2017年06月
南宋の滅亡
今月は南宋の滅亡にあたって、身の処し方を異にした二人の詩人を紹介します。
文天祥(1236-1282)は南宋滅亡時の宰相で、元軍に最後まで抗戦したが捕らえられた。元朝に仕えることを拒み、北京に送られ幽囚されること二年で殺された。いつか彼の代表作「正気歌」を紹介したいのですが、長いのと典故が多いので躊躇しています。
一方、趙孟頫(1254-1322)は宋の皇族として生まれながら、元の世宗に召し出されて、元朝の重臣となった。この生き様は当時の道徳観からすれば軽蔑の対象であったが、何しろ人物が優秀すぎた。詩文書画、どれをとっても超一流で、特に書画は後の世代まで高く評価されている。漢民族の文化を異民族支配の元代に持続させたといえるでしょう。
南宋 文天祥 「南陵駅」
草合離宮転夕暉 草は離宮を合(かこ)み 夕暉転じ
孤雲漂泊復何依 孤雲 漂泊して 復何にか依る
山河風景元無異 山河 風景 元より異なる無きに
城郭人民半已非 城郭 人民 半ば已に非なり
満地蘆花和我老 満地の蘆花 我と和(とも)に老い
旧家燕子傍誰飛 旧家の燕子 誰に傍いてか飛ぶ
従今別却江南路 今より別却す 江南の路
化作啼鵑帯血帰 化して啼鵑と作りて 血を帯びて帰らん
雑草が南京の離宮を取り囲んで、夕陽は西へと沈んでゆく。ひとひらの雲は流れてどこに身を寄せようとするのか。
山と川、風と光、これらは以前と変わることはないが、城郭もそこに住む住民も半ばはもう前の姿はない。
地に満ちている蘆の花は私と共に老いてゆき、豪邸に巣を作っていた燕は今は誰を頼って飛んでいるのだろう。
これから私はこの江南の地に別れてゆく。もし帰ることがあるとしたら、血を吐くほととぎすとなっているだろう。
元に捕らえられて、北京へ送られる時に詠った詩です。
元 趙孟頫 「岳鄂王墓」
鄂王墳上草離離 鄂王墳上 草離離たり
秋日荒涼石獣危 秋日 荒涼として 石獣危うし
南渡君臣軽社稷 南渡の君臣 社稷を軽ろんじ
中原父老望旌旗 中原の父老 旌旗を望む
英雄已死嗟何及 英雄 已に死して 嗟(なげ)くも何ぞ及ばん
天下中分遂不支 天下 中分して 遂に支えず
莫向西湖歌此曲 西湖に向って此の曲を歌う莫れ
水光山色不勝悲 水光 山 色悲しみに勝えず
鄂王(岳飛)の塚の上には草が生い茂っている。寒々とした秋の日射しのもと、墓の前の石獣は傾いている。
南へ渡ってきた南宋の君子も家臣も国家を顧みることはなく、中原に取り残された人民は錦の御旗が帰ってくるのをひたすらに待った。
英雄はもう死んでしまって嘆いてもいかんともすべはない、天下は二つに分かれてしまって遂に支えきれなかった。
西湖(岳飛廟は西湖畔にある)に向かってこの曲を歌うのはやめよう。水の光も山の色も悲しみをそそるばかりだから。
参考図書
中国名詩選(下)松枝茂夫編 岩波書店