私も日本人の端くれであるから、当然温泉大好き人間である。出来れば、山の中の一軒宿なんぞがいい。食い物は土地の山菜料理でも出れば御の字である(ここは女房と旅行するとき、意見が分かれるところである)。それと露天風呂。天を仰いで、湯の中で手足を十分に伸ばすと、心身がリラックスして、「ああ日本人に生まれてよかったな」としみじみ思う。晴れの日は、山や谷川の景色を楽しみながら、火照った体に涼風を受ける。雨でも雪でも裸でお湯に浸っている身には何ということはない。むしろ顔に当たる水滴が気持ちよい。まさに「水光瀲艶として晴れまさに好く、山色空濛として雨もまた奇なり」である。夜、食事を済ませてほろ酔い機嫌で一人暗い露天風呂に向かうときの気持ちは、ひょっとして、年若い女性が入っているのではなどと、年甲斐もない期待を持っているのであるが、これは未だかつて有ったためしはない。
成分は温泉と同じミネラル水だが温度が低く、沸かして入る鉱泉というのがある。どんな手段にせよ温度を上げれば物理的には何ら変わらぬはずだが、なんとなく有り難味が薄い。近年は、ボーリング技術の発達で千米でも二千米でも簡単に掘れるようになった。そこまで掘れば、たとえ温泉は出なくとも、何かのミネラルウォーターぐらいは必ず出る。それと近年はやりの村おこし運動が結び付いて、近頃どこへ行っても立派な村営の温泉が出来ている。これなども、たいてい露天風呂付きであるが、自然の温泉やら、沸かし湯やらよく分からぬ。サイクリングの途中とか、山からの下山時にさっぱりとするためには良いが、わざわざ入りに行く気にはならない。
私の生まれは四国の山中である。そもそも四国は温泉の少ないところで、私の少年の頃は松山の道後温泉ぐらいしかなかった。ここへは50歳過ぎて初めて入った。祖谷で温泉が見つかったというのも、私の少年の頃だったように思う。バス道から崖を100米程も下ると、40度程の湯が出ていて、入浴し終わってバス道まで這い上がってくると汗ビッショリになると聞いたことがある。もちろん当時は宿などはなく単に路傍の露天風呂だった。一度行きたいと思っていながら、いまだに望みを果たせないでいる。
父親は開業医で、土曜も日曜もなく働き、また昼夜を問わず往診に出かけていたから、泊りがけの物見遊山などは夢のまた夢であった。父親と一緒に遊びに出かけた記憶は、せいぜいが夏の日帰りの海水浴、近くの中津山山頂(標高1400米程)にある神社の夏祭、長旅は京都であった医学会総会にくっついて出かけた記憶ぐらいである。そうそう、それから父親と兄弟揃って出かけた日帰りハイキング。これはたった一度だけであったので、ハッキリ記憶に残っている。幼かった妹は別として、弟たちとの思い出話でしばしば話題に上がるところを見ると、みんなよほど嬉しかったのだろう。そんな訳で、家族一緒の温泉旅行などという経験はなかった。しかし考えて見ると、いかに山中とはいえ、2,3時間もバスや汽車に乗ると海が見えるところに住みながら、小学校の修学旅行までは海を見た同級生は少なかった時代のことである。まだ恵まれていた方だったのだろう。
というわけで、世の中に温泉というものがあることは知りながら、ついぞどんなものか実物は知らなかった。では、最初の温泉はというと、高校の修学旅行のとき、九州、雲仙だったと思う。赤い鉄錆が溶けたようなドロドロの湯で、アア、これが温泉というものかと感銘したのが記憶にある。
私の体験は露天風呂自体よりも、それに付随した経験の印象が強く、風呂のことを思い出すと、一緒にズルズルと付いて出てくる。以下の体験記はそんな物を一緒にどんぶりにして書いたものである。
昭和37年、大学1年の夏休み、高校からの同級生Kと大台・大峰登山を行なった。松阪から大杉谷を溯って大台ケ原、筏場道を下り、さらに柏木道をとって山上ヶ岳へ登り、洞川へ下るというコースである。今から見ても、初心者にしてはなかなか渋いコースを取ったなと思うが、当時の大杉谷はなかなか大変な道だった。現在の大杉谷は、岩を掘削して作った道としっかりとした吊り橋で遊歩道のような感覚で歩けるが、当時はほとんどが桟道と怪しげな吊り橋で、時間は現在の倍は優にかかった。桃の木小屋の少し上流にあった吊り橋は片側のワイヤーが切れて、一人づつ蟹の横這いで一本のワイヤーを伝って渡ったし、七つ釜滝の絶壁のところは現在岩を刳り抜いて作っている道のところが朽ちた桟道の上に新しい桟道が乗せてあり、土台がしっかりしているのかどうか怪しげで、気持ち悪いことこの上なかった。すれ違えるところはほとんど無く、対向者待ちの時間が非常に多かった。
さて、桃の木小屋、大台山上と泊りを重ね、三日目の宿泊予定は五万分の一地図で見つけた温泉マークのある入之波という場所である。今日は下りだけなので、早めに温泉に着いてノンビリしようと相棒と話しながら筏場へと降る。筏場から一日1,2本しかないバスに乗って、入之波で下りてビックリした。小さな製材所とその周りに数軒の古びた民家があるだけの部落である。あれっ、旅館は? マズイと思ったが、バスは土埃をたてて出発してしまった後である。近所の人に「地図に温泉の印があるのですけれど」と聞くと、対岸の川原に少しぬるい湯が出ているところがあるだけで、旅館どころか、入浴施設も無いとのことであった。ひょっとして、入れるかと、荷物を置いて探しに出かけ、そこいらの水溜まりに手を突っ込んでみたが、温かいところは見つからなかった。しかたが無いので、また荷物を担いで柏木まで夏の暑い林道を下っていったのであった。
そんな訳で大学へ入って最初の温泉、入之波温泉はゆめまぼろしとなってしまった。
ところで、この話には後日譚がある。その時はもう結婚していたから、十年程も経っていただろうか。何か社内報のような小雑誌に載っていた司馬遼太郎のエッセイを見つけた。司馬氏も五万分の一地図で温泉マークを見つけて、奈良県では温泉はここしかないと出かけて行ったそうである。奈良県には十津川に温泉地、上湯、下湯など古い温泉があるので、これは司馬氏の勘違いだろう。とにかく、我々と同じ経験をしたのであったが、彼は少し温かい水溜まりを見つけ、実際に入って目的を達成したそうである。
現在では、この入之波部落も大迫ダムの完成とともに水没してしまったが、元の部落の近くのダム湖畔に少しぬるめではあるが豊富な湯が湧き、入之波温泉「山鳩の湯」が営業している。大峰、大台辺りに遊んだときには、必ず立ち寄る場所となっている。
飯豊山梅花皮(かいらぎ)の大雪渓を登り、北俣岳を乗り越して加治川上流、湯の平温泉に下りた。
昭和45年夏の山行は散々だった。八幡平から秋田駒までの縦走の予定だったが、集中豪雨の真っ只中で、毎日雨。とうとう乳頭山からビショビショになって下山した。重い帆布のテントを持参したがとうとう張らずじまい。テントを担いでいたMはせっかく持ってきたのにと機嫌が悪い。乳頭温泉郷、鶴の湯の前にテントを張ろうと主張したが、全員一致で反対、鶴の湯に転がり込んだ。
そんな訳で、なんとなくすっきりしないので、田沢湖の駅で一行と別れて、一人で飯豊山に口直しと決めた。小国の駅に着いたのは夜となった。宿を捜そうとしていると、同じ列車を下りた京大生が心細いのか、一緒に駅のベンチで泊りませんかと誘う。変な誘いだとは思ったが、こういう安価な方へのお誘いは原則として断らない主義である。これが最後の駅のベンチの経験となった。
さらに、雪渓下の小屋で一泊して、次の日が湯の平小屋である。長い尾根を、小雨に濡れながら下ると小屋に着く。当時の小屋は粗末なもので、20人ほど泊れるものだったか。連日の雨で小屋番の爺さんが一人所在無げであった。小屋の真ん前に小さな墓石があり、確か「嗚呼哀哉小柳糸女溺死墓」とあったと記憶している。要するに明治の頃、小柳糸さんという女性がここに湯治に来ていて前の加治川で溺れて死んだらしい。
荷物を置くと、まずは一風呂。有名な露天風呂は小屋から上流の川岸に一度下りて、登った岩の上にある。岩の間から湧き落ちてくる湯をためて二段の浴槽が作ってある。上段で40度ちょっとぐらいか。上に入ったり、下へ行ったり、小雨に濡れながらノンビリと露天風呂と辺りの景色を一人占めにする。前の谷川は、沢登りの難所として知られる飯豊沢である。一時間ほども清流と雨に濡れた青葉の美しさを楽しんだであろうか。夕暮れとなり、さて、晩飯の支度をと、帰りかけると、何と1米程も増水していて、先程は足を濡らさず渡れた川岸がすっかり水の下になっているではないか。わずか数米であるが、腰まで浸かって、岩に捉まりながらやっとのことで小屋の方へ上がった。せっかく暖まった体がすっかり冷えてしまった。上流で急な大雨があったのか、雪渓が崩れたのか。小柳さんの悲劇が解ったような気がした。
次の日は、快晴であった。なんとなく、帰る気がせず、一日、ポーっとして暮らす。小屋の前のムシロ掛けの湯−本来は女性用だが、今日は自由に使える−の方へ入ったり、岩の露天風呂へ行ったり。あっという間に一日が過ぎた。
次の日も快晴。しかし、残念ながら食料が尽きた。ここの小屋は自炊である。カンカン照りの中を14,5キロ歩いて東赤谷の駅に出た。
十年ほど経った11月初め、新潟で学会があったついでに、同僚のI君と今度は逆のコースで湯の平温泉を訪れた。JRの赤谷線は既に廃線となっており、新発田の町からタクシーを飛ばさざるを得なかった。週末と紅葉の季節であったせいか、大変な賑わいで、立派になった小屋が満員に近い状態であった。露天風呂も芋の子を洗うようで、ゆっくりする気分にはなれなかった。夜、寝ていると、小屋番のアルバイトの兄ちゃんが、若い女性たちを夜の露天風呂へと案内して出て行った。暗闇の部屋の中から、小さい声で「コラー」。
数年前、山で湯の平ののことが話題になったとき、岩が上から落ちてきて露天風呂が潰れてしまい、湯も出なくなったと、誰かが話していた。本当だろうか? この文章を書いているうちに気になって、インターネットで調べてみると、1999年の情報として露天風呂に入っている男の写真が出ていた。ヤレヤレ。(2000.
