2005年8月

 

河上肇といえばマルクス主義経済学者として活躍し、「貧乏物語」などの一般向けの著作でも有名な学者です。また歌人、詩人としても知られています。

 戦前のマル経ですから当然迫害を受け、治安維持法に引っかかって昭和8年、55歳のときから昭和12年まで獄中にありました。獄中では当然読書の制限がありますから、この間、漢詩集を読破しました。特に陸游に傾倒して、彼の全詩を読んだといわれます。陸游の全詩というと二万首を超えますからこれは半端ではありません。これが戦後、「陸放翁鑑賞」という素人ばなれした著書をうむことになります。最近、復刻されて書店で見かけますが、ちょっと高価なのと、読みきる自信がないのでまだ手に入れておりません。

 明治生まれの人なので、もともと我々に比べて漢文の素養は格段に深かったと思いますが、獄中から漢詩を作り始めます。出獄後も戦前は執筆の自由はありませんから、作詩に熱中していったようです。彼の詩は吉川幸次郎からも高い評価を受けるほどのレベルにまで達します。

 60歳まえから漢詩を作り始めたことを知って、小生と似ているではないかと興味をもったのですが、一読して、詩の腕前よりもなにより彼の詩の中に現れた人間の深みというか、前半生の凄さに圧倒されました。詩は平明で解説無しで理解できるのですが、その感懐の深さというか、よって立つ場所が違うというか、平凡な人生を送ってきた我々には足元にも近寄れないものを感じました。

 

無題

年少夙欽慕松陰  年少 夙(つと)に松陰を欽慕し

後学馬克斯禮忍  後に馬克斯(マルクス)・禮忍(レーニン)を学ぶ

読書万巻竟何事  読書万巻 竟に何事ぞ

老来徒為獄裏人  老来 徒らに獄裏の人と為る

 

松陰:吉田松陰、河上肇は山口県の出身

 

55歳獄中の作。きわめて初期の作品です。一海知義先生によるとリズム、平仄にまだ難があるとのことです。「詩」というよりも「志」というべきでしょうか。

 

甲辰元旦

六十二翁自在身  六十二翁 自在の身

夢描妙境楽清貧  夢は妙境を描きて清貧を楽む

幽蘭獨吐深山曲  幽蘭独り吐く 深山の曲

残月斜懸野水濱  残月斜めに懸る 野水の浜

 

これも起句、孤平の禁則を犯しているようですが、そんなことは気にせず河上先生の感懐を味わいたいものです。

 

 

夏涼

臥月吟詩草屋隈  月に臥し 詩を吟ず 草屋の隈

北窗南牖向風開  北窗南牖 風に向って開く

清風明月何無主  清風明月 何ぞ主無からんや

嘗賭一身贏得来  嘗て一身を賭して贏(か)ち得来る

 

北窗南牖:北の窓も南の窓も

 

昭和17年6月、64歳の作品。

眼前の清風明月は自分が命を賭けて勝ち取ったものだと言い切れるのは凄いですね。

 

 

早醒

人間第一自由身  人間(じんかん) 第一 自由の身

亦是早醒第一人  亦是 早醒 第一の人

吹竈四更炊薄粥  竈を吹いて 四更 薄粥を炊き

聴蟲灯下度清辰  虫を聴いて 灯下 清辰を度る

 

清辰:清晨

 

昭和19年、66歳の作品。

 

参考図書

 河上肇詩注 一海知義著 岩波新書



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