東欧遍歴


ソ連


 1ドルが360円、外貨持ち出しが500ドル、闇ドルというものがあったころの話である。夏に3ヶ月東欧からドイツへと旅行することになった。山はブルガリアのムサラ山(2955m)、スロバキアのタトラ山脈、オーストリアの低アルプスを計画した。あのころ一番安い便は、ソ連経由で往復20万円であった。この他に一日1000円の生活費など、これを稼ぐのに、ダンスパーティの開催やら、アルバイトやら、昼は15円の素うどんで暮らすと言う苦労をほぼ一年間したのであった。

 69日横浜港から盛大な見送りを受けて無事出発のはずが、直前に同行4人のうち3人のソ連への入国ビザのないことが判明。船は出てゆく、客は残るという羽目になりそうなところを、何とかナホトカでビザをとるということにしてようやく出発。太平洋に出ると船は大揺れで、そのうち食事に出てくる人もわずかとなり、次の日などは隣のテーブルの分まで食い放題である。日本海に入ると波も収まり、夕食会には生バンドでジェンカなどを楽しく踊る。3日目の午後にナホトカに着く。ビザは帰りの分を使うということで入国できたが、帰りのビザはどうしたかは又別の物語となる・・・(写真)
 ナホトカよりシベリア鉄道に乗り、次の日にハバロフスク、ポプラの花が風に舞っている。アムール川が大きくうねる。郊外の日本人墓地を見学する。ここより飛行機でモスクワに飛ぶ。軍用を改造したイリューシンで、とにかくうるさく、食事のときに小さなりんごがついていた。眼下は荒涼としたシベリアの大地である。太陽を追って10時間でモスクワ到着。

 モスクワには2日滞在。外貨を落とすためにそれだけは滞在しなければならない。赤の広場など観光案内がつく。食事はクーポンを渡されるが、使わなければあとで返してくれると思い節約していたが、駄目とわかり、最後の日の昼食は(泣く泣く)キャビアを大盛りにしてウオッカを飲むというこの旅最初にして最後のご馳走となる。これからも出てくるが、何しろ貧乏旅行であったので、一番記憶に残るのは空腹であった・・・この旅で私は10キロやせた。

 列車でルーマニアに向かう。2段のベットの上段は完全な棚状で、寝返りを打てば落ちてしまう。地平線というものを生まれて初めて見た。広大な平原の果てまでトウモロコシや小麦の畑が続いている。しかしそのうちにあいてくる。キエフの駅で車中から写真を撮っていたところ、椿事がおこった。警官がコンパートメントまで入ってきて、写真機を取り上げ、フィルムを抜いてしまった。写真機を取り上げられなかっただけましであった。駅も軍事上の重要点であるから撮影禁止なのである。車中には車掌のサービスでダークダックスなどが流れている。地形に起伏が多くなるとモルダビア、そして今回の旅の始まるブカレストはすぐそこである。

 

ルーマニア


 国境を越えると、ソ連のこわいおばさんにかわって、フランス語をしゃべる美人車掌が乗り込んできて、がらっと雰囲気が変る。ここは血も言葉もラテン系である。モスクワに比べ街が華やかで、人々も至極親しみやすく明るい。旅行社に前もって案内を頼んだが、駅についてもガイドが見つからず、おまけに人数も間違えて大型のベンツのバスが来たのはラテン的ではある。

 環境馴化のために、ブカレスト5泊、郊外で2泊というのんびりした計画である。街の中心のマゲルー通りは、歩道の周りに花が咲いて美しい。食事は一番安そうな立ち食いのセルフサービスで、基本的に1日2食となる。食堂で知り合った英語のできる兵士にビールをおごってもらい、街を案内してもらう。この人は、マカロニウエスタンにかぶれている。高校生と知り合ってアドレスを交換したりする。

 市電に乗り込むと親切なおばさんが話しかけてくれ、仏語で「どこ行くの」「知りません」などと珍妙な会話をしていると、乗換えを教えてくれ、引き継いだ別の人が公園まで案内してくれた。大きな湖でボートに乗ると、若い姉妹が乗り込んできて、ルーマニア語会話集で片言の会話をする。わからない単語は絵を書けば良いとばかり、1日中絵を描いてばかりいた猛者もいたそうな。(写真)

