きれいな地球を子孫へ (12月)

サブプライムローンと金融危機 (11月)

素人考えのサブプライムローン (10月)

鳥インフルエンザ対策としての食糧備蓄 (9月)

CO2削減目標 (8月)

遭難者捜索 (7月)

四川大地震の地 (6月)

前登志夫 (5月)

「安楽病棟」を読んで (4月)

有機リン剤中毒 (3月)

今年は遊ぶぞ!(2月)

習字 (1月)


2007年 独り言

 

きれいな地球を子孫へ

 アメリカのバブルがはじけて、世界中に深刻な不況の影が落ちてきたのを見ると、世界経済の好況というのはどうも米国民の浪費によって成り立っていたらしい。評論家の話を聞いていると、日本が影響を受けるのは輸出型の経済になっているせいで、以前から内需拡大を怠っていたからだという。それはそうかもしれないが、それって日本人に浪費を勧めること? 

 そもそも、私が理解できないことは、なぜ経済は右肩上がりでなければならないのかということだ。経済成長を続けることは、物をどんどん作って、石油や電力をどんどん消費して、物質的に豊かな国民生活を目指すということだろう。いまや世界60億の人類が一斉に物質的な豊かさを求めて動いている。

 一方、地球はCO2排出の増加、温暖化、環境破壊、資源の枯渇、人類以外の生物の絶滅といった問題で瀕死の状態だ。人類がこれ以上物質的な豊かさを求める限り、いくら省エネ技術を開発しても焼石に水だ。

 江戸時代まで、日本の人口は基本的に米の生産量に制限され、増えもせず減りもせずほぼ一定の数を保ってきた。そして、当然経済もゼロか或いは非常に低い成長で推移してきた。それでも人々は結構幸せに生活していたのではないか。人々はあまり金のかからない文化的生活を楽しんでいたのではないだろうか。

 一度味わった生活のレベルを落すのは難しい。夏の冷房、冬の暖房、成人病で悩まなければならないほどの美食、飽食、世界中どこへでも遊びに行ける自由。しかし、今や我々人類は子孫にきれいな地球を手渡すためには、真剣に経済構造を変革し、新しい生き方を模索して行かなければならないのではないだろうか。

                                                                 

サブプライムローンと金融危機

 一般庶民である小生は、お金とは物質やサービスといったものに対する対価として支払われるためのものと理解していた。いわゆる物々交換の代わりとして発明された便利なものという認識である。そういう使い方の金ならばいかに巨額でも、たとえばジャンボジェット機が数百億円とか、国家予算が数十兆円とか、それは理解できる。

 サブプライムローンにしてもそれ自体は理解の範疇にある。すなわち、今まで住宅を持てない収入レベルの人たちに住宅を持てるチャンス(あるいは夢?)を与えたことで、必ずしも無意味なことではない。アメリカの住宅ローン制度は日本とは異なりノン・リコースローンといって、ローンが支払えなくなった場合は、そのローンで買った住宅を取られ、今まで支払った金を諦めればそれ以上の支払い義務はないので、必ずしも致命的な被害は受けない。それ以上の部分は貸し手のリスクなのだ。したがって連帯保証人も必要ない。

 サブプライムローンは支払能力スレスレの人たちを対象とした、本来貸し手にとって非常にリスクの高いローンなのだ。だが、このローンを作った奴らはそのリスクを第三者に押し付ける方法を見つけたようだ。

 このあたりから、頭の鈍い小生にとってはボーッとしてくるのだが、サブプライムローンを細切れにして債券にして売り払った。そうすれば貸し手自身はリスクをとらなくてもいいから、破綻することが確実な人たちにまで、実にいい加減に貸しまくったらしい。しかし、そんな怖い債券を誰が買ったのかね?

