2000年12月
 いよいよ二十世紀も最後となりました。先月お知らせしましたように、十月中旬、三峡下りに行ってきました。感激でした。特に第一峡、瞿唐峡に入る瞬間は深い岩の間に吸い込まれるようで、息を呑む思いでした。峡谷を抜けるまで僅か二十分程の間でしたが、凄いの一語です。中国は大きい。それで今回は長江、特に三峡を詠った詩を集めました。
 古来、蜀(四川省)への出入りは蜀の桟道を通って、北方、長安のある中原に通じるか、長江を舟行して東方、武漢、南京方面へ通じるかの二つでした。いずれの道も大変な難所で、蜀の国が守るに易く、攻めるに難いと言われる所以です。
 三峡は、瞿唐峡、巫峡、西陵峡の三つの峡谷からなります。重慶から三峡までは巴峡と呼ばれやはり風光明媚な峡谷です。三峡は、蜀への主な交通路でしたから、李白、杜甫を始め多くの文人墨客が通り、詩を作っています。その中から、ほんのさわりを。


李白「早發白帝城」
 皆さん、ご存知の詩でしょうから、入れようかどうしようか迷いましたが、やはりこれが第一に無いと三峡の詩は始まらないとおもいます。詩は解説の必要はないと思います。白帝城は、劉備玄徳終焉の地であり、瞿唐峡の入り口でもあります。従って、ここに兵を置けば長江を溯っての蜀への侵攻はまず不可能な要害の地です。

朝辞白帝彩雲間   朝 (あした) に辞す 白帝 彩雲の間
千里江陵一日還   千里の江陵 一日にして還る
両岸猿聲啼不盡   両岸の猿聲 啼 (いなな) いて尽きざるに
軽舟已過萬重山   軽舟 已に過ぐ 萬重 (ばんちょう) の山

  江陵:現在の荊州、三峡を抜け出た地で、白帝城より約300km。関羽が殺された地としても有名。誇張でなく、流れに乗れば一日で行くことは可能。


杜甫「秋興八首 其一」
 杜甫は安住の地であった成都を離れ、一家を連れて、下流の故郷を目指して舟で長江を降ります。その途中、白帝城の麓の奉節に2年ほど止まります。

玉露凋傷楓樹林   玉露 凋傷(ちょうしょう)す 楓樹の林
巫山巫峡気蕭森   巫山巫峡 気 蕭森(しょうしん)たり
江間波浪兼天湧   江間の波浪 天を兼ねて湧き
塞上風雲接地陰   塞上の風雲 地に接して陰(くも)る
叢菊両開他日涙    叢菊 両(ふたた)び開く 他日の涙
孤舟一繋故園心   孤舟 ひとえに繋ぐ 故園の心
寒衣處處催刀尺   寒衣 処々 刀尺(とうしゃく)を催(うなが)し
白帝城高急暮砧   白帝城高くして 暮砧(ぼちん)急なり

  刀尺:はさみとものさし。裁縫の意

秋の玉のような露が楓の林を凋れさせてしまった。ここ巫山・巫峡は秋気が粛々と立ち込めている。川面の波は天に繋がるかと思うほどに湧上がり、城塞の辺りの風雲は地上まで降りてきて陰々としている。再び、菊の時節を迎えたが、思い返せば前の菊が開いた頃も涙の日々であった。故郷へ帰りたい一心を小舟に繋いで、この地に身を寄せている。家々では冬着の支度の裁縫をしているらしく、白帝城を見上げるここにも夕暮れの衣を打つ砧の音が急がしげに聞こえてくる。


杜甫「瞿唐両崖」
 李白はこの辺を一気に下ってしまいましたが、杜甫はとろりとろりと下っているため、いい詩が多く残っています。これは叙景の詩で感情の吐露が無いため、いつもの杜甫の詩を読んで感じる感銘に欠けますが、瞿唐峡の迫力をよくあらわしていると思います。

三峡傳何處  三峡 何れの処を伝う      三峡でどこが一番知られているだろうか
雙崖壮此門  双崖 此の門を壮とす      瞿唐入口の石門こそ、最も壮観である
入天猶石色  天に入るも なお石色      見上げれば、天に届くばかりに岩であり
穿水忽雲根  水を穿ちてたちまち雲根     水中にも、突然岩石が現れる
猱玃鬚髯古  猱玃 鬚髯(しゅぜん)古り   崖にはひげの長い猿が住みつき
蛟龍窟宅尊  蛟龍 窟宅尊し          淵にはみずちの尊い住処がある
羲和冬馭近  羲和 冬に馭して近づき     冬には羲和が日輪を御して崖に近づくが
愁畏日車飜  愁い畏る 日車の飜らんことを  車が崖に触れて、翻ることを恐れる

雲根:岩のこと。雲は岩に触れて出来ると考えられていた。
猱玃(じゅうかく):おおざる 二つの字とも正しくはケモノヘンです。
羲和(ぎわ):古代神話の神。太陽が乗る六龍立ての車の御者(淮南子)。



竹添井井「香渓口」
 天草出身の漢学者。北京公使館書記官として勤務中の明治9年、津田君亮と北京を出発して、洛陽、西安を経、蜀の桟道を越えて四川省へ入り、成都、重慶から長江を下って上海に至る4ヶ月にわたる大旅行を行った。この時の日記と詩集が「桟雲峡雨日記」「桟雲峡雨詩草」である。
 香渓は三峡の三番目、西陵峡が始まるところで合流する支流で、この辺りで楚の屈原、漢の王昭君が生まれたことでも有名です。三峡下りの船から、遥かに王昭君の白い像が望まれ、美しい宮女の悲話が思い起こされます。
 井井は明治期の優れた詩人ですが、この詩については、この地を訪れたものなら誰でも抱くような、いささか月並みな感懐かなとも思いますが、まあ李・杜と並べられては彼に気の毒でしたか。ちなみに、同じ場所で作られた杜甫の「負薪行」という凄い詩がありますが、長いので割愛。

冷雨凄風送暮哀   冷雨凄風 暮哀を送る
美人才子共塵埃   美人才子 共に塵埃
玲瓏一掬香渓水   玲瓏(れいろう) 一掬(いっきく) 香渓の水
流自昭君村裏来   流れて昭君村裏より来たる

冷たい雨、凄惨な風が夕暮れの哀しみを送ってくる。この地に生まれた王昭君や屈原のような美人才子も今は塵埃となってしまった。奇麗に澄んだ香渓の水を一掬いしてみる。この水はあの王昭君が生まれたという村の方から流れて来ているのだ。
この詩は、書き下し文から原詩に戻しましたので、結句は間違っているかもしれません。



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