一日は観光バスで見学。ブカレストは並木と公園の美しい町である。ルーマニア国教のミサも見るが、我々の共産圏観からはこれがバスコースに入っているのが不思議であった。郊外の新興団地には巨大なアパートが林立しているが、スラム的な住宅も見られた。

北のカルパチア山脈の方へ、マイクロバスを仕立てて遊びに行く。ガイドはロディカ嬢。ポイアナブラソフに到着すると、早速ホテルの横でサッカーをしているピオニールの子供たちに一緒に入れてもらう。そのうち、柔道をせがまれ、型を演ずる。これはみていた男の人が黒帯と言って出てきたので即やめる。あとは子供に折り鶴を折ってあげる。折り紙はどこへ行っても好評で、その後何十回と鶴を折ることになる。夜はホテルで卓球の国際試合。(写真)

近くの山にハイキングに出かける。ロディカ嬢はスカートで足元も頼りないので、「やめたら」というが、根性があるのか息を切らせつつも先頭を行く。1600mの小屋まで気持ちよく歩く。小屋の食事を食べようというのを我々は節約のためにパンだけで済ます。これが続いたので、遂にロディカ嬢に、「お金がないなら私が出してあげる」という恥ずかしい話となる。小屋に来ていた人とバレーの国際試合。

次の日も朝食はいらないといっておいたら、バスの中でパンケーキをもらう。恥も外聞もなくかじりつく。ブラソフでゴシック様式の教会を見学、街は細い石畳の路地が雰囲気がある。シナイアで19世紀の離宮を見る。豪華な謁見室や趣の違うサロンを巡り歩く。日本から来た大きな壷もある。ブカレストに帰り、ロディカ嬢のモダンなマンションに案内される。相当いい暮らしをしている様子がみてとれる。日本から来た変な貧乏人のお供は苦労であったに違いない。

 

ブルガリア

 

 汽車でドナウ河を越え、国境の町ルーセにつく。ブルガリアでは初めの10日間はバラの谷など農村めぐり、あとの10日間は首都ソフィアからムサラ山に登山と、この旅行中で一番永い滞在となる。駅には少々野暮ったい兄ちゃんが待っている。ガイドを務めるルーセに住む18歳の学生ドイッチェン君である。先ずはブルガリア・英語辞典を買い込み、早速使ってみる。日とともに、われわれは片言のブルガリア語を操り、一方ドイッチェンは日本語がしゃべれるようになるのである。

 

 散歩した公園に家族連れが憩っているので、早速話しかける。「ドーブルデン」こんにちは。日本の絵葉書を見せたり、折り紙を折ったりする。そのうち「バラライカ」の歌を歌ってくれる。お返しに「赤トンボ」を合唱する。バラライカの歌はおぼえて、そのうち何度となく歌うことになる(今でも歌える)。赤トンボも哀調なそのメロディーがなかなか受けた。夜はこの街では高級そうなレストランに行く。楽団付の食事は生まれて初めてなので珍しいが、13ドルはどうなるのだと頭をよぎる。ドイッチェンの友達が同席し、すぐに仲良くなる。友達の友達は友達だというのがこちらの流儀らしい。(写真)

 

 古都トルノボへ。坂の多い街中をザックとトランクを下げて歩くと、大人は立ち止まり、子供はぞろぞろついてくる。いい見世物であるが、いつの間にかなれてくる。ハーメルンの笛吹きの気分である。歴史の先生と知り合い、夜に家に招待されて、自家製のブランデーをご馳走になる。つまみはズッキーニと彼の釣ったフナのごとき魚。言葉はよく通じないが好意は伝わる。次の日も、博物館や、トルコ時代からある牢獄を案内してもらい、夜は美人のガールフレンドとビヤホールに連れて行ってもらう。とにかく人なつっこい人が多い。

 