 最近、「強欲資本主義、ウォール街の自爆」(神谷秀樹著 文春新書)を読んだ。これを読んでも、ウォール街を中心とする世界の金融業のことがよく解ったわけではないのだが、著者は金融は本来人間生活を豊かにするものを生み出す産業(生産業にしてもサービス業にしても)の成長を助ける補助的な役割のものだと主張している。これは実によく解る。それが、世界中にだぶついている金をかき集めて、本来助けるべき産業を食い物にしてあくどい金儲けに走ったらしい。

 そういうことが、我々庶民の頭の上で勝手にやっているのであればどうぞお好きなようにですむのだが、なんかバブルがはじけて大変なことになったらしい。それで、庶民から集めた税金をつぎ込むやら、景気全体が悪くなるやらで、庶民にまで影響が及んでくるのは必至のことらしい。

 事態は百年に一度という状況とのことだ。我々が今目の前にしていることが、今まで世界を謳歌してきた資本主義の崩壊といったことでなければいいのだが。

 

素人考えのサブプライムローン

 今日(9/30)、米国下院で緊急経済安定化法案が否決されたとかで、株価が史上最大の下げを記録した。それに追随して世界中で株安が進行している。1929年の世界恐慌の再来かと世界中に不安が拡がっているようだ。

 サブプライムローンの破綻という、まさに米国版土地バブルの破裂に端を発した金融不安は次から次へと連鎖反応的に拡大して、今日の事態に至ったらしい。

 小生も僅かばかりの老後の蓄えで株や投資信託を買っているため他人事ではないが、なすすべもなく嵐が無事収まるのを祈るのみである。

 経済音痴の小生がどうしてこんな事になったのかネットで調べてみると、サブプライムローン(低所得者層への住宅ローン)の破綻自体は深刻であるにしても対処できなかった程のものではないが、問題はローンを債券化して世界中に売りさばき、それを世界中の金融機関が購入したことらしい。債券化すれば、住宅ローンの直接の貸し手は低所得者に返済能力があるかどうかお構いなしに貸しまくって、それを横流しするするというひどいことになる。まさにババ抜きであり、世界中の金融機関はババをつかんだ。こんな事を考えついた奴はまさに悪魔的だが、生き馬の目を抜くような金融界で商売している人たちがこの結果がどうなるか予想できなかったというのも信じがたい。

 しかし、この事件でもきっと大もうけした人間はいるに違いない。

 昨今の金融業界は我々市井で平凡に生きている人間には想像を超えた世界である。何年か前、年収600億だったかのサラリーマンが話題になったが、普通何か悪いことでもしないとこんな金が入るとは思わないのが一般の人間の常識だった。私の親戚にも30そこそこの娘でこの業界で年収5千万円以上もらっているらしいのがいる。他人の金を右から左へ動かすだけでなんでそんなに儲かるのか? その分割を食っているのは誰だろうか?

 一市井人として、残りの人生を無事平穏に過ごせればよいと願っているが、そんな願いにも影が差してきている昨今である。

 

鳥インフルエンザ対策としての食糧備蓄

 先日、ニュースで鳥インフルエンザの予防接種を医療関係者数千人に対して実施するとの報道があった。

 これを聞いて小生は少々あわてた。それで知人の公衆衛生関係者に問い合わせた。鳥インフルエンザの流行のリスクが高まっているのか? そして、もう食料の備蓄をはじめておいたほうがいいのか? 答えは、今のところ流行のリスクが高くなったとの情報はない。食料は一週間程度は常時用意しておく方がベターだろう。

 それで食糧備蓄をちょっと真剣に考え始めた。食糧備蓄はインフルエンザに限らず地震などの災害にも必要なので常時ある程度の量は備蓄しておくのは当然だが、インフルエンザ流行では自然災害とは異なり水道、電気などのライフラインが止まることはないだろうから備蓄する内容は食料に限ってもよいだろう。我が家は現在3名だが、一週間ではどれだけ食うのだろう? インフルエンザ流行時には家に閉じこもってジッとしているだけだから、普段より少しでもいいだろう。取りあえず米と少々のおかずがあれば凌げるだろうということで、米の量を計算する。レトルトのご飯のパックなら一人一日2パックで十分だろう。それでも3人一週間なら42パックと一寸した量になる。それに賞味期限の問題もある。今売っているものの賞味期限はだいたい来年初めぐらいである。のばして来年の夏ぐらいまでは持たすとしても、その頃にはせっせと食べてしまうか、廃棄せざるを得ない。

