2002年 10月

 暑かった今年の夏も終わり、彼岸を過ぎてからは急速に涼しくなってきました。もう、大阪でも夜は寒いと感じる毎日です。
 さて、今月は竹林の七賢の第一人者、阮籍の「詠懐詩」をとりあげます。
 阮籍の生きた時代は、三国を統一した魏(曹操の子孫の国)とそれを簒奪した晋(司馬懿の子孫の国)の頃です。彼は名家に生まれましたが、権謀術数と下克上の政官界を厭い、韜晦した一生を送ります。また、数々の奇矯な言動で知られますが、これらは世間一般の偽善や虚礼に反発したもので、彼が潔癖な精神を持していたことの結果です。
 吉川幸次郎先生は、彼の残した五言詩・「詠懐詩」82首を非常に高く評価し、それまでの詩が個人の哀歓を歌ったのとは異なり、もっと視野を拡げて人間全体の問題を哲学的に取り扱った画期的なものと評しています。そして、これらは中国詩史上、もっとも格調の高いものとされています。
 私自身は、哲学性の強い詩は苦手で、むしろ個人的感情を詠んだ詩に共感することが多いのですが、「詠懐詩」全体に流れる悲哀の感情は希望のない時代の閉塞感を表しているかのようで、やはり心打たれるものがあります。

夜中不能寐  夜中 寐(い)ぬる能わず
起坐弾鳴琴  起坐 鳴琴を弾ず
薄帷鑒明月  薄帷に明月鑒(て)り
清風吹我襟  清風 我が襟を吹く
孤鴻號外野  孤鴻 外野に号(さけ)び
朔鳥鳴北林  朔鳥 北林に鳴く
徘徊将何見  徘徊して 将(はた)何をか見ん
憂思独傷心  憂思して独り心を傷ましむ


一日復一夕  一日 復た一夕          昼から夜へ
一夕復一朝  一夕 復た一朝          また夜から朝へと
顔色改平常  顔色 平常に改まり        顔色はたゆみなく変化し
精神自損消  精神 自ずと損消す        精神は消耗してゆく
胸中懐湯火  胸中 湯火を懐くに        胸中に熱湯や火のような苦悶を抱いているから
変化故相招  変化 故(か)くて相招く    このような変化を生じるのだ
万事無窮極  万事 窮極無く         世間万事、変化極まりなく
知謀苦不饒  知謀 饒かならざるに苦しむ   私の知謀はあまりに少なくて対応できない
但恐須臾間  但だ恐る 須臾の間に      ただ、あっという間に
魂気随風飄  魂気の風に随って飄るを     命を失うことを恐れる
終身履薄冰  終身 薄冰を履む        一生、薄氷を踏む思いでいきている
誰知我心焦  誰か我が心の焦るを知らん    私のこのいらいらした思いを誰が知ろうか

 
開秋兆涼気  開秋 涼気を兆し
蟋蟀鳴床帷  蟋蟀 床帷に鳴く
感物懐殷憂  物に感じては 殷(ふか)き憂を懐き
悄悄令心悲  悄悄として 心を悲しましむ
多言焉所告  多言 焉(たれ)にか告ぐ所ぞ
繁辞将訴誰  繁辞 将た誰にか訴えん
微風吹羅袂  微風 羅袂を吹き
明月耀清暉  明月 清暉を耀かす
晨鶏鳴高樹  晨鶏 高樹に鳴けば
命駕起旋帰  駕を命じて 起ちて旋り帰らん

参考図書
 阮籍の「詠懐詩」について 吉川幸次郎著 岩波文庫
 中国名詩選(上) 松枝茂夫編 岩波文庫