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 朝、目を覚ますと船はアスワン郊外の港に停泊していた。広々としたナイルの岸辺には今日の午後乗る予定のファルッカ(エジプト式ヨット)が多数停泊している。対岸の小山の頂上には寺院の遺跡、中腹には古代の墓らしい洞窟が多数口を開けている。ナイルはこの辺りが最も水量豊かで下流に行くにつれて段々痩せて行く河なのだろう。

アスワン:対岸の小山

 

 アスワンの地でナイルの豊かな原野は終わり、ここから上流はヌビアの地となり、ナイルは渓谷を形成して不毛の砂漠の中を流れている。アスワンのすぐ上流、アスワンダムのあるところは第一急流と呼ばれるところである。ヌビアというのは金のとれる地の意味らしく、常に征服の対象とされてきた。 

 さて、午前第一の見学地は古代の石切場である。大きな岩の下に子犬も含めて野良犬が十数匹巣くっている。この地一帯は赤御影石の岩盤の上にあり、ここで切り出された石はナイル下流へと運ばれていった。町の真ん中にある石切場(ダムが出来る前はこの辺まで水が上がってきていたのだろうが)には、巨大なオベリスクが未完成のまま横たわっている。途中にヒビが入っているので、完成を諦めたのだろう。

岩の下の野良犬

未完成の巨大オベリスク

 

 次いでダム見学。バスは20世紀初頭に作られた古いダムを通って、上流へと走ってゆく。ナビル教授は途中でバスを止めて、路傍の砂漠へと案内する。ここの砂がエジプト一細かい砂だと言う。掬ってみると、乾燥しきった褐色の砂は手からサラサラと流れて落ちる。砂時計にぴったりの砂だ。土産に一袋詰める。小高い岩の上から見渡すと、送電線の縦横に走る砂漠だ。果ては当然何もない地平線。古いダムから8km上流にあるのがハイ・ダムだ。大きい!!

ナセル湖も雄大だ。500km上流のスーダンまで湛水域が続いているそうで、琵琶湖の7、8倍の大きさらしい。大きなクルージング船が浮かんでいる。どうやってダムに運びこんだのだろう?

送電線の走る砂漠

ハイダムから下流を望む

ナセル湖

 

 フィラエ神殿へ向かう。古いダム湖の中にある花崗岩の島に建っている。船着き場は観光客で一杯だ。休憩所では数名の老人がドミノに興じている。水煙草を吸っている老人もいる。島に上陸すると、ギリシャ風の円柱の立った回廊がある。プトレマイオス朝時代に建てられたイシス神のための神殿である。イシスは冥界の神・オシリスの妻で、ホルス神を生んだとされている。後に、コプト教(エジプトのキリスト教)の教会だった時期もあり、その跡も残っている。

 昼食のため船に帰る途中、香水の店による。香水には興味はないが、棚にズラッと並んだ香水瓶が美しかった。

フィラエ島へ向かうボート

イシス神殿回廊

イシス神殿

 

 

香水ビン

 

 

 昼食後、昼寝。熟睡して、午後の集合にもう少しで遅刻するところだった。気持ちの良い川風とちょっとした疲労のせいか。

 ファルッカに乗る。ナイルの川面にはちょうど良い涼風が吹き渡る。ファルッカは長さ7、8mほど、幅4mほどのずんぐりとした舟で高さ10mほどのマストが一本、大きい三角帆が付いているヨットだ。キールも付いている。ヌビア人の船頭が展帆して、舟を川の中流に出す。舟は追い風を受けて、上流に走る。船頭がなにやら歌をうたい、我々は輪になって行列しながら、合いの手を入れさせられる。無心になって、それはそれで結構楽しい。アガサ・クリスティが滞在して、「ナイル殺人事件」を書いたというホテルの下で、舟は回転して、帆を一杯に張って向かい風をジグザグに切り上がる。一時間ほど遊んで町の波止場に接岸する。素人目にはまことに鮮やかな操船であった。

ファルッカ上で輪になって踊る

停泊中のファルッカと遺跡のある小山

ナイル殺人事件の舞台となったホテル

満帆のファルッカ

 