 登山用のアルファ米にすれば少々不味いが賞味期限は大幅に延びる。しかし値段が3倍ぐらいになる。白米は長期間保存すると不味くなるらしいが、玄米を大量に買い込んでおく手もある。

 先日、取りあえずレトルトのご飯パックを20個ほど買ってきた。後は何にしようか考え中である。

 アッ、息子一家はどうしよう。息子夫婦が飢えようと知ったことではないが、孫たちを飢えさせるわけにはいかない。トータル4人分で計算し直そう。

 自然災害対策も兼ねるとなると、水の用意も必要だ。ああ、頭が痛い。

 

CO2削減目標

 先頃のG8CO2排出を2050年までに50%削減しようとの提言がなされた。

 近年顕著になっている氷河の後退、北極の氷の減少、熱帯性動植物の生態圏の北上など地球温暖化の兆しは我々素人目にも何か空恐ろしいものを感じさせる。地球温暖化の原因として大気中の炭酸ガス濃度の上昇が挙げられているが、これにはまだ異論もあるようだ。しかしこの種の問題で完全な証明はきわめて困難だ。早め早めに原因と思われることに対処していくことが必要だろう。

 CO2削減に関してはEU諸国が熱心だ。それはそうだろう。何しろオランダが沈没するかもしれないのだから。

 それにしても50%の削減とは!! 10%、20%の削減ならば科学技術の発展で或いは可能かもしれないと思う。しかし、人類が現在の生活レベルを落とさずにこの目標を達成できるとはちょっと信じがたい。近い将来、発展途上国の生活レベルの向上に伴って、CO2排出は増えることはあっても減少することはないだろう。我々だって、CO2排出量が今の半分だった50年前の生活レベルに帰るのは非常な苦痛を伴う。

 当時、エアコンは無く、自動車も少なかった。庶民の食事は質素なもので、今のように牛肉、高級魚が食卓に上がることは少なかった。日本人の平均寿命も短かった。しかし当時の我々はそんなものだと結構満足して幸せに暮らしていたのではなかったか。当時の生活レベルに戻る覚悟が有ればCO2削減目標などは簡単に達成できるのだろうが。

 石油価格の高騰などは我々にとっても生活のスタイルを見直すいい機会ではないだろうか。今の石油の使用状況は異常だと思う。子孫に残すべき資産を我々の世代で食いつぶしているとしか考えられない。

 翻って考えてみると、根本の原因はなんといっても人類の異常な増加だろう。際限もなく増え続け、地球上の資源を食いつぶしている様はまさに大海に落ちている絶壁に向かって突進するレミングの大群だ。

 

遭難者捜索

 「中国四川大地震」に次いで日本でも「岩手・宮城内陸地震」が勃発した。中国では死者・行方不明者十万人近く、日本でも20数名の犠牲者が出た。両国とも多くの人々が被害者の救助・捜索に努力した。

 駒ノ湯温泉の谷を埋め尽くす膨大な泥の海の中で数名の遺体を捜索する人々の姿をテレビ画面で見て、その絶望的な努力に何か空しい思いがしたのは私だけだろうか。

 遭難者に生存の可能性があるならば、その救助にどれほどの労力をかけるのもいい。しかし、生存の可能性がないと判断されたならば、その捜索は打ち切るべきである。遺族にはまことに気の毒であるが、遺体の捜索に人々の労力と時間をかけるべきではないと私は考える。もし遺体が見つかったとしても、荼毘に付されるだけのことである。私は人間に肉体を離れて魂があるとは信じていないが、もしあったとしても魂はとっくに天国に行っているだろう。まさに「私はそこにはいません。眠ってなんかいません。・・・・・」である。

 海難事故でも同様である。生存の可能性がなくなれば、後は鎮魂を祈るのみである。海の底に沈んだ船内から遺体を引き上げる必要はないと思う。

 生存の可能性がないと判断された後でも、万一生きていたならどうするのだ? 万に一つと云われれば、そういうことは否定できないし、また過去にいくらでも事例はあるだろう。しかし、人が生きてゆくと云うことはそういうリスクを必然的に背負っているのである。病気で病院に入院し、最善と医師が信じて治療しても助かるべき命を死に至らしめることはもっともっと高い可能性で起こりうる。

