2000年9月
 九月は、鎌倉・室町時代の禅僧の詩を紹介します。この時代、宋・元・明に長年留学し、中国語ペラペラ、中国文化にどっぷりと漬かり、中国人と遜色のない詩を作る禅僧が輩出しました。いわゆる五山文学です。五山文学の名前は日本史の授業で聞いたことがありましたが、実質に付いてはまったく知りませんでした。おそらくほとんどの日本人がそうだったでしょう。禅僧の詩は、禅味というか、禅独特の晦渋さがあり、おまけに公案などと言うなぞなぞ遊びが好きなものですから、ちょっと手が出ない感じです。その中で私にも何とか分かったのではないか?と思われるものをいくつか紹介します。しかし、私の種本には、読み下し文が付いているばかりで解説がほとんどないので、感違いがあるかもしれません。
 当時の禅僧が海外留学をしなければ一人前とみなされないところは、今の学界と似ているではありませんか。しかも、中国では比較的自由に修行したのが、日本へ帰ると、師弟関係の継承が厳格で、強烈なセクト主義に陥り、他の学流に移った僧を殺すの襲撃するのと坊主にあるまじきことが議論されたようですから、これは今以上かもしれません。


無学祖元「示虜」 (虜に示す)
 日本人として紹介するのはすこし躊躇します。というのは、祖元は北条時宗の招きで南宋から日本に帰化し、鎌倉円覚寺開山となった臨済宗の僧で、この詩は明らかに中国時代に作られたものだからです。しかし、元の兵士に殺されかかったとき、この詩を唱えて助かったという有名な詩ですので、あえて紹介いたします。しかし、何と言うか、分かったような、分からないような。

乾坤無地卓孤筇  乾坤 地の孤筇(こ)きょうを卓(た)つる無く

喜得人空法亦空   喜び得たり 人は空にして 法も亦空なるを
珍重大元三尺剣   珍重す 大元 三尺の剣
電光影裡斬春風   電光影裡(でんこうえいり) 春風を斬る

天地は広いようで、実は一本の杖を立てる余地も無い(大元国などとゆうて見ても、その一角に過ぎぬのじゃよ)。その上喜ばしいことに、人も法もすべて本来空である(現実は仮の姿なのじゃよ)。(じゃからして)元の兵達よ、腰の剣を大切にせられよ。(こんな処で振り回して、無力な拙僧の皺首を斬ったとて)稻妻が春風を斬るようなものではないか。


雪村友梅「雲泉」
 年少より帰化僧に付いて修行、十八歳で入元、当地でその俊秀を愛され活躍したが、突然政治的嫌疑を受け投獄、長安で三年軟禁、四川へ十年追放される。その間修行に励み、大赦後は元朝から禅師号を授けられる。四十歳で帰国し、建仁寺住持で終わる。この人も、投獄された時、斬罪にされかかって、無学禅師の偈を唱えて助かったことがあり、それを感謝して、無学の詩のそれぞれの句を起句とする四つの絶句を作っている。

触石生来閑湛湛   石を触(おか)し生じ来たり 閑にして湛湛
盈科流出細涓涓   科に盈(み)ちて流れ出で 細にして涓涓(けんけん)
成霖終有翻瀾日   霖(りん)を成して 終に翻瀾(ほんらん)の日有り
莫恋孤峰絶澗辺   恋う莫かれ 孤峰絶澗の辺

岩の割れ目より湧き出て、音も無く溜まってくる。窪みに満ちると、細くちょろちょろと流れ出す。しかし、霖(長雨)に遭って、怒涛の大河となる日も来る。だから、山中の小さな泉でいるのを善しとしてはいけない。(仏道に仕える身としては、衆生を教化する大きな存在になるべきで、山中の隠者として生涯を送るべきではないと言った意味か?)


絶海中津「山家」
 五山文学の第一人者。夢窓疎石の弟子。三十三歳で明に留学。当地でも文名を謳われ、明の太祖にも謁見して、詩を献じている。帰国後、相国寺第六世住持となり、多くの弟子を育てる。足利義満の意に逆らって、一時、摂津茨木山中に隠棲したり、阿波の寺に住したことがある。
 四万十川の源流に堂海公園と言うのがあります。何の事かいなと、サイクリングの途中立ち寄ってみると、土佐出身の義堂周信、絶海中津の二人の名僧を記念した公園で二人の銅像がありました。

年来縛屋住山中   年来 屋を縛って 山中に住す
路自白雲深処通   路は白雲の深き処より通ず
不用世人伝世事   用いず 世人の世事を伝うるを
間懐只慣聴松風   間懐は只だ松風を聴くに慣るるのみ

この年頃、小さな庵を造って山中に住んでいる。ここへ来る道は深い白雲の中を通ってくるような山深い所である。世の人が、世間の俗事を伝えてくれる必要はない。何もする事が無い時はただ松風の音を聴いておればよいのだ。


寂室元光「書金蔵山壁」(金蔵山の壁に書す)
 漂泊と隠遁の禅僧。三十一歳で入元、天目山の中峯明本に参じ、その厳しく清高な純粋禅を身に付けて帰国、寺を持たず西国を放浪した。七十二歳で、近江守護の佐々木氏頼に乞われて、やむなく永源寺の初代住持となる。その後、勅命によって天竜寺に招かれたが、固辞して永源寺に終わる。この詩は、寂室が兵庫県但東町にある金蔵寺が気に入って、一年近く寄寓し、ここを去るに当たって残した詩。結句は特に有名。西田幾多郎が書斎に「骨清窟」の扁額を上げたのも、この詩による。先日、但東町役場にメールで問い合わせたところ、当時の寺は兵庫・京都の県境の山上にあったが、戦国時代兵火にかかって焼失、現在は里に下りているとの事。近いうちにサイクリングでもしてこようと思っています。

風攪飛泉送冷声   風は飛泉を攪(みだ)して 冷声を送る
前峰月上竹窓明   前峰に月上って 竹窓明らかなり
老来殊覚山中好   老来 殊に覚ゆ 山中の好きを
死在岩根骨也清   死して岩根に在らば 骨も也(また)清し

飛泉:滝

 この日曜日、金蔵山探索に出かけました。サイクリング九十キロ+三時間の山歩きでした。残暑のなかの低山歩きで、蜘蛛の巣をかき分けての薮こぎとなり、汗と埃にまみれてしまいました。禅師が座ったといわれる座禅石、僧坊址と思われる竹薮が残っている平地、井戸や石塔の址などがあり、確かに寺があったと思われる場所でした。低山ながら座禅石からの眺望は素晴らしく、秋風に吹かれて一時に汗の引く思いでした。ただし、詩にあるような滝がある地形ではなく、これはせいぜい庭に引かれた筧程度のちょろちょろしたものだったのでしょう。



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