2003年 7月

四月初めに沖縄に遊びに行ってきました。その時、書店で「琉球漢詩の旅」という本が目に止まりました。早速買い求めてホテルで読み始めました。詩のレベルが同時代(江戸期)の本土と比べてどうかの判断は小生の能力を越えたことですが、解説されている琉球の歴史風土は大変興味深いものでした。
このころ、琉球は薩摩藩の支配下にありますが、一方清朝にも朝貢しており、留学生を派遣していました。こうした人たちが琉球の政治文化の担い手となっていったのでしょう。

楊文鳳 「三月四日題浦添驛」 三月四日、浦添駅に題す
 17世紀中頃の琉球を代表する詩人で、中国、薩摩においても詩名が高かった。楊文鳳は琉球士族の中国向けの唐名で、琉球の名前は嘉味田親雲上兆祥というとのこと。親雲上(ペーチン)とは位階のことで、中級の士族に当たるらしい。

驛楼結在浦添村  駅楼 結びて浦添村に在り
景物蒼茫一望屯  景物 蒼茫として 一望屯(むらが)る
萬里雲鋪山錦繍  萬里 雲鋪(し)きて 山は錦繍
千層浪湧水潺湲  千層 浪湧きて 水は潺湲(せんかん)
時過上巳蘭猶秀  時は上巳を過ぎたるも 蘭猶秀(ひい)で
序属清明茗正繁  序清明に属して 茗(めい)正に繁し
莫道仙家人不到  道(い)う莫れ 仙家 人到らずと
此間應是武陵源  此の間 応(まさ)に是れ 武陵源

宿駅の建物は浦添村にあり、そこからの眺めは広々としているうちに集落が望める。
遙か遠くまで雲が連なり山々は錦の縫いとり、海は波が幾重にも重なり水がキラキラとしている。
時はもう上巳(三月三日)を過ぎたが、蘭は今も咲いており、季節は清明節となって茶の葉が青々と繁っている。
こんな仙人の住むような僻地には人の訪れも無いだろうなどと哀れんでくれることはない。この辺りはまさに武陵桃源のような仙境なのだから。


蔡温 「呉我天底道中」
 久米島には中国から帰化した士族が多く、蔡氏もその一つです。18世紀初頭に琉球王朝の宰相として王朝を全盛期に導いた政治家だったようです。特に民政に優れた手腕を発揮したとのことです。
 呉我(ごが)、天底(あめそこ)は名護市の山中に今も残っている地名です。

林樹冥濛隠碧天  林樹 冥濛として 碧天を隠し
穿行忽睹数家煙  穿ちて行けば 忽ち睹(み)る 数家の煙
藤蘿拂袖露常湿  藤蘿 袖を払いて 露常に湿おい
石徑横雲馬不前  石径 雲を横えて 馬前(すす)まず
山遠時添游客恨  山遠く 時に添う 游客の恨
潭深疑有毒龍眠  潭深く 疑う有り 毒龍の眠れるかと
何年此地開幽境  何れの年か 此の地に幽境を開き
断絶風塵學散仙  風塵を断絶して 散仙に学ばん

阮超叙 「送人之官外島」 人の官として外島に之(ゆ)くを送る
 中国の徐世昌が編集した清詩のアンソロジーに朝鮮、安南などの詩人と共に琉球の詩人も九人採られています。これはその中の一つとのことです。
 沖縄本島から八重山諸島などの外島へ赴任する友人を送ったときのものでしょう。

六月南風欲送君  六月 南風 君を送らんと欲す
臨岐人語那堪聞  岐に臨みて 人語 那んぞ聞くに堪えん
扁舟明日千餘里  扁舟 明日 千余里
回首中山只白雲  回首するも 中山 只白雲

中山:沖縄本島


程順則 「東海朝曦」

 程順則は本名、名護親方寵文。親方(ウェーカタ)は上級の士族の位のこと。先に挙げた蔡温とほぼ同時代の人で、その高い人格から名護聖人と呼ばれて人々の尊敬を集めた。

宿霧新開敞海東  宿霧 新たに開けば 海東敞(ひろ)し
扶桑萬里渺飛鴻  扶桑 万里 飛鴻渺(はる)かなり
打魚小艇初移掉  打魚の小艇 初めて掉を移せば
揺得波光幾點紅  波光を揺らし得て 幾点か紅なり

昨夜から立ち籠めていた霧が晴れると海は広々として、果てしない大海原遙かに大きな鳥が飛んでゆく。
漁をしていた小舟が場所を変えようと棹を動かすと、波がゆらゆらと揺れて、朝日にキラキラと輝く。

参考図書
琉球漢詩の旅 上里賢一選・訳 琉球新報社

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