峡雨紀行

三峡と三国志の旅

 

 2000.10.10 10 .17
 

 

 

  以前から、三峡がダムで沈まぬうちに訪れたいと考えていた。今年は妻も私もたいした旅行もしていないし、先日までの台所改修工事もやっと完成してやれやれというところで、急に思い立って旅行社を覗いてみた。長江流域は暑いことで有名だが、もうさすがに涼しくなっているだろう。中国語は一言もしゃべれないのだから、ツアーに参加するより無いが、大阪発の三峡下りのツアーは意外と少ない。5泊6日のコースがあり、「これこれ」と考えたが、現在のところ応募が一件も無く、催行される可能性が少ないとのこと。もう一つK社の7泊8日のコースがあった。三峡を下るだけでこれは長すぎるし、値段のほうも安くないと思ったが、やむなくこれを希望した。

 ふと、パスポートは大丈夫かなとチェックすると、案の定、今年の6月で期限切れ。大慌てで、手続き。やっと間に合う。K社からの連絡では15,6人のグループになったとのこと。

 明治初め、北京大使館書記官をしていた漢学者、竹添井井(せいせい)は北京から、洛陽、西安を経て、蜀の桟道を越えて成都にはいり、重慶から長江を下り上海に至る4ヶ月にわたる大旅行を行い、その記録を「桟雲峡雨日記」と名づけて出版した。我々の旅はその後半部分であるので、井井にあやかり「峡雨紀行」と名付けた。今回の旅の気候にもよく合った題である。

 

10月10日 

 3連休の次の日の出発で、準備は楽であった。しかも有り難いことに午後関空発の飛行機であり、朝ゆっくりと出発できた。関空カウンターに行くといきなり「Uさんですね」と言われ、ビックリ。「どうして判った?」何のことはない、関空発は2組のみで、1組は先に現れているとのこと。残りは成田発で、明日合流とのことであった。

 添乗員はT嬢。小柄でなかなかの美人である。もう一組は、神戸KT,KAさん父娘。これは、後から親しくなって解ったことだが、K氏は70歳、日航機事故のとき、群馬県警本部長をしていたそうで、大阪倶楽部会員となかなかの名士のようである。彼は去年も同じコースを奥さんと行ったが、あまりに好かったので、今回は娘さんと来たとのこと。素直な娘さんだ。
 飛行機は中国国際航空 3:35発上海経由北京行きである。2時間ほどの飛行、1時間の時差で現地時間4:40に上海到着。現地ガイドの葉さん現われ、マイクロバスで土産店へ。ここで両替。着いたばかりで、ここで土産を買う気にはならない。夕食は太湖船飯店にて湖南料理。前菜はピータン、ソラマメなど。青菜、牛肉、麻婆豆腐、酢豚、焼飯などで、総じて淡白で日本人にはよくあった料理であった。招興酒を一本(500ml)とって楽しむ。満腹となる。毎日、こんなに旨い料理が続くと、体重のほうが心配である。

 食後、ホテルに向かうが、途中ガス欠でバスがエンスト。葉さん馬鹿力を出し、一人で運転手、客を乗せたまま押して動かす。結局レッカー車を呼び、ガソリンスタンドへ。KAさん、このアクシデントに大はしゃぎ。ホテルは五つ星級の上海新錦江大飯店。到着はアクシデントで1時間以上遅れて、時となった。KTさんに外灘(ワイタン)へクラシックジャズの演奏に誘われたが、辞退して明日に備えて睡眠をとることとする。


10月11日

 朝、ホテルの窓から眺めると、目の下には下町の風景が拡がる。密集してはいるが、まあまあ中流の人たちが住んでいるのであろう。中に一角、古い住宅が密集しているところが、パッチのように、入り込んでいる。昔の大阪駅前の一角のような感じ。ああいうところへ自由に入っていけると旅も深いものになるのだろうが。(写真)