 ガブロボより、郊外までバスで行き、シプカ峠まで14キロのハイキングをする。ドイッチェンはトランクに重要なものがあるといって、ロープで背中にかつぐ。ついて歩くのが恥ずかしい。シプカ峠には19世紀半ばに当時の支配国であるトルコを破った戦勝記念碑がある。その近くにトルコ人のグループがいたが、ドイッチェンはトルコ人を見ると露骨にいやな顔をする。峠を歩いて降りると、黄金の教会と一面のバラの谷。ここにキャンプに来ていた子供と仲良くなり、歌ったり、踊ったり。我々は若く見えるのか、子供にはもてる。村にサクランボの並木があり、喜んで食べていたら、大人が苦笑して見ている。

 

 ブルガリア第二の都市プロブディフ着。紀元前からの都市である。ドイッチェンがそわそわしている。以前キャンプで知り合って文通をしている女性に会いに行くらしい。夜ホテルに帰ると、彼の機嫌が悪い。どうも女性との再会が不調だったらしい。まあ田舎ものだから都会育ちの彼女とうまく行かなかったのだろうと皆で話す。なぐさめになるか、明日はお別れなのでトランジスターラジオをあげる。

 

夜レストランに行くと東ドイツのバンドが入っていて若者がツイストを踊りすごい熱気。スローテンポになったときに女性を誘いダンスを踊りたいが踊れない。日本で男4人で習いにいった時、先生に「あんたら、器械体操にしなさい」といわれ一回でやめてしまった。そのうちバンドがかつらをかぶり、ビートルズを演じ汗とリズムでもりあがる。これが東欧かという気になる。

 

 イスタンブール急行で首都ソフィアに到着。今回の旅行を担当したユース・ツアリズムの事務所をたずねる。途中でドクトルジバゴに似た男前が声をかけてくる。これが後半のガイドの医科大生ヴァトコ君である。どうもブルガリアでは街の真ん中で会ったり相談をしたりが多い。事務所でボスも含め歓談。午後は私はおなかの調子が悪く休養。もう一人は尻の調子が悪く病院へ行くのだが、これは別稿のFunny Storiesで書いたように、チョコレートの味がするといいながら、座薬を飲んでいたという話につながるのである。

 

 手続きのミスで、チェコのビザが1日しかなかったので大使館へ行くとこれは簡単にすむ。しかし帰りのソ連のビザはここの大使館では時間がかかるというのであきらめる。日本に帰れるか心配になってくる。ビザンチン時代にできた聖ソフィア寺院や建国の父、ディミトロフ廟をみる。医科大学を見学、ホモが問題といわれ驚いたり、laboratory をまちがえてlavatoryといって話がこんがらがったりする。

 

 いよいよメーンイベントのムサラ山登山である。ソフィアよりバス2時間でリラ僧院に到着。ホテルが込んでいてここに泊まる。フランス人の団体や農夫のグループがいる。僧はまったくいず、一部はあれはて、一部は宿泊用になっている。イコンやパルチザン関係の陳列をしている部屋もある。夜は激しく雨がふる。

 

翌日は霧で何とか出発できる。ザックの中には直径30センチのライ麦パン、ソーセージ、チーズが入っている。谷の両側は切り立って、残雪もみえる。途中より雨が降り、ヴァトコは帰りたそうであるがそうはいかない。山小屋へ運ぶ荷物を積んだ馬に会う。羊の放牧している中を通っていく。谷は開けて湿原状になったが、雨はますますはげしい。道もぬかるみ、寒さもこたえる。急な坂をのぼりきると、カールの末端に小屋、自炊場のストーブで体を乾かす。50人ぐらい泊まっていてそのうち半分は子供であるが、皆珍しそうに寄ってくる。夕食後にこの小学生のミーティングに参加する。歌、劇、詩の朗読など、我々も片言のブルガリア語で自己紹介をし、赤とんぼとバラライカの歌で大喝采。大阪少年合唱団の気分である。そのあと大人とヴァトコを通訳にいろいろ話をする。

 

