2004年8月

 王安石といえば、北宋時代に政権を執って新法の施行を推進したことで有名な人物ですが、そのやり方が性急すぎて結局失敗に終わったこと、司馬光、蘇軾など旧法党の官僚と激しい対立を招いたことで、後の世の儒学者からは評判の悪い政治家ですが、近年はその改革者としての姿勢が評価されているようです。
 しかし、その政治家としての評判の悪い時代においても、彼の文学者としての業績は燦然たるもので、それを貶める者はありませんでした。また、彼が南京に引退した後、当時流刑の身であった蘇軾が訪ね、共に文学や仏教の話で意気投合たことは有名な話です。
 彼の詩は幅が広く、とくに引退後の自然を詠んだ詩は素晴らしいものですが、今月はもっと若いときの社会状況を詠った詩をご紹介したいと思います。こういう感情の中から彼の改革者としての思想が生まれてきたのでしょう。

郊行

柔桑採尽緑陰稀  柔桑 採り尽くして 緑陰稀なり
蘆箔蚕成密繭肥  蘆箔に蚕成って 密繭肥ゆ
聊向村家問風俗  聊(いささ)か村家に向って 風俗を問う
如何勤苦尚凶飢  如何(いかん)なれば 勤苦するも尚凶飢するかと

柔らかな桑の葉が取り尽くされて、緑の木陰は疎らとなった。芦で作った蚕棚に蚕がぎっしりと太った繭をつけている。
ちょっと、田舎家で土地の風俗を聞いてみた。どうしてこんなに頑張って働いているのに、ろくに食べることが出来ないんだと。

河北民

河北民      河北の民
生近二辺長苦辛  生れては二辺に近く 長く苦辛す
家家養子学耕織  家家 子を養いて 耕織を学ばしめ
輸与官家事夷狄  官家に輸(おく)り与えて 夷狄に事(つか)えしむ
今年大旱千里赤  今年 大旱にして 千里赤く
州県仍催給河役  州県 仍(なお)河役に給せんことを催がす
老小相携来就南  老小相携えて 来りて南に就く
南人豊年自無食  南人 豊年なれど 自ずから食無く
悲愁白日天地昏  悲愁すれば 白日に天地昏(くら)く
路傍過者無顔色  路傍を過る者 顔色無し
汝生不及貞観中  汝の生るること及ばす 貞観中の
斗粟数銭無兵戎  斗の粟 数銭にして 兵戎無かりしに

河北の人民。遼と西夏の国境に近く、長い間苦しみが絶えない。
どの家でも貰い子して育てて耕作や機織りを学ばせる(奴婢として)。その製品を上納して、これが夷狄に送られるので、結果として異国に仕えることとなるのだ。
今年はひでりで千里四方は赤はだか。それでも役所は黄河の引き船の苦役にかり出す。
老いも若きも手を取り合って南へ逃げ出してきたが、南の人も豊作なのに自分の食べ物はない。
悲しみのため昼間でも天地は暗く、道を行くものは血の気がない。
お前達は気の毒なことに生まれあわせることができなかった。あの貞観(唐の太宗時代)の、一斗の米が数銭で、戦争のなかった御代に。


商鞅

自古駆民在信誠  古より民を駆るは信誠に在り
一言為重百金軽  一言を重しと為し 百金軽し
今人未可非商鞅  今人 未だ商鞅を非(そし)るべからす
商鞅能令政必行  商鞅は能く政(まつりごと)をして必ず行なわれしめたり

昔から、人民を駆使するには信義と誠意を示すことだ。一言を重んじて、金銭を軽んずるのだ。
今の人々は、商鞅を誹謗してはいけない。彼はきめたことを必ず実行することが出来た。
* 商鞅:戦国時代の法家。秦の孝公の宰相として法治政治を行い、秦を富強にするのに功があったが、孝公が死ぬと誅殺された。法家は徳治主義の儒家とは敵対する思想で、後の世の儒学者からは大層評判の悪い人物。儒教全盛時代にあえて商鞅を弁護する詩を作るのは勇気のいることで、彼の新法には商鞅の思想に近いものがあったのかもしれません。


参考図書
王安石 中国詩人選集二集4 清水茂注 岩波書店
宋詩選注1 銭鍾書著 東洋文庫 平凡社


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