 8時半出発。曹さんがガイド。ロビーで初めて東京組と合流。東京の独身OL(O,H)、30歳半ばか? 三国志オタクらしい。宮城から私と同年代の男四人組。栃木から母娘。千葉の中年夫婦。

 外灘見物(写真)。ここは戦前、英国租界地であり、当時のクラシックな建物が並んでいる。前は長江支流の黄浦江で、船の行き交うさまはバンコクのチャオプラヤ川を思い起こさせる。対岸には、高層ビル群、東洋一のテレビ塔が靄の中に浮かび上がる。上海はここ外灘を中心に発展した都市で、英国人が来るまでは何も無い田舎だったらしい。それが、今は人口千三百万の都市なった。ちょうど横浜の出来たのと同じ状況か。茶の店で、龍井茶、ジャスミン茶を買う。妻、店内で椅子に腰掛けた唐子のように可愛いい子供と一緒に写真。唐子は愛想よく手を振ってくれる(写真)

  

 

 正午頃、重慶へ中国南西航空機にて出発。2時間。重慶への下降は雲の中への突入で、雲が切れたら、前は山ではと心配になるほど。着陸はスムース。中国のパイロットは操縦が上手い。

 気温16℃と涼しいが、肌にじっとりと湿気が感じられる。空は厚い雲に覆われ、小雨が降っている。「蜀犬日に吠ゆ」が実感される。ガイドの楊さんに迎えられる。彼はこれから武漢まで同行してくれることになっている。とても小柄だが、法政大学に2年半留学していたとのことで、日本語が上手い。

町を見渡す鵞嶺公園、ここは重慶政府が置かれたとき蒋介石の別荘があったところ、ここから、嘉陵江と長江がよく眺められ、町の立地条件がよく分かる。嘉陵江は長江第二の支流で、楊さんは綺麗な流れと紹介したが、我々の目からは濁流としか見えない(写真)。まあ、長江よりは少しきれいという程度か。長江の方は全くの泥水であるが、少し赤みのかかった不思議な色である。重慶の標高は三百米以下で、夏は三大ボイラーの一つとして気温40℃を越えることも珍しくないらしい。現在は渇水期に向かっており、長江の水位も大分下がっているが、7,8月の増水期には上流の雪解けで数米は高くなるとのこと。また、三峡ダム完成の暁には10米ほど水位が上がり、一万トン級の船がここまで航行可能になるとのことである。続いて、重慶大礼堂(会議場のようなところ)、長江大橋を見物する。町を挟む二つの川は深く切れ込み、町に平地はほとんど無い。そのため、自転車は全く見かけない。竹製の天秤棒を持った担ぎ屋をたくさん見かける(写真)。バスから見える路上の市の様子も興味深く、時間があれば散策したいのにと思う。バスから見えるのは、華やかな場所ばかりではなく、貧民窟に近い建物が集まっている場所も多い。近代化を急ぐ中国の光と陰。

    

 

 昼食は抜きにして、早めの夕食とする。四川名物の火鍋料理である。鍋を二つに仕切って、一方はあっさり味のスープ、他方は激辛スープが入っている。ここへバイキング風に並べられた食材を取ってきて入れる。我々と同席となった宮城の四人組が傍若無人に材料をドカドカ入れる。妻、カッとなり、「だめです。そんなに一遍に入れては。少しずつ入れなさい。」と命令するも、馬耳東風。

 今日のホテルは旧市街とは長江を隔てて対岸にあるHoliday Inn、四つ星ホテルだが、満足できるaccommodationである。

 

10月12日

 朝6:00のモーニングコール。外はまだ真っ暗。7:20出発のところ、妻、7:45と勘違い。T嬢に冷たい目で睨まれ、恐縮。昨日、彼女に「時間を守らない客がいて、添乗員は大変ですね」などと言っていただけに、全く冷や汗。

 重慶の港で、北斗号に乗り込む。五層の大型観光船(80x16m)。ツウィンの船室もバス、トイレ付きで川下りの船とは思えない設備である。三つ星か、四つ星級のホテル並みである。200人の乗客と100人余りの船員、従業員が乗っている。日本人は30名ぐらいで、マイナーグループである。