山小屋の人とヤッホーと呼び交わしながら登っていく。尾根に出ると展望が開け、遠くにムサラ山もみえる。下の方からカウベルの音もきこえる。雪のトラバースで肝を冷やすが、稜線に出るとお花畑となり、気分がよい。なだらかなピークを越えると羊の大群がいて、シェパードに吼えられる。昼食時にチェコの夫婦が追い抜いていく。この日にあった登山者は彼らだけであった。到着した小屋は満員で屋根裏部屋にはいる。ガスコンロで自炊していると皆見に来る。食べているものをみると、パン、ゆで卵、ソーセージなどで、いかにも我々は重装備であると反省する。夕食後は将棋をしたり、ギターに合わせ歌ったりする。(写真)

 

小屋からは這い松の急坂となる。尾根はやせ、両側は絶壁で、北側には雪がついている。ムサラ山の手前に戦争中の遭難碑あり。頂上には軍隊の気象観測所があり、兵士が十数名いる。頂上よりの景色はすばらしかった。峨々たる尾根と、凍てついた氷河湖、晴れていればギリシャまで見えるとのこと。下の池におりアイスシロップを作り楽しむ。這い松帯を下るとムサラ小屋。夕方小屋のミーティングがあり、例の演目でまたも好評を博す。ピオニールのひとりが広島の詩を朗読する。ミーティングが終わるとどっとピオニールにかこまれる。(写真)

 

這い松帯を下ると、樹林帯に出て、間もなく職場や国の持つ別荘の立ち並ぶボロベックの街。ここよりバスでソフィアへ。翌日は旅行社で支払い、いくらになるか心配であったが、一人ぴったり13ドル。これにはみんなにっこりする。途中立派なホテルやレストランもあったのだが。お別れということで夜はヴァトコの家に招待される。両親、同居の姉夫婦と子供とともに、暖かい雰囲気に包まれブルガリア最後の夜をすごす。お母さんには手作りの刺繍をした服を頂いた。ヴァトコは夏休みの労働奉仕としてこのガイドをしたとのことであった。山登りは始めての経験だったとか。彼は女性にはとてももてるそうな。

 

ユーゴスラビア

 

ユーゴスラビアも今は5つの国に分かれてしまった。90年代に紛争のあった頃はどんなに心を痛めたことか。あのころ会った学生たちはどうしているのだろうか、ローマから続くドブロブニクの城を砲撃するとは、サラエボはどうなっただろうかなど、想いはつきなかった。この東欧遍歴を一ヶ月休んでいたのも、何か気が重かったこともある。また、この3ヶ月の旅行の中で、唯一感じの悪い思い出が残っているということもあろう。

 

ソフィアからベオグラードへは汽車。駅についても出迎えがない。前日電報をうったのだが。一人の若者が案内してくれるといって、我々の大きなジュラルミンのトランクを持って、一目散に歩き出す。荷物がなくなったら大変だからと、こちらも必死についていく。旅行社についたら、金をせびられ、値切ってはみたが後もつきまとわれる。とにかく第一印象が悪い。この国で進めていた市場経済のマイナス面であったのだろうか。

 

案内役についたのが高級官僚の一人息子という政治学科学生のミキであったが、ここでは彼に何がしかの金を払っているのだが、我々の金で酒を飲もうとし、またエリート意識は高いのだが、バスの時間などもよく調べないなど、マネージメント能力にまったく欠け、ほかの学生としゃべっていて、来たバスに我々は乗り込んだが彼は置いていかれたりするのである。最後にはいがみ合うような仲になってしまった。ブルガリアでのドイッチェンやヴァトコ君が懐かしい。

 

ドナウ川沿いの農村を見たいという希望はかなえられず、近郊の農村に計画が変更となる。共同農場へはバスに乗り、後はテクテクと歩いていく。見物の子供がぞろぞろとついてくる。暑い中を、農場で麦刈りを手伝う。邪魔をしたというほうが正しい言い方である。アプリコットを箱いっぱいくれる。あの頃はアプリコットは日本になかったので、今食べると必ずあのことを思い出す。近くの工場では学生が果実を選別している。歌を歌ってくれたり、とても愛想がいい。お土産にジャムまでくれる。(写真)

 