 こんなに大地震が連発すると、人間は豆腐のような地殻の上に生きているのだということを実感する。どれだけ準備をしていても対応できないような大災害は起こりうる。まさに「方丈記」の無常の世界に我々は生きているのである。


 

四川大地震の地

 今回の地震のニュースを見ていて、2001年夏、九寨溝、黄竜、臥竜パンダセンターを旅行したことを思い出した。

 当時は松藩の空港がまだ出来ていなくて、成都から十数時間かけてバスで九寨溝まで、まさにまさに今回の地震の被害地となった場所を通り抜けて行った。このルートは都江堰市から岷江の流れに沿って上流へ辿るのだが、都江堰を抜けると両岸は険しい山が迫り、間を流れる岷江は荒れ川の様相を呈してくる。汶川までの道は舗装はしているものの非常に悪く車の対向が困難ですぐに両側に長い車の列が出来る。

 汶川を抜けると道はよくなり、茂県を通り過ぎるとやがて畳渓海子に到る。これは1933年の四川地震で出来た巨大な堰止め湖だ。このときは9,000人の犠牲者が出たらしい。この時崩壊した土砂の堆積は上高地の大正池のを作った堆積とよく似ているがその何倍もの高さと幅がある。今回の地震でも唐山堰止め湖という巨大なものが出来たらしいが、地震の規模もずっと大きいので、その大きさは想像するのも空恐ろしい気がする。

 九寨溝、黄竜の帰りに汶川から支流を遡って臥竜パンダセンターを訪れた。谷川沿いの狭い道を辿ってやっと着いたところは、パンダセンターとその周りに観光客のための施設があるだけの場所だ。センターが出来る前は全くの寒村だったのだろう。

 汶川、茂県の周辺はこれから数年は観光客が立ち入ることが出来ない地方となるのだろう。旅の途上で見かけた人々の多くが亡くなったことであろう。冥福を祈るとともに、一日も早い復興を願う。

      茂県近くの岷江                        茂県の町                    畳渓海子堰止め湖

                                    

前登志夫

 歌人の前登志夫が亡くなった。

 現代歌人には全く興味がなかった私が前登志夫のことを知ったのは彼の随筆によってである。最初に読んだのは多分「吉野日記」だった。これによって詩歌をつくる人の底知れぬ深い、そして暗い心の一端を覗き見た思いがした。

 感激のあまり、大和下市より自転車を漕いで急な坂道を登って広橋清水の集落を訪ね彼の住んでいる家を見に行った。どんなところに住んでこんな文章を書いているのか知りたかったのだ。もう二十年以上も前のことでうろ覚えだが、見晴らしのいい小さな尾根の上に集落はあり、私はうぶな少年のようにそそくさと彼の家の前を通り過ぎたのだった。

 吉野の山中(ホントに小さな山の集落)に住み、その歴史と風土の中に腰を据えたかれの歌は私には理解できないまでも魅了されるものがあった。

 

かなしみは明るさゆゑにきたりけり一本の樹の翳らひにけり

朴の花たかだかと咲くまひるまをみなかみにさびし高見の山は

 これらの歌はわたしにも理解できるような気がする。大気に充ち満ちているまぶしいほどの明るさの中に漂う影をみつめているのだろう。

 

夕闇にまぎれて村に近づけば盗賊のごとくわれは華やぐ

この父が鬼にかへらむ峠まで落暉の坂を背負はれてゆけ

 このおどろおどろしさは何だろう。今はやりの言葉を借りるならば、何か縄文人のDNAが語っているような気がする。どう解釈しても彼の真意には近づけないだろう。

 

たかだかと朴の花咲く、敗れたるやさしき神もかく歩みしか

国栖・井光滅びしのちもときじくの雪ふりやまず耳我嶺に

 吉野は敗残の歴史を秘めている。神武天皇東征神話、義経・静御前の別れ、南朝・後南朝の悲話、幕末の天誅組と枚挙にいとまがない。国栖・井光の山里に平和に住んでいた民に斎き祀られていたやさしい神は突如襲いかかってきた荒ぶる神になすすべもなくこの地を逃れ去っていったのだろう。その思いは今も山の民が平地の民に対して持っているのかもしれない。

