半世紀前の南アルプス南部縦走(1968年8月)
現在は南アルプス南部(荒川、赤石、聖岳)に登るのは関西辺りからでも通常大井川上流の椹島を起点にするが、50年ほど前はかなりの登山者が山脈の西側、天竜川支流の小渋川から登っていた。
これはその当時の単独行の記録である。小生24歳であった。
8/13 午後、大阪を出発。名古屋から塩尻を経て辰野へ午後10時到着。駅のベンチで始発を待つ。
食料が3,000円程になって、かつてない高価なものとなったと記録にあるが、何を買ったか記憶にない。今の金額だと2万円ぐらいにはなるのかな。しかし、当時、乾燥食品はなかった。キスリングに友人から借りたホエブスを詰めた記憶があるが、きっと20kgは軽く越えていたのだろう。
8/14 4時発で伊那大島に向かう。伊那大島7時発、湯折行き登山バスに乗る。登山客は30名ほど、二台のバスに分乗する。小渋川沿いに大鹿村大河原を経てさらに絶壁に造られた細い道路をヨロヨロと走ってゆく。今までで一番恐い道だった。やがて釜沢。当時ここから三伏峠へ登る登山道があった。この五年前に通ったことがある。
9時、湯折着。ここから少し林道を歩くと小渋の湯跡、小屋の残骸があるのみであった。
今日は快晴だ。ここから稜線の大聖寺平の登り口、広河原までは小渋川沿いに歩く。当時の地図には左岸に広河原まで捲き道があったが、大体の登山者は沢沿いに歩く。今日は増水気味でどちらを行こうかと迷っていると、後ろから来た単独行者が谷沿いに歩くというので同行することにする。
初めは広い川原を歩き、ほとんど渡渉なしであったが、やがて高捲は岩登りの様相を呈し、渡渉も胸までありそうになってきたので、左岸の捲き道まで這い上る。30分以上かかってヨレヨレになる。あとはブラブラと歩いて、4時広河原到着。
小屋は小さく、既に一杯であったのでツエルトを張る。ツエルトと言っても今のような軽いものではなく、ゴム引きで1kg以上はあった。周りにはテントが5、6張り。
8/15 朝4時起床。外に出てみるとテントは残っていない。もう既に出発したらしい。南アルプスは2時起きの4時出発が普通だった。
6時出発。大聖寺平までは1,200mの直登だ。重いキスリングが肩に食い込む。やがて太陽が上がり、照りつけられる。気息奄々だ。下りてきた登山者に後どれくらいで尾根に出るかと聞くと、小生の歩きぶりを見て、「夕方までかかるよ」。この言葉には奮起した。頑張って4時間半で大聖寺平に上がった。ざまあ見ろ、どんなもんだ。決して自慢出来るスピードではなかったのだが。11時、荒川小屋着。当時は貧弱な無人小屋だった。
昼過ぎに空荷で荒川岳に向かう。悪沢岳までピストンする。荒川三山はガスで展望はきかなかったが、悪沢の奇岩が隆々としているのは印象的だった。4時半小屋に帰着。小屋はほぼ満員状態だ。
8/16 2時起きの4時出発。ガスが深くて、風が強い。大聖寺平でヤッケを被る。借りてきて助かった(ヘー、当時はヤッケを持ってなかったらしい。当然、雨具はペラペラのポンチョだった)。
1時間半で赤石山頂。ガスが深く、見晴らしは全くダメ。ここで昨年春、屋久島鹿の沢小屋で同宿した東京の学生と再会した。このとき、破れた長靴に古びたジャンパーを着て手ぶらの中年男性が現れ、静岡へはどう行くのかと尋ねられ面食らう。
百間洞小屋(当時、南ア南部で唯一小屋番がいて食事を出す小屋だった)、中盛丸山、兔岳を経て聖岳頂上。赤石の下り辺りから快晴となり、中盛丸山からの展望は素晴らしく、南アの北方の全山、南には聖岳が覆いかぶさり、富士山は勿論ビックリするほど高くに聳え、この景色を見るだけで来た甲斐があった思った。聖岳でしばしノンビリする。