汽車で7時間半、サラエボの町に夕刻着く。回教寺院、トルコ風の家が目に付く。雨の後の町を歩いていると、とある橋に出る。これが第一次世界大戦の原因となったオーストリア皇太子が暗殺された橋である。喫茶店に入ってトルココーヒーを飲む。最後に残ったかすで占いをするそうな。映画館で日本の映画をやっている。三船敏郎が主演で、物好きにも見た人によると、一瞬何語をしゃべっているのかわからなかったそうな。なるほど三船の日本語はわかりにくい。

 

列車でアドリア海岸に出て、ここよりバス。このとき案内のミキとはぐれる。ドブロブニクで民宿のようなところに泊まり、早速ひと泳ぎ。国際色豊かな海岸である。沖で泳いでいってマットの上に寝ている人に話しかけてもまったく言葉が通じない。夜はパーティでモンキーダンスやゴーゴー。頭のネジがはずれかける。次の日の午後、知り合った学生のところをバスで訪問する.大分はなれたところについてうろうろしていると、お母さんと言う人が探し当ててくれる。ここには外国人はいない。軍人専用の海岸と言う。人の少ない月の照る海岸が美しい。親切な人たちに囲まれて楽しく過ごす。何か夢のような思い出である。ユーゴは私にとってアンビバレンツな国なのである。(写真)

 

 

ハンガリー

 

ハンガリーへは事前に連絡がうまくつかず、また一日10ドルのバウチャーを使わねばならないと知ったので、わずか23日の予定しか組んでいなかった。しかし直前になって、ブダペスト大学へ出した手紙がブダペスト医科大学にまわり、医科大学から招待を受けることになった。従って、費用はほとんどかからないという、まことに結構なことになった。結局は居心地のよさに、滞在を一日のばしたのであった。

 

ベオグラードより7時間半の汽車の旅でブダペストに到着。駅では医科大学自治会の学生の出迎えをうけ、女学生より花束までいただく。車でブダ側にある大学の留学生用宿舎に案内される。荷物をおき、ドナウ川の向かいのペストにある学生自治会に案内される。男女半々の総勢6人で我々を世話してくれる。中心街の高級レストランに場所を移し歓談。ワインがうまい。すぐに親ハンガリーになってしまう。元来民族的にはフン族の末裔らしいが、顔にはまったく面影はない。言葉には残っている。

 

医科大学を表敬訪問後、観光バスで市内見学。美しい町である。ドナウ川に立つと王宮やドームが見える。この間学生の一人が我々の帰りのソ連のビザ取得のために走り回ってくれていたのだが、あまりに悪いので、じゃんけんでその当番を決める。私はビザ組に入り、大使館で交渉したがらちが明かず、消耗して帰ってきたら、残りの連中は市内にたくさんある温泉のひとつでプールに入って優雅に過ごしていたとか。夜は学生の家に招待されバーベキューパーティ。ベーコンを焼いてその油をパンに受けて食べる。こちらは浴衣を着て黒田節を披露。帰ったのは1時過ぎであった。(写真)

 

医科大学は学生が6年制で全員で4000人という巨大なもの。そのうち1000人が歯学と薬学。病院を見学に行く。皮膚科に案内されてしゃべっているうち、突然「日本のホモは?」と聞かれキョトンとする。よく聞いてみるとヨーロッパではホモによる性病感染が問題とのこと。その後日本でもなるほどと思うことになるのだが・・・おもちゃのような世界最初の地下鉄で英雄広場にある国立美術館に行く。ハンガリー帝国の時代に収集したものから印象派まですばらしいものであった。

 

スロバキアから前もってイワン氏が打ち合わせに来てくれる。ハンガリーの学生さんもそうだが、いろいろの人の好意に甘えた旅であった。旅も中間地点となった。これからスロバキアのキャンプ、オーストリアのハイキング、ドイツのユースホステルそして北欧、ソ連を通っての帰国となる。この間に好意を受けた人に対するお返しはほとんど何にもしていない。今となっては遅いがどうすればいいのだろうか?ハンガリーの学生に「申し訳ない」というと、「英国で親切にしてもらったから」といった言葉が今こころにしみる。

 

 

スロバキア

 