 

 浅薄な解釈を披露したが、私が下手な漢詩を作り始めたのも、あるいは意識の下で前登志夫の影響があるのかもしれない。

 

「安楽病棟」を読んで

 帚木蓬生の上記題の小説を読んだ。7、8年前に初版が出ているので事情としては少し古いのであるが、基本的状況は変わっていない。

 三月末まで類似の介護老人保健施設に勤務していた小生にとってはなかなか身につまされる内容であったし、オランダの「安楽死」の現状の紹介など勉強にもなった。

 内容をかいつまんで紹介すると、認知症の老人専門の介護施設で働く若い看護師の目から見た患者達と介護の状況、介護者と認知症入所者との心温まる交流が淡々と述べられてゆく。一見すると、ドキュメンタリー小説かと思われるのであるが、最後は看護師の医師に対する告発で終わるミステリーなのである。つまり、自然死と考えられた一連の入所者の急死は実は医師の密かな安楽死の処置によるものであったという話である。

 介護施設の実際から見ると、安楽死させられた人たちはまだまだ程度の軽い良好な状態の認知症患者である。この程度で安楽死の対象にすると、現実の施設では大半の入所者が安楽死させられるし、実行した医師は殺人罪に問われても致し方ないと思われる。それは看護師の告発が正当なものと読者に思わせるための著者の意図であって、著者自身がこれらの安楽死が正しいとは考えてはいないだろう。

 実際に介護施設で働いている人たちは、どうしても入所者に対して生活の快適さ、能力の向上、生命の延長の方へとベクトルが向かうため安楽死といったものには抑制がかかる。しかし、そんな我々でもこれは安楽死させてあげたいと感じることは多々ある。

 私がここに勤めだした3年前、101歳のEさんはもう意識はなく胃瘻(腹から胃につながる穴)からの経管栄養で生命を保っていた。生命力が強靱であるというのか、何度かの危機を乗り越えて長らえてきたのだが、ついに類天疱瘡(免疫力が低下した老人によく見られる大きな水疱を伴う皮膚疾患)が顔面をはじめ全身に発生し、顔面が崩れたような様相を呈してきた。さすがにもう長くはないのであるが、正月にかかるかも知れない。幸いと言おうか、年末になくなられたのだが、この時は安楽死がシステム化されていると本当にいいなと感じた。ご本人にも周囲にもハッピーな最後をお膳立てするということも考えてゆかねばならないのではないだろうか。

 学生時代、臨床講義である教授が今夜にも臨終をむかえそうな患者がいるが、その夜はどうしても出席しなければいけない会合があるときにはモルヒネを投与して死期を早めて臨終に立ち会えるようにすると話した。それを聴いた我々学生は憤激して医師が自分の都合でそんなことをしても許されるのかと抗議したことがあった。

 今考えると、その教授はみんなにハッピーな死のお膳立てをしていたのだなと思うし、また我々も若くて純粋だったなと懐かしく思う。

 生命の尊厳はやはり人格があってのものと感じる。



有機リン剤中毒

 オウム真理教によるサリン事件から13年経ったが、またまた有機リン剤中毒事件が発生した。今度の事件の場合、中毒患者が発生してから有機リン剤による中毒と診断されるまでに時間がかかっているのが気になる。

 食事の後で激しい症状が出れば、普通は何らかの中毒を疑う。まず疑うのは細菌性の中毒だろう。これは製造時の不衛生、古くなった食品などで頻繁に見られる中毒事例である。通常は食物の中に急性中毒を起こすほどの多量の化学薬品が含まれているとは誰も考えない。

 しかし、細菌と毒物の中毒の大きな違いは食物摂取から中毒症状発生までの時間である。細菌の場合は体内に入って細菌が増殖する時間が必要であるから、食後直ちに発症することはない。食後一時間以内に急激な症状が出るようなら、まず毒物による中毒を疑うべきであろう。これは、和歌山のヒ素入りカレー事件の時も指摘されたことである。