11)
川原毛地獄はまさに寒熱地獄だった。
昔、山の雑誌で秋田の山中に川原毛地獄という秘境があって、そこに大湯滝という滝全体が温泉で、滝壷で入浴できるという話を読んだことがあった。その時は「行ってみたいなあ」と思い地図で場所を調べたが、近くに高い山もなく、わざわざ出かける気にもならなかったが、なんとなく頭の片隅に残っていた。
何年か前、北アルプス双六谷を単独遡行し、雲の平、高天が原を経て薬師沢小屋に泊った。ここで例の「中高年の登山学」の岩崎元郎氏と出会った。氏に沢の話をいろいろ聞いた時、秋田の虎毛沢はたいして難しい沢ではなく、しかも岩魚が一杯泳いでいる楽しい沢だと教わった。そこで早速地図を買ってきて見ると、何と虎毛沢の水源、虎毛山の反対側に川原毛地獄があるではないか。虎毛山自体は千米そこそこの標高でわざわざ関西から出かけるほどの山ではないので、以前は無視されたのだった。しかし、これで岩魚を釣りながら虎毛沢を遡行し、虎毛山から川原毛地獄へ下って温泉で打ち上げと来年の山行の予定が決まった。我ながら、ストーリー性と変化に富んだ見事な計画である。翌年の夏、「沢歩きは」と渋る相棒を無理矢理誘って、滝から転落して骨折したことはまた別の話。
さらに、その翌年、1999年五月の連休、まだ山へ行くほどには足の調子は良くないが、何とかサイクリングなら出来る程度にはなったので、山形から秋田へのサイクリングを計画した。川原毛地獄がこの旅のメインイベントであることは勿論である。
鶴岡を出発し、
長距離の輪行に痛む足を引きずって、山道を下って大湯滝へと急ぐ。10分ほどで滝に着く。滝は水量が多く、高さも十数米あって立派なものである。滝壷へ下りて、早速パンツ一丁になる。ウウ、寒い! 足を流れに突っ込む。ヒャー、氷水! 変だな、確か湯のはずなのに。あの滝の中段に水が溜まっている。あそこは湯かもしれない。寒さに震えながら、岩伝いに登って足を突っ込む。やっぱり氷水。ここでやっと気が付く。この寒さで湯が出ているなら、当然湯気がいっぱいの筈だ。ところが何処にも湯煙は上がっていない。湯滝の話は嘘なのかと、ガッカリしながらキャンプサイ
トへ帰り、近くのキャンパーに尋ねると、あれは夏のことで、今は雪解け水が冷たすぎるとのこと。
ところが、滝の上流であるキャンプサイトのすぐ下の谷川では湯煙がいっぱい上がっている。何人か裸で水の中でウロウロしている。なんだ、此処でも温泉に浸かれると、また裸になる。湯の出ている辺りは踝ほどの深さしかないので、石で囲ってやっと寝そべられるようにする。ところが湯と水が自然には混ざらないのである。片や熱湯、片や氷水である。両手で必死にかき混ぜている間はよいが、一寸でも手を休めると右半分は「アッチッチ」、左半分は「ヒエー冷たい」である。まさに寒熱地獄であった。そんな訳で、少しも気の休まらぬ露天風呂であったが、とにかく目的は達成した。
翌日、小安温泉へ下り、ここのキャンプ場の快適な露天風呂でのんびり。さらに乳頭温泉郷まで走り宿を探したが、連休のこととて飛び込みで見付かるはずもなく、宿の駐車場にツェルトを張って、温泉だけ利用した。
あれは確かアメリカ留学から帰った年であるから、1981年の夏のことである。この年の山行は白馬岳から朝日岳への単独縦走を行なった。小屋泊りであるから荷物は軽く、気楽に出かけた。白馬・朝日間は悪天候だった。風雨が強く、大分難儀した。朝日小屋に着くと、停滞していたグループが私を見て驚く。彼等も白馬へと出発したが、行く手で雷が酷く鳴っていたので引き返したとのこと。「エー、雷が鳴っていた? 全然、気が付かなかった。」と今度はこちらがビックリ。
この時は、もう一つ事件があった。その前日、小屋主がやっている朝日山麓から小川温泉までの登山客輸送の小型トラックが崖から転落して、客が死亡したとのことで、小屋の従業員一同シュンとしていた。この件では後日、豊中警察に呼び出されて、事情聴取された。事件の後で泊った客に聞いても仕方なかろうに。そんな訳で、翌日北又谷から小川温泉まで5,6キロのカンカン照りの道を歩くはめになった。
小川温泉の自炊部も面白い所だった。大広間に十人ほどの湯治客がゴロゴロしている中に入れられたのだが、布団、枕から湯飲みに至るまで一々借料が付いている。隣の爺さんから戦争の話を聞いたが、内容は忘れてしまった。ここの露天風呂は宿から大分離れた所で、洞窟になっており、また変わった気分であったが、特に話すほどのことはない。夜は大広間に田舎廻りの劇団の芝居が掛かる。なんとなく少年時代に帰ったようなレトロな気分が楽しかった。
さて、翌日、女房のお許しを得ている日限にまだ一日残っているので、鐘釣温泉に向かった。黒部鉄道
宿に帰ってみると、相客がもう一人増えている。六畳に三人は窮屈だが、飛び入りの客ばかりだから文句は言えない。三人目の客は長野で按摩をしているという盲人である。昨夜は奥の名剣温泉で泊ったという。名高いのでここへも来てみたが、階段があるのでここの湯には入れないと淋しそう。夕食後、按摩さんを湯に誘う。手を引いて、階段を下る。こんな自然石の階段は段差が一定でなく、一番苦手だとのこと。今度は列車も終わっているので、安心して入る。しばらくノンビリしていると、按摩さん、めまいがするとのこと。湯当りらしい。しばらく脱衣場のなかで寝かせていると、女性陣がやってきて、キャッという。安心して脱いでもいいよとも言えず、早々に退散した。
朝早く、最後の入浴をと、下りて行くと既に先客がいる。男性二人が後ろ向きに並んで入っている。こちらもパッと脱ぎ捨てて、「おはようございます」と入って行くと、二人がさっと離れる。シマッタ。一人は断髪の女性だった。どうやら、お忍びの旅のようである。無粋な邪魔者になってしまったが、今更どうしようもないので、知らん顔。
1997年10月、妻に黒部下廊下の紅葉を見せようと、鐘釣温泉を再訪した。以前泊った美山荘は見る影も無く寂れ果てていて、営業していないようである。もう一軒の鐘釣温泉のみが繁盛している。川原の湯は昔のままであるが、上流にもう一つ露天風呂は掘られている。岩陰の湯は女性専用となっている。宿はお世辞にも上等とは云えないが、露天風呂と自然はそれを補って余りある。妻も大変気に入り、翌日は小雨の下廊下を阿曽原小屋まで元気に歩き、さらにその翌日は黒部ダムまで行きたいと息巻いて、なだめるのに苦労したのであった。だって、彼女と黒部ダムまで歩くとなると、ビバークの用意が無いと心配で。
黒部下廊下、特に黒部鉄道の終点、欅平から阿曽原小屋に至る旧日電歩道は私の大好きなコースの一つである。ここは古くはトロッコ道であったため、大岸壁を削って何処までも水平に道が付けられている。水平歩道と呼ばれる所以である。黒部川は数百米も眼下に白く泡立って流れている。対岸の奥鐘山の大岸壁は息を呑む壮観である。秋には岸壁に張り付いた草紅葉が赤い滝となって垂れ落ちている。
最初、ここを同級生Kと訪れたのは、1965年頃の十月末か十一月初め、確か大学祭の休暇中だった。あれは信州を迷走した変な山旅だった。初め目指したのは穂高岳。上高地から岳沢小屋まで上がるとそこから上は雪である。ズックのキャラバンシューズで登る気はしない。小屋で一泊して、松本までバック。今度は美ヶ原へ登り、山本小屋で泊る。あの夜の凍るような星空の美しさは今も記憶に残る。翌日は霧ケ峰まで縦走。当時はビーナスラインなどと云う俗な自動車道はなかったから、本当に静かな山旅だった。車山を下りて、また松本へバックし、駅前の安宿に一泊。次は何処へ行こうかと二人で相談。ふと思い出したのが、以前から行きたいと思っていた黒部下廊下で、たちまち一決。
翌早朝、一番列車で大町へ。予定外の山行であるから、ガイドブックも地図も持ちあわせていない。まあ、何とかなるだろうと、呑気なものである。黒部ダムでトンネルを出ると、ダム周辺は2,30センチの積雪である。山腹も上は雪、下は紅葉の二段になって、少し凄みすら感じられる美しさである。さて、どうするかなと少し躊躇していると、我々が下廊下を下ると見た京都から来た若い女性の二人連れが同行を申し入れてきた。まず、「地図持っている?」「はい」ヤレヤレ。「阿曽原小屋、開いているかな?」「ガイドブックには、まだ開いていると書いていました。」ホレ、何とかなったなー。白竜峡、十字峡、S字峡などの渓谷と紅葉を楽しみながら、仙人谷に着いた頃は足弱を同行したため、夕暮れが近づいている。おまけに女性はほとんどグロッキー。荷物を分担して、暗くなってようやく阿曽原小屋に到着したが、愕然! 小屋が無い。ここの小屋は雪に潰されないように、冬には分解してしまうバラックなのだ。幸い、小さな作業小屋が残っていたので、ここに転がり込む。とりあえず、焚き火をする。ここへ、もう一人登山客が転がり込んできた。神戸の素人カメラマンである。どうも関西人は楽観派が多いみたいだ。
