2008年01月
元旦はいわずもがな一月は行事が多いのですが、五節句の一つの人日(一月七日)や上元(一月十五日)などがあります。人日は元日から八日に至る日々をそれぞれ鶏、狗(いぬ)、猪(ぶた)、羊、牛、馬、人、穀の日としてその日の天候で一年の吉凶を占った古代の行事に由来しているそうです。また上元は上元、中元、下元の一つとして祝われ、特に上元の夜は元宵と呼ばれて町は賑わったようです。私は元宵の賑わいを水滸伝を読んで知りました。
市河寛斎 「壬申元旦作」
寛斎63歳の元旦です。市河寛斎については先月紹介しました。
衰翁自廢賀新春 衰翁 自ら廃す 新春を賀するを
暁拉孫児賽土神 暁に孫児を拉(ひ)きて 土神に賽す
拝首非關求福禄 拝首するは 福禄を求むるに関するに非ず
要渠又作讀書人 渠(かれ)が又読書の人と作るを要(ねが)う
老いぼれ爺さんとなってはもう新年の挨拶まわりは止めてしまい、早朝には孫を連れて産土神にお参りに出かける。
参拝してお祈りするのは、幸運やお金のはいることを願いはしない。ただこの孫が私や父親と同様に読書人となることだけだ。
高適 「人日寄杜二拾遺」 (人日 杜二拾遺に寄す)
盛唐の詩人。豪放な性格で仕官を望まず若い頃は博徒の仲間に交わって諸国を放浪した。49歳になって初めて官につき、後に高位に至った。詩を作り始めたのも遅く50歳になってからといわれる。杜二拾遺とは杜甫のことで、このとき高適は蜀州刺史として成都の西40キロほどの所に在任しており、杜甫は成都の浣花草堂に寓居の身であった。
高適は李白と同年代で杜甫より10歳以上年長である。若い頃この三人は一緒に放浪の旅をしたことがあり、それが高適にこの詩を書かせたのであろう。
人日題詩寄草堂 人日 詩を題して 草堂に寄す
遙憐故人思故郷 遙かに憐れむ 故人の故郷を思うを
柳條弄色不忍見 柳條 色を弄して見るに忍びず
梅花満枝空断腸 梅花 枝に満ちて空しく断腸
身在南藩無所預 身は南藩に在りて 預かる所無く
心懐百憂復千慮 心に懐う 百憂 復た千慮
今年人日空相憶 今年 人日 空しく相い憶う
明年人日知何處 明年 人日 知るや 何れの処ぞ
一臥東山三十春 一たび東山に臥して 三十春
豈知書剣老風塵 豈に知らんや 書剣もて風塵に老いんとは
龍鍾還忝二千石 龍鍾 還た忝けなくす 二千石
愧爾東西南北人 愧ず 爾(なんじ) 東西南北の人に
人日という人の運命を占うこの日に詩を作って浣花草堂に寓居する君に贈ろう。古い友が故郷を思っているだろうと云うことが遙かに離れたこの地からもしみじみ思いやられる。
柳の枝が緑に芽吹いても君はそれを見るに忍びないだろうし、梅花が枝に満開でも断腸の思いでそれを眺めているのだろう。
私の身は地方官としてこの南の僻地にあって、中央の政治に関与することはなく、心には心配事が数え切れないほどある。
今年の人日お互いに空しく思い合うが、明年の人日には二人とも何処にいることか。
思えば若い頃は、東晋の謝安のように気ままに三十年の春秋を過ごした。それが思いもかけず官務(書)や軍務(剣)を事として世俗の中に老い果てることとなった。
龍鍾たる老残の身でありながらまた地方長官に任官することとなり、却って無官で東西南北を自由に動き回れる君に対して恥ずかしく思う。
蘇軾 「上元侍宴楼上示同列」 (上元、楼上に侍宴して、同列に示す)
蘇軾57,8歳、礼部尚書として政権の中枢にあったころの詩。
薄雪初消野未耕 薄雪 初めて消えて 野は未だ耕(たがや)さず
賣薪買酒看升平 薪を売り酒を買いて 升平を看る
吾君勤倹倡優拙 吾が君は勤倹にして 倡優拙きも
自是豐年有笑声 自ら是れ豊年にして 笑声有り
薄く残っていた雪が消えたばかりで野良仕事はまだ始まっていない。農民は薪を売って酒を買い込み太平の世の都見物。
輪が君(哲宗)は倹約を旨とされるため、お抱えの俳優の演技は拙いが、それはそれとして去年は豊作、自ずと笑い声が上がる。
参考図書
日本漢詩人選集9 市河寛斎 蔡毅・西岡淳著 研文出版
漢詩歳時記 春の二 黒川洋一他編 同朋舎
中国名詩集 松浦友久著 朝日文庫