4時半、聖小屋に到着する。この小屋は無人だがずいぶん大きい(或いは8月半ばを過ぎたので無人になっていたのかも)。
8/17 5時出発。今朝もガスが深く、風も強い。7時、上河内岳。一瞬ガスが切れて、赤石、聖、光岳や富士山、眼下に畑薙ダム、井川湖などが眺められた。高低差の少ない稜線をお花畑、茶臼岳を越えて、8時半、仁田小屋到着。ボロボロの小屋だ(仁田池辺りにあったのかな?)。茶臼小屋は当時無かったような気がする。台風が九州に上陸したと聞いていたので、ここで大休止をして、様子を見る。ここから先に進むとエスケープが難しそうなので。大丈夫とみて光岳へと向かう。
易老岳を越えると樹林帯となり、倒木に苦労する。大峰山中を歩いているような気がする。2時過ぎ、光小屋到着。小屋は真新しく、20人ぐらいは泊まれそうだ。三角屋根の旧光小屋も風格があり、まだ使えそうだ。ただ、この小屋は水場が下り20分、上り30分ぐらい掛かり大変だ。小屋手前の草原には行者ニンニクが一杯生えているが、ここでは採れないな−。
今日は静かな山歩きで、二人組の登山者とすれ違っただけだ。小屋も勿論一人のみ。
旧光小屋 | 光小屋全景(右が旧光小屋?) |
8/18 明け方4時頃より激しい風雨、時々雷が鳴っている。その日知るよしもなかったのだが、この数時間前に岐阜県飛騨川では豪雨によるバス転落事故で100名以上の死者が出ていたのだ。
これは今日は一日沈殿かと、寝袋の中で7時頃まで寝る。少し寒い。
7時過ぎ、急に雨が止んだ。急いで食事、出発の用意をして外に出ると、からりと晴れ渡り赤石から光岳までの山稜が一望である。さらに大無間、小無間、南方の山々、富士山が眺められ、下るのがもったいない気がしてきた。
9時出発。12時、1400m下って寸又川の柴沢小屋到着。途中、富士見平からの富士山が印象的だった。今では信じられないが、若い頃下りは走って降りられた。途中、イナゴを少し獲る。午後の釣りのエサだ。この釣りのため、わざわざずっと釣り竿を担いで歩いてきたのだ。
午後、柴沢に入るがイナゴでは全く釣れず。川虫を捕って、ようやく型のよいヤマメを2尾上げることが出来た。ここはイワナとばかり思っていたが、ヤマメの川だったのだ。増水のため川虫を捕るのに苦労したが、夕食にはこれで充分だ。
今では、寸又川も千頭ダムから上流はすっかり廃道となって遡行出来ないようだから、この辺りはヤマメがウヨウヨいるのだろうな。
8/19 6時出発。今日も快晴だ。途中、釜島で泊まっている釣り師に出遭う。釜島小屋で中に入ってみると、百尾以上のヤマメを焼き上げて積んである。一尾頂戴して食べてみると、少し甘みがあって非常に美味だ。これぞヤマメの味という感じだ。小生はこんなに上手くは焼けない。
栃沢までは山道が茂っていて、下半身はずぶ濡れとなる。
栃沢から千頭ダムまではトロッコ道の線路が取り払われていて、はっきりとした道で平らなため歩きやすい。両岸の岩壁が迫り、すごい淵をつくっていて、素晴らしい渓谷美である。
ダムから下は軌道が残っている。暑い日ざしのなか、ウンザリしながらびっこを引き引きひたすら歩く。やっとの思いで寸又峡に到着する。行程7.5時間だった。30キロぐらいは歩いた感じだ。
現在、小生の通った道は廃道となり、その後寸又川左岸中腹に林道が出来たようだが、それも崩落でほとんど廃道となっているようである。しかし、ネットで検索してみると、柴沢辺りへは光岳から下ったり、中ノ尾根山を越えてきたり、寸又川左岸林道を歩いたりして釣り師が入っている様である。
50年前はやはり若かったなー。元気に歩いている。
当時の写真が何枚か残っているのだが、ほとんど山の風景でこれは現在と変わらないし、写真の状態も良くないので一部のみ掲載する。