食料はとなると、他の三人は何も持っていない。昔は、小屋泊りの中に米持参というのがあった。その分、小屋代が安くなった。それを利用するつもりだった我々は幸い米だけはたっぷり持っていた。それと缶詰少々。コヘッルと米を渡して、女性陣にご飯の用意を頼む。これでいいですかと持ってきたのを見て、驚いた。コッヘル摺り切りに米と水を入れている。当然、研いでもいない。思わず、マジマジと相手の顔を見る。「ご飯炊いたことないの?」
その晩の寒かったこと。
翌朝、露天風呂があるはずと探すが、コンクリートの枠だけで、湯は抜かれてあった。そんな訳で、第一回目の阿曽原温泉は入らずじまいとなった。
第二回は夏。剣岳から、仙人の湯を経てきた。仙人の湯も正面に後立山が望める最高の露天風呂である。山の湯としては阿曽原より上か。この時の思い出は、仙人ダムの流れ込みでの岩魚の大漁。大声で歌いながら小屋へ帰って、小屋主に「大漁だったね。遠くからでも解ったよ。」と笑われた。
第三回目はそれから2,3年後の十月下旬。小屋が閉まっているかもしれないので、ツェルト、シュラフ、炊事用具は持参した。欅平の登山口に立て札があり、小屋は今日の日付まで営業と書いてある。ラッキー。ところが小屋に着いてみると、今日は泊められないと云う。今日泊めると、明日までの営業ということになるとのこと。なるほどそういう理屈かと納得。しかしそこはそれ、前回顔を覚えられていたこともあり、何とか泊めてもらえた。露天風呂を満喫したことは言うまでもない。
翌日は、黒部ダムへ向かう。晩秋の単独行はしみじみ淋しいが、この淋しさがまた堪えられない楽しみでもある。十字峡から上は霙となった。今回新しい試みとして、妻に野点道具を借りてきたので、茶を一服する。抹茶を入れ、小振りの茶碗だが大服も大服、湯を半分ほども入れる。手早くかき混ぜるが、混ぜているうちから冷えてくる。まあ、生ぬるくなって飲み易かったし、喉が渇いていたのでそれなりに美味かったが、寒くてとても風流を感じる余裕はなかった。
ダムが近づくと積雪は50センチ以上となった。まだバスには間に合うが、この雪景色を後に帰るのは残念と、ダム直下にツェルトを張る。ここならば、どんなに雪が降っても、ダムの上まで何とか上がれる。その夜は吹雪いた。その上、雷鳴まで轟いた。いわゆる雪起こしというやつか。羽毛とは云え3シーズンのシュラフと薄いツェルトではほとんど寝られなかった。
翌朝、いくら待ってもバスが来ない。何か温かいものと思っても、売店も食堂も無人のままである。仕方がないので、トンネルを扇沢へと歩き出す。途中で破砕帯の水を飲む。旨い。扇沢へ出てみると、こちらも大雪でやっとバスが上がって来始めたところだった。
第四回目は、鐘釣温泉の章で書いた通りである。この時は、この小屋でもこんなに混雑することがあるのだと実感するほどの混みようだった。おまけに湯がぬるくって。
1996年秋、例の相棒、魁猿と紀州法師山・大塔山へ出かけた。金曜日夕方、大阪を出発し、深夜に紀州山中を走る。ライトに獣の目が光るや、シカが驚いて車の前方を走る。ようやく、日置川源流に着き、ワゴンの車中でシュラフを拡げて眠る。
翌日、法師山へ登り、大塔山へ縦走。尾根の踏み跡を辿る。途中、紫色のキノコがたくさん生えている。持参の図鑑で調べると、ムラサキアブラシメジモドキという長ったらしい名前のキノコらしい。まあモドキなどと付いているキノ コはあまり美味しそうな感じではないが、ほかに食べられそうなキノコも見つからないので、毒キノコにこれに似た物は絶対無いことを確認して採集する。これが、汁にすると意外と旨かった。法師山は頂上にマイクロの中継アンテナがあり、登っただけという印象の薄い山であったが、大塔山は幽邃で、さすが紀伊半島で最も奥深い山と云われただけのことはあった。近年は林道が奥まで延び、簡単に登れる山となったが。
大塔山の下りで道を間違えた。下る途中で尾根を一つ取り違えたらしい。林道に出て、しばらく歩いていると、弘法杉という大木の下に出た。ここで初めて気が付いた。弘法杉は一つ東側の谷である。日置川ではなく、熊野川支流の大塔川に下ったのだった。おかげで、5,6キロも余分に歩くはめになった。山のベテランのつもりでいたが、呑気なものである。
前置きが長くなったが、次の日、帰りに寄ったのが川湯である。ここには川原に千人風呂と称する大きな露天風呂があると聞いていたのだが、この時はまだ掘られていなくて、川原から上がった所にある既成の露天風呂に入った。川原もスコップで掘ればすぐに露天風呂が出来るようだが、その元気はなかった。
翌年の11月、今度はサイクリングで川湯を再訪した。一人旅である。例の相棒にも、おだてて自転車を買わせたのだが、一度、吉野へ連れていったきりである。一度で懲りたらしい。あれは尻が痛い。痔が悪くなるという。そんな事はない。適当なマッサージになるので痔は良くなる筈だと根拠の乏しい説を振り立てるが、勿論信用されない。
古座まで夜行列車で行き、明るくなるのを待って、古座川を遡行する。源流から大塔山の肩を越えて、熊野川流域に入り、夕方川湯に到着。本来なら、一人ボッチの野営がいいのだが、テントサイトを探すのが面倒でキャンプ場へ飛び込む。大きなオートキャンプ用のテントの間に一人用の山テントをチョコンとはり、露天風呂へと急ぐ。ある、ある、千人風呂が。芋の子を洗うような賑わいである。脱衣場などはないので、川原に服を脱いで早速仲間入りする。風呂の中をあちこち移動すると、ホワッと湧き出した湯が尻に当る。気持ちの良い温度の所を見つけて、体を伸ばす。一日酷使した筋肉がほぐれていくのが感じられる。側で子供たちがキャーキャー騒いでいる。なんか、違和感あるなー。夏のプール遊びみたいやなー。突然気が付く。まわりの人間、みんな水着を着けている。女、子供は勿論のこと、小父さんまでがである。スッポンポンの小父さんは私だけである。誰か同類はいないか必死で探すが、見当たらない。弱った。上がりにくい。だんだん腹が立ってくる。親父は風呂へは裸で入れよなー。仕方が無いので暗くなるまで待つことにする。こうなるとなかなか十分には暗くなってくれない。のぼせを避けるため、冷たい所へいったり、また温かい所へ帰ったり。一時間程も辛抱して、やっと上がることが出来た。
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森吉山からヒバクラ岳を越えて小又峡への道はブナの原生林の中を行く。大木の根本から清水が滾々と流れ出している。まるで樹木がタンクであるかのように。一人で何時間も原生林の中を歩いていると、デジャビュの感覚に襲われる。アレッ、ここはさっき通ったところだ。リングワンダリングしている。イヤイヤ、そんなはずはない。道は一本だった。疑心暗鬼というやつである。なんとなく背筋が寒くなってくる。ブナ林の魔性を感じる。
昔、ヨーロッパは森に覆われており、町は森の海にポツンポツンと浮かぶ島だった。町から町へと辿る旅人にとって、森は魔性の住む恐ろしい土地だった。グリム童話を読むとこの感じがよく判る。何処かで読んだこんな話を思い出しながら、森の中を進む。
やがて森が切れて、林道が現れると今日のキャンプ予定地である。昔のブナ林はこんなものではなかったそうな。そう云えば、森吉山も伐採が進み、山頂直下までスキー場のリフトが上がってきていた。自然はだんだん追いつめられている。
今日はまだ日が高い。ミズナを摘んで、ソーメンでも作ってのんびりするか。
翌日、小又川を源流へと遡行する。この辺り、老年期の丘陵地帯で高低差が少なく、谷川の流れも穏やかで危険は全く無い。途中、桃俣の滝という少々エッチな形状の滝へ寄ってみる。ウーン、なるほど。
流れもチョロチョロになって、薮を漕ぐ程もなく岡の上に出る。山ではなく岡である。「ほんとにこれが分水嶺?」といった感じである。標高はそれでも千米近くはあるのだが。玉川側へすこし下ると林道に出た。地図には出ていない。全く水平でどちらへ行ったら下れるのか見当が付かない。地図上の山道は笹に覆われ、とても歩けない。エイッと決心して右へ歩き出す。2キロ程行った所で行き止まり。シマッタ、我ながらカンが悪い。
それでも、昼には玉川温泉に到着した。古くから知られた湯治場で、大きな一軒宿である。旅館部と湯治部に分かれているが、当然湯治部を選択する。相部屋の老人二人は名古屋から来てもう一週間も滞在しているとのことで退屈しきっている。なにせ湯治以外にはすることのない山中だから。洗濯場があると聞いて、少し洗っとくかと出かけると、付いてきて世話を焼いてくれる。洗濯機に汚れ物をほうり込んで、スイッチを入れてくれる。ついでに横にあった他人の洗剤まで入れてくれた。
風呂は大きな木造で、中にはいろんな湯や仕掛けがある。首だけ出す木製のトルコ、サウナなど。源泉は98度であるので、熱源には不自由しない。源泉のpHは1の塩酸である。普通の湯はこれを適温に冷水で薄めているが、冷やした源泉もある。ためしに入ってみる。普通の肌でもピリピリしみる。途中の薮漕ぎで作った擦り傷には、キクーッ!と感じる沁みようである。
