


     いつの間にか皆で歳をとってきてお迎え来るのが近い頃かも    

 


上信越の旅(2012.11)


本を一冊もって旅に出た。藤村の「千曲川のスケッチ」、尋ねる御代田町、千曲市、長岡市は千曲川で繋がっている。前日に東京経由で群馬県高崎まで。最初の太田市の天神山古墳は全長120mで東国で最大の前方後円墳である。5c中ごろの毛野国の王のものと考えられている。近くに直径86mの円墳の女体山古墳がある。太田駅前に自動車工場があり地名がスバル町となっている。足利市の足利学校は起源が奈良時代、平安時代、鎌倉時代の三説ある。一時は学徒三千といわれた。1990年に復元した方丈や庫裏、庭園が美しい。庭で椎の実を拾った。裏に足利氏宅跡とされるばん阿寺がある。高崎に戻り、上毛電鉄(運賃が高い)で予定外の富岡製糸場へ、1870年官営で発足し、1987年片倉工業が操業停止するまで続いた。木骨レンガ造りの建物はほとんど創業時のままで、世界遺産暫定リストに載った。仕事が14時間、辛くてさんざん泣いたという女工の証言に胸が打たれた。吉井にある多胡碑は、日本三古碑の一つ。711年に多胡郡が設置されたことを記述した、高さ125cmの石碑で、お堂の中に保管されているが、外からでも文字ははっきり読み取れる。書体がよいとされている。


新潟県高岡の馬高遺跡は縄文時代中期(約5000年前)の火焔土器で有名。上部の4つの突起に火焔とトサカのような装飾がつく(写真)。このほか王冠型もある。馬高縄文館にこれらがずらっと並んでいるのは圧巻である。北陸、東北、関東、中部の影響が入っているとされている。御代田町はまさに信濃川の上流に当たる。遺跡から出た、土偶や三角柱状土製品も興味深い。外の遺跡公園を見る頃には吹き降りで寒くなってきた。高崎まで帰り、群馬県立歴史博物館へ。以前訪ねた旧石器の岩宿遺跡や今回の天神山古墳の展示などがある。歩いて20分で観音山古墳、全長100m。緑の芝生が美しく、石室も覗ける。銅製水瓶や百済武寧王陵から出土したのと同形の獣帯鏡が出土している。雨上がりで、赤城山、榛名山、妙義山がきれいに見えた。高崎から軽井沢へ、さらにしなの電鉄で御代田に行き泊まった。


朝は冷え込んで、北に見える浅間山は初冠雪。浅間縄文ミュージアムには川原田遺跡から出た焼町土器ほか146点が重文指定されている。焼町土器は元々塩尻市焼町で出た土器の系統だが、ドーナツ状の突起と渦巻きなどが特徴である。小さな博物館だが展示に工夫を凝らしている。浅間火山の特別展も興味深かった。西へ移動し屋代へ。途中の小諸では「千曲川のスケッチ」の記述のとおり、下には千曲川、北に黒斑山、南に八ヶ岳が見えた。屋代の森将軍塚は比高130mの山の上、復元がされ下からその威容が望まれる。上がると全長100mの丘尾切断型で少し形のゆがんだ前方後円墳は石に覆われている(写真)。下には善光寺平、その北には飯綱山、高妻山、西に雪の白馬など北アルプスが見えた。ボランティアガイドの説明を受け、また下の古墳館では学芸員の説明を受けた。3種の神器の出ていること、多様な埴輪のあること、大阪の陶邑からの須恵器が見られることなど。いよいよ最後の長野県立歴史館の見学、特にお目当ては縄文土器展である。八ヶ岳山麓だけでも多様な形態のあることが知られたが、その装飾性、躍動感、呪術性はほかにないものである。縄文人になったような心地で大阪への帰路についた。


信州に紅葉を見に行った。地上はまだ緑の10月初旬、ケーブルで御嶽山へ、7合目に紅葉はまだ降りてきてはいなかった。前によく通った中の湯はもう数年営業していないとのことだった。木曾から伊那へは権兵衛峠を越えた。半世紀前ごろ、この峠を越えて伊那からへ木曾そして高山まで歩いたことがある。木曽駒が岳千畳敷はちょうどいい具合だった。カールの紅黄葉と宝剣岳の白、空の青のコントラストがこの世のものとは思えなかった(写真)。伊那から木曾へは清内路峠を妻籠へ抜けたが、この峠も東山道の神坂峠に次ぐ古いものらしい。途中の山の中に木地屋の部落があって木の急須を買ってきた。食事は信州だけあって、蕎麦、鮎、馬刺し、ボタン鍋、鯉甘露煮、キノコ飯、五平餅など。


    紅に装ふ白き宝剣の青き空に屹立す見ゆ


    三日月の巌の山にかかりゐて麓はあまねく紅葉に染む


    紅葉をしかも隠すか雲だにも伊那の谷より霧湧き出づる  


 月ヶ瀬に行き、栗、柿、ムベ、アケビ、ムカゴを採った。てんぷらで、ミツバ、ヨモギ、桑の葉、柿の葉、ムベの皮を食べた。硬かったり、苦かったりしたものもあった。


 博物館はスキタイ美術の大阪歴史博物館、南九州の遺跡特別展の近つ飛鳥博物館、古事記関連の橿原考古学研究所博物館、聖徳太子絵伝を見に龍谷ミュージアム、それと上信越の4つの博物館。