 町のバザールを散歩する。ナイルと平行の長い通りがずっと商店になっている。ナビル教授がまずスパイスの店に連れて行く。この町はスパイスが有名だとのこと。バザールの外れの小さな店である。記念に黒白赤緑の胡椒が一袋に入ったものを買う。そのほか、見たこともないスパイスが一杯置いてある。サフランもあったが、パエリアが得意料理の私が使おうとは思わない代物だった。通りには確かにスパイスの店が多い。また、店頭にハイビスカスの赤い花の乾燥したのが籠に山盛りに積んである。ハイビスカス・ティーはビタミンCが多いとのことで、こちらでいる間によく出てきた。あまり味わいのあるものとは思わなかったが。「ニー、ハオ!!」の呼び声がよくかかる。誰が教えたのか、「ヤクザ!!」とか、聞くに堪えない言葉の呼び声がかかる。

店頭に並ぶハイビスカスの花とスパイス

バザール

 

 夕食後、ベリーダンスのショー。初めはスカートを着けた男性のダンサーが回転ダンスをする。すごいスピードの回転である。バレー・ダンサーのように回転時に一点を注視している様には見えない。

 次いで、ベリーダンスである。エジプトの服装の感覚から言えば相当に肌をあらわにした衣装である。アラブの観客はイスラムの教えとどう折り合いをつけるのかな? 昨日のエジプト・ファミリーの娘たちの溌剌さはないが、さすがプロのダンサーである。緩急をつけた腰の振りは思わずドキッとするようなエロチックな動きを見せる。一度、一流のダンサーの踊りを見てみたいものだ。

 突然、ダンサーが日本人のグループの方へやって来て、妻の手を引っ張る。一緒に踊れとの意思表示である。ここは日本人の名誉に関わるから、妻は意を決して中央に出る。全く腰は振れないながら、シナだけは作ってみせる。冷や汗ものであったが、意気に感じてくれたのかパラパラと拍手があった。

 

2/7

 今日でこの船とはお別れである。エジプト人のファミリーと別れの挨拶。写真を送る約束。ずいぶん楽しませて貰った。

 バスで空港へ。3回ほど荷物チェックを通り、飛行機に乗る。あっという間にアブシンベル空港に着く。ナセル湖畔のこの町はアブシンベル神殿しか見るものはない。車で1時間も走るとスーダンという辺境の町である。この町の人口は5万とガイドブックに書いてあるが、ユネスコのアブシンベル移転工事から始まったのであろうこの町で、アブシンベル観光以外に何があるのだろうか? この神殿は19世紀初頭に再発見されるまでずっと砂に埋もれており、辺境にあるためそれ以降もめったに訪れる人もなく、アスワン・ハイ・ダム建設によって水没して永久に失われる運命にあった遺跡である。それをユネスコが助けた。

上空から見たナセル湖

 

 すごい!! 神殿入り口に立つ20mの4体のラムセス二世像に圧倒される。この辺境の地に巨像を彫った3300年前のファラオの権力に感心すると共に、ユネスコの下に結集して、これをそっくり移動させた現代の技術にも感動を覚える。勿論、洞窟の中の神殿のレリーフも素晴らしい。

 大神殿の横にラムセス二世が最愛の王妃ネフェルタリのために建てた小神殿がある。70歳を過ぎて、ファラオは16歳のネフェルタリを愛して、90歳まで生きたそうな。そして、古代エジプトの全盛期を築いた。

アブ・シンベル大神殿

王妃ネフェルタリのために建てられた小神殿

 

 エジプトで美人の代表はネフェルタリだそうである。ネフェルとは美しいという意味らしい。そういえばミカ・ワルタリの小説「エジプト人」では、主人公のシヌへをたぶらかす美女の名前がネフェルネフェルネフェルであった。ちなみに、この小説のことをネビル教授に聞いたが知らなかった。エジプトではそれほど有名ではないようだ。クレオパトラはそれほど人気は無いらしい。プトレマイオス朝はギリシャ人の王朝だから、クレオパトラはエジプト人とは思われていないのだろう。

 ナセル湖の日没。これも素晴らしい。空気が澄んでいて赤外線の到達距離が長いので、太陽が西に沈んだときには、ようやく東の空にあかね色がさす。それから段々刷毛ではいたような薄い天上の雲を染める。

 また、神殿に向かう。暗くなると「音と光のショー」の始まりだ。今夜は日本人観光客が一番多いのか、メインの音声は日本語である。他の国の人はイヤホーンを使う。ナレーションはちょっと時代がかっているが、神殿をバックスクリーンにした、レーザーの映像による歴史絵巻はなかなか感動的だった。