泉源を見に出かける。もうもうと熱湯が噴き出して、川となって流れ出しているのは壮観である。これが玉川を死の川とした。有名な玉川の毒水である。玉川は田沢湖の側を流れているが、昔は、二つは繋がっていなかった。それを明治になって、トンネルを掘って玉川の水を田沢湖に引き込み、湖をダムとして使い発電しようと考えた技師がいた。おかげでそれまで豊かだった田沢湖の漁業資源は全滅したそうである。今は、このすぐ下流に中和施設が出来、石灰か、苛性ソーダか知らないが、放り込んでいるようだ。
さらに登って行くと地獄がある。ここには岩盤といわれる湯治法がある。地熱で熱くなった岩の上に茣蓙を敷いて寝るのである。患部を下にして温める。ためしに横になってみると、これがホカホカとくすぐったいような感じでなかなか気持ちがよい。つい、ウトウトする。
それにしても病人が多い。脳卒中や外傷後遺症。これが本来の湯治場の姿なのだろう。
夕食時、私の貧弱な内容を見てか、焼きイワシのおすそ分けがあった。
エーイ、この話も温泉の話題の中に入れてしまおう。
小生、今の会社に入社して約十年になるが、入社当時はよくドイツへの出張させられた。ドイツ本社が片田舎にあるため、宿はいつもクアハウス様のリゾートホテルであった。玄関にゴルバチョフの写真が飾ってあったところを見ると、彼もここに泊ったことがあるのかもしれない。ともかく低層で真っ白な外壁のなかなか瀟洒なホテルだった。地階には、ジム、プール、サウナ、スチームバスが揃っていた。近くのヴィースバーデンは天然の温泉で有名な町だが、ここはそうではなさそうだ。
さて、最初の出張の時である。ホテルの中をいろいろ探検してサウナがあるのを見つけた。日本にいる時は全く興味はなくて、わざわざ入りに行くことはなかったのであるが、せっかく付いているのに入らないのももったいない話であるから、試しに入ってみた。中は10ワットぐらいの薄暗さで、壁の二面が蚕棚のようになっていて、詰めると10人ほどが座ったり、寝転んだり出来るようになっている。まあ、後から知った日本のスポーツジムにあるのと基本的には同じである。
バスタオルを腰に巻いて入って行くと、中にはビックリするほど太った中年男が汗をダラダラと出して座っている。タオルは床に敷いて素っ裸である。ここは特に男女別でもないようなのにいいのかなと思いながら、こちらは見せびらかすほどの体でもないのでタオルを巻いたまま棚に座る。ウーン、暑い。
暫くして男が出て行くと、入れ違いに16,7才ぐらいの少年少女が入ってきた。美少年、美少女のカップルである。アア、可愛いな。少女は小生のすぐ横の棚に入ると、タオルをはらりと開いて一糸纏わぬ姿で仰向けに横たわった。目が飛び出した。エーッ、ドイツ人はこんな事を平気でやるのー? 日本の混浴なんて目じゃない。しかし、ドイツの男はこういうのを目の前に見ても何とも思わないのかなー? 美少年はどうしていたかって? ウーン、全然憶えていない。
翌日、ドイツ駐在の同僚にこの話をすると、珍しくもないように、「そうなんですよ。だから私の家内は、絶対にサウナへは行きませんよ。それと、今日から週末ですから、サウナも賑わいますよ。」と言った。そうか。今晩もサウナへ入ろう。ところが、その夜は誰もサウナにやってこなかった。出たり入ったり3度ほど頑張ったが、ついに目眩がしてきた。脳貧血だ。残念。ようよう部屋に辿り着いてベッドに倒れ込む。
これはまた別の出張の時。その日の会議も終わり、ディナーパーティーまでの時間をホテルに帰って寛ぐ。ひとサウナやるか。残念ながら誰もいない。しかし、サウナも出た後の爽快さはなんとも言えない。病み付きになりそうである。出掛けにすごい美人と入れ違いになった。黒髪で肌が抜けるように白い。勿論この段階では、しっかりとタオルで身を隠している。シマッタ。しかし今更、さもしげに引き返す訳にもいかない。それに迎えの時間も迫っている。後ろ髪を引かれる思いだった。
またまた、別の時。近くの市で医学関係の学会が開かれているらしい。いつも閑散としたホテルが賑やかだ。サウナへ行ってみると、ここも混雑している。男女が素っ裸で肌を触れ合わんばかりにして座っている。その中で、30才少し過ぎぐらいのまあ美人の範疇に入る女性が隣の同年輩の男性と話し合っている。所々聞き取れるドイツ語の単語から察すると、医学の実験に関する議論をやっているようだ。あんまり、素っ裸でやる話ではないと思うけどなー! どうもドイツ人の裸に関する感覚は大分我々とは違っているようだ。アメリカでサウナへ行ったときは、チャンと男女別だった。
皆さんもドイツを旅行するなら、サウナへ入りましょう。どんな眼福が待っていることやら。
小生のホームページを見た友人が送ってくれた峨峨温泉での経験です。すごい眼福ですね。彼はここで一生の眼福を使い果たしたのではないでしょうか?
私が山形で勤務していました時の体験です。
温泉好きですので、終末になりますと、ポンコツの愛車を駆って温泉巡りをしていました。温泉に入るだけで飲み食いしませんので、費用はガソリン代を除くと1000円以下です。
さて地図を見ますと、山形県と宮城県の国境、蔵王連峰の山中に峨峨温泉という小さな文字を見つけました。名前がよろしい、いかにも秘湯という感じです。行ったことは勿論ありませんが、地図から判断すると一本道でなんとか行けるのではないかと思い、夏の終わりに勇躍愛車を駆って、地図からこの辺りであろうと判断し、脇道に入っていきました。どんどん行っても何にもありません。脇道を1時間ぐらい行ったときにそれらしき旅館が見えました。
露天風呂があり、700円で入れるとの由でしたので、入りました。脱衣所といっても丸見えのところです。露天風呂に入りますと先客が3人いました。中年の外人夫婦プラス案内役らしい日本人女性です。奥様は水着をつけていました。もう一人の案内役らしい女性は、年の頃なら30歳過ぎ、温泉の入浴マナーを守り、水着は着けていませんでした。手ぬぐいで隠すこともせず、風呂の縁に膝を抱えた姿
で座っていました。大変色の白い、知的で奇麗な方でした。当方は内面の動揺を隠し、時々眼をやりながらも紳士らしく振る舞っていました。残念ながら当方は眼鏡を掛けても視力が0.7−0.8で、黒いものがチラチラと見えるのですが、もひとつ鮮明ではありません。外人の夫に話し掛けるとスエーデン人で、東北大学に招待されて来日されているのだそうです。妙齢のご婦人は大学に勤めており、案内役だそうです。いつまでも漬かっているわけにはいきませんので、露天風呂の側を川が流れていましたので、川を見に行く振りをしてご婦人の方に近づきましたら、さすがに真正面から見られるのは嫌なのでしょう、さりげなく立ててい
た膝を斜めにして前を隠しました。残念。
これは良い目の保養になったと味をしめ、次週も片道3時間の道のりをものともせず、やってまいりました。今回は若夫婦が入っていました。奥様は20台の中頃でしょう、大変色の白い、肌の決め細やかな女性です。バスタオルでしっかりガードしていましたが、赤ちゃんを抱えているため、赤ちゃんも気になるし、バスタオルも気になるしで、少しおろおろしているのも眺めの良いものです。結構でした。
また次週も来ました。(大変な執着心です)今回はだれも入っていませんでした。誰か来るかなあと網を張っていましたら、ビール片手に倶梨伽羅紋紋のお兄ーさん(少し歳がいった中年)が入って来ました。当方はじーっとしていましたら、後ろを振り向き「早く入れ」と怒鳴りました。みていますとグラマーな30代後半のお姉ーさんがおずおずと入ってきました。混浴露天風呂だと知らなかったのでしょう。バスタオルの準備をしていません。一本の手ぬぐいをダラーっと胸乳から垂れ下がらせ、前面を全て隠そうとしているのですが、なかなかうまくいきません。お兄ーさんは缶ビールを飲みながら「誰がお前の裸なんか見るか!」と毒づいていますが、あにはからんや、私がみています。お姉ーさんはなおも隠そうと努力していますが、横から見ますと努力も水泡に帰します。隠そうとする仕種に大層親しみを覚えました。
<またまた次週もきました。その時には露天風呂は宿泊客のみ利用可能となりましたので、当方は内風呂に入りましたが、男女別であり、何の面白味もなくなり、唯の温泉入浴になりました。
かくして私の混浴露天風呂記も終わり、翌年には転勤で山形を去ることになりました。
山形と言えば思い出すのは蔵王でのスキーであり、温泉での楽しい思い出です。
イヤー、好かった。
これまで書いてきた温泉のようなエピソードは何もなかったけれど、最高の温泉やった。以前、河原毛大湯滝で大失敗をして以来、滝壺の温泉にはいるのが一つの夢だったが、ついに宿願を達成した。
35年ほど前の学生時代、夏休みに北海道の山を歩いたとき、羅臼岳から硫黄山まで縦走してカムイワッカに下った。この縦走は国後島を眼前に眺め実に気持ちがよく、今でも目をつむると情景が浮かんでくる。このときは、ガイドブックで湯滝のことは読んではいたのだが、尾根を下って林道へ出たところですぐトラックに拾われたので訪れることが出来ず、画竜点睛を欠いた山行きとなった。