もちろん昔はチェコスロバキアと言っていたのだが、今は二つに別れ、訪れたのもスロバキアだけだったのでこうする。この頃になると、一月半の旅の疲れが出てか、ぼけてきて、汽車の中でカメラをなくしたり、ジャンバーを置き忘れるという状態になってしまった。しかし気分だけはハイになって、べらべらとしゃべりたりしていた。

 

ブダペストの駅で学生たちに見送られ、汽車に乗り込む。いつまでも手を振っていてくれる。スロバキアのブラティスラバには学生同盟のイワン氏が迎えに来てくれ、モダンな学生寮に案内される。ここで12日間お世話になるひょろっとした経済学部2年生のブラド君に会う。差し入れの強い酒、学生同盟でのブランデー、イワン氏におごってももらったレストランでのビールでいい気持ちとなる。今まで我慢して水を飲んでいたが、ここではビールの方が安い。ブラティスラバはかっての王都、ドナウ河ほとりの丘の上に城がある。ドナウ河は美しいが青くはない。

 

 ブラドの女友達に見送られ、低タトラ山脈のハイキングのために、列車に乗りリプトミクラスに向かう。バスで山のふもとまで行く。オートキャンプ場にテントを張る。重いテントをわざわざもっていったが、寝るのは始めてである。回りは東ドイツなど外国人の家族づれが多い。

 

あくる朝起きて驚いた。外のなべの中に入れておいたベーコンとチーズがない、犬の仕業だろうがくやしい。ホボック山(2025m)の頂上までリフトに乗り、縦走を始める。天気はいいし、道はなだらか。途中で東ドイツと西ドイツの友人家族たちに会う。自分の国では会えないという。ここで出会った西ドイツの人に、ドイツに来たら是非寄れとさそわれ、1カ月後に訪れることとなる。あまりうかつに人を誘わないほうがよいようだ。夕刻キャンプに帰り、野菜入りスープ、パン、缶詰の食事、後は歌を歌う。

 

ブラドの友達がアルバイトをしている結構大きい鍾乳洞見学後、テントをたたみ、バスでブラドの家を訪れる。小さな農村で小学校の先生をしている両親と高校生の妹の4人家族。なかなか立派な家で、庭のイチゴを食べたり、バドミントンをしたり。夕食はポテトケーキ、ピクルスとワイン、家庭料理がうれしい。妹さんのピアノに合わせてお父さんがダンス。民謡も教えてくれ、これは我々の持ち歌になった。「教会の鐘は鳴る」と言うふうな悲しげな歌で、30年後に会ったスロバキアの人に歌ってあげたらびっくりしていた。我々は定番の「あかとんぼ」を歌う。あくる朝、妹さんがキャンプに一緒に行きたいといったが、親にだめと言われ泣いていた。(写真)

 

青年同盟主催の高タトラ山系リシー山ふもとのキャンプ場に行く。1912年にレーニンが登山したのを記念する5000人参加の大キャンプである。登山電車に乗ると若者であふれかえっている。大草原は見渡す限りテント、テントである。我々の周りも見物客でごった返す。絵葉書を見せたり、マジックでシャツに漢字を書いてあげたり、果ては吉永小百合を友達であると紹介したり、そのうちにキャンプファイアが始まる。エレキバンド、ギター、漫談、小話など延々と続く。何日目かに我々も出演し、日本とスロバキアの歌で大喝采を博すことになる。

 

日中は、バレーをしたり、水着姿で日光浴をしたり、みなひねもすのたりのたりである。こちらは、折り紙を折ったり、オバQや仏様の絵をシャツに描いたり、米をたいて箸で器用に食べて見せたり、正座の仕方を教えてお茶をたててあげたり(苦いと言う感想しかかえってこなかった)、また新聞や放送局のインタビューを受けたりと大いそがしである。ゲームやら歌やら持っているものをすべてご披露する。何せ客は引きもきらずである。

 

朝早く起きて一日リシー山登山。登山電車の周りは針葉樹が美しい。皆すごいスピードで上っていく。荷物は何も持っていないと言う人が多く、水着姿で歩いている女性もいた。氷河湖を過ぎて、小屋で休憩。稜線に出るとガレ場である。狭い岩の頂上には何十人も群がっている。ポーランド側からも人が上ってくる。レーニンはポーランドから登ったとの事。われわれも一歩ポーランドにも足を踏み入れてみる。(写真)