 八時出航。長江を滑るように進んで行く。重慶の丘陵に立つ高層ビル群が朝靄の中に消えて行く(写真)。長江の流れはゆったりとしているようで、実は相当に速い。まさに「不尽の長江滾々として来る」という杜甫の詩がピッタリの情景である(写真)

 

 

 重慶を過ぎたあたりは、巴峡と呼ばれ、三峡の内には入れられないが、風光明媚なところである。天候は曇天、時々小雨が混じる。巴山巴峡には雨がよく似合う。まさに水墨画の中を行くようである。両岸は急斜面に猫の額ほどの畑を作っている貧しそうな山村の風景となる(写真)。青菜の黄緑色がみずみずしい。双眼鏡でつぶさに見るが、自動車どころか、荷車の通れそうな道さえない。人々はただひたすらに小径を歩いている。所々の浜辺で、しゃがんでいる数人の群は長江を通う連絡船を待っているのだろうか? 浜辺にじっと佇む老人。いつまで眺めていても飽きることはない。電気こそ通じているようだが、それ以外は数千年来同じ生活を続けているのだろう。船着き場では電化製品のような大箱を四人が天秤棒で担ぎ上げている。

 崖の下の水際で、長い柄のついた網を流れに入れて掬っている人がいる。魚が取れているようには見えない。一日でどれほどの魚が獲れるのだろうか。砂浜に竿が何本もたっている。リールが付いている。おお、近代化だ。しかし、この泥水では魚も餌取りは大変だろう。何尾かの鮒のような魚をぶら下げて浜を歩いている人がいるから、釣れるのは確かのようである。網を揚げている小船もある。キラリと鱗が光る。

 ときどき村の中心地のようなところが現れ、現在の集落の上の小高い場所に新築の家が並んでいる。無人のようである。ダムが出来て、水位が上がったときに移るのだろう(写真)

  

  

孫徳平という若い書道家が乗り組んでおり、客の名前を折込んだ七言絶句を即興で指筆で書いてみせる。展示してある指筆よりも篆刻が見事であったので、宋の唐庚の詩の一節「山静似太古」と刻んだ遊印を注文する。夜には出来上がったが、なかなかのもので満足。

 昼食。大変な混雑。バイキング形式だが、座席は指定。量はたっぷりある。以後、3日間朝昼晩と同じ形式だったが、概して美味で十分満足出来るものであった。体重と糖尿を気にしながらも、一応すべて味見した。

 やがて、下流に町が見えてくる(写真)。午後3時、豊都着。鬼城見物。おどろおどろしい低俗な鬼の像が並ぶだけのもので、見る価値はない。ガイド(下手な日本語)の解説では、昔、この山で修行していた隠・王二人の道士がいたので、それから陰王、すなわち冥土の王の住む地と間違われたという他愛も無い話。陸游の「入蜀記」にも、ここの記事が有るので、遅くとも宋代には迷信が成立していたようである。こちらの橋を渡れば金持ちにとか、この階段を登れば来世は男にとかの迷信ばかり。とはいえ、一応希望のほうを通る浅ましさ。赤ん坊、幼児にはいつも興味を持つ妻、また可愛い子を見つけた。インド・ヨーロッパ混血の幼女、チャイナドレスを着ている。両親に許可を得て、カメラを構える。妻が近づくと泣き出す。慌ててインド人のお母さんが抱き上げる。はい、3人でパチリ(写真)。鬼城での唯一の収穫であった。物売りの多さとしつこさに閉口する。みんな、手に提げているのはザボン。巴地方は柑橘類が名産のようである。

  

 

 夕食。船長の挨拶。一応ウェルカムパーティーと銘打ってあるので、妻、台北で作ったチャイナドレスを着用する。私もジャケットを着用させられる。見栄えがいいのは認めるけれど、女性連れは荷物が増える。ドレスをみて、Chinese-Americanの老人が話し掛けてくる。Las Vegasでリタイア生活をおくっているとのこと。久しぶりの英会話で英語が上手と誉められ、妻ご機嫌。

