2005年12月
2005年もついに12月となりました。漢詩通信も来年には8年目に入ろうとしています。小生の持ちネタはとっくに尽き果てているのですが、何とか漢詩集を種に続けておりますが、果たして何人の読者が居られることか。自己満足に過ぎないのかもしれませんが、自分の勉強を兼ねてもう少し頑張ってみようかと考えております。
さて、今月は「冬至」と題して、漢詩歳時記より採って来ました。この日は一陽来復で陰気の極まった時から再び陽気の萌す時として、暦の上では重要な一日とのことです。
杜甫 「冬至」
今まで何度も紹介しました長江三峡の白帝城下の奉節の町に杜甫が滞在しているときに作った詩です。毎度のことながら漂泊の愁いを切々と詠っています。
年年至日長爲客 年年 至日 長(つね)に客と爲り
忽忽窮愁泥殺人 忽忽として窮愁 人を泥殺す
江上形容我獨老 江上の形容 我独り老い
天涯風俗自相親 天涯の風俗 自ら相親しむ
杖藜雪後臨丹壑 藜(あかざ)を杖(つ)いて 雪後 丹壑に臨み
鳴玉朝来散紫宸 玉を鳴らして 朝来 紫宸より散ぜん
心折此時無一寸 心は折(くだ)けて 此の時 一寸も無し
路迷何處是三秦 路は迷う 何れの処か是れ三秦なる
年々冬至の時節には旅人暮らし、困窮を憂愁がわが身にまとわりついて、心は呆けんばかり。
長江のほとりで私の顔かたちはすっかり老い込み、天の果てのこの地の風俗にもいつしか慣れ親しむようになった。
アカザの杖をついて、雪の晴れたあと、わが身は赤土の谷間を見下ろしているが、今頃長安では、冬至の参賀に出席した官僚たちが紫宸殿から退出している頃だろう。
それを思うと、私の心は粉々に砕けてしまった。都のある三秦はどの辺りだろうか、それさえ覚束ないこの身である。
白居易 「邯鄲冬至夜思家」 (邯鄲の冬至の夜 家を思う)
二十代後半、進士及第以前の作である。膝を抱いて一人ぼっちで宿に泊まっているのはまだ出世していない時代だからでしょう。
邯鄲驛裏逢冬至 邯鄲駅裏 冬至に逢う
抱膝燈前影伴身 膝を抱いて 燈前 影は身に伴う
想得家中夜深坐 想い得たり 家中 夜深くして坐し
還應説著遠行人 還た応に 遠行の人を説著すべきを
旅の途中、邯鄲の宿場で冬至を迎えた。膝を抱えて灯火の前に坐ると、影だけが私に寄り添ってくれる。
思い浮かぶのは、今頃、家ではまだ眠りもせず、今また遠くに旅している私のことを話し続けているのが。
范成大 「冬日田園雑興」
既に紹介した四時田園雑興の最後の詩です。江南地方では冬至を祝うのが重要な行事らしく、この詩も村の情の濃い様を詠っています。
村巷冬年見俗情 村巷 冬年 俗情を見る
隣翁講禮拝柴荊 隣翁 礼を講じて 柴荊を拝す
長衫布縷如霜雪 長衫の布縷 霜雪の如し
云是家機自織成 云う 是れ家機もて自ら織り成すと
村里は冬になると付き合いの情の細やかさがよく見られる。隣の爺さんが冬至の挨拶廻りに来て、門の辺りで礼をする。
上着にどうぞと差し出された布地は雪や霜のように真っ白。「これは我が家の機で織ったものです」と言う。
参考図書
漢詩歳時記 冬 黒川洋一他編 同朋舎