 

3日間のキャンプも終わり、あれほどのテントもひとつひとつと消えていく。清掃車がきてゴミを集めていく。久しぶりに静かに飯をたく。残ったグループの焚き火に行ったが、ここは歌はうたわず、小咄を順にしていく。これはついていけない。夜は、別のテントに招かれ泊まったが、横のアベックが気になって寝れないので、自分のテントに帰る。

 

ブラティスラバでは、10kgやせてズボンがブカブカになったので、ズボンを探したが、足が短すぎるのか合うのがなく、ようやく何軒目かで大枚3500円をはたいて購入した。この途中、ハンガリーから来るときに汽車で会ったルーマニアの若者に街で偶然に出会った。父はハンガリー人、母はユーゴ人という。この人とか、キャンプで会った人と、日本に帰ってからしばらく文通をしていたが、その内便りもとだえてしまった。一緒に行った友はドイツの人と文通を続けていて、何十年ぶりかに会ったそうな。

 

オーストリア

 

 ブラティスラバより列車でウィーンへ。山岳会の背の高いやせぎすのウォルター君に迎えられる。9日間の滞在である。ウィーンについて驚いたのはとにかく車が多く、物の高いこと。ネオンもめずらしい。ウォルターにいうと、東京ほどではないだろといわれる。東欧を2ヶ月回ってここにくると、あらためて東欧はヨーロッパの田舎だったのだと思う。そしてその田舎と人々がなつかしい。

 

 こぎれいなレストランで食事をし、よく冷えているが高いビールに舌つづみを打つ。ドナウ川の水浴場で泳いだあと、高射砲陣地を改造したと言う陰気なユースホステルに入る。夜はウォルターの友達の男女とエジプト人とともに宮廷で弦楽四重奏の鑑賞。あまりにもいい音色に寝てしまう。その後レストランでワインを飲みながら歓談。この人たちとハイキングに行くことになるのだ。

 

次の日はウィーン大学を見学、民俗学研究所でウォルターの友人に会う。近くの学食で昼食。午後は自由行動で散髪などをする。夜はウォルターの家に招かれる。父親は鉄道関係の仕事をしていて物静かである。スロバキアのブラドの親父さんのように歌に合わせて踊るということもない。後日談であるが、二十数年後ウォルターが来日し、会った人によると、日本と韓国の間にトンネルを作るプロジェクトを進めていたある宗教団体に入っていたとの事であった。

 

45日のハイキングに出発。ウォルターと民俗学研究所の友人が同行してくれる。二人とも山なれた格好である。汽車でミッテルバッハまで行き、歩き出す。そのうち道があやしくなってきて、雨もふり夏とはいえ寒い。迷ったのか、道のない谷をよじのぼる。そのうち、尾根近くでついにブッシュに突入した。ヨーロッパまで来てやぶこぎとは恐れ入ったが、日本男子の気概を示さんものとがんばる。ようやく到着したのは瀟洒な山小屋である。別な所から広い道がきている。食事後は、ギターも出て日墺歌合戦をする。そのうちウォルターの友達の男女とエジプト人の教授が来る。教授はお疲れ気味である。

 

雨の中を7人の国際パーティが行進する。教授は女の人に気があるようだが、それをもうひとりの案内の男が皮肉る。教授は雨にぬれて、疲れしょぼくれて歩く。「こんなことをして何が面白いのだ」とまでいう。かわいそうなのでポンチョを貸してやる。昼食後、道は断崖、やぶで行き詰る。教授の不満が一気に爆発する。状況も人間関係もどんどん険悪化する。そのうちやっと大きな山小屋に到着。下からリフトが来ている。山登りの人の姿は少ない。ウォルター以外は皆下りてゆく。夜は飯を炊き、味噌汁、磯じまん、芸者印の魚缶をウォルターも楽しむ。あまりの空腹のため、もう一回飯を炊くことになったが、そのすきに炊事当番の食器に残っていた飯を誰かが食べてしまう。