 

10月13日

 9時、奉節に着く。今日も小雨混じりの曇天である。

 明け方、雲陽の対岸に張飛廟を眺める。張飛の首が流れ着いたとの伝説の地である。緑に囲まれ、古色を帯びた楼閣が美しい。何かの祭りか、銅鑼、太鼓を持ち派手な衣装の一団がいる(写真)。雲陽・奉節の辺りは炭坑があるようで、岸辺に石炭が山積みにしてある。

 ここ奉節は、三峡第一峡、瞿唐峡の入り口にあり、劉備玄徳終焉の地、白帝城観光の町である。小船に乗り換えて、白帝城へ出かける(写真)。劉備は荊州で関羽が殺されたのに怒り、諸葛孔明の反対を押しきって10万の兵を率いて呉に出兵するが、大敗して逃げ帰り、この地で崩じる。船着き場より標高差200米足らずであろうか、階段を上ると山上の白帝城に着く。眼下に瞿唐峡の入り口を見下ろし、まさに絶景である(写真)    

 

天然の要害でここに兵を置けば、長江を下流から攻め上ることは至難であろう。白帝城からの帰りの船から瞿唐峡口を見ると、相当に波が立っている。カヤックで下れるかどうかが気になる。少なくとも、この水量のとき、波は3級程度か。しかし、水量が日本の川と違い莫大なため、底、岩の心配をせずまっすぐに下ればよいので度胸だけの問題か。岸の近くにチキンコースが取れそうだ。水は沸き立って複雑な水流であるが、それでカヤックがひっくり返るわけではない。一番の難所のここさえ越せれば長江カヤック下降は可能である。夢が広がる。 

正午。いよいよ瞿唐峡に入る。入り口には、以前長江一の難所と謳われた艶預堆という岩が流れの中央にあったらしいが、今は爆破されてない。2階甲板の舳先にカメラを構えて陣取る。今日のために購入した 20 mm 広角レンズを装着する。荒波に乗って峡谷へ突っ込む。これはカヤックでは恐い。両岸の見上げるような石門の間に入って行くとき、息を呑むほどの興奮と気分が高揚するのを感じる。幅は100米ほどか。凄い! 中国はでかい! 新しい広角レンズは実力抜群、両岸の切り立った岸壁のてっぺんまでバッチリ入る。20分程の息詰まる興奮、感激。8キロ程の峡谷も終わりに近づく。今度は後甲板へと走る。船は静かに瞿唐峡を抜けて行く。ああ、おしまい! これだけで、今回の旅行の値打ちはあったと思う。北岸には道が通じていた。今度はここを歩いてみたい。夏の水量の多いときの瞿唐峡はまた一段の凄さだろう。今度来るのは夏かな?

    

 

 巫山着。さて次は小三峡である。2,30人乗りの小型遊覧船に乗り換えて大寧河を溯る。写真で見る小三峡の流れは青く澄んでいるが、今日は濁流である。ガイドさんの話ではここ数日、上流に降った雨でだいぶ増水しているとのこと。50cm程は水位が高い感じ。最初の竜門峡に入る。大分上のほうに175米の標識が見える。三峡ダム完成時にはここまで水位が上がる。ここから6,70米も上であろうか。左側の岸壁に四角い穴が上下2列にずっと連なっている。桟道の跡である。パンダ岩とか、天馬の足とか、形で名前をつけるのは日本の名所と同じである。船は激流に逆らって、ジリジリと溯って行く。日本だったら、当然運行中止になっているほどの増水である。両岸の岸壁はやはり迫力があるけれども、この程度なら日本にもあるかなと思う。例えば、黒部下の廊下はこれよりはスケールが大きい。興味はむしろ激流を溯る船のほうにある。その意味では、増水している今日ここを訪れることが出来たのは幸運であった。帰りの激流下りもまた一段の楽しみである。

