2019年01月

蘇軾の「諧謔」
 蘇軾は二度の流罪で死に瀕するほどの苦難に遭いますが、持ち前の楽天的な性格で見事に乗り切って生き抜いてゆきます。その詩にもユーモアを含んだものが多く、悲痛な思いを詠ったものは少ないように思います。そういう性格も相俟って、交友関係は広く贈答の詩が多いのも特徴だと思います。
 そういう詩の中には、相手を軽くからかい、思わずにっこりとさせる詩があります。以前に紹介した「石蒼舒酔墨堂」(2008.09)なども諧謔に満ちていますね。
 
戯子由
 
弟の蘇轍(子由)との仲のよさは心温まるものがあります。この詩は左遷されて田舎の学校の教授をしていた蘇轍に送ったものです。

宛丘先生長如丘  宛丘先生長きこと丘の如く
宛丘學舍小如舟  宛丘の學舍小なること舟の如し
常時低頭誦經史  常時頭を低れて經史を誦じ
忽然欠伸屋打頭  忽然として欠伸すれば屋頭を打つ
斜風吹帷雨注面  斜風帷を吹いて雨面に注ぐ
先生不愧旁人羞  先生は愧じず旁人羞ず
任從飽死笑方朔  飽死するものの方朔を笑うに任從(まか)す
肯為雨立求秦優  肯て雨に立つが為に秦優を求めんや
・・・・・(後略)


 
宛丘先生の背の高いことは丘の如くであり、宛丘の學舍が狭いことは船の中のようである、常に頭を低くして經史を誦じ、時に背伸びをしては天井に頭をぶつける。
風がとばりに吹きつけて雨が顔をぬらしても、君は一向に気にもとめないがまわりの人が気恥ずかしい。
 たらふく食べた道化役者が飢えた学者の東方朔をあざ笑ったように笑われようと気にしないし、あるいは雨の中に立つ衛兵ようにびしょ濡れでも道化役者に泣き言は言わないのだ。
・・・・

蜀僧明操思歸書龍丘子壁 (蜀僧明操 帰るを思う、 龍丘子の壁に書す)

久厭勞生能幾日,  久しく労生を厭うこと 能く幾日ぞ
莫將歸思擾衰年。  帰思をもって 衰年を擾すこと莫れ
片雲會得無心否,  片雲 無心を会得するや否や
南北東西只一天。  南北東西 只一天


 劉希夷は「平生 能く幾日ぞ」と詠ったけれど、逆に君は今まで煩わしい生活が嫌だなんて思った日が何日あったかね?(ずっとノンビリ暮らしていたじゃないか) それなのに今更国へ帰りたいなんてくよくよするなよ。
 あの空の雲のように無心というものを会得しろよ。東西南北 何処へ行っても同じこの天の下なんだよ。


次韻道潛留別 (道潛に次韻す 留別)

為聞廬嶽多真隱, 廬嶽 真隱多しと聞きしが為に,
故就高人斷宿攀。 故に高人に就きて 宿攀を斷つ。
已喜禪心無別語, 已に喜ぶ 禪心 別語無く,
尚嫌剃髪有詩斑。 尚嫌う 剃髪 詩斑有るを。
異同更莫疑三語, 異同 更に三語を疑う莫れ,
物我終當付八還。 物我 終に當に八還に付べし。
到後與君開北戸, 到る後 君と北戸を開き,
舉頭三十六青山。 頭を舉げれば 三十六青山。


御僧はこの廬山には真の隠者が多いと聞き、徳の高い僧について煩悩を絶とうやってこられました。
そしてもう禅の悟りを得たことはいうまでもないこととお喜び申し上げます。あれっ、嫌ですね、悟りを開いたはずなのに剃った頭に執念の詩斑(作詩で苦労してできた白髪)が残ってますよ。
しかし、禅の心も俗縁の詩の心も根本では似たようなものですし、万物と自分も最後には一に帰るもの。
私はこれから遠くへと出立しますが、いつか私のところへ尋ねてこられたら、一緒に北の窓を開いて絶景の三十六の峰々を眺めましょう。

後の二つの詩は、自己流に解釈したもので、誤解があるかも知れません。