 白馬会のメンバーが亡くなった。


    くりくりと明るい眼をしたノンちゃんは雲にのっていってしまった



折々の記-9月

古代史教室で文化祭のテーマに聖徳太子を取り上げることになったので、8月の法隆寺に続いて、9月には飛鳥を訪問した。ガイドに連れられ、太子ゆかりの地として先ずは生誕の地といわれる橘寺へ。本堂では本尊の太子を拝むようになっている。観音堂には如意輪観音坐像が、外では奇怪な二面石と、塔の礎石があり興味深い。板蓋の宮跡を見て、素麺と柿の葉すしの昼食。暑い中を飛鳥寺へ、ここは蘇我氏の建立になり、太子の先生の僧恵慈がいたという。推古帝の二つ目の宮のあった小墾田遺跡は雷丘の南の道横の標識もないところだが、小冶田宮とかいた墨書土器の出たところ(写真)。箸墓古墳の見える甘樫の岡から北へ降りた向原寺は推古帝の最初の宮である豊浦宮跡。ご住職の説明で掘った跡を見せていただいた。橿原神宮駅まで歩き、太子ゆかりの天王寺でビールを楽しんだ。


演劇を1つ、映画を4つ見た。演劇は民芸の「神さまの恋」。青森で神のお告げをいう人を「神さま」と呼び、奈良岡朋子が演じる。その手伝役の藤巻るもがエスペラントの通信講座の先生の娘さん。「るも」とはエスペラント語でLUMO、光という意味である。その名の通り明るく輝く演技をしていた。映画は50年代の京マチ子、田中絹代主演の「雨月物語」、物語中の「浅茅が宿」と「蛇性の婬」を脚色したもの、京マチ子が妖艶である。続けて「西鶴一代女」との二本立て。田中絹代が御所務めや大名の息女から花魁や最後は夜鷹にまで落ちぶれる。「あなたに」はほのぼのしていた。死んだ妻の散骨に行く途中、ビートたけしや草刈君などに出あう。草刈君のイカ飯作りのあまりの手際悪さに笑ってしまった。霧の竹田城に立つ81歳の高倉健さんはかっこよい。「プロメテウス」は人類の起源を探るとの惹句にひかれ考古学的興味から見に行ったが、例のあの怖いエーリアンの起源を語るものであった。女性が活躍し、男性は人類救済のために自己犠牲になるという最近の一般的傾向がうかがえる。


月末に考古学OBの連中と大阪南部にある淡輪古墳群を見に行った。古代に大阪湾を南から入ってくるとこれらの巨大な古墳が見え、瀬戸内から入ると兵庫県垂水の五色塚がみえて大和政権の示威となる。住之江津に近づくと仁徳陵の巨大な姿で圧倒するという役割であったという。淡輪駅の近くに車を置いて、宇度塚古墳へ、ここは全長200mの垂任天皇第二皇子五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)の陵墓だが年代が合わない。堀はアカコが繁殖していた。西へ歩いて全長210mの西陵塚古墳へ、周りの田の彼岸花が美しい。ここは稜の上まで登れるのがうれしい。葺き石のかけらが残っていた。この二つの古墳は紀氏のものだといわれる。和歌山市まで走って5−7世紀の古墳が400基以上ある岩橋(いわせ)千塚古墳群へ。資料館は特別展をしており和歌山県内には巨大な銅鐸がたくさんあるので驚いた。万葉植物園を見ながら山の上へ、先ずはここで一番大きな大日山35号墳、全長100mの前方後円墳で、造りだしから日本初の両面人物埴輪、翼を広げた鳥埴輪が見つかった。上からは紀氏の領土が見渡せる。山上を歩くと、将軍塚古墳では横穴式石室に入れる。緑泥片岩を積み重ね、石室内には石棚があった(写真)。この後たくさんの古墳で中を見学できるが、立派な梁を持つものもあった。ぐるっと廻っていい運動になった。帰りに紀伊一ノ宮の日前宮にお参りした。


八ヶ岳ふたたび

八ヶ岳でのエスペラント漬け合宿に行く前に一日半、信州と甲斐の遺跡を訪ねた。塩尻で降りて、平出遺跡へ。ここは縄文時代から平安時代まで300近い住居が発掘されている。平出博物館では石器、縄文土器、平安の緑釉水瓶などが興味深い。裏山に出て円墳を見る。小さい方は石室が露出している。集落を潤している平出の泉は青く澄んで神秘的だ。今も豊富な水が下の川に流れ出している。この上の比叡山が甘南備山であったとのこと。下の部落は本棟造の立派な家が多い。遺跡公園は広大な地域に縄文から平安までの住居が復元されているが、何しろ暑い。車をよび、途中ブドウ園で一箱買って、塩尻駅から上諏訪駅へ。バスで諏訪大社上社に向かい、参拝後、遅い昼食のソバを食べ、諏訪博物館へ。藤森栄一の展示があると聞いてきたのだが、それ以外にも諏訪湖畔の茶臼山遺跡からでた尖頭器、湖底の曽根遺跡からの無数の石鏃、霧が峰遺跡の遺物のほか近在の遺跡から出た縄文土器、土偶(写真)が展示してあり、望外の幸せであった。蛙文や蛇文、目の形をした把手土器など信州、甲斐には奇怪なものが多い。上諏訪に戻り、温泉、昼寝、食事のあと湖上の花火を見た。15分間だったが、近くて迫力があった。次の日は小淵沢で小海線に乗り換え野辺山へ。駅前の南牧村美術民族資料館で矢出川遺跡の出土品を見る。旧石器の終わり頃の細石刃が日本で始めて出たことで有名。開拓の時に掘り返したら黒曜石のきらきら光るのが多数出たとのこと。またここには水晶の石器も展示してある。車を呼んで遺跡の現場へ。このあたりは平地で、高原野菜の産地である。標識が立っているだけだが、八ヶ岳(写真)を眺めながら、開拓や冬の遺跡発掘の苦労を偲んだ。電車待ちのとき、高原の爽やかな風が心地よかった。