 やがて、峡谷を抜けると河は山合の沖積地を流れる。子供が3人、段丘をズボンを脱ぎながら駆け下りてくる。手には長い竹の柄の付いた昆虫網を持っている。膝まで流れの中に入り、一杯に竿を船のほうへ伸ばす。どうやら、網の中へ金を入れよと云うつもりらしいが、残念なことに増水で船には届かない。反対側の畑では、家族総出で雨の中の野良仕事である。のどかな風景ではあるが、この辺りの子供は学校へ行けるのかなと他人事ながら心配になる。河は広がり、浅瀬が現われ、落差のある瀬の流れは速くなる。「えー!、ここを遡るのー!」 船は流れの緩いところを求めて岸に近づく。「アッ、アー! 石に当たる!」。 船長の腕は確かである。間一髪のところで、瀬を乗り越えて行く。

 第二の巴霧峡、またの名は鉄棺峡、の半ばで船を返す。予定の鉄棺峡の由来である懸棺のある所までは行けなかったが、スリルのあるクルーズに満足。降りは瀬波をドシンドシンと乗り越えながら快走し、あっという間に波止場へ帰ってきた。 

 

 

5時半、巫山を出発し、たそがれの中、巫峡へと入る。残念ながら、もう写真を撮るには暗すぎる。巫峡の両岸の壁は峩々として聳えているが川幅は瞿唐峡よりは広く、間を長江がゆっくりと流れて行く。楚の襄王が夢のなかで契りを結んだという巫山の神女が雲雨となったかのように、辺りはしっとりと濡れ、山の頂は雲に隠れている。やがて、北岸の山の上に神女峰がポツンと現れる。ここからは、小人がたっているようであるが、7,8米はある大岩である。やがて見物客が去り、二人だけになったが、寒さの中、辺りが見えなくなるまで移り行く風景を楽しむ。

 

 夕食後、お別れ演芸会。日本人のカラオケ、外人も参加してのゲームもあったが、中心は乗務員の民族舞踊。素人臭さはどうしようもないが、一所懸命さと可憐さには拍手一杯。 今日は、ツアーのハイライトであった。いろんなもの見て、疲れたね。お休み、お目々、また明日。快眠。

 

10月14日

巫峡は昨夜のうちに通り過ぎ、早朝、第三峡・西陵峡に入る。全長66kmと三峡の内で最長である。入り口は屈原、王昭君の生まれた地方であり、香渓という美しい流れが合流する。遙かに王昭君の像が望める。西陵峡は中で幾つかの峡谷に分かれている。長江は益々広くなりゆったりと流れている。両岸の山は相変わらず素晴らしいが、最早瞿唐峡のような緊迫感はない。兵書宝剣峡、牛肝馬肺峡を過ぎる。名前は何れも峡谷の中の岩の形から付けられたもので、何という程のこともない。いよいよ三峡ダム建設現場に近づく。クレーンが立ち並ぶ工事現場、果たして予定通り2009年には完成するのか? 開けられている水路を通って船は下る。朝食時、ダム直下の町で第一陣下船。Las Vegas の夫婦ともお別れする。遥か遠くの山腹に一筋の滝が掛かっている。まさに「飛龍直下三千尺」がピッタリの光景である。

  さらに、幾つか西陵峡の峡谷が続くが特記する程のことはない。葛州覇ダムの水門(写真)を抜けると宜昌である。

    

 

ここで第二陣下船。宜昌を過ぎると長江は平原を流れる川となり、中流域に入る。岸辺の風景も変わり、豊かな感じの農村風景が拡がる。牛、水牛がのんびりと草を嚼み、アヒルや鶏が放し飼いにされている。土手を自転車、自動車(中国では汽車)が走る。長江は広々として、流れていないように見えるが、よく見ると流れは結構速い。船窓から双眼鏡で眺めていると飽きることはない。

