2001年7月
七月は、暑いー!!という感じの夏の詩を集めてみました。
杜旬鶴 「夏日題悟空上人院」 「夏日 悟空上人の院に題す」
晩唐の詩人です。杜牧の落胤と云う伝説が有ります。彼自身は軽薄な性格の悪い人間で、悟りなどとは縁がなかったようですが、上人の修行の姿を称えたものとして有名な詩です。さて、この詩の転結を聞いたことはありませんか?そうです。武田滅亡の時、恵林寺の楼上で焼け死んだ快川和尚が唱えたと言われる句です。語源はここにありました。焼け死んだ坊さんが最後に何を言ったかどうして残っているんだ、などと野暮なことは言わない。いかにも焼け死ぬ時にぴったりの言葉ではありませんか。
三伏閉門披一衲 三伏 門を閉ざして 一衲を披(ひら)く
兼無松竹蔭房廊 兼ねて松竹の房廊を蔭らす無し
安禅不必須山水 安禅 必ずしも山水を須(もち)いず
滅却心頭火亦涼 心頭 滅却すれば 火も亦た涼し
三伏の季節に門を閉ざして、僧衣をきちんと着ている。その上、部屋に陰をつくる松や竹もない。
禅の境地は必ずしも静かな山水の地を必要としない。心を消し去ってしまえば、火でさえ涼しく感じられるのだ。
三伏:夏至から三番目の庚(かのえ)の日が初伏、次の庚が中伏、その次、立秋の後の庚の日が末伏と云いもっとも暑い盛りです。今の八月にあたるでしょうか。
楊万里 「夏夜追涼」 「夏の夜 涼を追う」
陸游と次に挙げる范成大と共に南宋の三大詩人と称されます。剛直で、妥協しない性格のため官僚としてはたいして出世をしませんでした。この詩の結句のような繊細な感覚は日本人特有で和歌や俳句でしか見られないのかと思っていましたが、漢詩にもあるのだと認識を新たにしました。しかし、宋代以降のものでしょうか。中国三大ボイラーと云われる重慶、武漢、南京がある長江流域で作られたであろうと思うと、この暑さが一層強く感じられます。
夜熱依然午熱同 夜熱 依然 午熱に同じ
開門小立月明中 門を開いて 小立す 月明の中
竹深樹密虫鳴処 竹 深く 樹 密にして 虫の鳴く処
時有微涼不是風 時に微涼有り 是れ風ならず
夜になっても、依然として真昼時のままの熱気だ。門を開いて外に出て暫く月明の中に立つ。
竹や樹がみっしりと繁る辺りで、虫が鳴いた。その時、ふと涼しさが漂ったが、べつに風が吹いたわけでもない。
范成大 「夏日田園雑興」
南宋三大詩人の中ではもっとも出世をした人でしょう。退官後は蘇州郊外、石湖のほとりで悠々自適の生活を送り、田園詩人としての生涯を遂げます。この詩はその代表作として名高い「四時田園雑興」六十首のうちの一つです。田舎の何気ない夏の風景が目に浮かぶようですね。
黄塵行客汗如漿 黄塵の行客 汗 漿の如し
少住儂家嗽井香 少しく儂が家に住(とど)まりて 井香に嗽(くちすす)ぐ
借与門前盤石坐 門前の盤石を借し与えて坐せしむれば
柳陰亭午正風涼 柳陰 亭午 正に風は涼し
黄色い塵まみれの行商人の汗はおもゆのようだ。ちょっと俺の家に寄って香ばしい井戸水で口をすすぐ。
門前の腰掛け石に坐らせてやると、昼時の柳の陰に涼しい風が吹いてくる。
袁枚 「銷夏詩」
清の乾隆時代の進士。地方官を歴任した後、父の喪にあって、四十そこそこで引退し、南京郊外に随園を築き、八十過ぎまで悠々自適の生涯を送った。随園先生と呼ばれる。先祖からの遺産がたっぷりあったのでしょう。「随園女弟子詩選」などという
本があるところを見ると、若い女性に囲まれて楽しい生活を送っていたのでしょう。
彼は「性霊説」を唱えて、形式などはあまり気にせず、心情の赴くままに詩を作るのがいい主張し、「格調説」と対立しました。
この詩は、さすがに不謹慎だと当時の人からは非難されたようです。それはそうでしょうね。暑苦しい官服を身に着けて、フウフウ言っている身にとっては頭に来る詩でしょう。承句の「花」とは何でしょう。女性のことですかね。そうすると、ますます頭に来るでしょうね。
不著衣冠近半年 衣冠を著けざること 半年に近く
水雲深處抱花眠 水雲深き処 花を抱いて眠る
平生自想無官楽 平生 自ら想う 無官の楽しみ
第一驕人六月天 第一 人に驕る 六月の天
引退して、衣冠を着けなくなってもう半年近い。今は山中に花を抱いてのんびりと眠る身の上である。
平生から、無官の人が楽しんでいるのを見て、自分もと思っていた。この身が何より人に誇ることが出来るのは、この六月の暑い夏空のもとでノンビリできることである。