甲斐小泉のエスペラント館は通算3度目。総勢17名、顔見知りが多い。朝8時から夜8時までエスペラント漬けで、プログラムがびっしり詰まっている。人を換えての自己紹介、4人での対話、ベトナムでの世界大会などの紹介後、カレーの夕食、世界青年大会の紹介を終えて風呂の時間となる。スカイポをする人、一杯の飲む人。翌日は朝食後、八ヶ岳近辺の旧石器、縄文時代の遺跡の紹介をした。これまで訪れた星糞峠、尖石、井戸尻、金生と付近には見所が多い。実物の黒曜石に人気が集まった。その後、対話、弁当昼食、中国での研修の紹介、対話、そして待望の遠足。吐竜の滝を目指したが雨が降って中止。赤い東沢橋を眺め、清泉寮へ。虹がきれいにかかり、外側にもう一つの虹がうっすらと見えた。清泉寮を造ったポール・ラッシュは聖路加病院の建設にもかかわっていたことを知った。戻って恒例の釜飯夕食。ベトナムの会議紹介の後自由時間となり、エスぺラント短歌を披露した。この夜は盛り上がって12時まで。あくる日は疲れがたまってきたのか元気が出ない。エスで歌を歌う。昴は好きな曲だがなかなか難しい。対話、ケルト音楽の演奏、感想を述べて散会。とても早くうまくなった人などいて、いい刺激になった。今回初めて直接エス語で和歌を作った。その内容は概ねつぎのようなもの。


    はらはらと大いなる樹より一葉落ち夏の終はりを密かに告げぬ


    赤岳に雲の上がりて薄日さし清泉寮に虹のかかりぬ


    あくがれの山々車窓に遠のきて旅の終はりの何故に悲しき 


考古学の6人で北陸を訪ねた。車2台に分乗し、小松ICで降りて、能美古墳群へ。平野に浮かぶ島のような5つの丘陵に、62基の古墳がある。先ずは和田山、ここは円墳を中心に23基、1号墳からは六鈴鏡、2号墳からは鈴付銅釧が見つかっている。一部は戦国時代に城に改造された。北のほうへ遊歩道があり、散歩をするが、風がなくむし暑い。坂を下りてまた登り前方後円墳、さらに末寺山に登り前方後方墳。歴史民俗資料館で遺物の見学後、秋常山に行き、復元された北陸最大の前方後円墳に登る。景色がいい。横の方墳は粘土郭で出土品から女性とされる。金沢市内のチカモリ縄文遺跡では、丸太を半分に切った木柱根が大量に見つかり、環状に立てられたものもある。横の埋蔵文化財収蔵庫では木柱根を水中に保管している。翌日は福井県永平寺町の松岡古墳群へ。春日山古墳は石室を保存している。ほかの古墳は山の上で片道1時間と聞き今回はパス。このあたりは継体天皇の母の出身地と言われる。遺物を収めた永平寺町の四季の森文化館には永平寺傘松閣が復元され、絵天井の間は豪壮華麗である。時代を1億年さかのぼる福井県恐竜博物館にはフクイサウルス・フクイラプトルなどの展示があり、子供の歓声であふれている。平泉寺跡は発掘が続いており、16世紀の石畳が復元されている。一乗谷も復元が進み、庭園の石組みが豪壮である。雨上がりで湿度が高く消耗した。冷たいお茶を買っても、自動車の中に置いて出ると熱湯になっている。鯖江の王山古墳群は山の上の51基の方形周溝墓、方墳、円墳などからなる。ここでは蚊に悩まされた。


初めて入った職場の先輩が亡くなられた。


    楠の深き森へと入りたる人を静かに偲びつるかな


    戦争に春奪われし人逝きて一つの時代の終わり行くかな

 



八ケ岳あたり

 6月末頃背中が痛んで神経痛か筋肉痛かと思っていたら痛みが前に廻って発疹が出て、帯状疱疹と診断された。結構痛くて夜にも眼が覚めて7月はごろごろしていた。考古学の連中と滋賀県野州市の遺跡を見に行ったことも、時間が経って資料が散逸し細部は忘れてしまったので、概要だけメモしておく。大岩山古墳群は日本最大134pの銅鐸を含め24口の銅鐸の出土で有名。野洲駅で待ち合わせ、2台の車に分乗して先ずは歴史民俗博物館へ。掘り出した多数の銅鐸を展示してあり、最大のものはレプリカであるが壮観である。野外へ出て大賀ハス、宮山2号墳、出土跡の碑(実際は農協の工場の中らしい)を見る。昼食後少し移動して大塚山古墳、これは造出しが二つに裂けていて、次の日新幹線に乗ったら車窓から見えた。山際の桜生史跡公園に移り、ヤマモモを食べながら、甲山古墳、丸山古墳、天王山古墳と見て廻る。古墳に上ると支配していた平野が望まれる。下へ降りて、亀塚・富波・古富波の各古墳を見学して、福林寺跡に行く。分かりにくく薄暗い道を登ると磨崖仏がある。周りを探して古墳の石室をひとつだけ見つけた。御上神社に参り、守山の方の卑弥呼の里かと騒がれたところを探したが見つからず、守山駅で一杯飲んで解散した。

