蘇軾 和陶詩
他人の詩に応答するため、その詩に使われている韻字を用いて作詩することを和韻といいます。韻字をそのまま写す次韻、順番にはこだわらずに使う用韻、同じ韻目の字を用いる依韻があります。社交のため詩の贈答が盛んに行われるようになった宋代に流行したようです。しかし、詩の発想に制限が加わるため、名作が生まれにくいとして和韻を忌む意見もありました。
蘇軾はとりわけ和韻が好きだったようで、現存の詩の3割は和韻(特に次韻)の詩と云われています。それは蘇軾の交際の広さにもよるのでしょうが、ここで挙げるように何百年も昔の陶淵明の詩に和韻するとか、以前自分が作った詩に和韻するとか和韻の詩を作ることに異常な情熱を持っていたとしか考えられません。
しかし、さすが蘇軾と云いましょうか、彼の場合和韻の詩にも名作が多いのですよね。以前紹介した「和子由黽池懐舊」(2001.09)、「十二月二十八日蒙恩責受検校水部員外郎黄州団練副使復用前韻二首」(2001.12)、「和子由踏青」(2003.09)などは皆次韻の詩であり、彼の傑作と見なされている詩です。
蘇軾は陶淵明に傾倒していたようで、彼の詩のほとんどすべてに次韻しています。今月はその一つを陶淵明の詩と比較しながら見てみたいと思います。
飲酒 其一
陶淵明
衰栄無定在 衰栄は定在すること無く
彼此更共之 彼れと此れと更(こもごも)之を共にす
邵生瓜田中 邵生 瓜田の中
寧似東陵時 寧(な)んぞ 東陵の時に似んや
寒暑有代謝 寒暑 代謝有り
人道毎如茲 人道も毎に茲くの如し
達人解其会 達人は其の会を解し
逝将不復疑 逝(ゆくゆく)将(まさ)に復た疑わざらんとす
忽与一樽酒 忽ち一樽の酒と与に
日夕歓相持 日夕 歓びて相持せん
人の栄枯盛衰には定まったものがあるわけではなく、互いに結びついている。
秦代の召平を見るがいい。庶人となって畑の中で瓜作りに励んでいる姿は、かつての栄華を極めた東陵侯の時とは大違い。
暑さ寒さに移り変わりがあるように、人の道も同じこと。
達人はその機微を理解しているから、めぐり会った機会を疑うようなことはしない。
思いがけずありついたこの樽酒を、夕方にもなれば喜んで酌み交わそう。
蘇軾
我不如陶生 我 陶生に如かず
世事纏綿之 世事 之を纏綿す
云何得一適 云何(いか)にして 一適を得ることの
亦有如生時 亦た 生の如き時の有らん
寸田無荊棘 寸田 荊棘 無し
佳処正在茲 佳処 正に茲(ここ)に在り
縦心与事往 心を縦(ほしいまま)にして 事と与に往かしむ
所遇無復疑 遇う所 復た疑うこと無けん
偶得酒中趣 偶(たまた)ま 酒中の趣を得たり
空杯亦常持 空杯 亦た常に持す
私は陶淵明先生には遠く及ばない。世の中の雑事がしつこく身にまとわりついているからである。
いったいどうしたら長閑な心境になって、先生のようになれるときが来るのだろうか。
心の中の一寸四方の田圃からイバラが消えてしまったとき、その時こそ素晴らしい所となる。
心を解き放って世の中の事物とともに自由に生きてゆこう。そして、めぐり会うことをためらいなく受け止めてゆこう。
酒の中の楽しみに出会うことはたまたまにしかないが、それを受ける空の杯はいつも持っている。
参考文献
陶淵明全集 村松茂夫・和田武司訳注 岩波文庫
中国詩人選集二集 蘇軾 小川環樹注 岩波書店