2001年2月
二月は、長江下流域がテーマです。この辺りには南京、揚州、蘇州などの古くから栄えた都市があり、文化の程度が高い地方です。従って、直接長江を題材にせず、それらの都市の詩を紹介します。
杜牧 「遣懐」 (おもいをやる)
大運河が長江と合する場所にあった揚州は、長江沿岸屈指の大都会で、妓楼が軒を並べた歓楽地であったそうです。杜牧は名門の出で、政治に志しますが、官僚としては出世しませんでした。大変ハンサムだったようで、揚州在任中は毎晩のように妓楼で遊び、また好くもてたようです。
落魄江湖載酒行 江湖に落魄して 酒を載せて行く
楚腰繊細掌中軽 楚腰繊細にして 掌中に軽ろし
十年一覺揚州夢 十年一たび覚む 揚州の夢
贏得青樓薄倖名 贏(か)ち得たり 青楼 薄倖の名
水郷地方で落ちぶれて、それでも酒だけは離さずにウロウロしていた時分、江南の美女のほっそりとした柳腰は繊細で手のひらに乗りそうな軽さであった。あれから十年、揚州での歓楽の夢もすっかり醒めてしまった。残ったのは、花街の遊蕩児の名前だけである。
蘇軾 「飮湖上初?後雨 其の二」(湖上に飲む、初め晴れ、後雨ふる 其の二)
杭州は蘇州と並んで江南屈指の風光明媚な都市で、その風光の中心が西湖です。当時、市民の生活水として使われていたようです。蘇軾は王安石の新法に反対して、中央から地方へ出て、杭州の副知事として勤務した時の詩です。西子は西施のことで、呉(この地方)の有名な美人です。前半の対句の見事さは、ちょっと言葉がありません。私は特に承句が大好きで、登山の時、雨の日に歩き出す時はこれをおまじないとして唱えています。晴れと雨の西湖を西施の薄化粧・濃化粧に比べたのは蘇軾一流のウイットでしょうが、少し理屈っぽい感は免れませんね。
水光瀲灔晴方好 水光 瀲灔(れんえん)として 晴れ方(まさ)に好し
山色空濛雨亦奇 山色 空濛(くうもう)として 雨も亦奇なり
欲把西湖比西子 欲(も)し西湖を把(とっ)て西子に比さば
淡粧濃抹総相宜 淡粧 濃抹 総て相宜(よろ)し
張継 「楓橋夜泊」
次は蘇州です。あまりに有名な詩なので、解説なしといたします。張継は中唐の詩人ですが、この一詩によって名を残したといってもいいでしょうか。この詩の石碑の拓本が掛軸にされて出回っていますが、清の学者・愈越の書です。
月落烏鳴霜満天 月落ち烏(からす)鳴きて 霜 天に満つ
江楓漁火對愁眠 江楓 漁火 愁眠に対す
姑蘇城外寒山寺 姑蘇城外の寒山寺
夜半鐘聲到客船 夜半の鐘声 客船に到る
霜満天:露や霜は天から降ってきて、地上に降りしくもの考えられていた
姑蘇:蘇州の古名 寒山寺:楓橋の近くにある寺で、寒山、拾得が住んでいたと伝えられる
王勃 「滕王閣」(とうおうかく)
滕王閣はハ陽湖に流れ込む江を望む洪州(今の南昌市)の地に、唐の高祖の王子、滕王(画の名手としても有名)が建てた楼閣で、今も名勝として知られています。一時、荒廃していたのを、当時のこの地の都督が修理し、重陽の節句に記念の大宴会を開きました。ちょうどこの時、王勃はベトナムに流されていた父を訪ねる途中で、この地に立ち寄っていました。王勃の文名を聞いていた都督は彼を招いて、詩文を作るように求めました。王勃は席上で一番若かったが、ためらわず「滕王閣序」とこの詩を即座に書き上げて、一座の人々を感嘆させたとのことです。彼はこの後、ベトナムに向かう途中、南海で溺死します。享年二八才でしたが、その詩は初唐の四傑の一人として知られています。
滕王高閣臨江渚 滕王の高閣 江渚に臨む
佩玉鳴鸞罷歌舞 佩玉鳴鸞(はいぎょくめいらん)歌舞罷みぬ
畫棟朝飛南浦雲 画棟 朝に飛ぶ 南浦の雲
珠簾暮捲西山雨 珠簾 暮に捲く 西山の雨
閑雲潭影日悠悠 閑雲 潭影 日(ひび)に悠悠
物換星移幾度秋 物換り星移り 幾度の秋ぞ
閣中帝子今何在 閣中の帝子 今 いずくにか在る
檻外長江空自流 檻外(かんがい)の長江 空しく自ら流る
滕王の建てたこの楼閣は渚の辺にある。当時は佩玉(帯に着ける玉)や車に付けた鸞(おおとり)の鈴をならして貴人達が集まって、華やかに歌舞が行われたのであろうが、今は昔のことである。美しく画かれた棟木には毎朝南浦の雲が飛び交い、夕べには朱の簾が西山の雨を眺めんと巻き上げられたことであろう。静かに流れる雲、満々と水を湛えた淵に映える光は、日毎にのどかであるが、万物は移ろい歳月は流れ、あれから何年が経ったことか。この高殿にいた王子は今は何処なのか。手すりの向こうの長江は空しく流れるばかりでる。