 夜、満天の星。

 

 

 

 

 

  ナセル湖落陽

日没後アブ・シンベル神殿に向かう

音と光のショー

 

2/8

 早朝、またまた神殿へ日の出を見るためでかける。ナセル湖対岸の砂漠の丘の上に日が昇ると、その光を受けて神殿のラムセス二世像が紅色を帯びて神々しく輝く。神秘的である。一年に二月下旬と十月下旬の2日だけ、日の光は神殿最奥の部屋にまで届き、そこに鎮座するラムセス二世の像を照らす。その日は、神殿前の広場は人で埋まるそうである。

ナセル湖の日の出

朝日に赤く染まったラムセス二世像

 

 空路、アスワンを経由してカイロへ。

 カイロの第一印象。ほこりっぽい。水はナイルのお陰で潤沢で、緑はあるのだが、雨が少なく、砂漠が近いということで、木々の葉は灰色に埃を被っている。街の建物も同様である。どうせ砂や埃を被るのだから、外装を飾っても仕方がないという訳だろう。建築自体も雑な感じだ。まさかブロックを積んで造っているのでもないだろうが、相当高いビルでも何か頼りなげな感じがする。この国には建築基準法なんてあるのかな? この都市は地震があると壊滅するだろう。キリスト生誕の頃に大地震があったらしいのだが。

 モハメッド・アリのモスク。この旅で見物する唯一のイスラム時代の建物である。アメリカのボクサーが寄付して造ったのではない。19世紀、トルコかギリシャから来てこの地の支配者となったイスラムの軍人が造ったらしい。カイロのモニュメントとなっている。高台にあるため、庭からはカイロの街が一望できる。アラバスター(雪華石膏)の回廊、内部の丸天井の模様が美しい。絨毯を敷き詰めた内部は広く、祭壇近くには多くの人が拝礼をしている。

モハメッド・アリのモスク

アラバスターの回廊

丸天井の装飾

礼拝する人々

 

 モスクを出て、バスから見る塀に囲まれた街が異様である。墓地だ。墓地といっても、無人の街といった感じである。それぞれの住宅には勿論所有者がいて、死者が出るとその室内に安置するそうである。まさに死者の街である。番人が一室に住んでいる家もあるそうだ。

現代の死者の町

 

ハーン・ハリーリのバザール。1時間ほどウロウロするだけ。値引き交渉など出来ない我々には金銀細工などちょっと高価なものには手が出せない。通りで乳母車を押す男性に子供の写真を撮らせて貰う。可愛い!! 今まで子供の写真で断られたことはない。

ハン・ハリーリのバザール

町で見かけた子供

 

 カイロで滞在するホテルは、五つ星。さすがに立派だ。夕食は相変わらずビュッフェスタイルだが、内容はひと味違って美味しい。国産のワインもボトル4,000円位と高価だったが、これはいける味だった。料理自体は豆のマッシュしたものとか、羊肉以外は珍しくもないが、全体に脂っこい。朝のオムレツもドバッと油を日本の3倍ぐらいはいれる。体から油が抜けるのに、日本へ帰ってから一週間ぐらいはかかった。そんなに食べなければよいのだが、並んでいるものは一応口に入れたくなるのが、いやしい私の性なのである。

 

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 朝、ホテルの窓から見ると、今日は曇りだ。ホテルはナイルの河畔に建っている。目の下には薄汚れた感じの低層の建物が密集している。まあ、屋上の汚いこと。どのビルの屋上もソファ、机などのガラクタが放りっぱなしにされている。この国の人は家の中はどうか知らぬが、外観は気にしないらしい。

 ナビル教授は、ギザのピラミッド観光で今日の一番乗りを目指す。そうすれば、ピラミッド内部へはいるのが待たずにスムースにいくらしい。カイロの街が突然終わり、砂漠となるとそこにギザのピラミッドが聳えている。ピラミッドなんか、写真で見飽きているので見たくもないと思っていたがなかなか、写真百枚は一見に如かずである。人力でこれを積み上げたか!! ピラミッドは、ルクソールに都があった時代よりさらに千年ぐらい古い。今から4,500年ぐらい前、日本は縄文時代だろう。