さて九月初旬の雨の朝、ウトロより知床五湖まで自転車で来、ここからバスでカムイワッカに向かう。車中には小生ともう一人のみ。砂利道だが、それほど悪くない。シマッタ。これなら自転車で行ってもよかった。
バスを降りると、道路脇にはズラリと車が並んでいる。出店があり草鞋を貸し出している。聞くとここからは沢通しに15分ほど登るのだという。念のため、500円出して一足借りる。大した元手も要らないなかなかうまい商売だ。
沢は火山岩の岩盤を刳りぬいて出来ている。早速流れに足を浸す。暖かい。ここでも既に30度以上はある。昨夜の雨で冷たくなっているのではと心配したが、これは杞憂のようだ。ジャブジャブと流れの中を歩いて上流に向かう。湯はかなり酸性が強そうで、水苔は全然ついておらず滑る心配はない。これなら草鞋をはくまでもなく快適に登れる。
10分ほど登ると第一の湯滝につく。小雨の中、早速裸になって飛び込む。10人程いた人たちはほとんど水着であるが、小父さん(お爺さん?)である小生は勿論スッポンポン。少しぬるいが気持ちよい。強酸性の湯煙が目に浸みる。岩壁についた踏み跡を伝って上に登ってゆく人がいる。聞くとこの上にもう一つ湯滝があるそうな。行ってみなくちゃ。
あった、あった。下の滝から少し登ると10メートルほどの滝があり滝壺に数人入っている。入ると滝壺の中央部は背が立たないほど深い。底の方でキラキラ光っているものがある。10円玉のようだ。メガネで潜って拾った来たのを見ると大分薄くなっていて、赤金色に輝いている。やはり相当酸性がきついようである。見上げると滝の中央あたりから湯が噴き出しており、それが上流からの水と混じって適温になっているようだ。
出たり入ったりで1時間以上も楽しんだ。手が皺だらけになってしまった。古くさい言いようだが、まさに天下の奇勝である。
岩間温泉
昨夜、沼ノ原でキャンプをしていると夜間激しい雨となり、「雨の中を石狩岳への登りはかなわん。ヌプントムラウシの湯へ下るか」などと思いながら眠ったのであるが、未明、小便に起き出してみると満天の星である。「シメタ!」と、慌てて朝飯を掻き込んで、まだ暗いうちに出発する。この辺りの立て看板には「ヒグマに出会わないために、早朝、夕方の行動は避けること」と書いてあるが、今日のコースはそのどちらかにはかかる。
所々にヒグマの糞が落ちているハエマツの茂みをかき分けて昨夜の雨露でビショ濡れになり、それでも道端に鈴なりになっているコケモモの実を囓りながら半日かかって昼前にやっと頂上に辿り着いた。快晴の頂上からの眺めは素晴らしい。360度見回しても、人工のものは林道が一本と遠くに糠平のダム湖が見えるだけである。まさに北海道のど真ん中に立っているという感じである。
携帯を取り出してみると、うまい具合に3本立っている。まず自宅にかけて今回の山行の最後の目標に到達したことを報告する。全く近頃は便利すぎて、どこへ行っても女房殿の手の平から抜け出すことが出来ない。どこの山でも山頂へ着いた登山者は携帯をかけまくっている。次に、ガイドマップに載っているタクシー会社に電話して、明日午後に麓まで迎えの予約をする。十数キロの林道歩きがたいして苦になる訳ではないが、車の手配がつくのに無理して頑張るほどストイックでもない。
さて、下りはシュナイダー・コースとかいう道と言うよりは崖を這いずり降りるような急な登山道である。4日間の山歩きでガタのきた膝でヨタヨタと下ってゆく。それでも一歩一歩足を前に出していると何時かは目的地に到着するもので、4時頃には林道との出合に着いた。ヤレヤレ、地図で見るとあと2キロほど林道を川に沿ってさかのぼるとで、今日の泊まりの岩間温泉だ。
登山口でキャンプをしていた親切なドライバーに温泉まで送ってもらう。
岩間温泉は林道から丸木の一本橋を渡ったところにあり、3×5メートル位のコンクリートの湯船があるだけだが、湯が滾々とあふれている。湯船のちょっと下手にテントを張る。トラックで湯を汲みに来ていた二人組の兄ちゃんに「エッ、ここでキャンプするの? ヒグマが出るよ」と脅かされる。「フン、こっちはヒグマの王国から降りてきたんじゃ。」と平気である。早速、第一回目の入浴。長い山行の疲れが溶けていく様な気分である。湯はすぐ側の小沢の砂地から湧いているようで、ホースで湯船に取り込んでいる。それと本流の上手から引いている水を適当に混ぜて適温にする。ホースから噴出している湯は透明なのに湯船は少し白濁している。温度が下がると成分が析出するらしい。
深夜、星空を仰ぎながら何度目かの入浴をしていると、先ほどのドライバーがやってきた。焼酎をぶらさげて。安物の甲類焼酎に「ガラナ」とかいうコカコーラに似た飲料水を混ぜて呑むのである。全く凄まじい味で、ひたすら酔うためだけのものであった。小生も4日も禁酒をしていたものだから、二人で大声で近頃の政治経済状況を悲憤慷慨しながら一本空けてしまった。何のことはない、二人とも株で大損しているだけなのだが。
何時に寝たのかよく覚えていない。
翌日も湯船に出たり入ったりしながら、昼過ぎまでのんびりした。結構有名な湯らしく、入れ替わり立ち替わり車で入浴に来る客が居るが、ほんとに気持ちのいい露天風呂である。当然、ただである。
ここは平湯、新穂高方面に来たときには必ず立ち寄るお気に入りの公衆露天風呂である。
1996年夏のサイクリングで、富山を出発して神通川をさかのぼり、午後早く新穂高・栃尾温泉についた。温泉街のはずれ、蒲田川のほとりに無料の温泉があるのに気がついて、早速入湯した。このあたりで無料の温泉といえば新穂高にひとつあり、山から下りてきたときは利用させてもらっていたが、残念ながら露天風呂はない。
中に入ると、数十坪はあるコンクリート敷きの流し場の中に二十人ぐらいはゆっくり入れる大きさの浴槽が作ってあり、透明のきれいなお湯がたっぷりと流れ込んでいる。肩まで浸かって手足を伸ばす。適温である。まさに醍醐味というやつである。しばらくして、流し場に寝そべる。川原からの風がほてった体に本当に気持ちいい。流し場と蒲田川の間には低い生垣があるのみで、まことに開放感に溢れている。対岸の公園がよく見える。ということはあちらからもここがよく見えるということだ。男は見られてもなんと言うことはないが、隣の女湯はちょっと困るだろうな、などと思いながら少しまどろむ。
さて、このあとは平湯まで漕ぎ上り、平湯峠を越えたところでリゾートホテルに泊まるという贅沢をやってのけ、次の日は高山までの大下りを快走して、郡上八幡までせせらぎ街道を走った。この街道がまた素晴らしかった。川上川沿いのせせらぎと広葉樹の明るい林を縫って静かで快適な舗装道路が続いている。郡上八幡で天然鮎の塩焼きで昼飯をとり、長良川を少し遡って、
その後、何度か荒神の湯を利用させてもらっていたが、そのうち志を二百円ほど入れてくださいということになって、入り口に箱が置かれるようになったが、その程度は維持費として仕方がないだろうと納得している。
今年の七月、ノルウェー登山旅行の足慣らしにと、家内を鏡平小屋まで連れて行った。その帰り、いい温泉があるからと、ここに連れてきた。私はいつもの通りのんびりと湯を楽しんで上がると、いつも長湯の家内がもう出てきていて所在なさそうに私を待っていた。聞いてみると、温泉はいいのだけれど、あまりに開放的過ぎて落ち着かないので、ちょっと入って出てきたとのこと。やはり女性は夜になって入ったほうがいいのかも。
久しぶりに素敵な露天風呂を見つけた。しかも無料である。
この秋(2005)11月初旬、妙高、火打に登った。この山系は関西に住んでいて、スキーをやらない小生にとってはなんとなく縁遠くて、今まで地図を見たこともなかったのであるが、日本百名山に二つ(雨飾山を入れると三つ)も入っているところなので一度登っておくかとの気になった。ガイドマップを買ってきて、初めて途中の焼山が二十年も前から登山禁止になっていて妙高山から雨飾山までの全山縦走が出来ないことを知った。燕温泉から妙高山へ登って、火打山へ縦走するのが良さそうである。関・燕といえばスキーで有名なところであることぐらいは、小生でも知っている。
朝大阪を出発して、午後早く妙高高原駅に降り立った。燕温泉行きのバスがない。観光案内所で聞くと、バスはひとつ先の関山駅から出ているとのこと。まったくの調査不足である。仕方がないので、ここからタクシーで行くことにして、宿の予約をする。
乗ったタクシーはまず大阪辺りでは決して見られない古い車である。赤倉温泉街を過ぎて、妙高山のスロープを気息奄々と登ってゆく。運転手は今年の紅葉はダメだと云う。なるほど、真っ赤な紅葉は見られず、せいぜいが赤みがかった黄色で、中には茶色く枯れてしまった葉も多い。この秋は厳しい冷え込みがなかったためだろう。トンネルを抜けて渓谷の中腹を奥に詰めると小さな温泉街に着いた。タクシーは宿の前までの坂を登ろうとするが登れず、バックして手前の広場で下ろされる。
