2008年11月
母を詠う
本年7月、母を喪いました。享年87歳で何時かはこの日がくるとは覚悟していたのですが、やはり辛いものです。
孟郊 「遊子吟」
中唐の詩人。五十歳で進士に及第するが、生涯不遇であった。韓愈と親しく、また賈島と並ぶ苦吟の人であった。
この詩は母の慈愛を詠って、絶唱と称される。
慈母手中線 慈母 手中の線
遊子身上衣 遊子 身上の衣
臨行密密縫 行くに臨みて 密密に縫う
意恐遅遅帰 意(こころ)に恐る 遅遅として帰らんことを
誰言寸草心 誰か言う 寸草の心の
報得三春暉 三春の暉に報じ得んとは
やさしいお母さんの手の中の糸は、旅に出かける息子の衣服のため。
出発に臨んで一針一針細かに縫う。心ではこの子の帰りが遅くなるのではと心配する。
誰が言えよう、一寸ほどに萌え出た草のような子が春の暖かい光のような母の優しさに報いることが出来ると。
菅茶山 「先妣十七回忌祭。従郷例行香。涙余賦此。」
(先妣の十七回忌の祭。郷例に従って香を行い。涙余 此を賦す。)
旧夢茫茫十七春 旧夢 茫茫 十七春
梅花細雨復芳辰 梅花 細雨 復た芳辰
墳前稽顙頭全白 墳前に稽顙(けいそう)すれば 頭 全く白し
曽是懐中索乳人 曽て是 懐中に乳を索りし人
お母さんが亡くなって十七年目の春、往時は茫茫として夢のようだ。梅花、細雨の芳しい春がまたやってきた。
墓の前で額を地に着けて礼拝する頭はもう真っ白になっている。曾てはお母さんの胸の中に手をやって乳を探っていたのだが。
頼山陽 「送母、路上短歌」
山陽は母梅颸(ばいし)を何度か広島から京に連れてきています。そのうち文政七年には帰りに神辺の菅茶山の所に立ち寄りましたが、そのときの茶山の詩は2000.1に紹介しています。この詩は文政十二年三月に母を京に迎え、十月末に広島まで送って帰ったときの詩です。
東風迎母来 東風に母を迎えて来
北風送母還 北風に母を送りて還る
来時芳菲路 来る時 芳菲(ほうひ)の路
忽為霜雪寒 忽ち霜雪の寒と為る
聞鶏即裹足 鶏を聞きて即ち足を裹(つつ)み
侍輿足槃跚 輿に侍して 足 槃跚(はんさん)たり
不言児足疲 言わず 児の足の疲るるを
唯計母輿安 唯だ計る 母の輿の安きを
献母一杯児亦飲 母に一杯を献じて児も亦た飲む
初陽満店霜已乾 初陽 店に満ちて 霜已に乾く
五十児有七十母 五十の児に七十の母有り
此福人間得応難 此の福 人間 得ること応に難かるべし
南去北来人如織 南去北来 人 織るが如きも
誰人如我児母歓 誰人か 我が児母の歓に如(し)かんや
春風とともに母を迎えて京に来、北風とともに母を送って広島へ帰る。
来るときは美しい草花の咲く路だったが、今はもう霜や雪の積もる寒い路。
朝、鶏の声を聞いて出発の足拵えをし、籠の横を歩いて足がふらつく。
しかし、足の疲れたのは言わないで、ただ母の籠が安らかなようにと気を配る。
まずお母さんに一杯酒を差し上げて、それから私も飲む。その頃になって、太陽が昇り店に日が射し、霜も乾いてくる。
この私が五十で母が七十。こんな幸せは世の中で得ることは難しい。
街道には行き来の人が一杯だが、その中で私たち親子の喜びにまさる人がいるだろうか。
参考図書
漢詩名句辞典 鎌田正・米山寅太郎著 大修館書店
日本百人一詩 土屋竹雨著 砂子屋書房
頼山陽詩抄 頼成一・伊藤吉三訳注 岩波文庫平安朝詩人の秋