  昼食後、KT氏と囲碁。強い。一蹴される。橋本宇太郎に習っていたとのこと。6,7段か。手合いが全く違う。

 3時、荊州沙市の港に到着。船はここが終点。感激に満ちた三峡クルーズもとうとうお終い。しかし、旅はまだまだ続く。 

 荊州は関羽終焉の地である。ここで初めてこのツアーは三峡と三国志の旅であったことを認識する。三国時代を偲ぶ遺跡は何もないが、KT氏や東京の三国志オタクの女性には堪らないらしい。バスは荊州城内へと入る。まず、荊州博物館へ向かう。ここの圧巻は、ここから4km北にあった戦国時代の楚の都から発掘されたミイラである。薬液に浸された状態で発見された遺体は二千数百年を経てもまだ弾力があった。同時に発掘された漆器、絹織物の精巧さに感心する。中原からは野蛮国のように見られていた楚にこんな高い文化があったとは。織物に施された刺繍の斬新なデザインは今でも十分通用する。中国には黄河文明の他に長江文明もあったことを改めて認識する。

 黄昏の荊州古城の城門(写真)が本日最後の観光ポイント。明から清時代の建造であるが、城壁が町全体を囲む構造は「しろ」ではなく、「じょう」である。

 本日のホテルは田舎町のこととて、あまり設備はよくない。夜、町を楊さんに連れられて散歩する。露天の果物屋で茘枝に似た桂元という果物を買う。旨い。

  

 

10月15日

 今日は、一日バスに揺られて赤壁観光である。現地ガイドは日本語カタコトで、何を言っているのかよく判らない女性。ほとんど、楊さんが助け船を出している。武漢へ通じる高速道路へ入る。車窓から見える畑には、綿花が白く光る。綿を摘んでいる人々。道路はコンクリート舗装のため振動が大きい。一時間半ほど走って、サービスエリアでトイレ休憩。露天が並んでおり、水郷地帯であるため、大きな蓮根のおでん風煮込みや菱の実を売っている。菱の実の蒸したのを初めて食べる。ホクホクして美味なものである。

 仙桃市で高速道路を降り、一般道を長江を目指して南下する。今日は日曜日のためか、町や道路に人出が多い。近くに大きな集落がないところでも、道路の両側に人がぞろぞろ歩いていて、自転車が走っている。歩道は全くないので、片側一車線の道路も真ん中しか使えない感じである。バスは景気よくクラクションを鳴らして走るが、人々はいっこうに動ずる気配はない。対向車がないと見ると、反対車線でもお構いなしに突っ込んで行く。事故を起こさないかとはらはらする。道を半分占領して、十米程にわたって、稲籾が干してある。豆を干しているところもある。まるで自分の庭の延長のように道路を使っている。運転手は文句も言わず、走っているところを見るとこれが日常なのだろう。しかし、私の子供の頃を思い起こしてみると、日本でも田舎では似たようなことをやっていた気がする。まだ、こんな事が許されるぐらい車が少ないという事だろう。振動が大きいため写真が撮れないが、車窓から見る田園風景は本当に面白い。クリークに沿って走る。クリークの向こうには民家が並ぶ。平野地帯で豊かなのか、三峡の山岳地帯の農家とは大分違う。また、民家の壁にはやたらと赤い布に白字のスローガンが並ぶ。「生男生女は自然に任そう」「胎児診断は禁止」「少子で豊かになろう」などの人口問題を取り上げたものが目に付く。略字に頭をひねる。「机」が「機」の意味と判って、ああそうだったのかと納得。そういえば空港でもよく見かけた字である。

 2時間ほどで、長江河畔につく。赤壁は対岸である。ここからフェリーで渡らねばならぬ。この辺りは烏林だと、三国志オタクたちは話している。「烏林って何?」「魏の曹操が布陣した場所です。」「軍勢の数は?」「83万。」 即座に答えが返ってくる。三国志演義にはそう書いてあるかもしれないが、ほんとうかな?。後で聞いたガイドの話では、曹操軍二十数万、呉蜀連合軍五万というところらしい。