 一度、毒物中毒の可能性を疑えば、有機リン剤中毒の診断は比較的簡単である。有機リン剤は神経の末端にあるコリンエステラーゼという酵素に結合してその活性を阻害する。この酵素は神経伝達物質であるアセチルコリンを分解するのであるが、これが阻害されるとアセチルコリンが神経末端に長く存在することになって、副交感神経の刺激が増強される。いわゆる消化管運動の増強(下痢、嘔吐)、発汗、瞳孔の縮小などの副交感神経刺激症状である。血液中のコリンエステラーゼは簡単に測定できるので、その活性が低下していれば確定である。さらに多量に服用すると、運動神経の麻痺が起こり、呼吸筋が麻痺するので生命の危険が起こる。

 幸いなことに、PAMという有機リン剤をコリンエステラーゼから引き離す解毒薬があるので、これと副交感神経の活動を抑える薬剤を投与して治療することが出来る。

 我々が子供の頃、昭和20年代、ホリドールなどの有機リン剤がウンカの発生を予防するために水田に多量に散布されていた。水田には有機リン剤散布の立て札が立てられ、学校では水田に近寄らないようにうるさいほど注意された。有機リン剤は皮膚からも吸収され易いので注意が必要である。当時は中毒例が結構あったようである。

 話が変わるが、西アフリカのナイジェリア地方の原住民にエゼール豆という有毒な植物が知られていた。これはこの地方では試罪法の毒薬として用いられていた。いわゆる、魔法使いの医者(ウィッチ・ドクター)が犯罪の被疑者に飲ませて、死ねば有罪であり、助かれば無罪であったとする古くから世界中で知られている裁判法である。古代日本の盟神探湯(くがたち)も同様の裁判法である。19世紀になって、この豆の成分がヨーロッパで研究され、これに含まれるエゼリン(フィソスティグミン)がコリンエステラーゼの阻害薬であることが解明された。以後、コリンエステラーゼ阻害剤は毒ガス、殺虫剤として使用されるようになったが、緑内障治療の点眼薬、下剤、重症筋無力症の治療などにも用いられている。

 

今年は遊ぶぞ!

 「遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけむ 遊ぶ子どもの声聞けば わが身さえこそ揺るがるれ」

 これは平安後期に流行した今様(当時の流行歌)を収録した「梁塵秘抄」に納められている有名なもので、当ホームページのスローガンでもある。

 遊びとはなんぞや? 私自身は、対象はなんであれ、自分の心をとろけさせる体験であろうと考えている。異性が対象の人もあろうし、ギャンブルが対象という危険な人もいようが、私の場合は自然の中に身を置くことである。

 私は自分の行為が他人に及ぼす結果に対して責任を負うことに非常に臆病である。したがって、人との付き合いはあっさりしたものが安心で、交友関係は非常に限られている。これはあるいは私の小児期の体験からきたトラウマであるかもしれない。そうなると、遊びの対象は自然と非人間的なものに向かい、一人で山を歩くのが無上の楽しみとなった。自然の中で単独で行動するのはリスクを伴うが、自分自身に対する結果責任を取ることに躊躇はない。もちろん周囲に若干の迷惑をかけることになろうが、そこまで考えていたら家の中にひっこんているしかなくなる。

 さて、このタイトルだと、今まで仕事一途で充分に遊んでなかったようにみえるが、かなりよく遊んでいる。しかしここ数年、週に4日働いており、長期間の休暇が取りにくくなっていて、長い山行、サイクリングに行けなくなっている。昨年秋、テントを担いで北アルプスに登って、つくづく体力の衰えを感じた。これはうかうかしていると、山へ登れなくなる。少なくともテントを担いでの山行はここ一、二年だ。

 それで、この春で仕事を一時辞めることにして、少なくとも半年、心おきなく遊ぶことにした。今の心づもりでは、海外旅行2回、一週間程度の山行2,3回、同じく一週間程度のサイクリング2,3回はやろうと思っている。これだけやれば、半年はあっという間につぶれる。

 またこれだけ遊んだら、再び働く意欲も出るだろう。果たして雇ってくれるところがあるかどうかは判らないが。

 

