貞任峠 − 脱水サイクリング
 京都の西、桂川が世木ダムに堰き止められる辺りの小山の上に貞任峠(N35.03.35E135.33.58)という峠があり、以前より気になっていた。この峠は京北町浮井から世木ダムによって沈んだ集落を結んだ峠だったのだろう。。
 しかし、この峠の名が安倍貞任に因んでいることは容易に想像がつく。それでネットで検索してみると、チョット不気味な伝説が残されているようだ。

 安倍貞任は陸奥の国の俘囚(蝦夷のこと?)の長、安倍頼時の子として生まれ、前九年の役で源頼義、義家父子と戦って大いに源氏を苦しめた武将だったが、出羽の俘囚主、清原氏が源氏の味方に付いたため、ついに敗死し、安倍氏は滅亡する(1062)。貞任の首級は都に送られ、さらし首となり大勢の見物客が集まったようだ。彼の背丈は六尺を越え、胸囲は七尺四寸という巨体で容貌魁偉な色白であったと伝えられている。
 ここまでは史実であるが、この地には伝説として、貞任の屍体がこの地で七つにバラバラにされ、再び一つにならないようにと離れた場所に別々に埋められたいう話が残っている。そのうち首が埋められたのがこの貞任峠だ。首級だけが都へ送られたのに、屍体がこの地でバラバラにされるのはつじつまが合わないが、そこは伝説。さらに、この伝説にはいろいろ気味の悪い尾ひれが付いているのだがここでは省略する。
 しかし、この伝説は全くの虚構ではないと感じられ、一度訪ねてみたいと思っていた。

 八月の土曜日の朝、自転車の後にハンモックテントを積んで、豊中の自宅を出発して、貞任峠を目指す。貞任峠だけだと日帰りも可能だが、月曜日まで使えるので琵琶湖からさらに東へ、揖斐川か長良川まで行ってついでに鮎を食おうと欲張った考えである。
 亀岡までは順調だが、快晴で暑い。ジリジリと焼かれる。ハイドレーションシステムの氷水をチュウチュウ吸いながら、谷沿いに477号線を八木町神吉(南丹市)へと登ってゆく。神吉から世木ダムへ下り対岸に渡ると、貞任峠への登りが始まる。登りは150m程であるが、急坂である。小谷の傍の木陰で息を入れる。谷から吹いてくる風が涼しい。谷を登ると、急に開けた造成地に出る。濛々と土煙が上がり車が走り回っている。ダートのサーキットらしい。いよいよ貞任峠に到着。山道の峠に小さな荒れた祠がある。まさか、こんな道端に貞任の首が埋められていることはないだろうが、この近くの何処かなのだろうな。賽銭をあげてチョットお参りする(ネットで調べると、この近くに首塚があるようですが、土地の人でないと判らないようです)。峠は杉の植林の中にあり明るい雰囲気の場所であるが、千年も伝えられた伝説の地であると思うと何やら感慨深い。
 峠を下り、京北明石町の神社の木陰で1時間ほど昼寝。
 周山の道の駅は夏休みの週末とあって大変な混みよう。蕎麦を食べるのも大分待たされそうで、諦めて大布施から広河原へと走る。大分、へたってきた。水分は十分取って、胃の中はダブダブしているのだが、吸収されていないのか体は脱水症状のようだ。
 能見谷を滋賀県へ抜けようとするが、県境の坂が登れない。そんなに大した坂ではないのだが、力が入らない。トボトボと押して登る。下りもなんだかフラフラする。久多下の町を越えた大黒谷キャンプ場の上のチョットした坂が苦しい。これはもうダメだ。まだ早いがここで泊ろう。半分廃墟と化したキャンプ場にハンモックテントを張る。夕方、管理人がやって来てしっかりと料金を徴収していった。
 食料は菓子パン一個あるだけだが、疲れ切って食欲もない。夜中、下半身全体の筋肉が痙攣する。
 
 翌朝、体力少し回復するも、なんだかもう二日も走る気力はなくなった。琵琶湖の浜辺にハンモックテントを張って3時間ほど昼寝をして、マキノからJRで帰る。68歳という年をつくづく感じさせられたサイクリングだった。それとも安倍貞任に祟られたのかな?