 エスペラントの通信教育の交流会で去年に続き八ケ岳エスペラント館に行った。大阪から名古屋、塩尻、小淵沢と電車を乗り継いで5時間、途中の山の景色が大変よろしい。総員13名で、自己紹介、オリエンテーション、ベッドメーキングの後、信玄棒道のハイキング。往復で約2時間歩いた。その後レストランでてんぷらの夕食、館に戻ってミーティング。翌朝目覚めるとカラマツ林にカッコウが鳴いている。朝食後の遠足は車で金生(きんせい)遺跡へ、ここは縄文の配石遺跡として名高い。祭祀の跡と考えられおり、陽石が目立つ(写真)。谷戸城址横の北杜市歴史資料館には遺物の展示がある。金生遺跡の中空土偶(写真)のほか須玉町の津金御所前遺跡の人面装飾土器もあった。町村合併で移したらしい。武田の先祖がいたという谷戸城址を散歩、土塁がよく残っている。その後津金御所前遺跡を見に行ったが、表示がなくて分りにくかった。当時掘ったことがあるという農家の人の話を聞くと、掘ればまだまだ出るだろうとのこと。中華麺の昼飯後本番の講師のスクリーニング、和文エス訳である。終わって疲れて昼寝した。夕食は出前の釜飯、その後一杯、和歌のエス訳を披露した。最終日は講師のエス文和訳指導と大変勉強になった。

 三分湧水で車の禿羊夫婦と待ち合わせて本沢温泉を目指した。前に本で読んで生きたかったところ。車は前日に入った新車であるのであまり無茶はできない。林道終点から初めは登り、後はだらだらと2時間歩いて温泉に着く。途中九輪草、イワカガミが咲いていた。百年以上前からの温泉だそうだ。早速露天風呂へ、10分歩くと硫黄岳の爆裂火口(写真)の下の谷に小さな風呂がある。着替える場所はない。3人で満員、浸かってビールを飲む。風景が雄大で心が広くなる。夜は一杯飲んで隣室の禿羊のいびきを聞きながら眠りにつく。翌朝は車に戻って、鷹山の黒曜石遺跡を目指す。稲子湯から麦草峠、スズラン峠から白樺湖、ここでお茶にする。鷹山では黒曜石ミュージアムを見学した後、小雨の中を遺跡へ登ってゆく。発掘現場には黒曜石のかけらが沢山落ちていた。車山にニッコウキスゲが咲いているというので行ったが一輪しかなかった。大雨なので和田峠は省略し諏訪に降り、大阪へ帰った。

  うぐひすの鳴きわたりゆく山蔭の枯れ葉積もれる道柔らかし

  郭公の鳴きつる方をながむれば緑の杜に霧雨の降る

  岩かがみ九輪草の咲ける道石楠花いまだ蕾のかたし

  本沢の露天に浸かり山仰ぐ気宇の大きくなりにけるかも

  車山丘の黄萱(キスゲ)の花見れば昔の人のことの思わる 



北九州の遺跡

 同好の士5人で北九州の古代遺跡を訪ねた。大阪港より夜行フェリーで別府へ、翌朝レンタカーで熊本県へと向かった。先ずは肥後古代の森菊水地区にある江田船山古墳へ、ここは75文字の銀象嵌銘をもつ大刀が出土し、その文言から、被葬者のムリテは雄略の宮廷で文官「典曹人」として仕えたされた(あるいは被葬者がムリテから刀を下賜された)。埼玉県稲荷山古墳とともにこの時期のヤマト朝廷の勢力圏を示している。ついで肥後古代の森山鹿地区の山鹿市立美術館を訪ね、近くにあるチブサン古墳を案内していただく。石室後室の石屋形の壁に赤・白・黒で文様が描かれ、正面の二つの丸い模様は乳房に見えるのでこの名前がついたとのこと。装飾古墳の実物を始めてみて感激する。北に上って八女市の岩戸山古墳へ、527年反乱をおこした筑紫国造磐井の墓で、風土記にも記載されている。資料館で石人などを見た後、石造の並ぶ別区(政治の場)から古墳を一周する。前方後円墳としては北九州最大である。本日の最後の訪問地吉野ヶ里へ向かう。ここは20年近く前来たが、整備が進んでいるのにビックリ。巨大ゲートをくぐり、バスで北墳丘墓へ、途中に復元水田が見える。墳丘墓は覆いがしてあり、中で甕棺が出土時の状態で見れるようになっている。大きな甕棺は始めてみるが、翌日北に上がるにつれ目にすることが多くなる。北内郭はまつりごとの場で3重の堀に囲まれ、3階建ての建物や見張り台が復元されている。支配者層の住居という南内郭、展示室と暑い中を歩いた。その日は福岡市内に泊まった。
 翌朝南へ向かって、663年の白村江の敗戦の後防備のため築かれた水城跡、少し下って大宰府政庁跡を見た。ここは半世紀近く前に来て、裏の大野城にも登ったのが懐かしい。北の海岸に出て、生の松原の元寇防塁跡、西へ走っていよいよ魏志倭人伝にある伊都国に入る。道の横に怡土(いと)城跡の標識が見えたので第五望楼跡まで登った。伊都国歴史博物館は三雲南小路・平原遺跡を中心に展示しており、銅鏡が前者から57枚、後者から40枚とおびただしい数が出土している。特に平原遺跡の世界最大の直径46.5cmの超大型内行花文鏡は驚異的である。博物館近くの三雲南小路遺跡(王都)と平原遺跡を見る。昨日から史跡を大量に廻って疲れたのか皆言葉が少なくなってくる。福岡市内へ戻り立派な市立博物館で昼食の後、漢倭奴国王印を見る。ここは奴国関係や板付遺跡の関係の展示が興味深い。南へ下って春日野市にある奴国の丘歴史資料館と横の奴国の王都といわれる岡本須玖遺跡を見る。覆屋でも甕棺が見れた(写真)。空港へ行く途中板付遺跡に、夜臼式土器と水田跡が同時に出ているので縄文稲作として菜畑遺跡とともに日本最古の水田跡である。福岡空港からは一眠りで大阪に帰った。

