祖母の修学旅行

 父方の祖母は明治23年の生まれで、昭和59年94歳で死んだ。私の父は開業医で母も受付を手伝っており、大変忙しく私はあまりかまって貰えず、ほったらかしで育った。といっても、当時の子供はそれが普通だったのだが。それで小学校へ入る前は一里ほど離れた祖母の家に入りびたって、祖母にまとわりついていた。祖母も当時近くにいる孫は我が家の兄弟(弟はまだ赤ん坊だった)だけだったので私を大変可愛がってくれた。夜伽に祖母は毎夜のように話をしてくれた。今はほとんど忘れてしまったのだが、一つ記憶に残っているのが修学旅行の話である。

 祖母が生まれ育ったのは四国山地を吉野川が穿って作った河岸段丘の上にある小さな集落である。集落にある田畑は僅かなものであるが、当時銅山が開かれていて相当に賑わっていたようである。同じ集落で育った私の子供の頃(昭和二十年代)にはもう銅山も閉鎖寸前の状態で、小さなボタ山と鉱夫の住んでいた長屋の跡、元料亭だった立派な屋敷などが賑わっていた往時を偲ばせるだけであったのだが。

 祖母の生まれた家は江戸時代には庄屋を務めたこともあり、また当時は川船で薪炭を下流に運搬する商売で、比較的裕福な家であったようである。お陰で四年の尋常小学校修了後、高等小学校(多分2年?)に行かせてもらえた。

 さて、明治三十六年(1903)高等小学校卒業の年、大阪で現在の天王寺公園を中心に第五回内国勧業博覧会が開催された。高等小学校でも博覧会見学の修学旅行が計画され、参加者が募集された。それに対して男子生徒は相当の応募があったのだが、女子生徒は一名も応募がなかった。どこの家庭でも女の子にそこまでの教育の必要性は認めなかったのだろう。困った校長はある夜祖母の父と膝づめ談判をして、参加させることを承諾させたそうである。きっと、「これからの女性は広い見聞を持つことが必要である」とか何とか言ったのだろう。これをきっかけに、祖母が行くのなら、うちの娘も参加させてもよいという父親が何人か出て、数名の女子生徒が参加することになった。当時、帰りに徳島の立木写真館(夏ちゃんの写真館で有名)で撮った二十名ほどの集合写真があったのだが、残念なことに祖母の死後アルバムが紛失してしまった。それにしても四国山中の小さな村から多くの生徒が大阪までの旅行に参加したとは、鉱山で栄えた相当に裕福な村だったのだろう。

 さて、いつ頃の季節だったか、一行は村から5キロ程あるいて、阿波池田から舟で吉野川を下り、中流の脇町少し下流の南岸、当時徳島本線の終点だった船戸(今の川田駅近く)に着き、汽車で小松島、そこから船で大阪の堺へと渡った。多分小松島で一泊したのだろう。

 堺の寺院を宿として、一行は毎日弁当を持って博覧会場まで徒歩で通い、毎日一つか二つの展示場を見学した(アメリカ館、イギリス館、ロシア館、イタリア館など)。何日間見学したのかは聞いていないが、一週間ぐらいはいたのではないかと思う(私の母が聞いた記憶では一ヶ月だったとのこと)。その間で明治天皇の行幸にもであった。

 帰りの船は大荒れの航海だった。多分小さな船だったのだろう。祖母の話では「豆の子が煎られるように、転がった」とのことである。波しぶきでずぶ濡れになってようやく小松島に着いたが、船から桟橋へ渡る板が揺れて先に渡っている子が海へ落ち、大変怖い思いをしたらしい。このときは遭難した船もあったとのことである。幸い生徒の親類の家が小松島にあり、そこで着替えや、濡れた衣類を乾かすことが出来、一安心したとのことであった。 小松島から船戸までは汽車で、そこからは吉野川北岸を徒歩で、途中一泊して帰宅した。 全日程は十日以上ではなかったろうか。我々のときは、小学校六年の修学旅行は高松一泊でそれまで海を見たことのないのが普通であった。当時であれば、女性は自分の村から一歩も出ずに生涯を終える者もいたであろう。その時代の子供たちの大旅行であり、祖母にとっても一生の思い出となり、私も繰り返し聞かされたのだった。それにしても、会場で何を見たかについては、聞いたのか、聞かなかったのか、全く記憶にない。