 フェリー乗り場には数軒の露店が出ている。中華鍋一つの軽食堂である。ナマズ、雷魚、フナなどがたらいに泳がせてある。この魚と指定して、料理させるのだろう。

  

 

公衆トイレがある。チラッとみると、おぞましい様子なので、男は裏の原っぱで立ちション。女性は頑張って入って行く。建物の中は、ドアはなく、溝の両側に石がおいてあってその上にのって用を足すとのこと。溝の中は山盛りになっていて、蛆が元気いっぱいに動いていたらしい。

 やがて、フェリーが到着。対岸までは二十分足らず。赤壁が見えてくる。赤と言うほどの色ではないが、言われてみれば少し赤っぽいかという程度で、高さ十米ほど、長さ百米ほどの崖である。大きな字で、赤壁と岩に書いてある。蘇軾は武漢下流の赤壁で「赤壁三詠」を作った。蘇軾自身もそこが真の赤壁かどうかあまり自信はなかったようであるが、あれほど有名になるとそれはそれで十分存在価値が生まれ、現在は文赤壁と呼ばれる。一方、真の赤壁であるこちらは、武赤壁と呼ぶらしい。公園にはいると、まず周瑜の巨大な石像がある。三国志おたくのお姉さんたちは喜んで写真をパチパチ。赤壁へ降りてパチパチ。後は博物館もどきの施設へ入る。中に実物は何もなく、安っぽい模型と人形での赤壁の策略場面が並ぶ。辺りを双眼鏡で眺めると、少し離れた南岸には茫々として、人を没するほどのススキか、ガマの原が広がっている。当時はこの辺り一面こんな風景だったのだろうと考えると、この小高い赤壁は重要な戦略地点であったと想像される。

  

 

 外に出て、昼食。ちょっと上等の大衆食堂といったところか。露天で一杯売っているこの辺りの名物らしい鳳尾魚という小魚の味醂干し風と、豆腐と挽肉の餡掛けは独特の醤油を使っているのか、えもいわれぬムッとくる臭いと独特の風味がある。私はこれも中国と頑張って食べるが、妻は早々にギブアップ。後の何点かの料理、特に野菜は旨かった。

 帰りは仙桃市まで同じ道を辿る。高速入り口で、荊州のガイドさんとお別れ。彼女はバスで帰るらしい。ここのガソリンスタンドでまたまた恐怖のトイレ休憩。男女とも中は仕切で三つに分かれているが、勿論ドアはなく入ってくる客には丸見え状態である。女性陣は一人ずつ入って、後は他の客が入ってこないように並んでブロックする。男性用には小便池と称する一列に並んで壁に向かうタイプがある。昔の学校のトイレは大学までこれだった。日本でも五十年前だったら、ドアのことは別としても公衆トイレはこの程度ではなかったか。

 再び、高速道路に入って武漢へ向かう。武漢は中国中部第一の大都市で、昔より武漢三鎮といって、武昌、漢陽、漢口の三地区からなっている。武昌は学術文化、漢陽は工業、漢口は商業地区である。今日のホテルは漢口にある亜州大飯店。

 夕食まで少し散歩する。ホテルの前はちょっとした繁華街で果物や酒を売っている店が多い。歩道橋で親子連れの乞食を見かける。小学一年生ぐらいの少年が行き交う人に物乞いをしている。一元手に持った皿に入れてやると、嬉しそうに母親の所へ持って行く。

 夕食は相変わらず美味である。桂魚の唐揚げが目玉。

 食後、KT氏と街へ出る。スーパーマーケットで干し茸、干し圭元、麻婆豆腐の調味料などを買う。本屋で李清照の伝記を買う。簡体字が一杯で読む自信は無いが記念品のつもり。