 頭を何度か打ちながら、狭い坑道を腰をかがめて登ってゆく。やがて、クフ王のピラミッドの中心に到達する。数人のヨーロッパ人が壁に背をあてて瞑想している。そうか、こここそピラミッド・パワーの本家本元だ。パワーが付くかどうか知らぬが、ちょっと眼を瞑る。

 スフィンクス。写真で見たとおり、特に感想なし。

 

 それにしても、警官が多い。どこの観光地も警官が一杯いるし、カイロ市内でもウジャウジャという感じで立っている。クルーズ船にも一人自動小銃を持って乗り込んでいた。テロの後遺症だろうが、国家予算は相当なものだろう。当然給料は高くないのだろうが、コム・オンボ神殿ではバクシーシをねだられた。ここにはラクダに乗った警官がいる。カッコいい。なるほどこれならテロリストが砂漠へ逃げ込んでも、逃げ切れないだろう。

 

 今日の昼食は中華料理の店だ。世界中どこへ行っても中華料理はある。まあ美味しいのは卵とトマトの炒め物とデザートのオレンジだけ。魚の餡掛け風が出た。試しに口に入れてみる。「どう?」とジッと私の口元を見つめて尋ねる向かいのY女史。「うーん。何というか、例えば味噌汁のダシを取った後の煮干しを食べているみたい」「食べるのやめた」子供の頃、父は味噌汁のダシの煮干しを取り出さず、カルシウムとタンパクが残っているから体にいい言って、「美味しい、美味しい」と食べていた。父はソロモン群島から九死に一生を得て帰ってきた人だから本当に有り難いと食べていたのだろうが、私には全く不味かった。

 午後はサッカラのピラミッドを訪ねる。

 これはギザのピラミッドより古い、階段状ピラミッドである。大分崩れかけて、石組みが現れているところがあり、それが建築の労苦を窺わせる。

 次いでメンフィスでラムセス二世の横になった巨像を見物。いまは田舎町だがは古代エジプトの都だったこともあり、また、プレスリーの生まれたアメリカ・テネシー州のメンフィスはこの地名に由来する。

 

ナイル近郊の農地

サッカラのピラミッド

 

 

サッカラのピラミッド

メンフィス:ラムセス二世の像

 

 

 いろんなものを見過ぎて、頭がすっかり疲れた感じがする。

 エジプト最後の夜。熟睡。

 

2/10

 今日はエジプト旅行最後のイベント、カイロ考古学博物館見学である。丸一日かけても見切れないところを、ホント走り抜けるように見学。もちろん、ツタンカーメンの遺物は圧巻ではあるが、私自身としてはこのエジプト旅行を通じてもう少し古代エジプトの庶民の生活が窺われるものを見たかったと思った。

 

 

車窓風景

考古学博物館

パピルスと蓮の池(古代エジプト上下王国の象徴)

 

 昼食。エジプトレストラン。ここでハトの塩焼きを食べる。これは確かにハトぐらいの大きさがある。あっさりしていて美味しいが、チキンとどう違うかと云われると同じようなものだとしか答えようがない。しかし、エジプト最後の料理として、充分満足できた。レストランの床にひざまずいて、多分メッカの方向に向かってナビル教授が礼拝を始めた。そういえば、カタール航空のテレビのナビゲーションの場面にはいつもメッカの方角が矢印で示されていた。教授も敬虔なイスラム教徒なのだ。

 バスの中で添乗員さんがナビル教授の話としてエジプト庶民の生活事情を紹介した。

 現在、カイロでは若者が住宅事情が大変で、男は40歳になってもなかなか結婚できないらしい。カイロのアパートは買い取りが一般的で、日本円で200万円ぐらいするらしい。一方、収入はナビル教授でも月給67万、若者はその半分以下であろう。親の援助がないと結婚できないことになるが、助ける親の方も大変である。教授がアルバイトに精を出したり、警官がバクシーシをねだるのも無理はない。

 1953年、エジプトが共和国となって以来、大統領は4人しかいなく、ナセルが14年、サダトが11年、ムバラクが26年勤め、事実上の独裁政権となっているようである。また、ムバラクの息子が次の政権を担うのではと云われているらしい。この国に地震が来ることなく、穏やかなイスラム教と民主主義が根付き、国民が平和で豊かな生活が出来るようになることを祈って、この国を去ることにする。