宿に荷物を置いて外に出ると雨が降り出した。温泉街は端から端まで100m程で数軒の宿と二軒の小さな雑貨店だけである。三連休とあって歩いている客は多い。簡単に宿が取れたのはラッキーだったか。例年ほどではないのだろうが、さすがここまでくると紅葉も見事である。谷あいの小さな温泉街は廻りを全て雨に煙る黄葉に囲まれて、なんともいえぬ鄙びた佇まいである。小生の大好きなエエ感じである。
宿の傘に下駄履きで、少し登ったところにある日本の滝百選の惣滝を見物に出かける。薬師堂を過ぎて行くと、黄金の湯の立て札がある。覗いてみると数名分の脱衣棚があるだけの粗末なつくりの露天風呂であるが、周りの雰囲気が最高である。妙高山登山の下山客が数名入っている。後でゆっくり入ることにしよう。
惣滝の展望台に立つ。下手な文章でこの景色を述べるのは止めておこう。
夕食前、少し暗くなりかかったころ、露天風呂に行く。幸い登山客が3人入っているだけである。浴槽は10人ほどで一杯になる程度で大きいとはいえない。早速裸になって湯に入る。ウーン、丁度いい湯加減だ。お湯が滾々と流れ込んでくる。四方は見上げるほどの高さまで全て紅葉。宿の露天風呂とは格段の差だ。新緑の頃もエエやろな。登山客の話では山の上は吹雪いていたとのこと。
次の日、快晴。早朝、登山の途中で立ち寄ってみる。誰も入っていない。もう一度入ろうかと迷うが先を急ぐので断念。女湯も入ってなさそうなので覗いてみる。ちょっと開放的であるが、こちらのほうが少し高いところにあり、しかも広そうである。
燕温泉 黄金の湯 惣滝
1)湯泊温泉
永田岳−宮之浦岳−黒味岳と縦走して、人のほとんど歩いていない湯泊歩道に入り、途中テントで一泊、小雨の中長い長い林道をびっこを引きながら歩いて、ようやく湯泊の集落に下りてきた。元々このコースを計画したのは屋久島の登山のお終いに海辺の露天風呂にドボンと飛び込むのはなかなかロマンティックではないかと柄にもないことを考えたからだ。
出会った小学生に温泉への道を訊き、海岸へ向かう。途中の谷に、すごいガジュマル樹が両岸に根を下ろしている。見えた! 岩礁に浴槽があり、数人の入浴客がいる。
堤防の内側に一軒の食堂がある。まずはビールと入ってみる。数人の集落のオッちゃんがたむろして、焼酎を飲んでいる。まだゴールデンウィークの連休は一日あるから、民宿は一杯かもしれないな。 ビールで喉の渇きを癒しながら、オッちゃん達に話しかける。幸いその中に民宿の親爺がいて、素泊まりの相部屋でよければOKという。渡りに舟と直ぐに話をつける。これでテントを張らずに済んだ。昨夜の雨で、テントに雨がしみ込むことが解ったのでちょっと不安だったのだ。
親爺に車で往復してもらって宿に荷物を抛り込んで、温泉にとって返す。
さて、入浴。小雨が降っている。岩礁の中に浴槽の隣には屋根付きの足湯があるが、女の子が数人入っているので、あそこで裸になるわけにはいかない。数十メートル離れた防波堤の内側に男女別の脱衣場があるので、そこでパンツ一枚になって傘をさし着替えをポリ袋に入れて浴槽に行く。簡単な仕切りで男女別になっているが、これでは女性は入れない。おまけに看板には水着、下着着衣は禁止と書いてある。
湯は40度以下だろう。かなりぬるい。のんびりと傘をさして入っていると、奥の方から人がやってくる。向こうにもう一つ浴槽があるらしい。行ってみなくちゃ。
少し行くと浴槽がある。こちらの方が心持ち熱い。菅笠を被って湯に浸かっている青年がいる。脱サラをして、永住する気で東京から夫婦で一年前にこちらにやってきたとのこと。部落の行事などにも積極的に参加して、もうすっかりこの土地の人になりきっている。岳参りや、知られていない巨杉などの話を聞く。30分ぐらい入っていると段々体が温まってくる。長話をしながら、のんびりと入っているのがちょうどよい。そういう入り方をすると、出ても冷めにくい。
雨が激しくなってきた。もう、ここでは着替えられない。やむなく、素っ裸で前をポリ袋で隠し、傘をさして脱衣場まで走る。足湯に浸かっていた女の子が二人、パッと海の方へ逃げ出した。
2)平内海中温泉
民宿から歩いて2、3分海の方へ下ると、この温泉はある。干潮を挟んで5時間ほど入浴可能で後は海面下に沈む。今日は三時が干潮とのこと。それで早朝四時に入りに行くことにする。昨夜は激しい風雨だった。テントを張っていたら、悲惨な一夜だったろう。目覚ましの音で起き出すと、風はまだ強いが雨はほとんど収まっている。日本の西にある屋久島の夜明けは遅い。まだ真っ暗だ。ヘッドライトをつけ、レインコートの上着を引っ被って、傘を持って出かける。
海に出ると、ヘッドライトに照らされた海は大荒れで白波が渦巻いて岸に押し寄せている。岩礁にまっすぐに下りているコンクリートの道を降りてゆくと、ここから裸足のマークがある。そこで靴を脱ぎ、裸になって衣類をレインコートに包む。浴槽に降りてゆくと、ツルッと滑ってしたたか腰を打つ。浴槽はザブリザブリと波に洗われていてとても入れる状態ではない。少し上部にある上がり湯の壺は幸い波を被っていない。本当はここには入ってはいけないのだろうが、誰もいないのでここに入らせてもらう。ちょうど一人がすっぽり入れる大きさだ。湯は湯泊より少し温かいだろうか。
しばらく暖まっていると、ここも波を被りだした。頭からザブリと被ると、湯は冷たくなる。しばらくして暖かくなるとまた波である。これはたまらんと早々に逃げ出した。
宿に帰ると入れ違いに相部屋のライダーの青年が出かけていったが直ぐに帰ってきた。とても入れる状態ではなく、足だけつけて帰ってきたとのことである。
宿を出る前に様子を見に行くと、温泉はすっかり波の下で跡形もなかった。
その日の午後5時頃ドライブの途中寄ってみると、波はすっかり収まっていて、干潮から二時間経っているにもかかわらず、浴槽は集落の老人が五、六人入っていて、上には同じくらいの見物人がいた。ここも全くの混浴で脱衣場もないので、旅の女性が入浴するのは不可能だろう。
3)楠川温泉
レンタカーでのドライブの途中、湯泊温泉で一緒だった青年に聞いた楠川温泉に寄ってみる。楠川集落のはずれ、県道から少し入ったところに温泉はある。冷泉で沸かし湯らしい。小川に沿った小さなひなびた建物で前の駐車場はやっと5、6台のスペースである。
浴場は一辺5m程の正方形を斜めに仕切ってあり、半分は女湯になっているのだろう。浴槽は仕切りに沿って長方形に作ってある。なかなか洒落た作りだ。窓からは小川の流れと、新緑が目に入り、風が爽やかである。
湯はアルカリ泉か、肌がツルツルしてくる。そうそう風呂にばかり入ってもいられないので10分ほどのカラスの行水となる。
旅の最後の夜、尾之間の民宿に投宿する。若主人が尾之間温泉の他、JRホテルの浴場がお奨めだという。それで尾之間温泉は明日にしてJRホテルに行ってみる。初めJALホテルの聞き間違いかと思ったが本当にJRホテルだった。断崖の上に立つ小さなホテルだ。ここの浴場が午後のひととき外来の客に開放されている。さすがホテルだけあって、豪華な大浴場だ。シャンプー、ボディシャンプーが備えられ、タオルも二枚付いている。十分に体を洗う。
ここの売りは海の展望だろう。露天風呂から遙か彼方にトカラ列島がかすかに望めた。よほど空気が澄んだときでないと見えないそうだ。
5)尾之間温泉
屋久島滞在最終日。朝僅かに雨がパラパラ来たが、雲が高くモッチョム岳が奇麗に見える。今日は千尋の滝を見て、モッチョム岳登山をして屋久島記念とする予定。
モッチョム岳は標高差は大したことないが、木の根やロープに掴まっての急登の連続で大汗をかいた。頂上からの眺めは文句なしに素晴らしかった。眼下には太平洋、白波のレースに縁取られた屋久島の海岸線、尾之間の町、昨夜の宿もはっきり見える。背後には屋久島の山並み、花崗岩の大岸壁。岩の陰に岳参りの祠があり、石の神像が祀られている。快晴となり、爽やかな風が吹き抜ける。
登山後、尾之間温泉に向かう。しかし、入浴後に着替えるものがもう無い。途中でTシャツ、下着、靴下、サンダルを買う。
温泉の外観は一見銭湯のように見える。浴槽の底には丸い石が敷き詰められていて、少し熱めの透明な湯が満々と湛えられている。屋久島の最後を飾るにふさわしい贅沢な湯だ。長旅に疲れた体を湯の中にゆっくりと伸ばす。隣に入ってきた人はモッチョムの頂上で一緒だったひとだ。誰も同じことを考える。
ここの露天風呂が日本一高いところにあるそうだ(2150m)。二番目は白馬鑓温泉(2100m)、三番目も北アルプスの高天原温泉(2100m)らしい。白馬鑓温泉、高天原温泉は行ったことがあり、それぞれいい思い出があるのだが、本沢温泉は行ったことがなかった。
このところ、エスペラント語を狂ったように勉強している魁猿が甲斐小泉であるエスペラント語研修の合宿が終わった後、本沢温泉へゆきたいから小生に車をころがして信州まで来いと言う。まあ、小生も本沢温泉なら行ってみたいと思うので、天候がよさそうならゆくと返事する。
天候はきわどいが、何とかなるだろう。