 橿原考古学研究所友史会の6月例会で桜井市に行った。大和朝倉駅で集合し、出発前に一人倒れたので、参加者は191名であった。住宅内の公園に移築された忍坂8・9号墳は榛原石を用いた磚槨墳である。忍坂坐生根神社は外鎌山をご神体とする。舒明陵は山を削った八角墳、背面まで登ると人が多いのですれちがいに時間がかかる。その奥に鏡女王墓と大伴皇女墓。美しい石像仏のある石井寺で昼食、地元の人にお茶とお菓子をふるまっていただいた。鳥見山の南の舞谷2号墳は磚槨墳、秋殿古墳は石室に入るとコウモリが飛び出してきた。ここの出入りに時間をとって、兜塚古墳とメスリ山古墳は素通りする。青木廃寺は暗い谷の奥にあり、その西方に稚桜神社、さらに西に大津王子の歌で有名な磐余池推定地がある。吉備池廃寺には舒明11年に九重の塔があったと日本書紀に記載されていて、事実大きな寺跡が発掘された。この日は14km歩いて疲れた足を引きずり、大福の駅へと向かった。
 その後しばらくして、見落としたところを再訪した。先ずは目をつけていた川傍の桑の実を桑酒用に採取した。メスリ山古墳は墳長224mの前方後円墳、後円部の竪穴式石槨と副室から鉄槍、玉杖、矢など大量の副葬品が出土した。また2.4mの超大型円筒埴輪は橿原考古学研究所で見ることができる。後円部に登ると蓋石が見えた。兜塚は住宅の横の40mの前方後円墳、上に阿蘇産の石棺が露出している。西に移動して、安倍寺跡、安倍文殊院の文殊菩薩・西古墳・東古墳、外に出て最古の演劇養成所といわれる土舞台、石棺のある艸(くさ)墓古墳をみて桜井駅に向かった。

 6月はバラとアジサイを見た。バスツアーでびわ湖大津館へ、ここは1934年に立てられた元ホテル。その横にイングリッシュ・ガーデンがあり、バラが満開できれいだった(写真)。大津館で昼食の後、ガーデンミュージアム比叡へ、ハーブ園のいろどりが可愛かった。モネなどの陶板画が飾ってあった。京都に出て平安神宮で花菖蒲を見、池にかかる屋形橋で涼を楽しんだ。
 アジサイの矢田寺は何度目かの訪問、大和小泉駅からバス、歩いて山門までの間に野菜を売っていたので買い込んだ。アジサイはちょうどいいぐあいで、西洋種のような大きさはないが清楚である。ここから松尾寺に向かった。登りが結構あって野菜が肩に食い込んだ。尾根に上がると気持ちいい散歩道になる。松尾寺から法隆寺に降りて、半日のハイキングを終えた。


  大いなる 銅鏡おきて 伏せりたる 伊都女王に 我は会いたし  


  甕棺に 王ら眠れる 奴の国の 岡のふもとに 子らの戯むる


  大和なる 矢田寺に咲く 紫陽花の 色に染まれる 地蔵たちかな


  うぐひすの 鳴きたる谷に 三つ葉摘み かほりにむせび 登りつるかな


  夕刻の 地下鉄駅に 満ちあふる 息と汗と 酒のにほいと


吉備路の旅

 吉備のほこる巨大古墳と鬼ノ城を見に行った。車で岡山まで行き、先ずは岡山大学で考古資料展示室を見学する。先生の説明を受けたが、ここはでは楯築遺跡の特殊器台が目を引く。これが発展して埴輪になったとの説である。恩原遺跡の隠岐から来た黒曜石、吉原遺跡の巨大な陶棺、津島遺跡の製塩土器も興味深い。学食で1180calの昼食を食べ、吉備津彦神社へ。次に行った吉備津神社とともに四道将軍の吉備津彦を祀る。吉備津神社は回廊と鳴釜神事が高名だ。先輩は子供の頃この回廊を自転車で走って遊んでいたそうだ。住宅団地の上にある楯築墳丘墓へ。墳丘墓の上は巨石があたかも環状列石のごとく取り巻いている(写真)。土中から出た弧帯文石を保管した小屋もある。特殊器台、弧帯文、巨石群のいずれも非常にエキゾチックである。鯉喰神社から道を間違えて、秀吉が水攻めした高松城址。そのあと国内第4位の全長350mの造山古墳、5c前半とある。大きさからいえば大和の大王墓に匹敵する。地形を利用した古墳であるが、周濠のあったことが確認されている。登れる古墳としては日本一位だ。周りにも陪塚があり、千足古墳は発掘をしていた。その日は倉敷で泊まり。翌日は雪舟の宝福寺、次に山道を登って鬼ノ城へ。ここではお城の専門家の講義を受ける。神籠石系山城といい、記録には出ないが白村江敗戦の後作られたいわゆる朝鮮山城と目的は同じだろうという。周囲2.8km、城門4、水門6、高石垣などが確認されている。西門は復元され、3層の門が立っている。ここから南門へとたどり、東門に近いあたりまで歩いた。下には水城の跡が見えた。下へ降りて作山古墳へ、ここも国内第9位の大きさ、上へ登れる。少し走ると国分寺、五重の塔が美しく、昔の礎石もそこここにある、石室の中を覗けるコウモリ塚、国分尼寺跡と散歩して今回の旅もおしまいとなる。

