幼き日の思い出 −叔父の死−

 

 昭和18年私が生まれる直前、父は応召し、生後まもなくソロモン諸島のブーゲンビル島へと出征した。その間、私は父の実家で育てられた。ここは川崎といって、四国三郎、吉野川とその支流、祖谷川が合流する地点にあり、その名の通り二つの川に挟まれた岬状の小さな台地である。この地は父祖伝来の土地で、正木家は代々この村の神社の神主を務めてきたが、幕末か明治の初め頃の当主の目先が利いたのか、刻みたばこの製造販売で成功し、村で一、二の金持ちとなったらしい。曾祖父、嘉門は吉野川を十数キロ溯った村落に移り酒造業を始めた。ここは祖谷山への入り口に当たり、祖谷の村人を相手の商売があたって、一時は北海道に支店を出すほどだったらしい。祖父朝恵は嘉兵衛の長男として生まれたが、父嘉門と折り合いが悪く、祖母アサカと結婚して数年後、故郷へ帰り、神社の神職を勤めるかたわら農業を生計としていたが、坊ちゃん育ちのせいか、時折ふっとどこへ行くとも告げず旅行するようなところがあった。祖母はそんな祖父との間に十人の子供を産んで大変苦労をしたらしい。私の父は二番目の子供、長男として生まれた。

 三才の時、父が戦地より帰り、しばらくして4キロ下流の村の中心地、中西で開業することになり引っ越した。弟が生まれたのはその後しばらくしてからだったのだろう。おばあちゃん子であった私は、学校へ上がる前は、始終祖母に引っ付いて川崎にあそびにいって数日滞在していたようである。母の手が弟に掛けられるようになってからは、特にそうだったのだろう。

 さて、十人兄弟の下から二番目が叔父・久であった。写真を見ると紅顔の美少年であったようである。叔父は当時、納屋を改造した離れに住んで、池田高校へ通学していた。「こら待てー。修一が、教科書に落書きした。」と追っかける叔父。「勉強しとったんじゃー」と逃げる私。祖父母、若い叔父叔母たちに可愛がられた私は結構やんちゃで悪戯好きだった。叔父の部屋は興味津々で、しょっちゅう覗きに行っていたように思う。私にとって、叔父は憧れのお兄ちゃん的存在であった。

祖父が死んだ。糖尿病性昏睡。インスリンの無い当時、為すすべも無かったであろう。湯灌の光景。奥の一室で痩せこけた祖父の体がたらいに入れられ、みんなの手で洗われている。入り口から覗いている私。死に接した最初の体験である。

この祖父にも可愛がられた。生前の祖父との関わりで今もはっきり目に浮かぶ光景がある。あれは夏だったのだろうか、日差しの強い日であった。川崎橋。祖谷川にかかるこの板張りの吊り橋は集落から外界へ通じる唯一の道である。祖父と二人きりで橋を渡っている私。穴だらけの橋床から遥か下に白く輝く河原と深緑の淵が覗いて見える。私は走って引き返し、小石を拾ってくる。穴の一つから落としてみる。石はスーッと吸い込まれるように落ちていって数秒経って碧の水に波紋を作る。嬉しくなった私は、何度も何度も石を拾って来ては穴から落とし、波紋が立つまでの感覚を楽しむ。祖父は何も言わず、じっと待ってくれている。

 小学校に入り、新しい世界が開けた私にはもはや川崎へ行く機会は少なくなった。叔父も長男である私の父が学資を援助して、大学へ行くこととなった。医師となることが、父の強い要望であった。父は兄弟で一緒に仕事をすることを夢見ていたのだろう。叔父は金沢大学医学部に合格し、父は大変喜んだ。一族からも祝福されたであろう。しかし、私にとって叔父は遠い人になりつつあり、もうあまり関心の持てることではなかった。

 その年の夏休み。祖母が我が家を訪れた。久しぶりの祖母とのふれあいに嬉しくなった私は祖母に纏わりついて甘えた。その日だったのか、あるいは一日滞在しての後だったのか覚えていないが、私は帰ろうとする祖母を放さず、もう一晩泊るようにせがんだ。祖母と一緒に寝て、祖母の語る話を聞くのが大好きだったのだ。近くの映画館に祖母が好きな浪花節の興行がかかった夜などは、その日の演題全部のストーリーを聞き終わるまでは祖母を寝かせなかった。私のたっての願いにほだされて、その夜は我が家に泊ることとなった。翌日、私は祖母にくっついて川崎へ行った。

 川崎の家は神社の上の山の中腹にある。家は四男の叔父が結婚して後を継いでいる。家の前の石段を登ると庭になっている。叔母が農作業をしている。祖母は嫁と二言三言話すと、「久はどうしている?」と尋ねる。嫁は「さあ、そういえば昨日から見ていない。ご飯も食べに来ていないようだ」と答える。にわかに慌てたように祖母は納屋へと走る。「ひさし」と呼びながら、木戸を引き開け中へ転がり込む。続いて入った私が見たのは、しがみついて、「ひさし、ひさし」と名前を呼び続ける祖母と、寝間着で布団に横たわり何の反応も示さない叔父の姿であった。どのくらいの時間が経ったのだろうか。やがて祖母は涙で濡れた顔を上げ、茫然と立ち尽くす私を見据えて云った。

「修一、おまえが悪いんぞ」

 

 叔父は、医師になることを大変嫌がっており、金沢大学では医学部ではなく、文学部へ入っていたようであった。このことが、叔父をのっぴきならない立場へと追い込んでいったのだろう。祖母がこの事実を知っていたかどうかは、今となっては知りようがないが、少なくとも叔父の希望は聞いていたはずであり、話し合いの中では多分私の父の希望の線に沿って叔父を説得していたであろう。初めての夏休みで帰省した叔父を迎え、祖母はその中に少年の煩悶を感じ不安を抱いたに違いない。そして、彼の挙動に注意を払っていたであろうに、この悲劇を防ぎ得なかったことは、祖母にとって生涯の痛恨事であり、「自分の油断がなかったら」と思ったのであろう。

 その後、祖母は何も無かったように私を可愛がってくれ、私もまた以前のように祖母に甘え纏わりついていた。

 祖母も昭和58年、94歳で世を去り、叔父のことは遠い過去の人として忘れ去られてしまったが、あの悲劇を思い起こすとき、私もまた祖母から遠慮のない深い愛情を注がれていたと感じるのである。

あの日、私の中で何かが変わった。

何十年かの年月が過ぎ、老境にはいって来し方を振り返ってみたとき、あの事件が私の人格形成に何らかの影響を与えていたとしても、今はその結果が好ましいものに思えているのである。

(一部仮名)