オジサン、ガンバレ−揖斐川サイクリング


 あれは、私がサイクリングを始めてあまり間のない頃であるから、1992,3年頃の秋であったろう。岐阜羽島から揖斐川を遡って越前大野へ出て、また根尾川を下って岐阜羽島へ帰ってくる一泊二日の輪行を行なった。ダムに沈む前の徳山村の風景を心に収めておこうと思ったのである。
 大分以前のことなので、記憶が薄れて印象の強かったことだけしか憶えていないが、その方が読んで下さる方にとっては、つまらぬ詳細を読まされなくて幸いだろう。
 さて、朝一番の新幹線で岐阜羽島に着いた私は慣れない輪行に、モタモタとランドナーを組み立てる。快晴。爽やかな秋の一日である。揖斐川の土手をひたすら上流に向って走る。名鉄「本揖斐」を過ぎて少し走ると、いよいよ山峡に入って行く。途中、鮎の梁場があるが、これは明日にしよう。
 ダム工事現場を過ぎるが、まだダムの形は出来ていない。このダムが完成すると、徳山村は村のほとんどが水没して、村は消滅する。この時、村の中心地でも既にほとんどの家は移転しており、廃屋が点々と散らばっており、家が取り壊された敷地跡にはもうススキが風に靡いていた。爽やかな秋風に揺れるススキの穂も、ここでは何やら人々の生活の長い歴史の終焉を悲しんでいるかのようで、寂寥の気に満ちていた。
 広々とした川原に沿った長い道をひたすらに走っていくと、揖斐川も源流に近づく。この辺りから急な登りとなる。きれいな流れに沿って、登りが延々と続く。涼しさは吹っ飛んで、汗がダラダラと流れて目に沁みる。「アア、もうあかん。降りて押そ。」その時である。家族でピクニックに来ていたらしい小学一、二年の男の子と幼稚園ぐらいの女の子が飛び出してきて、「お父さん、見て、見て!! こんな処まで自転車で登ってきているよ。すごい、すごい。オジサン、ガンバレ、ガンバレ!!」
 ここで降りて、子供たちをガッカリさせるわけには行かない。子供達にひきつった笑顔を返して、ヨタヨタとペダルを漕ぎ続ける。次の曲がり角までの長かったこと。しかし、ここが登りのヤマで、あとは楽な登りとなり冠山峠までとうとう押さずに辿り着いた。子供たちのお陰であった。
 峠からは足羽川源流沿いの急な下りを一気に降りる。汗が引いて寒いくらいである。
 午後も大分遅くなってきたので、宿を捜しながら越前大野への道を走る。田舎のこととて宿は少なく二軒ほど断られて、諦めて大野まで行くことにする。上味見川に入って大野への最後の峠では真っ暗となった。大野でやっとのことで宿を見つける。貧弱な宿で素泊まりなのに、高い宿賃を払わされた。
 
 翌早朝、大野の市内を一周して、御清水(おしょうず)と城を見て、真名川を遡る。15年ほど前、渓流釣りに入ったときより格段に道がよくなっている。快調に走る。 
 支流の温見川(ぬくみ)に入ると、荒涼たる野の景色となる。ここは数十年前の台風による土砂災害で全滅に近い被害を受けた旧西谷村の跡である。前に通ったときよりは大分穏やかになってきているが、明るい日の中にも拘わらず陰惨たる気配が漂っている。温見峠への最後の急坂はさすがに押して登った。
 峠は奥美濃の名山、能郷白山の直下にあり、峠を越えた岐阜県側は揖斐川支流の根尾川源流である。能郷の集落までの長い道をひた走る。一応舗装はされているが、舗装が波打っており、尻にこたえる。絶壁を切り開いた道で、車では結構恐そうだ。
 能郷を過ぎるとすぐ薄墨桜で有名な樽見に着く。少し坂を登ったところに桜はあった。目をつむって満開のときの見事さを思う。
 もう一つの名所、根尾断層に向う。これは明治の濃尾大地震で出来たものである。断層は畑の中を走って、道を横切っていた。ウーン。たしかに1メートルほど地層がずれている。これはたしかに揺れただろうな。(現在ある展示館は当時は出来ていなかった)
 昼を少し過ぎて、根尾川中流で梁に入って、待望の鮎にありつく。ちょっと不安だがやはり大ジョッキを注文する。鮎を堪能して土産にウルカを買って、いい気分になって一路岐阜羽島へと走った。あとは何にも憶えていない。