 ワンゲル同窓会一行19人で静岡へ出かけた。久能山東照宮は古くは補陀落山久能寺、その後信玄の城、家康死後に東照君を祀り、急峻な山の上にある。社殿は国宝だが、日光に比べると地味である。登呂遺跡は弥生時代後期から古墳時代中期までの住居域と水田が戦後すぐ出たことで有名、平成11年以降再調査をした。洪水で村が埋まったために、当時の姿がよく保存され、盛り土をした平地住居の防水のための床下の藁灰層、内部の羽目板、周堤の杭列などが発見されている。住居5軒、倉庫3棟、神殿、水田を復元し、また博物館も新設したばかり。木材は杉が使われ、柱、鼠返し、梯子、鋤、鍬、琴、椅子、杓子などが展示されている。貯蔵用の壷は赤く塗られ、煮炊き用の甕には台がつき、高杯は木製である。須恵器は陶邑窯(和泉)のものが出ている。この日は焼津に泊まって海の幸、次の日は大井川鉄道でSLに乗り、寸又峡で山の幸、3日目はアプト式鉄道で井川まで行った。同窓生も年と共に話がくどくなり、朝は早くなる。解散後東京で泊まり、多摩川台遺跡群を訪問した。東横線の多摩川駅下車、亀甲山古墳(4c後半、107m)と宝莱山古墳(4c前半、98m)の間に8つの円墳があり、公園になっていて気持ちよく散歩できる。下には多摩川が見え、水運を支配していた首長の墓という。田園調布の高級住宅街で道に迷ったので、タクシーで野毛大塚山古墳(5c初、82m)へ。ここは復元がされていて、埴輪列もある。後円部頂上には発掘時に出た遺物の位置を図示している。子供のいい遊び場である。等々力渓谷の横穴墓を見て帰途についた。

  淡島千景さんが亡くなったので、追悼の映画特集をシネ・ヌーヴォへ見に行った。「日本橋」1956年は芸者の話で、淡島千景は妖艶、山本富士子はぼってり、若尾文子はかわいい。「歌麿をめぐる五人の女」1959年は長谷川一夫主演、淡路恵子、野添ひとみ、山本富士子、春川ますみなど豪華競演。「白と黒」1963年は橋本忍脚本のサスペンスで小林桂樹、仲代達矢が主で、淡島千景は2度殺される時の短時間しか出てこない。このほか、アメリカの食品の大会社支配を描いた「Food Inc.」を見たが、後でハンバーガーを食べる気がしなかった。

 連休に月ヶ瀬小舎に筍堀りに行った。今年は豊作で二日で4・50本取れた。取れすぎるとあく抜きが大変で筍工場のようになる。水に一晩さらすとおいしい。一日目は山菜てんぷら、二日目はBBQ、筍若布煮、筍ご飯などで満腹。

  友どちの 集いて遊ぶ 春の日の 淡く萌えたる 緑の岡辺 

  なゐ起きて 一年たちぬ 春なれど 悲しきことの いまだ続ける

  七宝を 作りしひとの 逝き行きて 白き皿と 句のみ残せる (目次にある「句誌海紅から」の作者)

  大井川 緑の川辺を 蒸気車は 歓声乗せて 走り行くなり

  山かげの 夢の吊橋 渡りてゆかむ 深きわだは 青くよどみて


伽耶・新羅への旅

 考古学科OB6人で金官伽耶の地である金海と新羅の都の慶州の遺跡巡りをした。関空から1時間あまりで金海空港に到着、1日目は釜山の観光。ホテル横の竜頭山は桜が満開、釜山タワーからの眺めもすばらしい。国際市場をひやかして、チャガルチ市場で韓国のおばさんの熱気を感じる。新しいロッテ百貨店を見て参鶏湯の夕食。2日目は地下鉄、軽便鉄道を乗り継ぎ、金海市の国立博物館へ、ここで伽耶諸国の歴史と遺物を学ぶ。裏山は首露王の降臨した亀旨峰、支石墓がある。その横はアユタヤから来た首露王妃陵である。南へ歩いていよいよ今回の主目的の大成洞古墳群、岡の上がきれいに整備されている。王の墓が多数あるが、盛り土はない。野外展示館の復元では、木かく墓の中に多数の土器や鉄挺が埋められていた。土器は極めて精巧である。殉葬もある。博物館でも見たが、筒型銅器や巴型銅器は倭系といわれる。東の首露王陵、南の鳳凰台とたどり、貝塚を観察、釜山へ戻り焼肉。3日目は釜山駅からKTXで新慶州へ、バスで市内。街中の古墳から見て周り、大陵苑で天馬塚など、木蓮が美しい(写真)。昼は貴族の館で韓定食。鶏林、半月城を経て国立博物館へ、ここの金冠や耳飾りなど金製品がすばらしい。仏国寺は日本語ガイドに案内してもらう。花が満開である。 「春されば新羅の都に咲き誇るさくら木蓮れんぎょうの花」 釜山へ帰って海鮮鍋。4日目はトンネ近くの福泉洞古墳群へ、ここも金官伽耶の一部である。博物館のあと、岡の上の古墳を巡る。住宅が迫っているが、ここだけは公園のようで春の光が心地よい。先輩によると、さすが当時の先進国だけあって、今回見た土器も金属器も日本のものよりずっと出来がいいとのことだった。

 新たに加入した橿原考古学研究所の友史会の見学会で西宮に行った。阪神石屋川に処女塚があり、この芦屋のうない乙女に求婚をした男たちの塚が、東西に東求女塚、西求女塚とある。御影を通って、銅鐸の出た渦が森、桜ヶ丘と巡ったが、住宅地の坂のきついのには参った。桜ヶ丘からの銅鐸は絵が描いてあり、国宝になっている。兵庫県は全国一銅鐸の出土が多いのだそうだ。また山を下り、鬼塚、西求女塚まで歩いた。

 今月からはじめたこと。高齢者大学は新たに歴史古代史にはいった。先生が邪馬台国の本を書いているので、講義が楽しみだ。フィットネスはやめて、西野式呼吸法の教室に入った。西野バレー団の主宰者であり、呼吸法を開発して教えている。由美かおるはこの呼吸法により16歳からの体型が変わっていないそうだ。まだよくわからないが、対気法というのが興味深い。西野氏は84歳だがはなはだ元気だった。

