2003年 2月

漢詩集の略伝をざっと眺めてみると、明代の詩人に末路の悲惨な人が多いことに気づきます。高啓の腰斬をはじめ、刑死、獄死などが多く見られます。これは、恐らく明の多くの官僚の運命でもあったのでしょう。つまり官僚は危険な職業となったわけですが、儒教に縛られた知識人にとってはそれ以外の人生は考えられなかったでしょうから、これはなかなか辛い世の中だったでしょうね。明代は、庶民文化が大いに発展した時代ですが、一方、士大夫の教養の中心だった詩は低調だったといわれます。これは官僚が戦々恐々として生きた時代の結果であったかもしれませんね。
唐、宋代の詩人には刑死、獄死などはほとんどないようです。王維が安禄山の反乱に連座して危うく死刑になるところであったとか、蘇軾がもうすこしで獄死するところであったとかいう例はあるようですし、大臣級の官僚が政争で暗殺されたとか、獄死したとの例はあるようですが、この時代の官僚はよほど重大な犯罪を犯さない限り死罪とはならなかったのでしょう。日本でも、平安時代など貴族が死罪になることはなかったようですが。
そのかわり、この時代には、左遷、流罪の詩が多くあります。今月はそんな詩を集めてみました。

韓愈 「左遷至藍関示姪孫湘」  「左遷されて藍関に至り姪孫湘に示す」
韓愈はこの欄では初めての登場です。中唐を代表する詩人ですが、小生は敬遠しておりました。それは長詩が多いことと、何となく理屈っぽいと感じたからです。しかし、初めてこの詩を読んで考えが変わりました。
これは、時の皇帝が仏教を重んずるのに反対したため、皇帝の怒りをかって広東省へ流されたとき、藍田関で詠んだ詩です。
この詩は、日本でも古くから有名だったようで、太平記に引用されたり、織田信長と稲葉一鉄の故事があります。恥ずかしながら、小生は今まで知りませんでしたが。

一封朝奏九重天  一封 朝に奏す 九重の天
夕貶潮州路八千  夕に潮州に貶せらる 路八千
欲為聖明除弊事  聖明の為に弊事を除かんと欲す
肯将衰朽惜残年  肯えて衰朽をもって 残年を惜しまんや
雲横秦嶺家何在  雲は秦嶺に横たわって 家 何くにか在る
雪擁藍関馬不前  雪は藍関を擁して 馬 前(すす)まず
知汝遠来応有意  知んぬ 汝が遠く来たるは 応に意有るべし
好収吾骨瘴江辺  好し 吾が骨を瘴江の辺に収めよ

朝に上奏文を皇帝に奉ったが、その夕には八千里も離れた潮州へ流罪の身となった。
聖明な天子の為に悪弊を除こうと思ってしたことで、どうしてこの衰え果てた身で余生を惜しもうか。
雲は秦嶺山脈に横たわって、私の家はどの辺りであろうか。藍関は雪に覆われて馬を進めるのが困難である。
お前(兄の孫で、仙人になったと言われる人)がはるばる来てくれたのは、考えが有ってのことと私には分かる。それなら、私の骨を風土病の立ち籠める江の辺で取り納めてくれ。

柳宗元 「別舎弟宗一」  「舎弟宗一に別る」 
柳宗元は王叔文、劉禹錫などと宦官の弊を除かんと画策しますが、失敗して地方官として、柳州(広西壮族自治区柳州市)の刺史(知事)に任ぜられます。ここはもう少しでベトナムという辺境の地で当時は疫病が流行る未開の地だったのでしょう。宗元は此の地で善政を行ったと云われますが、47歳でこの地に没します。
この詩は、柳州まで同行していた弟が荊州(長江中流にある江陵)へ赴くときの別離の詩です。

零落残魂倍黯然  零落 残魂 倍(ますま)す黯然たり
双垂別涙越江辺  双つながら別涙垂る 越江の辺
一身去国六千里  一身 国を去る 六千里
万死投荒十二年  万死 荒に投ず 十二年
桂嶺瘴来雲似墨  桂嶺 瘴来りて 雲 墨に似て
洞庭春尽水如天  洞庭 春尽きて 水 天の如し
欲知此後相思夢  此の後を知らんと欲す 相思の夢
長在荊門郢樹烟  長く荊門郢樹の烟に在らん


うらぶれた、砕かれた魂はこの別れに当たってますます暗然となる。二人とも別離の涙がこらえ切れぬ、この柳州の江の辺。
この身は国を離れて六千里の地にあり、未開の地で死ぬような目に遭いながら十二年経った。
向こうの桂嶺の山からは禍々しい瘴気が黒雲のように下りてきているが、お前がこれから行く洞庭湖は春の終わりで、広々とした湖面は天のように青々としていることだろう。
おまえの行く末を知りたいと思う私の夢は、お前と共に行って、長く荊門山の麓、郢(江陵)の町のうす靄のかかった樹々の間にあることだろう。
(この詩は、中国語の詩集から採ったので、読み下し文、解釈に間違いがあるかもしれません。)


元稹 「聞楽天授江州司馬」   「楽天の江州司馬を授けられしを聞く」
前にも書きましたが、白居易と元稹は無二の親友でした。これは、白居易が左遷されたのを聞いて驚いて作った詩ですが、彼自身もこの時、湖北省江陵に配流の身でした。

残燈無焔影憧憧   残燈 焔無く 影憧憧
此夕聞君謫九江   此の夕べ 君が九江に謫されしを聞く
垂死病中驚坐起   垂死の病中 驚きて坐起すれば
暗風吹雨入寒窓   暗風 雨を吹いて 寒窓に入る

燃え尽きようとしている灯火は炎をあげる力もなく、ゆらゆらとまたたいている。この夕べ、君が江州に流されたことを聞いた。
瀕死の病中ではあったが、驚いて起きあがると、暗夜の風が雨をまじえて、破れ窓から吹き込んでくるのであった。

蘇軾 「澄邁駅通潮閣二首」 其二
蘇軾は海南島で三年の配流生活を送りますが、65歳になったとき徽宗が即位し、本土に帰ることを許されます。これは帰国の途上、海南島北岸で詠んだ詩です。

余生欲老海南村   余生老いんと欲す 海南村
帝遣巫陽招我魂    帝は巫陽をして 我が魂を招かしむ
杳杳天低鶻没処   杳杳たり 天低(た)れ 鶻の没する処
青山一髪是中原   青山一髪 是れ中原

この海南島の村で余生を送ることになると思っていたが、昔、天帝がみこの巫陽に命じて屈原の魂を招かせたように、新しい天子は私の魂を呼び戻された。
遠く、遙かな、ハヤブサの姿が隠れてゆく天の果て、毛一筋の青い山、ああ、あれは中原の山々だ。(海南島から中原の地が望むべくもありませんが、蘇軾の目には杭州辺りの山がまざまざと映っていたことでしょう。)

参考図書
中国詩人選集 「韓愈」 清水茂注 岩波書店
唐詩選 前野直彬注解 岩波文庫
蘇東坡詩選 小川環樹・山本義選訳 岩波文庫