出発の日に買い換えの新車が入ることになり、信州行きが乗り初めとなることになった。そうすると、家内も新車なら一緒にゆくと言いだし、初めてのプリウスで恐る恐る深夜の中央道を走って、八ヶ岳山麓に早朝到着した。甲斐駒ヶ岳、富士山、八ヶ岳の峯峯がくっきりと見える。
魁猿との待ち合わせは正午であるので、それまで昔よく行った懐かしの八ヶ岳高原ロッジで朝食をとり、周辺を散歩して時間をつぶす。白樺林を渡る朝の風が快い。
魁猿を甲斐小泉駅で拾って、本沢温泉登山口に2時に到着。前の車なら四駆だったので更に奥まで車で入ることができたのだが、新車のプリウスで凸凹の多い林道を走る気はしない。登山口から2時間ほど林道を歩いて本沢温泉小屋に到着する。途中、小屋近くではクリンソウの群生があり、赤い花を着けている。関西ではピンク色だがここのは赤色が濃い。シャクナゲはまだ堅いつぼみである。
今日は月曜日なので小屋はひっそりとしている。今日の泊まりは我々のほか一人で合計4人とのこと。
早速、小屋から数百メートル登ったところにある露天風呂・雲上の湯に出かける。家内はもう水着を着込んでいる。本沢の足場の悪いガレた斜面を下ると小さな湯船がある。脱衣場などはなく湯船の脇の狭い板の上で服を脱がなければならない。油断をすると谷へ転落しそうである。雨が降ってなくてよかった。湯は白濁していてぬるめである。40度以下かな。3人で入り足を伸ばすともう一杯である。見上げると硫黄岳の爆裂した褐色の岩壁が覆いかぶさるように迫ってくる。のんびりと入っているとだんだん体が温まってきて、気持ちがよい。しかし、夏場の週末は大混雑で、ゆっくりと入ってはいられないだろう。空いていてよかった。
小屋に帰って、今度は内湯の「こけももの湯」に入る。これは十人ぐらいは楽には入れる大きさの木製の浴槽でかなり熱い湯だ。
食事は普通の山小屋並みである。まあ、車が入らぬ場所なのでこれはやむを得ないだろう。同宿は剣道修行中の青年でいかにも武者修行の武芸者といった感じのいい若者だ。家内が食べ残した皿を綺麗にかたづけてくれた。
翌日は考古学にも夢中になっている魁猿の案内で霧ヶ峰の星糞峠を歩く。ここは縄文時代から黒曜石の鉱山があった所でここで採れた黒曜石の遺物が全国に散らばっているとのことである。道ばたにガラス質の小さな黒曜石の破片が散らばっている。星糞の名前の由来だ。午後から降り始めた雨はだんだん激しくなり、予定を早めて土砂降りの中央道を無事帰宅しました。
クリンソウの群落 | 雲上の湯 | 硫黄岳 |
三朝温泉 −河原の露天風呂−
人形峠。ここでテントを張ろうしているとウラン鉱山関係の警備員が出て来たので、一応話を通しておこうとすると、「ここでキャンプはダメだ」という。警備員の管轄権がこの広場まで及ぶのかどうか知らないが、頑張るほど好いキャンプサイトでもないので黄昏迫る中、鳥取県側へ峠を下りながらキャンプサイトを探す。今回のサイクリングに持ってきたテントはヘネシー・ハンモックというハンモック式のテントだ。適当な間隔の樹木が2本あればいいのだが、夏場に草むらに入り込むのもおっくうだし、道路脇も車の音がうるさい。というわけでなかなか適当な場所が見当たらない。
とうとうあと10キロ程で三朝温泉というところまで来て、本当に夕闇迫る頃になった。右手に広い公園がある。ここしかないな。乗り入れて奥に進むと東屋があり、東屋の柱と旗を立てるポールにハンモックを吊るとちょうどよい。車の音も、林に隔てられてあまり気にならない。
テントを設営して、東屋の下で夕食。途中のJAのスーパーで買ったインスタント焼きそばだけ、アルコールなしの寂しいものだ。蒸し暑い夜だが、熟睡。
明け方、雨の音で目が覚める。台風が近づいているようだから、天候は回復しないだろうな。予定ではもう一泊して蒜山高原から瀬戸内まで抜けるつもりだったが、雨の中を走るのは全然楽しくない。ゆっくり朝寝をする。
そのうち、村の放送が何カ所かの小学校の運動会の中止を告げる。いよいよダメだ。温泉に浸かって、倉吉から帰るか。ノロノロと起き出す。
雨の中30分ほど走ると、三朝温泉だ。温泉街の入り口にキュリー夫妻の像が建っているのは、ここがラジウム泉であるためか。朝の温泉街はひっそりとしていて、朝飯を食べるところもない。公衆浴場が開くのも10時半でまだ一時間以上ある。
橋から見える河原に露天風呂が見える。手前半分は足湯になっていて女性が足を付けている。ヨシズの向こうは露天風呂で男が何人か雨に打たれながらの入浴中。ここしか入浴出来るところはなさそう。それに無料というのも嬉しい。
河原への降り口に「伊豆の踊子」の像と言ってもいい学生帽の男と日本髪の少女の像が建っていて、野口雨情の三朝小唄の文句が彫ってある。
雨の日の自転車乗りは衣服をいっぱい身に着けており、裸になるのに時間がかかる。衣服棚に衣類を入れて、浴槽に入る。雨の日はぬるいと書いてあるがそれほどでもなく十分気持ちよい。お湯は無色透明である。大阪から来たというオートバイのお兄さんといろいろ旅の話をする。この雨の中大阪まで帰るという。オートバイは行動範囲が広いが、雨でも鉄道で帰るわけにはいかない。
ペットボトルを数本持ってきて流れだしからお湯を汲んでいる人がいる。美味しいらしい。放射能は大丈夫なのかいなと思いながら、試しに飲んでみると無味無臭で味は悪くない。
雨に打たれながら、指がシワシワになるまでお湯に浸かっていた。
あとは倉吉まで走り、古い町並みをちょっと見物して、早々に帰阪した。
川原毛大湯滝リベンジ
1999年5月初め、ここを訪れて氷水の滝に震え上がったことは以前「我流温泉記」に書いた。要は夏の間でなければ、滝は湯ではないと言うことだ。
2018年8月下旬、再びここに来ることが出来た。前回は下から川原毛地獄へ登る道を辿り下の駐車場に着いたのだが、今回は秋ノ宮から県道310号(こまち湯ったりロード)の急坂を必死で漕ぎ上がって川原毛地獄の上部に辿り着いた。
今日は前回同様、下の駐車場にテントを張ろう。ここから下の駐車場まで1キロ弱、標高差100mは山道で自転車をソロソロと押して下ろす。19年前と同じところに東屋が建っている。周りは広い芝生の広場だ。キャンプ禁止と書いてあるが気にしない。以前は広場のすぐ下の谷川に下りて遊ぶことが出来たのだが、柵がめぐらされ立ち入り禁止となっている。下から登ってくる道は今年は工事中で通行止めのため車が上がって来ることはなく、午後も遅くなった今はひっそりとしている。
早速大湯滝に向かう。駐車場から下る山道に水着で入るようにと書かれているが、大きなお世話だ。誰もいないのに。それに露天風呂は裸が原則だろう。
10分程で滝の下に着く。足を入れてみるとまさにお湯だ。スッポンポンになって体を浸ける。温度は40℃弱だろうか。気持ちいい。長湯が出来そう。なかなかの水量の滝が2本、高さは20m程かな。どちらも同じ温さで、ちょっとした滝壺があり、あちらこちらと移動したり、滝に打たれたりして遊ぶ。大自然を独り占めしている気分だ。
ふと気がつくと、すぐ傍まで若い外人さんのカップルが下りてきている。あわててタオルで前を隠す。話してみると北欧人とのこと。すぐ上の脱衣場から出てきたのを見ると、二人ともやっぱりスッポンポンだ。女性はなかなか美人で、ルノアールの絵から抜け出てきたような豊満な体をしている。眼福、眼福。
なかなか傍には近寄りにくいので、自然と二人が滝壺を占領して、小生は下流の流れでノンビリすることになる。二人は岩に登ったり、潜ったりして他人の目を気にせず楽しんでいる。自然の中ではしゃいでいる二人を見ていると、アダムとイブもこんな感じだったのかなと思えてくる。
そのうち、今度は中年のカップルが下りてきた。男性は早速スッポンポンになるが、奥さんは「私は足湯だけにするわ」と遠慮がち。
そこで小生は退散することにする。
知床のカムイワッカの滝が事実上立ち入り禁止となった現在、湯滝は日本でここだけになったのでは。それにしても、自然の中へ入って行くのは何らかのリスクは避けられない。それをすべて禁止することで解決しようとするのは、自由な冒険心を押さえつけることになるのではないだろうか。
川原毛地獄でも、谷川の泉源に下りるのが禁止されたり、地獄巡りのコースが立ち入り禁止となっていたりして、楽しみが安全のため制限されてきている。泥湯の硫化水素による事故が原因で行政はさらなる事故を心配したのだろう。しかし、平安の時代から人々が此の地を信仰や娯楽の場としてきたのである。管理者はリスクを充分に説明して、個人がリスクと楽しみのどちらを取るか選択に任せるようにしてはどうだろう。
中宮温泉薬師の湯
八月中旬、中国からの留学生K君を案内して日帰りで白山に登った。腰痛で小生は室堂まで登るのがやっとで、K君だけ山頂までピストンさせて、小生は室堂でのびていた。ヘロヘロになって下山して、中宮温泉野営場に車を回す。ここで車中泊とする。車をシエンタに換えて、楽に寝られるようになった。山用テントより快適だ。
