2006年2月
月ヶ瀬は桜の吉野と並び称せられた梅の名所ですが、その歴史はそれほど古くはありません。この地はもともと紅花染めの培染剤である烏梅を生産るための梅林でした。それが観光のための梅花の名所として世に喧伝されるのに最も力を尽くしたのは伊勢津藩の儒者、斉藤拙堂でした。彼は文政十三年(1830)、仲間の文人たちとこの地を訪れ大変感激して、「梅渓遊記」という紀行文を著します。これ以来、頼山陽をはじめ多くの文人墨客が訪れます。後に「梅渓遊記」をはじめ、この地を訪れた詩人の詩を集めた「月瀬記勝」が発刊されると、これがベストセラーとなり月ヶ瀬の名は日本中に広まります。これは江戸時代後期には漢詩文が一般庶民にまでよく読まれたことを示しているのでしょう。
頼山陽 「月瀬梅花勝耳之久、今茲糾諸友往観、得六絶句 内二首」
両山相蹙一渓明 両山 相蹙(せま)りて 一渓明らかなり
路断遊人呼渡行 路断えて 遊人 渡を呼んで行く
水與梅花争隙地 水と梅花と隙地を争い
倒涵萬玉影斜横 倒(さかさま)に萬玉を涵(ひた)して 影斜横
両側の山が迫ってくる間に美しい渓谷が流れている。そこで路は切れていて、渡し舟を呼んで進む。
この狭いところに梅の花と渓流が場所を争っており、水面に玉のような花をさかさまに映して、その影が斜めや横に咲き乱れている。
帯将清気欲帰家 清気を帯び将って 家に帰らんと欲す
在眼渓山玉絶瑕 眼に在る渓山 玉は瑕を絶す
非観和州香世界 和州の香世界を観るに非ずんば
人生何可説梅花 人生 何ぞ 梅花を説く可けんや
梅の清らかな空気を体につけて家に帰ろうとしている。眼中に残る景色は、まったく傷のない玉のようである。
この大和の国の香に満ちた世界を見ずして、どうして梅の花を説くことが出来ようか。
中島棕隠 「癸卯二月、與坂上九山織田復斎、遊月瀬、観梅花」
一渓香霧蘸潺湲 一渓の香霧 潺湲(せんかん)を蘸(ひた)す
似爲佳人護玉顔 佳人の為に玉顔を護るに似たり
半夜月来筵不盡 半夜 月来りて 筵尽きず
楳花影在有無間 梅花の影は 有無の間に在り
渓谷の間で香り高い霧のような花影が流れに浸っている。正に佳人が顔に化粧を施したようである。
夜更けて月が昇ってきたが、宴は尽きない。梅の花影は月明かりの中で有るか無きかのように匂っている。
篠崎小竹 「題三学院壁」
大阪の儒者、詩人。頼山陽と親交があった。彼が月ヶ瀬を訪れたのは天保八年(1837)ですが、このときは既に観光地につきものの俗化が始まっていたようですね。
近水十村梅作田 水に近き十村 梅 田を作す
春花霰如卜豊年 春花 霰(あられ)の豊年を卜するが如し
莫使都人謾來賞 都人をして謾(みだり)に来り賞せしむる莫れ
恐傷淳朴好山川 淳朴の好山川を傷つけんことを恐る
ここ名張川の川沿いの十村は梅を作って生計を立てている。春の梅花はちょうど豊年の予兆である霰のように一面に咲き誇っている。
やたらと宣伝して都人を呼び寄せるまい。この純朴な風景が傷つくことを恐れる。
参考文献