 結局、今日は7,8 時間バスに乗って、赤壁一つ。それも「ああ、ここが赤壁か」という感慨のみであった。しかし、途中の車窓の農村風景、人々の暮らしぶりの一端が覗けた感じで、今までに無い楽しみがあった。フェリー乗り場で、こちらに興味を持って話し掛けたそうな人たちが居たが、コミュニケーションが取れなかった。本当に中国を楽しむためには、少しは中国語がしゃべれなければ。

    

10月16日

 今日はゆっくりした日程のため、朝も遅い。天気は小雨。武昌へ入り、先ず湖北省博物館へ。ここの目玉は、戦国時代、楚の東にあった小国の王(曽侯乙)の墓からの出土品である(写真)。25人の若い妃が殉葬されている。どうも毒殺されたようである。青銅器類が立派である。なかでも圧巻は、巨大な楽器、編鐘である。王の墓は来世での安楽な生活のための道具が全て用意された巨大なもので絶大な権力が想像される。その後、実際に模造品を使った演奏を聴く。音も迫力ある。

 次いで、黄鶴楼へ向かう。李白が登ったのは、長江河畔の船着き場にあったらしいが、その後何度も焼けたり壊されたりして、現在は河畔から離れた丘の上に巨大な五層の楼閣を聳えさせている。勿論コンクリート製である。武漢のガイドは李さん(中年の女性)であるが、土産物店へ急がせ、ゆっくりと見せてくれない。庭にある碑林などもゆっくり見たいが不可能。楼もエレベーターで四階まで上がるが、一回り景色を見せると、その階の売店へ。崔こうの「黄鶴楼」の詩の掛け軸を買う。定価3万のところ、KTさんの応援で2万にまけさせる。独特の筆遣いをする書家であるが、美しい作品で気に入った。買い物が終わるともう下り出す。最上階へ行く時間もない。走り上がって、急いで一回りする。

  

 

 公園を出たところで、もう一軒、土産物屋へ入る。ここでは妻がトルコ石に引きつけられて、動かない。娘のためと称して二つほど買った。どこが良いのやら、見たところガラス玉と変わらない。。

 昼食後、空港へ。時間があるとかで、郷鎮企業の絨毯工場へ立ち寄る。私、腹具合が悪くなり、空港へバスで直行。慌ててトイレへ駆け込む。勿論、念のためロールペーパー一個を持参する。持っていってよかった。さすが空港のトイレはよく掃除されているが、ペーパーは備え付けられていない。

 空港内の書店で、ロードマップを買う。中国全土のもので詳しく地名が分かる。ベンチで座って地図を眺めていると、一行が到着。ここで、楊さんとお別れ。彼は飛行機で重慶へ帰る。良いガイドさんに当たって、幸運だった。我々は上海へ飛ぶ。

  夕刻、上海着。中国最後の夕食は、最後だけあって立派なレストランである。上海蟹は出なかったが、北京ダックが出た。ついで、最後の観光地、東洋一のテレビ塔へ上る。入り口で、荷物検査されるのには驚く。X線検査である。テレビ塔をハイジャックする者もいないと思うが。テレビ塔からの夜景はやはり素晴らしい。眼下に外灘の灯が黄浦江の向こうに輝いている。こちら側は、21世紀を先取りしたような高層ビル群が空に突き上げている。中国自慢の光景か、お上りさんが一杯である。アベックのデートコースになっているようでもある。

 ホテルは最初の夜と同じ、新錦江大飯店。最後の夜を過ごす。

 

10月17日

 空港へ。空港で東京組とお別れ。再び、我々とKさんのペア、添乗のTさんの5人となる。例によって、免税店で会社への土産の月餅、白酒、老酒など。あまり安いような気はしない。
 飛行機は2時間ほどで関西国際空港へ。無事着陸。お疲れさま。

 ほんとに楽しい旅だった。中国にはまってしまいそう。「老去っては、人間楽事稀なり」とは陸游の詩であるが、この旅は数年来無かったような楽事であった。会社のことも、家のこともコロッと忘れて、夢中となっていた。また行こう。