2002年10月
10月は少しあらたまって「愛国の詩」を取り上げてみました。小生自身は、政治、社会事情を詠った詩は苦手なのですが、詩が「志」を詠うものである以上、中国の詩人にとっては最も重要なテーマであったのかもしれません。
文天祥 「過零丁洋」
愛国の詩となると、どうしてもこの人を筆頭に挙げることになります。文天祥は南宋末の宰相ですが、南宋滅亡の時、元に捕らえられて北京に送られます。元に仕えることを最後まで拒み、幽閉3年の後、とうとう処刑されます。
ご紹介したかったのは代表作「正気歌」ですが、あまりに長いのでここには載せられません。この詩を読むときには、いかに懶惰な小生といえども襟を正さざるを得ない粛々とした気迫が伝わってきます。
文天祥が元に捕らわれて北京へ送られる途上、この近くで南宋最後の皇帝を奉じて抵抗を続けている将軍に降伏を勧めるように強要されたとき、この「過零丁洋」を作って拒絶しました。
辛苦遭逢起一經 辛苦 遭逢 一経より起る
干戈落落四周星 干戈 落落 四周星
山河破砕風抛絮 山河 破砕して 風 絮(わた)を抛(もてあそ)び
身世飄揺雨打萍 身世 飄揺 雨 萍(うきくさ)を打つ
惶恐灘頭説惶恐 惶恐灘頭 惶恐を説き
零丁洋裏歎零丁 零丁洋裏 零丁を歎く
人生自古誰無死 人生 古より 誰か死無からん
留取丹心照汗青 丹心を留め取(え)て 汗青を照らさん
辛苦の境涯は私が経書を勉強して進士を目指したときよりの定めだ。
戦の指揮をしてきたが、思うようにならず四年が過ぎた。
山河は打ち砕かれて、風は柳絮をもてあそび
人の世は揺れ動いて、雨が浮き草を打っていようようである。
江西の河の難所、惶恐灘のほとりでは皇帝の詔を恐れかしこんで受けたのだが
ここ零丁洋では独りうらぶれた身を嘆こうとは
人生は必ず死を迎えるもの。真心を守って、歴史に名を残そうではないか。
汗青:歴史
陸游 「示兒」 児に示す
陸游は今まで何度も登場していますので紹介は省きますが、文天祥よりは時代が遡ります。彼は若い頃、売国の宰相(金との和親論者)秦檜の孫と進士の試験で主席を争い、これが原因で官僚としての出世が出来なくなりました。このことが彼を金に対する主戦論者にしたのかもしれません。この詩は死の数日前に作られたものですが、深い諦観の中にも断ち切れない憂国の思いが見事に表現されています。
死去元知萬事空 死に去っては 元とより知る 万事空なるを
但悲不見九州同 但だ悲しむ 九州の同じきを見ざるを
王師北定中原日 王師 北のかた中原を定むる日
家祭無忘告乃翁 家祭 忘る無かれ 乃翁に告ぐるを
死んでしまっては万事空しいものだとは知っているものの、我が国の国土全体が一つになるのを見ずに死ぬのは悲しい。皇帝の軍隊は北の中原地方を平定した日には、家の祭りをしてわしに告げるのを忘れるではないぞ。
王昌齢 「出塞」
時代は遡って盛唐の時代です。王昌齢は以前にも「送別の詩」で紹介しましたが、七言絶句の名手として知られています。この詩も「唐詩選」に採られていて有名な詩ですが、「出塞」というのはいわゆる楽府題で、辺境の軍人の境遇を思いやって都で作るものです。少し観念的になって、あまり実感が伴っていない感じが否めませんね。
秦時名月漢時關 秦時の名月 漢時の関
萬里長征人未還 萬里 長征して 人未だ還らず
但使龍城飛将在 但だ龍城の飛将をして在らしめば
不教胡馬度陰山 胡馬をして 陰山を度らしめざらしを
月も城塞も秦や漢の時代と変わることはないが、万里を出征してきた私はまだ帰れずにいる。もし、漢代の飛将軍(李広)や龍城に匈奴を打ち破った衛青のような名将がいたならば、胡の騎兵にみすみす陰山山脈を越えて侵入させることはないのに。
呉偉業 「讀史雑感」
彼も以前、「戦乱の中で」で紹介した詩人です。明から清の交代時期に生きて、常に明の滅亡を悲しんだ詩人です。
この詩は、清の抗戦して壮絶な死を遂げた朱大典を詠ったものです。朱は金華の町を清の攻撃から3ヶ月持ちこたえますが、最後は妻子を殺して、従者と共に火薬庫の中に籠もって火を放ちます。
屡檄知難下 屡々 檄するも 下し難きを知り
全軍壓婺州 全軍 婺(ぶ)州を圧す
國亡誰與守 国亡んでは 誰と与にか守らん
城壊復能修 城壊(やぶ)れては 復た能く修せんや
喋血雙渓閣 血を喋(ふ)む 双渓閣
焚家八詠楼 家を焚(や)く 八詠楼
江東子弟恨 江東の子弟の恨
伏剣涙長流 剣に伏して 涙 長流す
何度勧告しても降伏しないと分かると、清は全軍で光華の町に襲いかかる。
国が破れてしまった今、誰とここを守るのか。城壁が壊れても修理できぬ。
双渓閣では流血を踏んで戦い、八詠楼に火を放ってみんな焼死。
江東の若者たちは恨みに、剣に身を伏して涙を流して自殺する。