 

奄美大島など

 奄美は初めて、屋久島は半世紀ぶりなので、博多から4日間の船旅に参加した。排水量2万6千トン、乗客350人である。出航してすぐにぎやかな音楽と踊りのイヴェント、ついで船内説明のあと、この前のイタリア船のこともあり厳しい雰囲気で救命胴衣をつけての避難訓練があった。トリオの演奏を聴いたり奄美や屋久の講演を聞いたりしているうちに船のゆれが激しくなってくる。ジムに行ったが、走っているとベルトから転げ落ちそうになる。船長主催パーティのあと洋夕食となったが、気分が悪くて中途退場した人が多かった。翌日奄美大島では、風が強くて接岸に1時間以上かかった。007の映画を見て、奄美名物鶏飯の昼食後、大浜海岸まで行った。海は大荒れで、この日漁船が難破したと聞いた。珊瑚の環礁で岸では波は和らいでいるが、海開きと言っても泳ぐ気にはならない。海洋文化館に入り、海亀にレタスをやって遊ぶ。港へ帰って奄美博物館で古代に本州まで運ばれたゴウホラ貝や夜光貝を見る。戸外には古い家屋が展示してあった。市街地に出て大島紬などを見学。夜は和食後、イギリスチームのショーがあったが知らない歌が多かった。バンドと食堂ウェイターはフィリピン、喫茶のウェイトレスは東欧系であった。カードをしたが、客は誰もいず、お金もかかっていないしゆれるので早々に退去した。明けても大波、屋久島には入港できず鹿児島に行くことになった。キーマカレーの昼食の後、仙巌園に行った。借景の噴煙の上がる桜島が大迫力である(写真)。庭園の山桜やツツジが満開であった。横の尚古集成館と薩摩切子の工房も見学した。和夕食の後、ビンゴゲームと音楽ショーがあった。酔い止めの薬を飲んでいるのですぐに眠くなってしまった。翌日10時博多で離船した後、鹿児島本線に乗って、宗像大社へ行った。東郷にあるのは辺津宮で、大島に中津宮、沖ノ島に沖津宮があり、特に沖津宮では古墳時代から平安時代まで六百年にわたって祭祀が行われ、遺品八万点が国宝になっており、その一部が神宝館で見られる。また境内にはヒモロギがあり古いかたちの神事が行われている。

 東京に行ったとき、埼玉県の吉見百穴を見に行った。東部東上線で小一時間、そのあとバス。凝灰岩を掘った群集墳であるが、明治時代穴が小さいのでコロボックルの住居だという説があった(写真)。中には遺体を二つづつ入れられるようになっている。掘りやすいからか戦争中に軍事工場として使う目的で洞窟が掘ってあった。

 大相撲春場所に合わせてエスペラントの読書大相撲があった。最後の3日間は船に重い本を運ぶがいやでコピーしたが、出るときにそのコピーを置き忘れてしまって、結局11勝4敗で終わった。考古学の教室は1年が終わるので修学旅行として九州を計画したが参加者が少なく、日帰りで古市古墳群の見学をした。メンバーの懇切丁寧な説明があった。終わったあと阿倍野でお別れ会をした。古文書教室の最後の2回があった。読解能力はさして向上しなかったが、変体仮名などその原理だけは理解できた。大阪歴史博物館で開催された秀吉に関する講演会に2回、エルおおさかでの行基とアザマロの話に参加した。水野正好さんのアザマロの話はしゃべり過ぎて時間超過するサービス満点のものであった。ハイキングは雨の飛鳥での飛鳥資料館、飛鳥坐神社、飛鳥寺、万葉文化館、飛鳥宮跡、それと黒塚古墳、崇神天皇陵、竜王山古墳群、衾田陵、石上神宮、天理とたどった。

 

二月は逃げる

 オーロラを見にフィンランドまで出かけた。44年ぶりのフィンランドである。関空からヘルシンキまで10時間、国内線に乗り継いで北極圏のイバロへ、バスでスキー場のあるサーリセルカ。この晩早速オーロラ観察だが、-20度はさすがに寒く、顔の露出部分が痛い。また日本で言えば朝の7時まで見ているのだから眠い。雲が切れたとき一瞬何か緑色に見えた。

 

   地の果てのフィンランドの山の端にかすか光れる緑の極光

 

 次の日の昼間は酒を飲んでごろごろ、夜は雲が出てだめ、3日目は3時間バスで走ってロバニエミ。ここも夜小屋に入って待ったが雲が切れない。ヘルシンキに飛んで市内観光、5日目はフェリーに15分乗ってスエーデン、ロシア時代からの要塞スオメリンナへ渡った。流氷の中をストックホルムから来る巨大フェリーのシリア・ラインを見た。はるか昔この航路に乗ったことを思い出した。ルーテル福音聖堂の建物と岩を掘った教会がすばらしかった。食べ物はトナカイ肉の煮込み、にしんフライ、リゾット、白菜きゅうり入りチャーハン(?)など。冬の日照が短いので抑うつ症とアル中と湖で溺れ死ぬ人が多いと聞いた。

 中央図書館での6回の古文書教室に応募して毎週通った。歴史の勉強の役に立つかなと思って行ったが、予想外に難しくてとまどってしまった。江戸時代の文章を崩し字で書いてあるので半分もわからない。おまけに和漢混合体、変体仮名である。先生によると判読と解読の二段階があって、字が何かを見る判読が先ず先決とのこと。隣の人を見ると1時間たっても同じページを見ていたので、多分目を開けたまま寝ていたのだろう。借金の証文、漁業の争いなど内容は眠いが、大塩平八郎の乱などは期待が持てる。しかし自分ひとりで読めるようになるまでは相当時間がかかりそうだ。

 考古学の方は、遠足が馬見古墳群、山辺の道、天王寺七坂、講義はエルおおさかの行基の講義3回、難波宮発掘50年の記念講演会などに出席した。万葉のクラスでは思いがけない人にばったりと出会った。周防大島に8年住んでいた人で私も3回ほど遊びに行ったことがある。世の中は狭い! 

