2009.08 梁川星巌

 

 今月は化政期から幕末にかけ活躍した詩人で、頼山陽亡き後第一人者と目される梁川星巌(1789-1858)の詩を紹介します。私自身は典故の多い彼の詩は苦手なのですが。

 星巌は美濃の国の豪農に生まれ、若くして江戸に遊学して詩を学んだ。その後、妻の紅蘭(女流詩人)とともに九州から関東の間を遍歴し、各地の詩人と交流して名声を上げた。46歳の時、江戸で玉池吟社を興し、大いに門人を集めた。明治期の著明な詩人はおおむね彼の流れを汲むと云われる。

 彼は藤田東湖、佐久間象山とも親しく、後年は勤王攘夷の志士としても重きをなした。安政の大獄でも当然逮捕されるところであったが、その直前コレラで死んだ。当時の人は「星巌は死(詩)に上手」と評したと言われる。

 

三月廿八日、病癒赴子成招飲

             (三月廿八日、病癒えて子成の招飲に赴く)

 星巌が京都で旅の疲れか病気で寝込み、回復したとき頼山陽に招かれたときの詩。

 

子規叫叫雨如絲  子規叫叫 雨 絲の如し

客舎京城病起時  客舎 京城 病起の時

流水漾愁終到海  流水 愁を漾わして 終に海に到る

風花為雪不還枝  風花 雪と為りて枝に還らず

百年肝胆無人見  百年 肝胆 人の見る無く

近日頭顱有鏡知  近日 頭顱(とうろ) 鏡の知る有り

唯此平生茅季偉  唯だ此れ 平生の茅季偉

招吾灯下倒清卮  吾を招きて 灯下に清卮(せいし)を倒さしむ

 

ホトトギスの声が遠くから聞こえ、雨が絲のように細く落ちている。私は都の宿で病気からやっと起き上がったばかり。

川の水は私の愁いを漂わせながら海へと流れゆき、雪のように風に舞う花は再び枝に帰ることはない。

この生涯、私の心底を知る人はなく、近頃では頭髪に白いものが混じるのを鏡が知っているのみだ。

ただ何時もの通り、あの親孝行の茅季偉とも云うべき君が私を招いてくれて、灯火の下で美酒の杯をあけさせてくれるのだ。

 

茅季偉:後漢の人。友人が尋ねてきて泊ったとき、鶏を料理しているのを見た友人は自分のためにご馳走を作っていると思ったが、鶏料理は母親にのみ食べさせ、自分と客のためには野菜料理だけ出した。友人は彼の孝心に感心したとのこと。山陽が母親、梅?に孝心を尽くしていたことを指す。

 

 

旅夕小酌 示内二首(其一)

 文政十二年九月、伊勢の宿場で妻の紅蘭に語りかける形で作った詩。

 

灯火多情照客床  灯火 多情 客床を照らす

残瓢有酒且須嘗  残瓢 酒有り 且つは須らく嘗むべし

又労袖裏繊繊玉  又労す 袖裏繊繊の玉

一劈青柑手香  一劈 青柑 手に(ふ)きて香し

 

灯火がゆらゆらとせつなげに宿の床を照らしている。ひさごの中には酒が残っているからには飲まねばなるまい。

また貴女の袖の中の華奢な玉のように白い手を煩わせねばならない。青いミカンを一気に割ると手に吹き付ける果汁が甘酸っぱい香を漂わせる。

 

 

路傍残菊

 

雨沐烟披尚未莎  雨に沐し烟に披(ひら)いて 尚未だ莎(もみしだか)れず

一叢寒影傍籬笆  一叢の寒影 籬笆(りは)に傍(そ)う

咨嗟立久休相訝  咨嗟(しさ) 立ちて久しくも 相訝(いぶ)かるを休めよ

我亦人間寂寞花  我も亦 人間 寂寞の花

 

雨に打たれモヤに包まれ、それでもまだクシャクシャにはなっていない。一群の寒々とした姿が竹のまがきにそっている。

嘆きながら長い間立って眺めているのを変に思わないで頂きたい。私もまた人の世においてこの菊と同じく寂しく咲いた花なのだから。

 

参考図書

 日本漢詩人選集17 梁川星巌 山本和義・福島理子著 研文出版

 江戸後期の詩人たち 富士川英郎著 麦書房2009.07 遺跡に立つ


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