2015年07月

烏台詩案
 北宋、蘇軾の活躍した時代は新法党と旧法党の政争が激しく、蘇軾は詩でもって新法を誹謗したとして、御史台(当時の検察庁)に逮捕される。いわゆる烏台詩案である。烏台詩案はその裁判記録が残されており、その中で蘇軾自身が問題とされた詩が新法を諷刺したものであったことを認めている。
 以下の詩は、そのうちの二つである。

山村五絶 其四

杖藜裹飯去怱怱  藜を杖つき 飯を裹(つつ)みて 去ること怱怱たり
過眼青銭転手空  眼を過ぐる青銭 手を転ずれば空し
贏得児童語音好  贏(か)ち得たり 児童の語音好きを
一年強半在城中  一年の強半は城中に在り


杖をついて弁当を包んであわてて出かけたが、やっと手に入れた銭は目の前を過ぎるだけであっという間に他人の手に渡ってしまった。
せめて得られたのは、子供のしゃべり方が町の風に染まったこと。なにせ一年の半分以上は町で暮らしているのだから。
この詩は新法の青苗法の批判をしている。青苗法は政府が比較的低利で春に農民に資金を貸し付け、秋の収穫期に返金させるものであったが、手続きが煩雑で農民はたびたび役所に出かける必要があった。

劉貢父見余歌詞數首以詩見戲聊次其韻
 (劉貢父 余の歌詞數首を見て 詩を以て戲れらる 聊か其韻に次す)
 この詩は煕寧九年(1076)密州知事の任期を終え河中府へ転勤の途上、劉攽(貢父)(当時、曹州知事)との間に交わされたもの。この時、蘇軾は都に立ち寄ろうとするも許されず、河中府への転勤も取り消され、徐州知事を命じられた。この時期は既に蘇軾の属する旧法党への圧迫が厳しくなり、蘇軾も言動に神経質になっていたと思われる。

十載漂然未可期  十載 漂然として 未だ期す可からず,
那堪重作看花詩  那ぞ堪えんや 重ねて看花の詩を作るに。
門前惡語誰傳去  門前の惡語 誰か伝え去る,
醉後狂歌自不知  醉後の狂歌 自ら知らず。
刺舌君今猶未戒  舌を刺して 君は今猶未だ戒めず,
灸眉我亦更何辭  眉に灸さるる 我も亦更に何をか辞せんや。
相從痛飲無餘事  相從いて痛飲すれば余事無からん,
正是春容最好時  正に是 春容 最も好き時なり。


十年もの間、各地を転々としたが、都に帰ることは期待できないし、劉禹錫のように繰り返し花見の詩を作ることは出来ない。
我が家の前でこっそりと発した悪口を誰が広めたのだろう。酔ったあげくのでたらめな詩など覚えてもいないのにいつの間にか世に知られている。
隋の賀若弼は父から口を慎むようにと舌を針で刺されたというが、君はいっこうに口を慎まないし、晋の郭舒は上司の批判を行って眉に灸をすえられたというが、私ももしそうなったら甘んじて堪え忍ぼう。
一緒に痛飲することが出来たら他には何もいらない。今は正に春たけなわの時なのだから。
 
*劉禹錫は政争に敗れて地方へ左遷されるが、赦されて都に戻る。その時、都の道教寺院の桃の花を詠んだ詩を作るが、その詩が時の権力者を誹謗したものだとされ、再び地方へ流される。その後、再び都へ帰りこの桃の花を見て昔を偲ぶ詩を作った。

烏台で取り調べを受けたとき、蘇軾はこの詩に関して、時の権力者が狂直の言(世におもねらず、率直な言葉)を許容しないことをそしったものと自白している。
しかし、蘇軾は言論圧迫下においても決してめげずに詩を作っていますね。そのことは以前紹介した出獄時の詩(2001.12)でもいえます。

蘇軾の詩は、典故が一杯入っているのでなかなか解釈が骨です。

この詩に関しては、大阪大学の浅見洋二教授の講義を参考資料としています。

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