家康「伊賀越え」サイクリング (2022.02, 03)


 昨年末、伊原忠政の「三河雑兵心得:伊賀越仁義」を読んで、暖かくなったらこの道を走ってみようと考えた。
 天正十10年6月2日早朝に本能寺の変が勃発した。その日、徳川家康は京都の織田信長に挨拶して帰国すべく滞在中の堺を出発した。本能寺の変を知ったのは飯盛山の麓、今の四條畷辺りであろうか。そこから伊賀越えの逃走が始まる。東へ走り宇治田原は翌日3日昼頃、その日は信楽の多羅尾氏居城のある小川で一泊、翌日4日には伊賀の北辺を通り柘植、加太峠で伊勢に入り伊勢湾岸の白子辺りまで70km以上を一日で駆け抜けたとされる。

 2月下旬、地下鉄で堺市の北端、北花田駅まで行き、ここを出発点とする。北へ走るとすぐに大和川に出る。堰堤の道路を東に走る。旧大和川は大阪平野に出るとすぐに北流して、淀川と合流していたから、家康の時代にはこんな光景はなかったはずだ。適当なところで北に折れて、平野、八尾を経て路地や小道を縦横に辿ってとにかく北西へと走り生駒山麓を目指す。途中、南北に走る楠根川を越える。旧大和川はいくつかの川に分流して流れていたらしいから、これも旧大和川の一つだろう。ウロウロと町中を走っているので全くスピードが出ない。野崎観音に行き当たる。お染久松で有名なところだ。二度と来ることはないだろうからちょっとお参りして行こう。山沿いを少し北に走る。この辺りかなと尋ねると、あの鉄塔の辺りが飯盛山だとのこと。じゃあ、この辺りで京からの急使と出会ったのだろう。大騒ぎで、途方に暮れたことだろう。光秀の軍や落ち武者狩りの土民も怖い。

     
地下鉄御堂筋線 北花田駅  大和川  大和川堰堤 
     
楠根川  野崎観音  飯盛山 

 ここから一行は生駒山系の北側を回り込み、尊延寺越えから東へ下って、現在の京田辺市草内で木津川を渡る。当然渡し船だったのだろう。この辺りで同行していた武田の降将、穴山梅雪が落ち武者狩りの手にかかっている。私も尊延寺越えからR307でほぼ同じコースを辿る。木津川は立派な橋だ。橋を渡ると道は上りになり、8kmほどで宇治田原町の中心、郷之口に着く。家康一行はここに3日の昼前に辿り着き、城主山口氏の接待を受け休憩する。現在、城跡には標識板が残るのみである。

     
尊延寺集落の古い路地   伊賀越えの標識 木津川 

  さて、宇治田原町内には家康伊賀越えの道として半分は山道で自転車は押し歩きになる古道があるが、この日はとてもそれを辿る元気はなく、R307に沿って突っ走ってしまった。それで、3月になって古道を走り直したので、ここではそれを書こう。
 山口城址から国道を外れて茶畑が連なる田舎道を小川に沿って走る。大道寺というお堂がある。元は大伽藍だったそうである。ここは平治の乱で敗れた藤原信西の所領であったが、信西はここまで逃れてきて自刃したとされる。信西の供養塔があるらしいが見落とした。その隣に由緒ありげな神社もあるが今回はパスする。

     
茶畑を望む田舎道  大道寺  大道神社 

 ちょっとした岡を登り、黒豆坂という山道を下ると湯屋谷集落である。ここは小さな谷間に民家が密集した製茶の中心地のようである。永谷宗円という宇治茶の元祖の生家があるらしいが今回はパス。さらに山道を越えると家康・伊賀越えの標識が現れる。まあ当時は現国道ではなくこの道が宇治田原から信楽方面に抜ける街道だったのだろう。

