無謀な登山 竜馬ヶ岳−京丸山縦走敗退 (1977.03)
当時、私は34歳とまあまあ若かった。何故、こんな処に行ったのか今でははっきりしないが、何かで京丸牡丹の伝説を知ったのがきっかけだろう。わざわざ大阪から出かけるのにこの山一つでは物足りないので、地図を眺めて竜馬ヶ岳から縦走すれば面白い山行になるだろうと考えたに違いない。
当時の地図(五万分の一)には京丸山(1469.5)への登山道以外、その東の高塚山(1621.5)、竜馬ヶ岳(1501.3)辺りには破線道は記載されていなかった。現在の二万五千分の一の地形図には北から高塚山まで道がついているが。さて、計画を立てようとしたがこの辺りの情報が全くない。インターネットなんてものもなかったしね。行き当たりばったりでなんとかなるだろうと、いつもの楽天的考え。
東京での仕事を終えて、大井川鐵道の下泉駅に降り立ったのはもう夕方だった。大井川を渡った対岸の民宿に宿泊する。夕食に熊やら鹿やら肉が出てきたのを覚えている。
翌日、タクシーで久保尾辻を越えて気田川の麦島まで入り、ここから林道を上流へと歩き出す。初めの予定では竜馬ヶ岳と高塚山のコルへ沢筋を詰めるつもりだったが、伐採作業員から沢ではなく直接竜馬ヶ岳へ登る踏み跡があると教えられ、やれ嬉しとその道をたどる。
実はこの辺り全く記憶がないのだが、とにかく頂上からコルへと下り、笹藪の中でビバークする。ツエルトはゴム引きのような頑丈ではあるが1キロちかくある重いもの。水はまわりの残雪を溶かしたが、夕食は何を食べたやら。化繊のキルティング、化繊のシュラフで一夜を過ごす。あまり寒かった記憶はない。
次の日、高塚山への笹藪の稜線をたどる。地形図から想像すると高塚山のピークは踏まず、京丸山へと尾根筋を辿ったであろう。現在、ネットで調べるとこの辺りの稜線にはほとんど笹藪はなく全て踏み跡が付いているようで、登山記録も多く報告されている。しかし、当時は背丈を超えるひどい笹藪で踏み跡は見つけられず、残雪も薄くなり笹がほとんど跳ね上がっていて進むのに苦労した。
この進み具合では今日中に京丸山までたどり着けるかどうか怪しい。あきらめた。さてどうする。普通は引き返すと思うが、何を血迷ったのか谷に向かって下りだした。山で迷った時、谷筋に下るなというのは遭難を避ける鉄則である。当時、私は沢の単独行をよくやっていたので、沢に下ることにあまり抵抗感はなかったのかもしれない。
どこを下ったのか記憶は全くないが、尾根筋からダイレクトに本谷に出たので、地形図を見ると1414m地点から尾根筋を下ったのだろう。それにしても、道のない急斜面の山腹を標高差約800mも下るとは、今の私には考えられない。 下りきると、ちょうど側にガレ場がありそこを伝って川原に下り立つことが出来た。上流も下流も見渡す限り素手では降りることが出来ない崖である。超ラッキーである。
さてここから沢を下るのであるが、地図を見る限りあまり険しくはなさそうだ。滝などないことを祈ろう。下ってゆくと大きな淵に出くわした。高巻きするよりは泳ぐ方が楽だと飛び込む。雪解けの凍るような水を10mほど泳ぐ。これが最後の難関で、しばらく下ってゆくと杉の植林に出くわす。ここで本当に安心した。ガタガタ震えながら下ってゆき、小道を上がって京丸集落に出る。 ここでひなたぼっこをしながら昼飯を食べる。ここに住んでいる藤原さんという老人と話をする。何百年と代々この地にすんでいて、見渡す限りの山は自分の所有林だとのこと。あとで降りて出会った人に話をすると「あんな奥山、値打ちはない」と一言。それでも、一面自分の山に囲まれているというのも、夢があっていいよね。子供たちはもうみんな山を下りて町で生活しているとのこと。
あと、町、までの長い道をどう歩いたのやら、多分トラックに拾われたのだろう。
とにかく、命拾いした山行でした。