 

5人で競争するように下っていく。谷あいの小さな村に出る。二階建ての窓には花、サウンドオブミューシックの世界である。喜んで牧場を通ってしかられる。横の小川を泳いでいた魚をとろうと大騒ぎをし、自転車の車輪に網シャツをかぶせた急造の網で20センチばかりのを3匹捕まえたが、ウォルターに小さいのは食べてはだめといわれ、泣く泣く川に放す。牧場に泊めてもらうことになる。農家で新鮮なミルクを買い思い切り飲む。しかし、日本人には合わないのか、皆トイレ通いとなる。寝床は小屋の干草の上。少しちくちくはするが、それよりこのめずらしい体験がうれしい。(写真)

 

 

日本へ

 

 オーストリアのリンツより汽車でミュンヘンへ。2ヶ月の東欧の旅が終わった。市内のユースホステルにつくと、ほかの国を回ってきた友がいる。彼等とともに都合3日間をミュンヘンの市内を散策したり、ホーフブロイの巨大なビヤホールに行ったり、ウィーナーワルトという店で鳥の丸焼きを食べたりしてのんびり過ごした。しかし、お金が少なくなってくると、鳥が半分から4分の1になるのが悲しかった。

 

 冬季オリンピックが開かれたオーストリアに近いガルミッシュパルテンキルヘンとその付近にも、6日間ほど滞在した。牧場の向こうの切り立った岩山はまるで夢のような景色であった。ツークスピッチェ(2963m)にも登山電車で行った。頂上は巨大な建物で、日光浴をしているのにはいささか驚いた。ユースホステルでは、卓球やら踊りやら歌で、例によって国際交流をした。

 

 ミュンヘンで解散し、それぞれにモスクワをめざした。私はボン―コブレンツ−ノイビート−ケルン−ハンブルグ−コペンハ−ゲン−ストックホルム−ヘルシンキ−レニングラード−モスクワと、汽車と船の旅をしたが、印象に残ったエピソードのみを記すことにする。

 

 日本での手違いで帰りのソ連のビザがない。ここが最後の正念場と、ボンのソ連大使館に赴いた。しかしブルガリアやハンガリーでいわれたのと同じで、本国まで書類を送るので最低10日はかかると言う。冗談ではない。「貴国のミスである」と主張し、では今週中にということまで譲歩してきたが、いや今日中に、では明日に、だめ明日はデンマークだから、じゃ午後に、と言うことでやっと取れる事となった。先例主義と言うのは恐ろしい。できることでもできないといってしまう。

 

 ライン川沿いのコブレンツに近いノイビートにいる歯医者さんを尋ねた。この方と家族にはスロバキアの山で会い、遊びに来いと言われていたのである。しかし、まさかくるとは思っていなかったであろうが、2晩とめてくれて親切にしていただいた。この旅で個人の家に泊まったのは初めてだったので、食事の様子などわかり興味深かった。車でちょっと走った森の脇では鹿の歩いているのが見えて珍しかった。奥さんが腕をまくると、刺青でナンバーがあり、強制収容所に入っていて危うく死を免れたとの事であった。ネオナチのこともこのときすでに話題でのぼった。

 

 各地のユースホステルに泊まりストックホルムまで来たが、本当にお金が乏しくなってきたので、同行の人と公園にでも寝るかと、駅裏の広い公園のベンチに横たわったが、夜になると8月でも結構寒い。そのうち、男2人がきて、ここは寒いから家に泊めてあげるよといってくれる。まあそうするかなどと相談していると、同行者がワァーッと叫んだ。

触られた、ホモですこの人ら、というのでほうほうの体で逃げ出した。駅に出て偶然会ったここに住む日本人の話によると、あの公園はホモの集うところだそうな。こちらもそう思われたのであろうか。

 

 モスクワよりウラジオストックに向かう飛行機の中で,窓から北の空に光が見えた。青のような紫のような光が緩やかに揺れていた。あれはオーロラだったのか、はたまたまぼろしだったのか。

 極光のゆれるシベリアいま越えぬ旅のおわりのさびしさ胸に