取り敢えず登山の汗を流そうと、近くの中宮温泉の露天風呂「薬師の湯」に向かう。中宮温泉は白山ホワイトロードの入り口の小さな谷間にある宿が3軒ほどの小さな温泉である。
一番奥の小さな駐車場に車を突っ込んで、露天風呂に向かう。お薬師さんの奧に露天風呂がある。入り口の料金箱に一人500円入れて急いで湯船に入る。辺りは大分暗くなってきていて、風呂の底はどうなっているかよく判らない。少しぬるめの気持ちのよい湯だが、底がつるつるしていて、何かビニールシートでも敷いているような感じである。
もう入っている人の顔は判らないほど暗くなってきた。入っているのは我々2人ともう1人若者が入っている。彼は全国を自転車で放浪しているらしい。心を病んでいるのか、社会に適応出来ず一人旅をしているとのこと。何処へ行くとの目的もなく彷徨っているようだ。元気を取り戻して社会復帰出来ればよいが。
真っ暗になって、宿泊予定の野営場の駐車場に帰る。今晩は白峰名物の石豆腐の田楽で「加賀鳶」と「宗玄」のカップ酒だ。
白山ホワイトロード「親谷の湯」
以前、白山スーパー林道と呼ばれていたときに何度か通ったことがあり、途中に「親谷の湯」という絶景の露天風呂があることは知っていたが、いつも素通りで入る機会がなかった。
今回、白山登山の機会に「親谷の湯」の駐車場で一泊してノンビリ入浴しようと考えたが、残念ながらホワイトロード内では泊まることは禁止されていることが判った。それで前夜は有料道路手前の中宮温泉野営場の駐車場で一泊して、早朝に「親谷の湯」に入り、白川郷に抜けることにした。ネットで検索すると、源泉の温度が下がって浴槽の温度は35度前後とのことだ。暑い季節でもあり、ぬるい湯で長湯するのもいいな。
午前8時、ゲートを通過。通行料は1600円と以前より大分安くなっている。4キロ程走り蛇谷駐車場に到着する。ここから遊歩道を谷まで下る。10分ちょっとかな。台風のためか一ヶ所倒木を乗り越えるところがあったが、概して行く整備されている。
やがて道は谷沿いの崖に沿って、コバルト色の淵や白い流れを見ながら上流へと進む。大きな岩魚がゆったりと泳いでいる。
対岸に大きな滝が見えてきた。日本の滝百選の姥ヶ滝だ。滝の水が細かく分かれて白髪のように見えるために名付けられたとのことだ。滝を正面に見る場所に露天風呂が造られている。アア、まさに絶景だ。
早速、裸になって浴槽に浸かる。アレッ、大分熱いぞ。40度越えている。どうやら源泉が熱くなったらしい。正面の姥ヶ滝を見上げながらしばし陶然とする。湯に浸ったり、上がって風に吹かれたり、ほんとにノンビリする。中国留学生のK君もこんな露天風呂は初めてと感激している。
小一時間も遊んだかな。上がってうえの段に登ると足湯がある。ちょっと足を付けるが長湯の後では面白みもない。説明板を見ると、源泉は少し上流にあり、この場所で冷水を混合して41度ぐらいに設定しているらしい。
さあ、帰ろう。
祖谷温泉露天風呂
私は徳島県西部三好市の生まれで、中学校まで地元で育った。この地の山奥、といっても三好市自体が相当山奥なのだが、吉野川の支流、祖谷川の渓谷に秘境の湯として知られる祖谷温泉がある。私が子どもの頃、60年ほども前、祖谷川の河原に温泉が湧いていると聞いたことがあった。そこは県道から標高200メートルも下りなければならず、風呂に入っても上ってくるのに大汗をかかねばならないらしい。子どもがバスに乗って遠くまで行くなどとは考えられなかったので、行きたいとも思わずそのままになっていた。それがいつの間にか上に旅館が出来、ケーブルカーで露天風呂まで上り下りが出来るようになった。
八月末、所用で家内と帰省しなければならなくなった。この機会に家内が祖谷温泉に泊まりたいという。幸いネットで最後の一室を押さえることが出来た。.
当日、大阪を昼前に出発し、まず吉野川と祖谷川の合流地点にある先祖が居住していた川崎という集落でご先祖の墓参りをする。それから祖谷川に沿って県道32号線を上流へと走る。この道は祖谷渓谷の中腹、川から標高100〜200mぐらい高いところを走る絶景の道路である。今は緑濃い季節だが11月頃は紅葉が素晴らしい。クネクネと続く細い道を10km程走ると有名な絶壁の上の小便小僧の像があり、そのすぐ先に祖谷温泉がある。 宿で部屋に荷物を入れるとすぐにケーブルカー乗り場に向かい、上がってくるのを待つ。湯上がりの客と交替に乗り込んで、下りのボタンを押す。ボタンを押すだけだが、客が運転する。標高差170mだったかな、下るにつれて祖谷川の流れが近づいてくる。今日は数日来の雨で大分濁っていて、水量も多い。吊り橋が架かっている。あれを渡ると国見山に登れるのかな。
今日の男湯は「渓谷の湯」だ。湯船は川の流れから10mぐらい上なのかな。激流が目の下に見え、また上流が見渡せてまさに絶景だ。湯は37、8度ぐらいでぬるめだが夏の今は心地よい。パイプから流れ出る湯は豊富で、打たせ湯も出来る。長く入っていると、からだがポカポカしてくる。一時間近く入っていた。ああ、もう夕食の時間だ。
翌朝、朝湯に入りに下りる。風呂は日替わりなので「せせらぎの湯」だ。こちらは下流側にあり、流れの落ち込みと大きな渕に面している。昨日より少し澄んできたかな。きれいに澄み切った流れの時にもう一度来てみたいものだ。
湯ノ口温泉
湯ノ口温泉には今まで二回行ったことがある。一度目は相当昔の十二月、サイクリングで偶然辿り着いてここの駐車場にテントを張って入浴した。それまでこんな処に温泉があるなんて全く知らなかった。二度目は魁猿とバンガローに二泊してのんびりと湯治をした。今回が三度目だ。息子と中国人の友人を誘ってバンガローに二泊する。
湯ノ口温泉は熊野市紀和町の北山川から少し谷を入ったところにある。場所は鄙びているが、建物は公立の新しいもので、宿泊施設としてバンガロー、ロッジなどがありキャンプ場の雰囲気だ。勿論、自炊のみである。
温泉は古く南北朝時代に遡り、この辺りの金山採掘に伴って発見されたと伝えられており、その後湯治場として栄えていたらしいが、昭和初年新しい鉱山採掘によって湯脈が途絶えた。昭和五十年代に鉱山閉山後、新たにボーリングしたところ地下千メートルから新たに温泉が噴出し、その後今の湯ノ口温泉の施設が平成20年に出来たらしい。毎分1200l、45.7℃の湯が出ているとのこと。
さて、大阪を朝出発して、御坊の鮮魚店で今晩のクエ鍋の材料を仕入れる。クエは天然物で、エッという値段だが、そこは勢い。まあ三人で割ればそう高い買い物でもないか。中辺路を走って本宮、木津川の少し下流で北山川に入り小川口、もう湯ノ口は近い。
湯ノ口温泉は谷間の拡がったところにある。多分、元鉱山事務所があった場所なのだろう。山の向こうにある入鹿温泉までトンネルでつながっていて、トロッコが定期的に運行されているようだ。これも鉱山の名残だ。
早速、バンガローに荷物を放り込み温泉に向かう。バンガローに宿泊すると、温泉は何回入っても無料だ。しかし、バンガローは八棟あるが自炊のためか宿泊客は我々のみだ。あとは地元の日帰り入浴の客が数名。湯に入ってのんびりする。
夕食はお待ちかねのクエ鍋だ。旨い。地酒「黒牛」「紀伊国屋文左衛門」でしたたか酔っ払う。
翌朝も一風呂浴びて、那智大社、新宮の神倉神社と速玉大社を参詣して、熊野川を渡り熊野古道伊勢道の風伝峠から丸山千枚田を眺めてバンガローに帰る。早速、温泉で汗を流す。夕食は新宮のスーパーで買ってきた材料でBBQだ。三人で話が弾む。
朝、最後の入浴。チェックアウトして出発する。最初の予定ではジェット船で瀞峡観光のつもりだったが、なんとコロナのせいでジェット船の会社が倒産したとのこと。せめてジェット船の終点である田戸まで車で行ってみよう。田戸で川原に下りてみる。ここは瀞峡の入り口で僅かに峡谷の幽邃さを窺うことが出来る。
さて、あとは熊野本宮を参詣して、大斎原(おおゆのはら)を見て、熊野三山参詣を終える。川湯温泉仙人風呂で最後の入浴をと尋ねるが、今年の湯船は意外に小さい。客が少ないと見て、小さくしか掘らなかったらしい。入浴する気がなくなり、田辺に引き返し、海鮮丼で昼食、白浜三段壁を見学して今回の湯治を終えました。
その他
筋湯:共同風呂の打たせと宿の鯉こくが未だに忘れられぬ。
白骨温泉:次男が幼稚園のとき、「ドテンブロ、ドテンブロ」とひどく喜んだ。
中尾温泉:深夜、妻と入った露天風呂はミミズがいっぱい浮いたミミズ風呂だった。何かに効きそう。
酸ヶ湯:三沢基地の兵隊さんか、恥ずかしそうに大浴場へ入ってきた。「外人も男女に混じる酸ヶ湯かな」
垂玉温泉:妻が初めて白昼、混浴の露天風呂に入った。勿論、タオルでギリギリ巻き上げてであるが。あそこまでやると、水着より厳重である。それほどまでにしなくても。誰も興味を示すほどのものでもないのに。
白馬鑓温泉:男湯は登山道の横にむき出しであり、登山客に横目で見られながら、次男と並んで入っていた。
法師温泉:小学校低学年の頃、もう決して一緒に風呂へ入ってくれなくなっていた娘が意を決して、混浴の大浴場へ入ってきた。あの緊張した顔の可愛かったこと。