2005年6月

 

 室町時代前期で文学史上に名前の残っているのは、能の世阿弥と五山文学の絶海中津だといっている人がいます。

絶海中津(1336-1405)は土佐の山中、高岡郡東津野村(彼の先輩で彼と共に五山文学の双璧とされる義堂周信も同郷)に生まれ、上京して夢窓疎石に侍し、その高弟・春屋妙葩の指導を受け、文芸の能力を高めた。33歳で明に留学し江南各地をめぐり、禅の修業のみならず詩文の上でも当時の知識人と同格の交流を行っている。その名声は都(南京)にも伝わり、明の太祖にも謁見し、詩を奉っている。40歳で帰国、足利義満の信頼厚く、相国寺住持として、その人柄の温厚さと幅広い教養により多くの弟子を育てた。

 当時、五山の禅僧は将軍の政治顧問的役割を果しており、彼なども特に義満の対明外交にとっては欠くべからざる人材だったと思われます。一時、義満の不興を蒙って地方に隠棲したりしていますので、権力におもねることなく信念に従って行動する人だったのでしょう。

 しかし、政治活動にしろ、文学活動にしろ、禅僧にとっては本来の仕事ではないはずで、そこで名声を残していることに彼自身がどういう感懐を持つかはちょっと興味があります。

 今月は、絶海中津の詩文集「蕉堅藁(しょうけんこう)」から、七言絶句を四首紹介します。禅の知識がないと禅僧の詩は解釈が難しく、私にはほとんど歯が立たないのですが、その中でも比較的平易なものを選んでみました。

 

永青山廃寺

 

永青山裏古禅林  永青山裏の古禅林

満目蕭条枳棘深  満目蕭条として枳棘(ききょく)深し

不識何人行道記  識らず何人の行道の記かを

蛟竜欠落臥花陰  蛟竜 欠落して 花陰に臥す

 

永青山中の古い禅寺の跡、目に映るもの全て物寂しく枳殻やいばらのとげに覆われている。

字が読み取れず、誰とも知れない僧の事跡を記した石碑が立っているが、その上部を飾っていた竜は欠け落ちて花陰に臥している。

※永青山:杭州西湖畔の寺か?

 

後醍醐廟看梅 廟在亀山多宝院  (後醍醐の廟に梅を看る 廟は亀山多宝院に在り)

 足利義満は後醍醐天皇の菩提を弔うため、天竜寺を創建し遺体を吉野からここに改葬します。江戸時代には吉野で南朝を詠った詩は沢山ありますが、これは事件からさほど離れていない時期に詠まれた詩である。天竜寺創建時、彼は3、4歳か?

 

乗輿南狩不時回  乗輿南狩して時ならずして回(かえ)る

遺廟西山雲一隈  遺廟は西山雲の一隈

昔日何人調鼎手  昔日何人の調鼎の手ぞ

老禅掃雪独看梅  老禅 雪を掃いて 独り梅を看る

 

天皇の乗った輿は南方へと行幸されたが、まもなくお帰りになった。その遺廟は京の西山、雲につつまれた一隅にある。

その昔、誰が南北朝の難問をうまく調停したのだろうか。いま老禅僧が独り雪を掃ってこうやって梅を見にやって来ている。

 

 

銭原和清渓和尚韻  (銭原にて清渓和尚の韻に和す)

 義満の不興を蒙って、一時大阪府茨木市の山中、銭原の地に隠棲します。現在もここに彼が隠棲していた庵跡が残っています。清渓通徹は同門の大先輩。銭原のすぐ近くに清渓の地名があります。何か関係があるのかな?

 

世事従来多変態  世事 従来 変態多し

当初早悟有如今  当初 早(つと)に如今有ることを悟る

青山高臥茅簷下  青山に高臥す 茅簷(ぼうえん)の下

不許白雲知此心  許さず 白雲の此心を知るを

 

世の中のことは何がどうなるか判らないのは当たり前。以前よりこういう境涯にいたることは予想していた。

青山の茅葺の粗末な庵の軒の下でゆっくりと横になり、時折訪れる白雲(友人?)にもこの心中は明かさないのだ。

 

懐旧

 

蚤歳尋師天一涯  蚤歳 師を天の一涯に尋ね

山中江上総為家  山中 江上 総て家と為す

白頭授簡華堂下  白頭 簡を華堂の下に授くるも

蘿月松風入夢賖  蘿月 松風 夢に入りて賖(はる)かなり

 

早年より師を求めて中国に留学し、山中や江上、あらゆるところに寝泊りした。

今は白髪頭となって晴れがましい場所で講義なんぞやっているが、夢の中では当時見たつたかずらの間の月、松風の音が出てきて、遥かに思い起こされるのだ。

 

参考図書

 新日本文学大系 五山文学集 入矢義高校注 岩波書店

 

 

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