     
 上り坂  黒豆坂入り口 黒豆坂 
     
湯屋谷からさらに東へ  家康・伊賀越え   
     
山道を行く  途中の地蔵  山道の終わり 

 結局、3kmほど山道を押し歩いただろうか。やっと自転車に乗れる道に出ると、すぐに正寿院という寺に出る。寺なのに注連縄がかかっている。ここは別名風鈴寺と呼ばれ、夏には風鈴がいっぱい吊り下げられ見事なものらしい。少し東に走ると遍昭院という小さな寺院がある。ここは家康一行が休憩したと伝わっている。いずれの寺も境内をちょっと見学して通過。境内からの眺めも風情がある。少し下ればすぐ国道に出る。この国道は現在トンネルで滋賀県に抜けているが確か10年ほど前までは裏白峠を越える古い国道だったと思う。2月にはトンネルを抜けたが、今回は旧道を走ろう。奥山田最奥の集落から自動車は現在通行止めになっている旧道を上り、峠越えをする。

     
 正寿院(風鈴寺)   正寿院の梅   正寿院前の製茶風景
     
 茶摘み風景 花は何かな? 遍昭院  遍昭院の紅梅 
   
遍昭院の六地蔵  遍昭院からの展望  宇治田原最後の集落 

  新R307と合流すると信楽。これ以降は2月の走行記録だ。お茶で有名な朝宮を抜けて行く。日本五大銘茶に数えられるらしい。右に国道を外れると小川集落だ。家康はここの領主である多羅尾氏を頼って一泊したらしい。現在、小川は田んぼの中の小集落だが、背部の山の上に小川城跡がある。標高差150mほどあるので、この時はパスした。ここに挙げている城跡の写真は3月に車で上った時のものだ。

     
朝宮茶の畑   小川  小川
     
小川城址  小川城址  城跡からの展望 

  さて、家康一行は翌4日ここを出立して伊勢湾岸まで75kmを一日で駆け抜けるのだが、そのコースがはっきりしない。伊賀一円は信長の伊賀攻めで殲滅されたから、織田方に属していた徳川にも恨み骨髄だろう。コースに関しては大体三説あるようだ。一番有力なのは、最短距離を取って桜峠を越えて伊賀に入り、丸柱、石川経由で伊賀盆地に出る。二番目は、ここから南下して、多羅尾、御斉峠から比曽河内(現在の諏訪集落?)、音羽を通って伊賀盆地へ出る。大分遠回りだ。三番目は危険なので伊賀を避けて、信楽経由で甲賀を抜けて柘植にはいる。小説「三河雑兵心得」では、家康一行は桜峠越え、本多平八郎、主人公などの別働隊は御斎峠越えを取ったことにしている。
 大分時間も押していてゆっくりも出来ないので、今回は桜峠経由にしよう。この辺りでは伊賀上野にしか宿泊施設はない。

     
伊賀へ向かう(正面は笹ヶ岳)  何を研究しているのかな?  桜峠(了源上人遭難の地) 
     
丸柱   丸柱(土楽窯)  石川集落の結界

  R422に出て、桜峠へと向かう。五年ほど前まで伊賀上野で仕事をしていたので、この辺りは毎週のように走っていた。正面に見える笹ヶ岳はこの辺りの最高峰で何度か登ったことがある。この沿線には大きな競走馬の調教場とか、京大の研究所(一度覗きに行ったが巨大なアンテナがあった)がある。
 桜峠。森の中に偉いお坊さんの遭難碑がある。建武年間というから、家康の頃より250年ぐらい前だろうか、京都仏光寺の上人が弟子とともにここで山賊に殺されたらしい。この辺りは昔から物騒な場所だったようだ。なだらかな下り道を行くと丸柱。伊賀焼の里だ。長谷園とか、土楽とか有名な窯元がある。丸柱川にそって下り、石川から伊賀盆地に出る。今日の伊賀越えはここまで。伊賀上野へ出て、昔の定宿、駅前のホテルに入る。コロナ流行下の週末とあって、閑散としたものだ。
 走行距離はたったの110km。それでもヘロヘロだ。
 