   盛年重ねて来たらず

   一日 再び晨(あした)なり難し

   時に及んでまさに勉励すべし

   歳月 人を待たず

 これは、陶淵明の雑詩十二首の中の詩の一節である。一般的にはこの中の「勉励」の語を学問・勉強の意味に取られ、勧学の詩とされているが、陶淵明ともあろう人物が一生懸命に勉強せよなどと言うはずがない。

   歓びを得ては当に楽しみを為すべし

   斗酒もて比隣を聚(あつ)む

 これがその直前の二句である。つまり、隣人を集めて大いに飲むといっているのである。

 遊びにせよ、勉強にせよ、仕事にせよ、人生にはその時でなくては出来ないことがある。その機会を逃さず、精一杯に努めて人生を豊かなものにしたいものである。

「一期一会」 

 

習字

 子供の時から、書道自慢の母親から「お前は兄弟の中で一番字が下手だ」と言われ続けてきた。 これは私の中でいまだにトラウマとなって残っているような気がする。

 小学校低学年のとき、書道クラブの先生が美人で優しいのに惹かれて入会して、相当に力を入れて練習したが大して上達もしないまま、先生が二年ほどして転勤になり書道クラブも消滅してしまった。 以来、最近まで本格的に毛筆など持ったことはなかった。

 しかし、トラウマが逆に作用してか、書に対する憧れは強く中国・日本の書跡の名品を鑑賞するのが趣味のひとつとなった。先年、東京国立博物館で開催された「書の至宝」展のときは、わざわざ一泊して東京まで出かけてきた。

 芸術としての書は理解に困難な要素があり、毛筆を持ったことのない人間には深い鑑賞は不可能である。まず第一に書いている内容が判らない。書の芸術性は書かれている内容と無関係ではあり得ない。私は漢文が好きなので楷書であればだいたい何が書かれているか想像が付くが、それでも展覧会などで一々読んでいる暇はない。草書などははじめからお手上げである。王羲之、虞世南、欧陽洵といった人の書は素人目にも美しいのだが、書の名人といわれていても顔真卿、蘇軾、黄庭堅といった個性の強い書は何処が上手いのかさっぱり判らない。これはやはり自ら筆をもって臨書をしないとその良さは理解できないのだろう。結局のところ、私などは名前にひかれているだけであり、「ああ、これがかの有名な蘇東坡の書か」などと変な感激をしているのである。まあ、絵画の鑑賞でも似たり寄ったりではあるのだけれども。

 現在、介護老人保健施設(老健)で働いているが、ここでは介護老人のリハビリの一環として週一回「習字クラブ」をおこなっている。障害を持つ老人といっても昔の教育を受けている人達であり、なかなか達筆の人も多い。現在104歳のお婆さんも書いており、多少の震えはあるが結構綺麗な字を書く。聞いてみると80歳から習字を始めたとのこと。それでも二十余年のキャリアである。

 二年ほど前から、私もお年寄りと一緒になって書かせてもらうようになった。これがなかなか楽しい。皆さんと一緒に張り出してもらって悦に入っているのである。

 この夏から、伊賀の一人暮らしのつれづれに夜、鄭道昭の「鄭羲下碑」(写真)の臨書を始めた。鄭道昭は千五百年ほど前の北魏の人で王羲之と並んで名前の知られている書家としては最も古い人である。この人の書は岸壁に彫り込まれた記念碑として残っている。我々はそれを拓本で見るのだが、悠揚迫らぬゆったりとした楷書で観ていると心が洗われる様な気がする。以前より、最も好きな書の一つである。

 さて、臨書を始めたのだが、なにせ手本は千五百年前の石刻の拓本である。それから、墨で紙に書かれた元本を想像しながら書かなければならない。ここは石が欠けているのか、それとももともとそういう線なのかなどと、初心者ではなかなか解釈が難しくお手上げ状態になっていた。

 それでインターネットで調べると、幸い鄭道昭の書を添削指導してくれる書家が見つかった。取りあえず一年のコースである。1年で何処まで書けるようになるか、おぼつかないがこれも楽しみの一つである。字の形を真似るのは比較的簡単であるが、筆の勢い、線の美しさなどを写し取るのは難しい。前途遼遠である。