2015年12月

柳宗元 「登柳州城楼寄漳汀封連四州」
    (柳州の城楼に登り、漳・汀・封・連の四州に寄す)

城上高楼接大荒  城上の高楼 大荒に接し
海天愁思正茫茫  海天 愁思 正に茫茫
驚風乱颭芙蓉水  驚風 乱れ颭(うご)かす 芙蓉の水
密雨斜侵薜茘牆  密雨 斜に侵す 薜茘(へいれい)の牆(かき)
嶺樹重遮千里目  嶺樹 重なりて遮る 千里の目
江流曲似九迴腸  江流 曲りて似たり 九迴の腸に
共来百越文身地  共に来たる 百越文身の地
猶自音書滞一郷  猶自(なお) 音書 一郷に滞る


柳州の町の高楼に登ると、その眺めは遠い地の果てまで連らなっているようだ。ここ絶境の空の下、愁いの思いは正に茫茫としている。
激しい風は蓮の花咲く池の水をかき乱し、向こうが見えぬほどに降りしきる雨は薜茘(つたかずら)の纏う城壁に横様に降りつける。
峰々の木々はうち重なって諸君のいる地を望まんとする私の目を遮り、柳江の流れは幾重にも曲がって愁いに九転する我が腸にも似ている。
志を共にする我ら5人はこの南越の入れ墨をした蛮人の住む地に流されて来たのに、お互いに連絡することは赦されず便りを書いてもその地から外に出ることはないのだ。

以前にも書きましたが、柳宗元と劉禹錫は当時の宦官専横の宮廷を改革しようと同志と画策しますが、失敗して地方に流されます。いわゆる二王八司馬事件です。その十年ほど後に、そのうちの五人が今の広西自治区辺り(桂林の近く)に流されます。柳宗元は柳州、劉禹錫は連州の知事として流されたのでした。(2003.05参照)

劉禹錫 「重至衡陽傷柳儀曹 并引」
      (重ねて衡陽に至り柳儀曹を傷む 并びに引)

元和乙未歳、与故人柳子厚臨湘水為別。柳浮舟適柳州、余登陸赴連州。後五年、余従故道出桂嶺、至前別処、而君没於南中。因賦詩以投弔。
(元和乙未の歳、故人柳子厚と湘水に臨みて別れを為す。柳は舟を浮べて柳州に適(ゆ)き、余は陸に登りて連州へ赴く。後五年、余故道より桂嶺に出で、前に別れし処に至る、而るに君は南中に没す。因りて詩を賦し以て弔を投(よ)す。)

憶昨与故人  憶う昨(むかし)故人と
湘江岸頭別  湘江の岸頭に別れしを
我馬映林嘶  我が馬は林に映じて嘶(いなな)き
君颿転山滅  君の颿(はん)は山に転じて滅す
馬嘶循故道  馬は嘶いて故道を循(めぐ)り
颿滅如流電  颿は滅すること流電の如し
千里江籬春  千里 江籬の春
故人今不見  故人 今は見えず

柳子厚:柳宗元
颿:舟の帆


参考図書
 中国名詩集 松浦友久著 朝日文庫
 中国歴代詩人選集 劉禹錫詩選 梁守中選注 遠流出版公司

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