 今日も快晴だ。昨日の続きを走るとなると、ちょっと物足りないので第二のコースの一部を走ろう。御斎峠まで戻って走るとなると大変なので、御斎峠、比曽河内間はパスして、比曽河内(諏訪)から始めよう。まあこの辺りも走り慣れた道だ。
 早朝、伊賀上野市街から諏訪まで約200m登り返す。諏訪は払子川の流域の小盆地にあるのどかな集落だ。川に沿って下ったところにあるのが音羽だ。入り口に佐々神社という由緒ありげな社があり、その傍に磨崖仏がある。この磨崖仏は「三河雑兵心得」に出てきたぞ。村の中の寺にも古げな石仏がある。音羽には小さな城跡が残っており、いかにも忍者の里といった雰囲気がある。信長に鉄砲を撃ちかけた音羽の城戸という鉄砲名人がいたとの伝承もある。そういえば伊賀で勤めていたとき、音羽に住んでいる城戸さんという同僚がいたな。あの人は忍者の子孫だったかも。「三河雑兵心得」でも、この辺りで落ち武者狩りに襲われることになっている。

     
 登りの途中から上野市街を振り返る 諏訪集落   音羽・佐々神社
     
音羽・七体地蔵磨崖仏   音羽集落 音羽・西音寺の役行者 

 さらに下って行くと、昨日の道と出会う。さあ、ここからは昨日の続きだ。伊賀盆地の北端に沿ってR25が走っているが、それに沿って集落を縫っている旧街道を走ろう。あれっ、楯岡という地名は確か司馬遼太郎の忍者小説に出てこなかったかな?楯岡の道順とかいう忍者。5、6km走るともう柘植だ。途中に横光利一ゆかりの地というのもあったがあまり興味はない。パス。柘植では徳永寺には寄らねばならない。家康一行はこの寺で休憩した。寺は特になんということはない普通の寺院だが、一行を世話したということで土地や山林を下賜されたとのことだ。
 さて、柘植の町を抜けるといよいよ加太越だ。柘植川の上流に当たる鴉山池の脇を通って大和街道(R25 )は緩やかに登って行く。あまり登った感じもしないうちに一ツ家という集落に出た。ここが加太峠(鹿伏兎峠)だろう。ここで亀山市の標識。同じ三重県でも伊賀国から伊勢国に入るのだ。関西本線の下を架道橋で抜ける。明治時代の代物だ。R25は2桁ナンバーの国道にしてはひどく粗末だ。名阪国道が出来たためこちらの方は補修がほったらかしにされているようだ。5、6年前に走ったときには加太越えの辺りは砂利道だった。今回さすがに舗装は綺麗にされていたが、道幅は元の通り。しかし通行量が極端に少ないため金をかけるのも無駄か。

     
忍者の名前で出てきたような。  柘植の町に入る  柘植・徳永寺 
     
鴉山池  加太越・一ツ家  伊賀より伊勢に入る 
     
関西線を抜ける  加太川   R25

 関に入り、R1と合流する。関は東海道の宿場町としてよく保存されており、観光客も多い。宿の中心の地蔵院、その前にある食堂、会津屋に入る。山菜おこわが旨い。町をブラブラと押し歩いて、途中で名物「関の戸」を土産に買う。
 関を出て、交通量の多い幹線を避けて、亀山に入る。少しウロウロして、丘の上にある亀山城址を見物する。ここの城主はどちら側だったのかな?とにかく家康は素通りしたのだろう。亀山を出ると、もう一行はどこを通ったのか判らないので、県道で東に走り、鈴鹿川を渡り白子を目指す。あとすこしだ。標識が現れ、この右手に鈴鹿サーキットがあるらしい。ちょっと寄り道して素通りしよう。
 ついに伊勢湾に出た。白子漁港だ。家康一行がここから出港したのかどうかはっきりしないがまあ好いだろう。最後に子安観音にお参りして、不断桜を見る。以前来たときは、夏で葉が茂っていてよく分からなかった。あっ、咲いている。2月なのに、数輪花を付けている。見られて、満足満足。
 今日は楽なコースで73kmだった。

 

     
関地蔵院  会津屋  山菜おこわと蕎麦の定食 

 
 
関宿  亀山城   鈴鹿川
     
 白子の浜 子安観音   不断桜