2000年8月
 さて、八月から数回かけて、日本人の漢詩を紹介したいと思います。考えてみると、奈良時代より明治初めに至るまで、日本人の最高の教養は常に漢詩文でした。平安時代、物語は女性のものでしたし、和歌にしても一段低く見られていました。しかし、日本最初の漢詩集「懐風藻」や、鎌倉時代の禅僧による五山文学など名前だけは文学史で教わった記憶がありますが、内容についてはほとんど知ることはありませんでした。本場中国に比べて全体的にはレベルが低かったことにもよるのでしょうが、今までの国文学では日本人の漢詩文はほとんど無視されていました。しかし、国文学もさすがに源氏ばかりでは、やることが無くなってきたのか、状況は変わりつつあるように感じます。というのは、近頃日本人の漢詩の本などの出版が増えているように思います。


大津皇子
 持統天皇の陰謀による大津皇子の刑死は飛鳥朝の悲劇としてよく知られています。この詩は大津皇子の辞世として有名な絶句です。しかし、中国にも似たような詩があり、借り物と思われます。皇子は日本書紀に「詩賦の興ること、大津に始まる」と云われていますが、歌人としても秀でていて辞世の和歌は「ももづたう磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」。ついでに蛇足ですが、お姉さんの斎宮・大来皇女の皇子を悼む歌「うつそみのひとなる我や明日よりは二上山(ふたがみやま)をいろせと我が見む」も、紹介しておきます。

金烏臨西舎   金烏(きんう) 西舎に臨み   太陽が西の家々の上に懸かってきた
鼓声催短命   鼓声 短命を催(うなが)す   太鼓の音が我が命の終わりを告げている
泉路無賓主   泉路 賓主無し           冥土への道に、私を迎えてくれるものはいない
此夕離家向   此の夕べ 家を離れて向かう   今宵、一人で黄泉の旅路をたどる



菅原道真「九月十日」

 平安朝最高の詩人です。いや、最高の学者として、後の世から見られています。和漢朗詠集には孫の菅原文時に次いで多く採られています。しかし、和漢朗詠集のなかの句のほとんどは彼が朝廷で活躍している時代のものばかりで、今我々がよく目にする晩年失意の時のものではありません。この詩は藤原時平の陰謀で右大臣から太宰権帥に左遷され、太宰府で幽閉状態にある時、一年前の後朝の宴を思い起して詠んだ絶句です。この一年数ヶ月後、道真は筑紫に憤死し、怨霊となって都で大暴れすることになります。

去年今夜侍清涼   去年の今夜 清涼に侍す
秋思詩編独断腸   秋思の詩編 独り断腸
恩賜御衣今在此   恩賜の御衣 今 此に在り
棒持毎日拝余香   棒持(ほうじ)して毎日 余香を拝す

思い起せば、去年の今夜は清涼殿で醍醐帝の後朝の宴に侍していたのであった。帝の命によって、「愁思」と題する詩を作り、皇恩に報いられない断腸の思いを詠った。(その時から今日の予感は有った。)その時賜った御衣は今ここに大切にしており、毎日捧げ奉っては帝の残り香を拝し、涙に咽んでいる。



和漢朗詠集 「夏 蝉の部」より
 このアンソロジーは、藤原公任が春夏秋冬その他のテーマ毎に部を立てて、和漢の詩の佳句、和歌を集めたもので、平安貴族の美意識の結晶とも言うべきものです。名前からして、朗詠するために集められたのでしょう。その中から、今の季節のものを。

歳去歳来聴不変   歳去り歳来たって 聴けども変ぜず
莫言秋後遂為空   言う莫かれ 秋の後に遂に空と為ることを
   紀長谷雄

空蝉(うつせみ)などと儚いもののように云ってはいけない。年年歳歳、同じように鳴くのだから。むしろ人の方が移ろい易いのだよ。年年歳歳花相似 歳歳年年人不同 と同工異曲

これを見よ人もとがめぬ恋すとて音をなく虫のなれるすがたを  源重光

思いを寄せる女に、蝉の抜け殻と共に送った歌。当時の人は、抜け殻を蝉が昇天したあとと思っていた様ですね。遊び心とはいえ、少々いじましい感がします。



細川頼之「海南偶作」
 いきなり、室町時代に飛びます。頼之は足利尊氏に従って武功があり、義満のとき管領となりますが、政争に嫌気が差して出家、引退して讃岐へ帰ります。これはその時の作でしょう。蒼蝿がうるさいとは感じがよく出ているではありませんか。

人生五十愧無功   人生五十 功無きを愧ず
花木春過夏已空   花木(かぼく)春過ぎて 夏已に空し
満室蒼蝿掃不去   満室の蒼蝿(そうびょう)掃えども去らず
独尋禅室挹清風   独り禅室を尋ねて 清風を挹(く)まん 

第二句:季節の移ろいを詠みながら、老年に至ったことを嘆じているのでしょう。
第三句:小人共が政争に明け暮れているのに、うんざりしている。
第四句:出家して禅宗に帰依して、世の煩わしさから離れよう。



上杉謙信「九月十三夜」
 謙信が能登遠征時に、夜の宴で詠んだ詩。この時、既に敵将から降伏の通知が来ていたようで、転句には、勝利を目前にした余裕が感じられます。本当に謙信が作ったのか、後世の偽作か論争の有る所ですが、頼山陽の「日本外史」以来有名になったようです。また、この詩の起承は「荒城の月」二番に採られています。
 私事ですが、中学の時の校長は詩吟が大好きで、ある時生徒を講堂に集めて、詩吟を披露しました。その時の一つがこれでした。初めて聞く詩吟は学校で習っている音楽とはまったく違っていて、なぜか可笑しくて可笑しくて、みんなで腹の皮がよじれるほど大笑いしました。校長先生は知らん顔で機嫌良く唸っていました。あんなに笑ったことはそれ以来ないような気がします。

霜満軍営秋気清   霜は軍営に満ちて 秋気清し
数行過雁月三更   数行(すうこう)の過雁 月三更
越山併得能州景   越山 併せ得たり 能州の景
遮莫家郷憶遠征   遮莫(さもあらばあれ)家郷の遠征を憶うを

三更:夜の十二時ごろ
第三句:ここ能登の景色に、遠景として越の山々が望める。言外に、能登を併呑したとの意。
第四句:家郷の者たちが遠征の我々を案じていようが、それはそれ、今宵は風月を楽しもう。



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