 

1月の遺跡とエスペラント

 大本教ではエスペラントの活用を勧めていて、毎年越年合宿を行っている。暮と新年の4日間亀岡で開かれた合宿に参加した。明智光秀の亀山城の跡に本部があり、三十数名が参加、五つのクラスに分かれて朝から夜9時まで勉強をした。韓国人、モンゴル人、ネパール人、オランダ人(指導者)の参加もあった。非信者は数名のようであった。私は会話クラスで、ロシア・米国人とのスカイプ会話、テーマを決めての会話、スヌーピーの本を訳しそれを使ってのカルタ取り(お正月向き)、福島に関する詩の翻訳、エスすごろくなど多彩なプログラムを楽しんだ。懇親会では大本の方が踊り、能管、謡い、歌、落語などを披露していただいた。31日や1日は12時過ぎまで飲んで歌い、元日は初釜と植物園の散歩で静かなときを過ごした。食事は野菜中心で体に優しいものであり、お節と雑煮もいただいた。エスペラント界では春場所に合わせて読書大相撲が開かれ、私も参加し、15日間毎日5ページの本を読んで全勝となった。

 近場の遺跡として気になっていた神戸市垂水の五色塚古墳を訪ねた。JR垂水より歩いて十数分、丘の上に長さ194mの前方後円墳があり、修復され石で葺かれているのでなかなかの壮観である(写真)。上に上ると瀬戸内海を見下ろし、明石大橋、淡路島が一望である。海岸側のビルが目障りなのと、埴輪がプラ製というのが気にいらない。4世紀末から5世紀初めの築造といい、下を通る船を睥睨したものであろう。資料館には埴輪が展示してあった。

 法隆寺の横に藤ノ木古墳がある。ここから出土した剣や馬具は前に橿原考古学研究l所博物館で見てその豪華さに驚いたことがある。JR法隆寺よりバスで門前で降り、西に歩くと住宅街のはずれに径50mの円墳がある。石室は14m長で覗くと奥に赤い石棺が見える。中へは入れない。近くに斑鳩文化財センターがあって、レプリカが展示してある。ボランティアの方が親切に解説をしてくれた。6世紀末の古墳で埋葬者は2名いるが、そのうちの一人は587年に蘇我馬子に殺された穴穂部皇子ではないかといわれている。そのあと久しぶりに法隆寺を見てまわった。

   二人して眠れる赤き石棺はいかなる定めを物語れるか

   美しき冠靴は飾れども深き恨みは消えることなく

 考古学クラスの人と、高知県、愛媛県を訪れた。山陽道、瀬戸大橋を通り、坂出で讃岐うどんを食する。高知道はトンネルが19個もあり、あっという間に南国市についた。高知県立歴史民族資料館で早速主目的の「発掘された日本列島2011」を見る。滋賀県相谷熊原遺跡の1万3千年前の豊満な土偶や奈良県四条古墳群の鳥形木製品が目を引いた。裏にある長宗我部の本城であった岡豊(おこう)城址と近くの小蓮古墳も見学した。高知市は初めてだったので、桂浜とライトアップされた高知城も見せてもらった。夕食はメンバーの元友人たちと楽しく過ごした。翌日は松山まで走り、松山市考古館で葉佐池古墳の展示を見た。木棺が腐らず残り、3名の埋葬の状況がわかったこと、人骨についたハエのサナギからもがりの状況がわかったそうだ。近くに客谷古墳群があったのでそれを見て、しまなみ街道を渡り、一路大阪を目指した。

 

2011年のこと

 8月に仕事が変わって週4日の勤務となったため、余裕ができたように思ったが、意外に休みがとりにくく、遠出がままならなかった。

 エスペラントは2年目に入った。2月の中級講座、夏の八ヶ岳エスペラント館の合宿、関西秋の学校などへの参加のほか、通信教育、ホームページへの掲載をした。

 考古学は4月から講座に入って、いろいろなところへ探訪旅行をした。八ヶ岳星糞峠(黒曜石)・井戸尻縄文遺跡、鹿児島県大野原縄文遺跡、宮崎県西都原古墳群、鳥取県妻木晩田弥生遺跡、島根県加茂岩倉・荒神谷・西谷墳墓群などが心に残った。

 12月には兵庫県篠山に行き、県下第二の雲部車塚古墳や、山を這い登っての岩井山古墳群、市立歴史美術館、丹波竜の発掘地を見学した。堺市陶邑資料館、神戸市五色塚古墳、市立博物館(桜ヶ丘古墳絵画銅鐸)も訪れた。講演会では韓国金海大成洞古墳、中世港湾などを聞いた。

   山際にひらける横穴訪ないて古へ人と語らむとす

   丹波竜歩みし谷に秋深く一億年の咆哮を聞く

 フィットネスは人が込んできたので、場所を変えた。クラブにある社交ダンスのクラスに入ろうと思うのだが、難しそうなのでまだ躊躇している。

 

 2012年は、フィンランドでのオーロラ見学、屋久島・奄美大島への船旅を計画している。このほか北九州、プサン金海、北陸、東北の遺跡などを訪ねてみたい。古代史の勉強は続ける。

 エスペラントも飛躍を遂げるためにはベトナムでの世界大会に行くのがよいのかもしれない。中級講座は最後までやり遂げる、ホームページの掲載も続ける。