2000年6月

ちょうど、一年経ちました。迷惑でなければ、後一年ほど続けたいと思っています。さて、六月は、テーマを「隠遁の系譜」と名付けてみました。中国人には不老不死とは云わないまでも、自然の中に溶け込むように老いを送るのが一つの理想と考えられていたようです。役人を辞職する時の言葉に、石を枕にし流れに漱ぐといったのもあります。因みに、夏目漱石のペンネームはこれを「流れを枕にし、石に漱ぐ」と言い間違った役人の故事から採られています。中国には、常に儒教とともに老荘思想が並立しており、個人の中においても、多かれ少なかれ両者の要素を併せ持っていたのではないでしょうか。


陶淵明 「飲酒 二十首 其五」
 この方面の超大物です。田園詩人として後々の世まで、元祖としての尊敬を受けます。東晋の人ですから、李白・杜甫よりは三百年ほど昔の人です。四一歳の時、地方役人を辞めて、故郷に帰る時に作った「帰りなんいざ、田園まさにあれなんとす」で始まる「帰去来辞」は特に有名です。また、桃源郷の話「桃花源記」の作者です。「飲酒二十首」はすべてに酒が出てくるわけではなく、「陶淵明、酒を飲みながら人生を語る」といった感じの詩で、中でも其五はもっともよく知られています。

結廬在人境   廬(いおり)を結びて 人境に在り
而無車馬喧   而(しか)も車馬の喧(かまびす)しき無し
問君何能爾   君に問う 何ぞ能く爾(しか)るやと
心遠地自偏   心遠ければ 地自(おのず)から偏す
採菊東籬下   菊を採る 東籬の下
悠然見南山   悠然として 南山を見る
山氣日夕佳   山気 日夕(にっせき)に佳(よ)し
飛鳥相與還   飛鳥 相 与に 還る
此中有眞意   此の中に 真意有り
欲辨已忘言   弁ぜんと欲して 已に言を忘る

人里に庵を結んでいるが、車馬の人が訪ねてくる煩はしさはない。「何で、そうなんだ」と訊ねる人がいるかも知れぬ。心が世俗から遠く離れていれば、この地は自然と辺鄙な所となるのさ。東の垣根で菊を採りながら、ふと見上げると南の廬山が目に入る。山のたたずまいは夕方が素晴らしく、飛鳥が連れ立って、ねぐらへと帰って行く。この自然の中に、人生の真理があるように思う。しかし、それを述べようとしても、言葉にはならないのだ。


陶弘景 「詔問山中何所有賦詩以答」(山中に何の有る所ぞと詔問せられ、詩を賦して以って答う)
 四十歳で山中に隠棲したが、梁の武帝から常に諮問をうけ、「山中宰相」と呼ばれた。安岡正篤の中国版といった感じで、純粋の隠遁者かどうか若干胡散臭いところが有ります。斉の高帝からの詔にこたえる形で書かれた詩です。

山中何有所   山中 何の有る所ぞ
嶺上多白雲   嶺上 白雲多し
只可自怡悦   只だ 自(みずか)ら怡(たのし)み悦ぶべし
不堪持寄君   持(じ)して 君に寄するに堪えず


「山の中に何が有るのだ」との御下問ですが、嶺の上には白雲が多くただよっています。しかし、これは私が見て楽しむだけで、残念ながら陛下にお届けする訳にはまいりません。


王維 「送別」
 唐代随一の田園詩人。仏教に深く帰依し、書画音楽にも優れていた。長く官僚として生活し、相当の地位にのぼりますが、元来、芸術家肌で役人生活は向いていなかったようで、終南山の麓に別荘を営み引きこもりがちだった様です。ここで「空山不見人」や「獨座幽篁裏」などの有名な絶句が詠まれています。脅迫されて安禄山にやむなく仕えたため、乱後危うく処刑されかかりますが、玄宗のいなくなった宮廷で奏でられる音楽を悲しんだ詩が皇帝の耳にはいって助けられます。
 これは、故郷に隠棲する友人を送る詩ですが、「それも一つのいい人生じゃないか」とさらりと云いながら、友への深い思いやりがこもっていて、心に染みる詩だと思います。また、そこには彼自身のそういう生活への強い憧れも感じられます。

下馬飲君酒   馬より下りて君に酒を飲ましむ
問君何所之   君に問う 「何の之(ゆ)く所ぞ」と
君言不得意   君は言う 「意を得ず。
歸臥南山陲   南山の陲(ほとり)に帰臥(きが)せん」と
但去莫復問   「但去れ。復た問うこと莫からん。
白雲無盡時   白雲 尽きる時無し」

馬から下りて、まず一献。「これから、どうする?」「どうも世の中、思うようにはいかない。終南山の麓にでも引きこもるよ」「そうか、じゃ、行き給え。あの辺りでは、白雲が何時までも君の友達となってくれるだろう」


寒山
 これこそ、正真正銘の隠遁者です。あまりに隠れ過ぎていて、実在した証拠さえありません。水墨画の「寒山拾得図」で日本でもよく知られていますが、浙江省天台山(道教・仏教の霊地)に隠れ住んだ唐代末期の人だろうと云われています。吉川幸次郎いわく「中国のちゃんとした詩人というのは、かあいそうに、みな役人である。あるいは役人であった人物、ないしは役人になりたくてなり損ねた人物である。… 陶淵明だって、かつて役人だった時期をもたなければ、帰去来の辞は作られなかった。」 ほんとうに、儒教が中国人の価値観を一面的に呪縛していることの業の深さを感じさせますね。
 しかし、寒山は、そういった呪縛からは自由です。しかし、日本人がよく想像するようなさらりと悟り澄ました隠者でもありません。人生の悩みや懐疑、社会への怒りといったものも詩に歌われており、ここでも中国人のネチッコさが見えています。寒山の詩は三百首余り残っていますが、すべて無題です。

登陟寒山道   寒山の道を登陟(の)ぼれば
寒山路不窮   寒山 路 窮まらず
谿長石磊磊   谿(けい)は長くして 石磊磊(らいらい)
澗濶草濛濛   澗(かん)は濶(ひろ)くして草濛濛(もうもう)
苔滑非関雨   苔の滑らかなるは雨に関わるに非ず
松鳴不假風   松の鳴るは風を仮らず
誰能超世累   誰か能く世累(せるい)を超えて
共坐白雲中   共に白雲の中に坐せん

寒山の路を登って行く。その道はどこまでも尽きることはない。渓谷は長く、石がごろごろと散らばっており、谷川は広く、草がぼうぼうと生えている。苔がしっとりと滑らかなのは、雨のせいではなく幽邃な山気のためであり、松が鳴っているのは、風のせいではなく、自ずからの天籟なのだ。誰か世の煩いから逃れて、私と一緒に白雲の中に坐してくれないだろうか。


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